カルクヤバイ

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つくりすぎた「多摩ニュータウンのサイズ」を是正していく流れの中、近隣住区をもとにした「日常生活の単位」では、住みこなせない現状を考慮し、建て替えが始まろうとする諏訪二丁目にたつ団地を残しながら、「郊外的なスケール」感を維持するために、既存と同じ高さに見えるボリュームを住棟間にアディションすることで、床面積を増やし、生活の密度を獲得する。あたらしい団地に内包される機能は、居住と「居住空間の大きさのなかで達成できる規模の機能」が一体となったものとなる。

「サイズ」実人口19万人(計画31万人)売れ残った土地244ha/2900ha
「単位」日常生活の単位は、1住区=100haと設定され、その中に一カ所だけある近隣センター以外は居住専用団地と決められている。その近隣センターの衰退が著しい。加えて、初期の開発地域では人口が減り始めている。
「スケール」05年に全体の調整役であった都と旧公団が新規開発から撤退。投機的な中高層マンションが乱立し始めている。低密度に建てられた団地が残している、中庭や自然との近接は五層の高さだからだと考えている。
「機能」NPO支援、児童館、商店、SOHO、スタジオ、ケアサービスなど

サッポロslimsのCMで使われている曲がiTunes Music Storeで買えるようになった。
paparuwa
アーティスト Fantastic Plastic Machine
アルバム imaginations

いつも、髪を切ってくれているサロンの佐藤さんのブログ
ぼくの髪の毛はだいぶやばい伸びてるので、そろそろ行くか。

カルクヤバイくらいがちょうどいい。

遺構, 建築, new town | Posted by simon at February 23, 2006 22:25 | Comments (2) | TrackBack (0)

一般に建築に付される説明には踏まえるべき一定の形式がある

たいていは最初に
「敷地周辺の地理的状況、社会的コンテクスト、歴史的背景」が一瞥され、
次いで「計画されているプログラム」がその一般性と固有性において述べられる。
そして、その両者を満足させる「具体的な提案」が提示され、
それを導き出した「アプローチ」やそれを実現するための「テクニカルな側面」が紹介される。
そして最後に「完成した建築が具体的にどのような場」を実現しているか語られる。

参照:2004年6月5日 西沢大良講演会「カタチとアクティビティ」講演会レポート

建築, clip | Posted by simon at February 7, 2006 13:49 | Comments (0) | TrackBack (0)

プロジェクトの強度が決定する瞬間

以下は、下書き。痕跡。四枚稿を機会を見てアップします。

多摩ニュータウン縮小計画
ー諏訪2丁目団地の再生を通してー


プロローグ・「背景」
縮小と言っても、まちの魅力を目減りさせることを目的としたものではない。

人口減少時代に突入する岐路にあって、従来的な「人口の増加」と「経済の増進(地価の高騰)」という前提は崩壊した。また、街を構成する建築は、ハードウェアではなく、ソフトの問題によって、たった30年で滅失期間をむかえている。現在まで、適切な空間の大量供給とその統合を可能にしてきた「機能」=「空間」という真理が欺瞞にすり替わってしまったと言えよう。すなわち、まちに投資する理由も、構築するすべをも失っている状況にある。しかし裏を返せば、新しい前提にたって、誘導力のある建築を目指すことが可能な時機と言えはしないか。

参照:社会資本整備審議会住宅宅地分科会 基本制度部会報告案参考資料 資料12 滅失住宅の平均築後経過年数によると、滅失期間は31年。諏訪2丁目団地は入居から35年経過、88年から建替え運動の継続。

第一幕・建築がひらいていく流れ=「ストーリー」
「新しい建築型」が、「多摩ニュータウン」と「住まい手」を「なめらか」につなぐ。

01・「新しい建築型」の必要性
開発主体であった都と公団の撤退により、全体を調整する視点を持たない民による投機的な開発の本格化や、住民主体による建て替え運動がなかなか実を結ばないことから、郊外のスケール感をキープしたまま街を改善していく「共有できる凡例」=「新しい建築型」を必要としているという仮説は有効と考える。

02・「多摩ニュータウン」にとっての障害
31万人サイズの街であるが、実際は19万人にとどまっている。学校の廃校が進み、増加する遊休地。初期投資を回収出来ないうえに、維持管理が膨らむ一方である状況から、適正なサイズに制御することが必要。

03・「住まい手」にとってのバリア
多摩ニュータウンにおける3DK・近隣住区は、未開の地をを開くための単位であったが、家族という関係を象徴したモデルともいえるnLDKという、規範から逸脱した空間の使いこなしを受けいれない3DKや、近隣住区のシンボル的な存在である近隣センターの衰退という現状が、単位の解体を要求している。また、3DKと近隣センターは、多摩ニュータウン全体に通じる単位でもある。

04・「なめらか(Flux)」という概念
切れていた・切れてしまった関係をつないでいくこと

まちを展開していくには、運営主体が必要。従来は、公(施行する/従う)や民(生産者/消費者)というような二項対立的なものでしかなかった。
地域レベルの人口動態や開発主体の傾向の情報を集約し、公開しているのは多摩のNPOである。また、多摩に建つ大学が学術的な視点からのサポートを試みている。隔たりを埋めていく主体が定着しつつあると言える。それらがサポートする問題は日常から制度の調整まで、幅広く期待されている。その層を社会学的には中間集団と呼ぶ。そのような背景が加速し、空間や街への欲求が高まり、住まい手(空間の使い手)による空間のカスタマイズ。その集積といった相乗効果が生まれ、街と住まい手の関係がつながっていく。建築は従来的に、そこにある状況をつないで、新しい関係を生むことを試みてきた側面を持つ、その性質を「多摩ニュータウン」と「住まい手」の距離にまで拡張し、切れてしまっている関係を「なめらか」につなぐことをインテンションとしたデザインを試みる。

参照:ised@glocom - ised議事録 - 1. 設計研第5回: 近藤淳也 なめらかな会社

第二部・問題の解決と誘導を見据えた統合=「デザイン」
「新しい建築型」を構成する要素。

01・郊外の制御
人の集まり具合を高める。街のユーザビリティの低い地域を自然に還す(経済の枠組みを一旦はずす)。

02・ランドスケープの調停
地形を整地し、南北もつなぐ。ポジティブスペース(中庭)を挿入。

03・なめらかな構造
ケとハレの演出。(襞を内包した構造体である壁によって分断された手前空間と奥が、一体的にも、身体を切り替えるようにも、使い手によって見いだしていける空間)

エピローグ・「要望」
完成した建築が具体的にどのような場を実現しているか。

01・コミュニティの再生
「多摩ニュータウン・住まい手(空間の使い手)」それらの隔たりを充填していく中間集団の存在が強化されていく風土の実現。

02・都市の理想
郊外は都市の周縁として立地しているが、急激な人口増加を背景にした乱造を制御するために、都や公団が調整、開発を行ってきた。その資産として、土地が個人に帰着していない環境が自然に生まれている。
ニュータウンは都市の理想を具現化する流れにたち、誕生したが、都市における個別の建て込みが強化されるまちづくりを解放する「大きな建築型」となる可能性を持つ。

建築, new town | Posted by simon at February 7, 2006 5:40 | Comments (0) | TrackBack (1)

未開の地を開く単位

提案力と実現力のバランスを大事にしたい。
プロジェクトを組み立てるとき。可能性を感じる仮説をたて、あくまでも予測可能な範囲を手探りで進んでいく。今回、郊外を選択したのは、やはり「場所を取り囲む環境がある程度単純化されている状況」によりかかったという点。スタートは間違っていなかった。都市で、ある程度ハンドリング可能なプロジェクトを組み立てるにはあまりにも解きほぐすべき状況が多すぎる。裏を返せば、自分のスキルが足りない。それほど現実は複雑で、自分の予測可能な範囲を大きく逸脱している。OMA的にかっこよく言えば、もしかしたら(状況を逆手にとって新しい地平を敷衍する)波乗りサーファーにはなれるかもしれないけど。自分にとって、そこに達成感があるかが。疑問だった。解釈者にはなれるかもしれないけど、実践者になれるか?ということだ。

で、単位の話。山を切り開くには、勇気が必要だった。山肌が見えるまで削りだし、そこで征服感があったかというと、きっとそうではない。とても不安だったはずだ。現に、今の多摩ニュータウンは木が生えすぎている。反動で植えまくったのだ。不安な中、多くのエネルギーを誘導するために、共有できる話題、キーワードがあった。迷ったらそこに戻る的な。歴史のある側面を振り返れば、都市や建築は、機能によって分化した空間の接続や切断の手段を選択することで、適切な単位(空間)の大量供給とその統合を可能にしてきたと言える。多摩ニュータウンにおける「近隣住区」や「3DK」も、未開の地をを開くための単位、話題になるキーワードだったのだ。しかしその近隣住区のシンボル的な存在である近隣センターが衰退し、コミュニティをアフォードしたかった当時の目論みは崩壊した。続けて、山本理顕に「問題はそのLDKモデルが家族という関係を象徴するモデルになっているということだ。現実の日本の家族はとっくにLDKモデルが象徴するような規範からは離れてしまっているのに、それでも住宅をつくるときにはその規範に拘束される。だから依然として日本ではLDKモデルがつくり続けられている(source)」とまでいわしめた、3DKいわゆるnLDKの呪縛は超えたい。この「近隣住区が生んだ近隣センター」と「nLDKと接点のある3DK」は、いまや形骸化し、この単位の解体を提案してこそ、実現したい街になるのではないかと、ずっと妄想してきた。

明日、タイトルと副題の締め切り。英語のタイトルもつけなきゃならんと言うことで、頭の整理。
・効率化やエコロジカルという建前、楽しい日常生活へ向かう本質
・危機迫るひろく社会に通じる話題/問題を解決する具体的な切り口
・多摩ニュータウンのスケール感をキープしたまま、より都市的な街を目指す手がかり(設計)の一つ
緻密さと大胆さが共存している(はずだ)こんなテンションをタイトルと副題で表現してみよう。

多摩ニュータウン縮小計画
ー諏訪2丁目団地の再生を通してー

Revitalization Tama New Town
- Restructuring the Public Housing in Suwa 2 chome -

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設計の方向性が間違っていないか最後の確認。多摩ニュータウンを開発したエネルギーはすさまじいことがよくわかった。限られたリソースの中で、最大限に誰にもうれしい日常生活を夢に抱き、街を作ってきたこともわかった。そして、(作りすぎた、人口が減ってきたといった)今の状況を誰もが望み誘導したわけでないこともわかった。

あぁ思い出すなぁ、うろうろと歩いていたら駅からかなり遠いところへ行ってしまい、急にトイレに行きたくなって、エヴァのシンジくんばりに(あくまで心の中で)うゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー。と叫びながら、駅に向かって走ったことを。コンビニくらいあったって良いのに。と、まじで思った。厳密に言うと近隣公園と近隣センターに行けば公衆トイレもしくは、店のトイレはあるけど…。

途中経過はなんだかまずかったけど。破綻、炎上しながら前に進むタイプとおもっている。人にやさしいホリエモン。中国に謙虚な小泉さん。あはっ。壊

建築, new town | Posted by simon at February 2, 2006 23:35 | Comments (0) | TrackBack (0)

悩み一喝処理

付和雷同的な思考で、何処へも収斂しない人。
達成感もままならないまま、目が泳いでいる人。
建築をツールとしてしか価値を見いだせない自意識過剰な人。
さまざまな顔つきをした人間が廊下をうろうろしています。
きけんです。というかうざいです。大学はスキルを身につけるための場所ではありません。
人間的な座標を定着させていく、指標を多く享受してくれる場所です。
だからいろんなことを言う人間がたくさんいます。
こんなことを書いている僕はいたって冷静です。
なぜか。広範な問題を一括し、解答する方法として、建築は非常に有効だと思っているからです。もちろん、これは僕の問題意識と達成感のバランスの中で生まれた価値観なので、全ての人に直接つながることではありません。創作活動は自問自答の中から、スタンドポイントを発見していきます。だから、悩むことは当然です。しかし、その創意が、社会に露出し、どこに着陸させるかまで考えてこそ、その妄想は達成されると言って過言ではありません。自分の価値観で言うなれば、問題の解決と新しい日常を引き出してこそ、ということです。

修士設計が終盤に入っているので、しばらく引きこもるつもりで、このエントリーは書いています。
ある後輩から留年の憂き目にあっているとメールがあり、返信したメールが自虐的ですてきなものになったので、書き留めておきます。(このメールを書くたねにしたブログのエントリー
「おそらく、最終的にはかたちにして発表するが、かたちを作ることが目的でなくてもいいじゃないか。リサーチも大事と言って、全然評価してくれないじゃないか。かといって調査レポートを超えている自信もない」
こんな回路をうろうろしていて、結果的に何もやっていない。ということになったのではないか?
ある側面からみれば、先生方は、かたちのみで結果を出してきた人たちだから、前段の部分での評価は下手にできない。でも、かたちがあって、リサーチが成り立つという道筋は確かだ。というたったひとつの論点のみが評価軸。そこを把握できないと、会話は、どんどんすれ違う。これは、僕の経験を加味して書いている。確かにかたちだけをみれば、決して満足出来るものではなかったが、獲得感はあった、だからこの先が見込めている。
難波和彦 青本往来記 2004年11月17日(水)には以下のようにも記してある。 
社会的な問題を発見すれば、そこからデザインが出てくるという幻想を持っているように思える。しかし実際は逆である。仮説的な提案がなければ社会的問題は明らかにはならない。問題がデザインを生むのではなく、デザインが問題を発見させるのだ。問題からデザインが生まれたように思えるのは、事後的な説明だからにすぎない。この落差は限りなく大きいといわねばならない。複雑な設計条件であればあるほど、単純でエレガントなデザインで応えるのが建築家の真骨頂であることをまるで分かっていないのだ。

最後に、ぼくの大好きな東浩紀を引用します。(1/22現在 リンク切れ
雑音を断ち切る
若いひとへのアドバイスですよね? それならば、学問はまずものごとを「真剣に受け止める」ことからはじまるのだ、と言いたいですね。「受け流す」ことからは始まらない。最近は、BLOGとかがあるので、普段からいろんな意見を浴びて、若いうちから他人の意見を受け流す技が上達しているし、またそういうのが賢いと思われている。社会学は、そういうときとても便利なツールとして使われている。つまり、「俺はおまえの意見と違うよ」と言っても、「ああそれはそいういうコミュニケーションなんだね」と、するっと受け流してしまう。でもそういうことを言っていると大成しないので、物事には真剣に取り組むべきです。
つまり本を読むときには、若いうちには、「ここに真理が書いてある」と思って読まなければだめだということです。「こういう時代もあったんだな」とか「こういうことでコミュニケーションをとっている学者もいたんだな」とか、そいういうメタな読み方をしていてはダメです。そこには真理が書いてあるとおもって読まないといけない。そういう社会学的な読み方というか、メタレベルな読み方は、30代になってやればいい。『波状言論S改』を自分で作っていて言うのもなんですが、「社会学的な知」が蔓延することの危険性はその辺にある。つまり受け流す技と言うのが、ちょっと拡がりすぎている。何にせよ、「本を読むときは真面目に読む」ということです。まぁ今の世の中だと、そういうのが非常に難しいというのも分かります。例えば、最初からAmazonのブックレビューがあって、良いとか悪いとか言っている奴がいっぱいいて、BLOGでもいろんな書評がいっぱいあって、じゃあ俺の立ち位置ってどこかなって探りながら、新刊を読むという感じになってしまっている。なかなか、「これ正しい本なんだ」と信じては本を読めなくなっている。でもそれは非常に不幸なことなのです。(ここに挙げた20冊は)そういった雑音を断ち切って読んでもらいたい(本)です。(補足:紀伊国屋の「じんぶんや」という企画の棚に平行して配布されたフリーペーパーの一節です。従い、実際はここから20冊の本の紹介が続きます。)

建築, monologue | Posted by simon at January 22, 2006 16:25 | Comments (2) | TrackBack (0)

建築がもつ力を信じている

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マルセイユのユニテは本当に感動した。ひとつの建築の魅力によって街並みが出来ている。
建築がもつ力に圧倒されたのと同時に、この建築が使いこまれ、いまだに愛されていることに感動した。
街並みと言っても、何のことはない、ただ真似して作ったものがたくさんあるだけなんだけど。
どれもユーモアやウィットに富んでいて、かわいらしい。

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現在の建築は、経済によって切り取られた囲いの中でしかない。
社会を変容させる力はもうないのか?
いわゆる作品、自己の再生産の部分でしか、価値を見いだせないのか。

住宅特集2001|11号での空間にみるパーソナリティの座談会の中で手塚貴晴が「建てることで状況を変える、という気持ちがけっこう大きいですね。〜マルセイユのユニテを見に行ったときに感じたんですが 〜 ユニテのコピーが大量に建っている。それが街並みをつくっているんです。ひとつの建築のもつ影響力はすごいと思いました。」と述べている。

一方で、荒川修作は、コルビジェっていうのは、階段をかけあがって、メジャーで測って2mでも10mくらいだね。とかいうのがない。とも述べている。

建築 | Posted by simon at January 20, 2006 19:47 | Comments (0) | TrackBack (0)

最近のコンペ

1 小田原の城下町ホール
2 台中メトロポリタンオペラハウス
3 ゲント市文化フォーラム

コンペはコンペ的な思考。まぁ一種の建築即興芸的なところが鍛えられて、今回も勉強になったって感じだった。ようは負けたってだけなんだけど。でも、こういうフィールドでも戦えないとだめだなと思った。建築をつくることによって伝えたい夢っていうのは、コンペのような舞台でこそってのも、あるなって。

2005年6月24日 Toyo Itoのコンペ必勝法 (講演会:コンペに勝つ 伊東豊雄+岡本 賢)のメモ

1 好きな審査員がいなかったら応募しない
2 あれもやりたい、これもやりたいはダメ
3 リアルに表現しすぎると損をする
4 文章は短く、わかりやすく、簡潔に
5 モノローグは好まれない
6 強気で攻めろ
7 2つの距離(5mと0.5m)からのメッセージをはっきり伝える

Related Entry:simon|無目的な空間

建築 | Posted by simon at January 13, 2006 1:20 | Comments (2) | TrackBack (0)

初夢

大阪に帰ってきている。建つ位置は千里ニュータウンの中ではないが、阪急(民間)によって生まれた沿線の住宅街に、旧住宅公団のつくった団地が唐突に挿入されている。その中でも60年代のものは取り壊しが進み、四階建てから五階建てに一新される。家の窓からも見える。それに伴い、電波障害がおこるという理由で初期投資なし。というセールスでケーブルテレビの営業がやってきて、加入し、PC、TV、電話すべてがデジタル化した。目下、そんなプロセスを抜きに、配信され続けるコンテンツを、体が求めつづけている。正月とはそういう時間を作ってくれるものと考えたほうがいいかもしれない。戦後作られた新興の街にある一軒の家の中で動物的本能のまま、過ごしている。

少し反抗してみる。団地に住んだことはないが、団地はまとまって作られるため、個別の作りこみがせめぎあう住宅街と違い、公園や商店、うっそうとした緑が生むちょっとした死角を保有している。しかし、それらは団地のためというより、常時、街に開放されており、公共のものとして無意識に共有されている。秘密の電話をかけに、団地の電話ボックスを使ったり、コープの配送されてくる食料を受け取りに行ったり、地域の英会話教室があったり、なにかと生活の中の重要な場所を提供している。公団が作ってきた住戸自体には価値を見出せず建て直すようだが、冬至四時間日照に基づき、羊羹のような住棟を配列した結果生まれた場所は、なにげによいので残すようだ。公的な顔をもって保障できる公共空間というのはこういうものなのだろうか?。毛並みは違うが民によっても2chやmixiのような公共空間は生み出されている。ただ、そのような空間は、運営する個人の身の振り方次第ではいつでも搾取可能な状況にある。どのように継承されていくか今後、見ものである。建築的なスケールでの搾取不可能、継承が保障されている状況が顕在化し、祝祭性と日常性を備え実行力のある公共空間というのは、まだまだ神社お寺にしかないといっていい。いまブログをタイピングしている場所、新興地では団地のように集まって住む結果、提供されている場所が、ある人にとっては日常であり、甘い記憶であったりする。ただ、団地が生んだ公共空間が今のままでいいとは思えない。かつ、住戸と街の関係は冷え切っているし、住戸自体も魅力的なものとは言いがたい。どこを改善すれば何がよくなるという話ではないが、もっと良くしたい。ちょっと強引だが、40代の建築家達のようにベタ(日常)な視点から発想を得ることもいいし、60代の建築家のようにメタ(制度)に訴えかけることで得る発想もいい。ただ、そこを往復するような態度が必要なんじゃないか。僕は20代。これは初夢。

この手の妄想で困ったときは歴史家に聞くのが一番。歴史家のひとり言、歴史家が語る現実、歴史家の夢を感じるテキストを抽出。「場所に聞く 世界の中の記憶」 鈴木博之 著より
「建築は空間の芸術だと言われるが、むしろそれは時間の芸術ではないか。」
「われわれはあたかも建築家が自由な発想のもとに建築を構想するかのように考える。しかし人間のあらゆる営為は政治的であり、社会的であり、それゆえ歴史的なのだ。その全体に気づかないかのようにして建築を語るならば、単なる専門バカということになろうか。」
「あらゆる場所に歴史は降り積もり、やがて醗酵して文化になる。場所こそが文化を蓄積させる器なのだ。「場所に聞く」とは、場所の中に封じ込められているあらゆる歴史と文化を再び解き放つ試みなのだ。」

建築, monologue | Posted by simon at January 3, 2006 6:01 | Comments (0) | TrackBack (0)

15の住宅の模型

現在開催中の、GALLERY・MA ギャラリー・間20周年記念展 日本の現代住宅 1985-2005に合わせた、展示用の模型をつくりました。お近くにお立ち寄りの際は、ご覧ください。

模型を、僕の大学では15個作りました。依頼されたときは、何とかなるだろうと安請け合いした。なんて、言ってしまうと手伝ってくれたみんなに失礼ですが、何とかなったので良しとしましょう。基本的に、担当した建築全ての1/100と1/30の断面模型を作っています。成城シリーズだけ、1/100の三棟を一体にして造っています。せっかくですので、担当した建築の雑感を。なお、設計者の意図をくみ取っての解釈ではなく、尊重はしますが、今この時点で模型を制作してみて、という視点で勝手に書きます。

・早川邦彦の成城シリーズ 1982-1991
全体を見渡す役割だったので、1/100だけだし、パパパと終わらせる予定が、結構時間かかりました。
この建築(模型を作ったの三棟)は、結果的に一人の建築家が十年くらいかけ、ほぼ一街区(五棟)を設計することになったという、エピソード持つ建築たちです。建てた時代背景は、ポストモダン全盛期ですが、前面道路側の外観は、幾何学の組み合わせで構成されてます。機能的には内部空間と前面道路との緩衝帯になっていて(内部空間を流動的にしたい。とか、部屋と部屋がどう接続してるのかとか、社会構造と空間構造を一致させたい。とかではなく)建築と街がどう繋がることがハッピーなのかということを考えて、設計されたと思います。中庭側は、前面道路側にくらべると意外に古典的な解決でまとめており(頭のたてがみのような風貌と、意外にしっぽりしているおしりが組み合わさっている異色感が)まるでライオン。内部空間は、ちょっとワンパクなところがありますが、今回の展示で見ることは出来ません。最近の作品では、地下鉄のみなとみらい駅がありますね。あの色の使い方は、成城シリーズにも見られます。
中庭にある1/100の模型の中で一番大きいケースに入っているので、すぐ見つかると思います。前面道路と居室空間が繋がる部分で夢を感じてください。

・牛田フィンドレイのトラスウォールハウス 1993
この建築は、好き嫌いが明快にわかれるものだと思います。僕はどちらかというと左脳と右脳のバランスに触手を感じる建築が好きなので、現時点の自分ではきっと創造しないと思いますが、勇気を与えてくれます。建築の言葉を操って、建築のような建築をつくる建築家を目指そうとしているような体質が蔓延している、建築バカの物差しを解放してくれます。
この模型の舞台裏を少し。引き受けて一番不安だったのはこの建築だったと言って、過言ではありません。CADの時代であれば、formZのセクションツールで、模型の2mm間隔くらいの断面をアウトプットして、スチレンペーパーをコンタのように積み上げていけば良いですが、この建築はCAD以前。模型の担当は抽選で各校に分担するという話でしたが、いくつか問題児(笑)がおり、その中のひとつがトラスウォールで、事前にやらないかと言われ、そこでピント来ました。あぁ、あれこれがいるからなんとかなるだろと思いつき、引き受けた節があります。キャスティングで模型の生死が決まると思い、速攻でしつこくアポをとった甲斐がありました。結果から言うとなかなか上手くできたと思います。本当にありがとう。屋上に向かう手すりは、彼女の技によって出来たものです。再現不可能です。

・斎藤裕の蕣居 1997
この建築の内部はきっと暗いです。しかし、ぼくらが担当した建築の中では一番、自己の再生産の追求と徹底からなる、内にあるユートピアを最大限に解放してつくられた建築だと、勝手におもいます。個人的なバックグラウンドですが、当時、学部二年だったか、斎藤さんの展示の製作をじっくり手伝ったことがあるから言えるのかもしれません。というのと、その経験がなければ、評価に苦しむ自分が目に見えます。建築は硬くてなんぼという偏見から、レンジを広げてくれた建築家です。建築の外に対するアピールは少し(というよりそもそも時代が)違いますが、村野藤吾の内部におけるディテールに近いものを感じます。村野さんの「この手すりは貴婦人に手をさしのべるような〜」というくだりを思い出しました。
模型に関して言うと、1/30の模型はforexという低発砲の塩ビ版と、指定されていたので、その中では頑張りました。しかし、最近のような抽象化した建築。言い換えると、1/100くらいのスケールの模型がそのまま出来たような建築ではなく、1/1のスケールがある建築なので、1/100や1/30の模型にどう還元するかにかなり悩みました。とくに1/100は作り込めば込むほど、駄目になっていきます。粗探しせず、我が子を愛でるようなモードに入ってから見てください(笑)。

・坂本一成のHouseSA 1999
この模型が一番、時間かかりました。図面や写真ではわからず、実際に見に行きました。建築家は変態ばかりですが、この建築家もかなり変態です。でも、空間はとっても良いです。実際もよかったです。自分のユートピアと現実との折り合い、引き算のバランスが好きです。空間の構成は屋根の下に、とぐろを巻いた大きな空間があるのですが、単純なワンルームではありません。居心地のある小さい襞が寄り集まった大きい空間と言ってみましょう。建築家は一つの理論を徹底することで美意識を主張する傾向にありますが、坂本さんは、おもいっきり逆のスタンスをとっています。ロジックの集積と解体を繰り返し、ある瞬間でパッと止めたような空間です。模型も、襞の感覚を出来るかぎり、表現することを追求しました。まったくバリアフリーではありませんし、エコロジカルな図体にも頼っていません。でも、そこには現代に生きる空間があります。あぁいいです。すごくいいです。

・米田明のambi-flux 2000
この模型は三日くらいで出来たのであまり覚えていません(笑)。というより、しゃべりすぎな気がしてきました。いわゆるウナギの寝床と言われる敷地における狭小住宅で、ワークスペースがある現代的な機能を持った住居です。敷地が狭いのでそれほど、空間の構成のバリエーションはつくれません。クレバーな建築です。模型は、八割。螺旋階段のスタディにかかりました。楽しそうにつくっていたので、よい感じの階段が出来ました。

・遠藤政樹 + 池田昌弘のナチュラルエリップス 2002
さきほどのトラスウォールといい、舜居といい問題児シリーズの最後です。曲面の建築でひとくくりに言えることが一つあります。それは、実際に建てることと戦っているので、どこかで単純化しています。自分の理想の空間を追求する一方で、アルゴリズムの徹底が要求される。だから建築はおもしろい。
この建築は、幸いCAD以後の建築なので、骨格の再現に困る事はありませんでした。ただ、空間を追求するための模型ではなく、展示用の模型というのが意外な落とし穴でした。実際は、鳥かごのような骨格の内と外から膜を貼ってある構成なのですが、鳥かごなので一体でつくればバランスがとれているのですが(1/30は)断面模型なのです。初めは、骨格に伸縮性のある布を付ける予定でしたが、布と床が接する部分の処理がうまくいかないのと、半分の模型なので自立が難しいということで、その曲面の壁だけで自立するように軽量の紙粘土で下地をつくってから、モデリングペーストで盛り上げ、やすりの繰り返しです。ただ、紙粘土が肉痩せすることに途中まで気づきませんでした。そのぶん、やすりを頑張ってます。空間がストイックなのでストイックな後輩に任せたのが正解でした。全体を見る人はキャスティング能力が要求されます。はい。

・中村勇大の此花の長床 2002
この建築は、一階はピロティで、居室は二階だけ。敷地のほとんどが外部です。モダニズムの建築教育を受けてきた世代の建築には、求める理想と実際の都市の猥雑さとの落差についていけず、内部空間の豊潤さを無意識に求める美学があります。しかし、この建築は、内部空間が外部に露出しています。かつ、この傾向は無意識に今の建築にあると思います。空間を単純化、抽象化する傾向の次かもしれません。どうして、そう考えるのかは、またの機会に書こうと思いますが、一つ言えるのは、建築をつくると時に、街との関わり合いを考えることを見直そうという傾向が見えます。かつては都市に建築家は期待してきましたが、挫折し、今に至ります。その傾向の先に見えるのはコミュニティ。よこの繋がりです。上部組織と下部組織の隔たりを埋め、転覆させるかもしれない波です。

参照RSS:GALLERY・MA ギャラリー・間20周年記念展 日本の現代住宅 1985-2005の話題を追いかけて見る。

建築 | Posted by simon at December 14, 2005 5:05 | Comments (0) | TrackBack (0)

高過庵

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ちょっくら見に行ってきました。最近、書く余裕がないけど、書きたいネタはある。
藤森さんの建築は建築家が表現しないことをわざとしているようだけれども、(歴史家として)建築家が見たい桃源郷は理解していて、わざと避けようとしているのではなく、自ずから沸く欲求が、かわいらしく見えて何も言えないといった感じ。プリミティブすぎて真似できないところからもオリジナリティは十分垣間見える。テクノロジーをはねのける毛深さはどこへ向かうのか、それとも予定調和な劇場的なものなのか。僕には分かわらない。ようはどこでジャンプしているのだろうか。

建築 | Posted by simon at November 10, 2005 1:40 | Comments (0) | TrackBack (0)

SA

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House SAに行ってきました。いくら図面を見ても、疑問がでるもので。模型にするとなおさらだ。当日の私のコンディションは最悪で、二徹夜の作業(しかも、あのメディアテークの模型をつくった模型事務所での作業で、緊張と弛緩の連続の環境だった)後で、半分昏睡状態だった。行く途中も、なぜスパイラル(階段状の空間)なんだと、出口の見えない夢の中、神山健治・東浩紀の対談の中にある、最近の押井さんは年齢のせいか、獲得できないフィジカルな欲求ばかりば目立つ。という、一説との往復しか出来なくなっていた。
TOTO通信今秋号の「原・現代住宅再見 41(PDF)」で取り上げられている。物品の詩学なる藤森流のタイトルがついているが、まさにそういう空間だった。物品への欲求といえば、西沢大良の、空間を所有している物品と同系色に仕上げるという、空間への興味と通じているものがある気がした。坂本研だし。ただ、坂本さんが住宅と物品をテーマに設計をしたかは定かではない。朦朧な記憶をたどると、オブジェクトの配列の緻密さを、一緒に見ていた人々もすごいと言っていたが、それを解決することには無自覚だったような印象を持っている。物品への興味のたとえに藤森さんはオタクをあげているが、確かに物品に埋もれるような空間で、寝そべれるスペースがほとんど無い。寝るときに使うと言っていたスパイラルの最後にある畳と、途中にあるアフリカ民族の木彫りのベットの上でくらいしか寝そべることができない。オタクの原型を発見したのかもしれないな。風貌とイメージも一致している…。

そのあと、ぎりぎりの体調のまま、以前から約束していた、杉本 博司「時間の終わり」を見てきた。個人的な伏線があって、ブリゲンツ美術館で始めて作品を見、印象に残っていたので絶対行きたかったのだ。tkmyさんは、ブリゲンツは建築としてはおもしろいが美術館としては最悪と言っていたが、僕は杉本 博司の作品があまりにもフィットしていて最高にいい美術館だと思っていた。
建築シリーズがやっぱり好き。建築家の無自覚な欲求を顕すようなテンションでフレーミングされた建築たち。WTCなんて強烈だ。だれも見向きもしないくらいマンハッタンに埋没していた建築を撮影する嗅覚はさすが。911後、さらに意味が上書きされた気がする。消されて記憶に残る建築。無自覚な欲求=建築という墓。
全体としては作品数も多く満足したが、ハイサイドから柔らかい自然光が降り注ぐブリゲンツとは印象がまるで違った。写真は自然光に限る。護王神社の模型があって、直島の瀬戸内を見立てて、東京湾が見えるとなっていたが、朦朧としていたわたしはあほぉなことにのぞき忘れてきた。もう一回行きたい。

建築 | Posted by simon at October 12, 2005 4:51 | Comments (0) | TrackBack (0)

forbidden place

場所
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横浜市の都市デザイン室長の講義を聞く。実践的な話の中から一つだけ気になったことが。「都市計画的に健全とされているものしか良いとは言えない」というフレーズが印象に残っている。まち全体をそのテンションで徹底すると、ニュータウンという言葉に喚起される街並みが想像される。しかし、誰もが郊外の街にはどこか物足りなさを感じている。優良な計画学と実生活から得られる価値観の落差には、直接つないで説明できないほどの深い溝がある。

アノニマスな禁断かなにか。特異な条件下で発生した郊外団地を舞台としたコンテンツ(小説 映画 ドラマ)は数多い。金妻平成狸合戦ぽんぽこなど切りがない。最近では月9で放送されていたエンジンにも多摩NTのカットが入っていた。また、郊外団地を舞台とした映画が論文のテーマにもなっている。イメージと実態の落差に惹かれ群がる人々。

郊外団地をテーマにした議論や論文によく取り上げられる小説がある。直木賞作家でNTに住む重松清が書いた定年ゴジラだ。ある対談で冷静に都心回帰は郊外逃避であると言い放ちつつ、あとがきにはNTが少し好きになったと書くところ、自己矛盾を抱えていて面白い。

禁断な関係(場所
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群がるとおちつく?(場所
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建築 | Posted by simon at July 27, 2005 4:01 | Comments (0) | TrackBack (0)

リサイクル

転用1(場所
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転用2
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テトラポッドは、脚の頂点を結ぶと正四面体になる。
自重を無視すれば、正十二面体の立体で、組上げることが出来る。
構造のアルゴリズムとしては、最適化のたぐい。
*実は、テトラポッドは、株式会社テトラの登録商標。ウォークマンみたいなもん。

ギャラ間のレクチャーで最適化とリダンダンシーのプログラムを聞いている時に、ふと思った。
水戸芸のテトラ(四面体=三角形で構成した立体)で組上げた塔は、構造のアルゴリズム上、最適化されているが、リダンダンシーがない。(もっとも緊張した状態での構成のため、一本折れたりすると、崩れる)
例えば、車が理論上最適な三輪で普及出来なかったのは、急カーブの時、荷物の重量が想定外であると、力のながれをほかに逃がすことが出来ず、倒れやすいから。四輪ならば、倒れる方向に車輪がついているので、耐えられる許容が大きくなる(リダンダンシーがある)。
当たり前の話だが、三輪は理論上最適なものではあるが、流通できない弱さがあったということ。

建築における一つの潮流に、「合理性へ向かう目標を外す。といったことが挙げられるだろう。」と、前出のレクチュアで言っていた。
CGを作成しているときに、なーんかわくわくしなかった理由が分かった気がする。テトラポッドで構成した立体は、最適化された構成(リダンダンシーがない)のため。新しい予感がしなかったのかぁ。

アントチェアにも三脚がある。倒れやすそうだが、正しい姿勢であれば問題ない。モダニズムでは、正しい姿勢での椅子の着席が最適とされていた。んー、リダンダンシーがない。(笑)

関連リンク:simon|DERIVEに魅せられる

建築 | Posted by simon at July 2, 2005 23:28 | Comments (0) | TrackBack (0)

万博

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ロボットと戯れる人間と、自然はいいなぁといったような、全体的に楽観的なムード。なんの目的に万博をやったかは、行っただけでは分からなかった。隊列を組む自動走行のバスや、感覚的に操作出来るモビリティなど、テクノロジーだけを見ればおもしろいものもあったが、とにかく建築がつまらない。
そんななかTOYOTAパビリオンが突出しているように見えた。21世紀的な技術的テーマと、個人的な創意のバランスがとれていて好印象。小さなパーツ(軽鉄)を組み合わせて大きな空間を得る悦びと、解体できる明快さが結果的に何を生むか。そのへんをもっとアピールしても、いいかなとは思ったけど。
まぁ。万国博覧会というフレームで何を生もうとしているか考えないと、ただの観光アピールの場になっていた。

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建築 | Posted by simon at June 6, 2005 1:25 | Comments (0) | TrackBack (0)

荒川修作×磯崎新

ABCのトークイベントに行ってきた。文字に出来るところだけ書いてみる。荒川さんがゾンビのように感情をこめて話を始めた。局所的に美術や建築をもちいたアメリカに500年しいたげられてきたラディンがやったのは当たり前と。はなから暴走気味。続けて、磯崎さんが自分の主張として書いたなら建築する身体を半分書き直せと言う。アーティストを放棄し建築家になろうとしていると指摘。一方、荒川さんは、堀江(ライブドア社長)さんは「私は死なない」という視点で、倫理や社会を断絶し、経済に切り込んでいったと評価。かみ合っているようなかみ合っていないような展開に翻弄される。荒川さんが、記憶を形成するというのは、外に対する免疫であることを発見したと言う。彼が言う有機学の思考にたった発言。彼曰く有機学というのは、(たぶん荒川さんのつくった場所で)そこに行きたいと思い、はいつくばって行くと、途中でいがいと心地がよくなってそこで居座るということらしい。デシャンに人差し指でこづかれて、君は有機体に入っていてのはだめだと言われたと。当時さっぱりわからなかったと回想。

・磯崎さん。幾何学を信用している。始めるにあたって、生物にかかわるものを排除して、エンジニアリング(幾何学)の領域を選択した。有機的な形態なのは、風潮でそれに従っているだけと。
・バブル崩壊後ロンドンでvison of japanという展示をやった。日本人からひどく非難された。
・荒川さん。記憶って言うのは、筋肉の使い方でわかる。
・コルビジェっていうのは、階段をかけあがって、メジャーで測って2mでも10mくらいだね。とかいうのがない。
・水が抱きしめてくる風呂ってあるんだよ。おそらく進行中の集合住宅のこと。
・建築をデザインしない。アンチデザイナーである。有機学のような自分に対応する理論を組み立てるためにやった。
など、文章化できないような話が飛び交う。

建築 | Posted by simon at May 29, 2005 20:21 | Comments (5) | TrackBack (0)

原美術館ARC

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富弘美術館にも行ってきた。良くも悪くもあたまを抱えさせてくれる建築だ。コンペ的な思考にたてば、勝つと言う目的において、円形のプランを採用したことに問題はないだろう。何より勝者となり建築を作っているのだから。ただ、美術館として本当に良いかどうかはよく分からなかった。
確かに、建築の話としてはおもしろい。しかし、建築家の能力はそれだけではないはずだ。プロジェクトの規模に対して、ある程度の予算があり、その中で美しいまとまりを描かなければならない。完成に至る経過を詳しくは知らないが、建物とその周辺が断絶していた。アスファルトのアプローチ。湖面まで降りる動線。ツーリズムを優先させた車寄せ。それと建築。それらが、縦割りで工事区分が分担されているような印象すらあった。それが、建築家が発言した結果であれば、少し悲劇的な建築かもしれない。
空間のバリエーションは、断面のヒエラルキーがなく、円の大きさのみで違いを出している。そのため、素材をいろいろ使っているが、少しうるさかったかもしれない。加えて、円が詰まりすぎている気もした。円と円がぶつかった余りの空間などを利用して、外部が感じられる空間などが、もうすこし混じり合っても面白かった気がする。それを解決するためには、箱の大きさを広げれば良いのだけれども。無理だったのかなぁ。ただ、円が迫ってくる空間は、負けている感じが強く、居心地は悪そうなので、見えているだけでいい。
プランは、道路側がサービスで、湖に向かってオープンな機能へグラデーションする従順なもの。壁から壁を抜けて、予期せぬ風景が重なっている種類が、全方位へ展開できるように散らすことはできなかったのだろうか。
文句を言っているのではない。いろいろ考えさせられたのだ。円を徹底するという方法論の中で、他の手はなかったのか、ずっと考えながら、ぐるぐると歩いていた。
円形の壁づたえに、人がオートメーション化されているように、並んで動いているのには、少し驚いた。笑
原美術館ARCが、すばらしかったので、そういう気持ちになったのかもしれない。

建築 | Posted by simon at May 16, 2005 10:32 | Comments (11) | TrackBack (0)

MoMAは50%

オペラシティで開催されている「谷口吉生のミュージアム」に関連した講演会に行ってきました。以前のエントリーで、高宮さんが見たMoMAを書いたのですが。今回は、槇さんと谷口さんが見たMoMA。槇さんの直感で、辞退するつもりだった谷口さんを、ぎりぎりでとどまらせたなんて、逸話を聞いていたので、この二人の話は是非聞きたかった。人の話を聞きに行くのは、99%が事実の反芻で、1%の狂気を期待していくわけですが、今回は谷口さんが「50%しか満足していない」と言ったのが、それでした。笑
お二人の真っ正面に座り、モダニズムを壮観した気分に浸りながら、入り時間になる。矢萩喜從郎さんが、まず谷口建築を解説。シンケルやミースに通じる理性的な態度や、門構え、にじり口、座といった日本的な解釈、絶対水平や鏡面性が特徴の深さのない水面。ご自分で撮影されたと思われる写真を交えて、自分の解釈を、誤解をおそれず話されていました。一番、印象的だったのは、ブルーモーメントに輝く豊田市美術館をファインダー越しに見たとき、「理性と日本的な感性の溶解」に見て取れ、大変美しかったと。スライドとセットだったので、感動。
次に、槇さんの視点での評価。展覧会を見て分かるように、多くのメディアから讃辞を贈られている点は、40%は建築家がよかったから。残りは、MoMAだったから。なぜか。グッケンハイムとは違って。と言っていいほど、アメリカ人にとってMoMAは特別であると。自身がNYで働き始めて、まずMoMAの会員になったほどであり、移民文化のアメリカの先進的なコミュニティは教会しかなかった。次にデパートやボールパークができ、それから美術や演劇がついてきた。その中でも象徴的なものがMoMAであると。彼ら自身の幸福感であり、先進的なサンクチュアリとまで。このコメントからも、アメリカの身体感覚が根付いていた槇さんがMoMAのプライド、戦略からいっても、勝ち取る可能性を感じていたのだと。槇さんとしては今回の計画は、何よりアーバンデザインがすぐれていて、18世紀から現在にいたるまでの建築が集積している場所で成立させている今回の計画を高く評価されてました。
それを聞いていた谷口さんが開口一番、僕は話がうまくないと前置きをし。既存の保存、改築の復元、新築が複合した難しい計画だったと。そういう提案をしたのが自身ではあるのですが。内部にある作品との拮抗を望まないMoMA。MoMAが所蔵する作品は世界中どこでも見れるから、NYが館内からどう見えるのかというのを慎重に考えた。知ってはいたが、この謙虚で紳士的なコメント。んー背筋も伸びてる。また、あの特徴的な門構えは、中と外との連続性を意識した窓の枠でもあると。アベニューからのひきがないので、内部空間を豊かにしたかったと。建築を学んだのは都市の理想を語られた60年代。しかし、日本の都市の猥雑な風景を見て、どちらかというと閉じることに興味があったのかも知れない。矢萩さんが日本的な解釈のことを述べられていたので、日本的な事は意識していない。どちらかというと避けていると。一方で、非対称 線的 うすあかり コンポジション。モダニズムと共通するものを、そういった日本的な空間構成に感じると。
それを聞いていた槇さんは、内部空間に興味のあったroom to roomの磯崎さんや回遊性の谷口さんと比べれば、もうすこし楽観的だったと。門やにじり口もしない。ヒルサイドでもわかるように、隅入りを好むと。谷口さんとの違いをコメントされてました。
最後に、質疑応答。「どこで筆を止めるのか」谷口さんは、どんどん単純化していく。ぎりぎりまで純粋化して(作為が)残るか残らないかのぎりぎりのところで止めるとコメント。「敷地から何を得るのか」槇さんが、ア プリオリな欲求を確認するために敷地を利用することもあると。

建築 | Posted by simon at May 12, 2005 19:10 | Comments (1) | TrackBack (2)

作為のない具合

八代の保育園
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化に向けて整理してたら発見。みかんぐみの建築は、八代から見たというマニアな出会い。しかもほぼ竣工順。
この建築は、エコロジカルなシステムをしょっているが、それが反映されたような作為がなく、好感。一連のアートポリスの作品と比べると、かなりくだけている印象を持つ。素人のような考えを、玄人として実践すると言った具合が、でっぱりのある屋根や、テラスの連続感ある仕上げ、校庭に散在するケモノからも見れる。内部空間は見れてないので分からない。
JAのPROCESSにある脱力したダイアグラムなど、みかんぐみの建築が示唆しているところは、創意をどこで落とす(決める)のか。そこは、もっと自由で良いのではないか。と言った具合だと思っている。一方で、いかに一貫性のある態度を示すのかといった。疑問ももつわけで。はっきりしない全体ではある。
最近は近未来な話題にくびったけ。もちろんテクノジーの進化にも興味あるが。人口や経済の急速な構造変化。情報社会がもたらすあたらしい人格。僕が理想とする建築家はやっぱり夢を語るストラテジスト。ものたりないのかも。

LINK:アートポリスつながりで。砥用町林業総合センターの写真があるエントリー

建築 | Posted by simon at May 3, 2005 6:20 | Comments (0) | TrackBack (0)

28年生まれの建築家

今日は、docomomoに関連した講演会に行けた。失礼極まりないが、三人が、群になると妖怪のようだった。
三人とも生まれが同じなんて、趣味の悪い編集者がレイアウトしない限り、判明するもんじゃないと、林昌二さんが新建築編集長の大森さんに、横ヤリを入れつつ始まった。はっきりいって、この三人が集まれば、場を仕切れないことは想像たやすかったが、案の定、初めから放流された。(笑)
三時間超と長丁場だったので、ここでは印象的だったことをレポートしてみたい。前半は三人のdocomomo選定作品を、本人がプレゼンするという、きわめて貴重な体験。
菊竹清訓さんは、「スカイハウス」と、「出雲大社庁の舎」、「ホテル東光園」を選定されている。ここでは、自分の原風景(筑紫平野)と出雲大社の思い出話がほとんどだった。機能主義を崇拝していた自分を変えた、個人的にも印象的な建物なんだと。打ち合わせするたびに、「ここは何に使っている部屋か」と聞いても、毎回返事が違い、信じるものが何もなくなった状態から構築した。という、体験に基づいた話。加えて、コンクリートで雨仕舞いまで、おさめてしまった結果、さしせまり老朽化という現実にぶつかり、どこを保存するか迷っていると。断面だけ残し、日本の風土も考え、やっぱり木。木を使って再構築しようかと思っているとおっしゃっていました。さいごの質疑で、現在のすがたをとどめて欲しいと、選定委員の建築家が言ってましたが、あっさり、docomomoは、何を保存し伝えるか明快じゃないんだと。まぁ、たしかにテクノロジーが進化したからって、ギブスのように構造体を入れ込んでも、まるで創意がない。建築家がおこなうリニューアルプロジェクトは、おもしろそうだ。
続けて、林さんは、銀座の交差点に建つ、「三愛ドリームセンター」と、「パレスサイドビル」を選定されている。監事というかたちで、docomomo japanに関われているのに、なんで「私たちの家」を選ばないんだと。またまた横やり(笑)。毒本って言うのを出してて、言いたいことは全部そこに書いてあるから、もう何も言うことはない。とか言いながら、スライドの一覧表を手元に持っていて、やる気まんまんじゃん(笑)。パレスサイドに関しては特に新しい情報はなかったが、建築的な工夫をわかやすく説明されていた。パレスサイド、かなり好きだなぁ。屋上を開放している時期があるらしいので、ぜひ見たい。
最後に、槇文彦さん。「名古屋大学豊田記念講堂」と、「代官山集合住居計画」が選定されている。ヒルサイドテラスの後ろに配する旧朝倉邸(LINK:空中写真 S49撮影)が、まもなく公園として開放されるそうだ。東京の街は、前面道路の幅があって、用途が決まる順番だが、26m以上ある道路に面するヒルサイド一体は、都市や街並みが社会遺産として残っていない現状の中、非常に恵まれていると。ずっと残るんだろうなぁ。建築家冥利につきる。そうとう、マンションが建たないように抵抗したと思うけど。菊竹さんも、スカイハウスを建てた時は、崖の上に建っていたのに、いまでは、40mマンションの谷底にあって、今では雨戸も閉め切って、最悪だと言っていた。都市計画、アーバンデザインをやっていかなくてはと。一方、処女作の豊田講堂は、改修するのに、槇さんがすごく張り切っているという話を聞いていたので、やっぱり計画中の模型が出てきた(笑)。大森さん曰く、おおやけな場で槇さんが、豊田講堂についてコメントする事が、貴重だそうだ。計画中の中身については触れられなかった。
(LINK:ヒルサイドスクランブル
休憩後、菊竹さんの意気込みにやられる。谷底のスカイハウスの中で、布団やベッドは、快適ではない。コンパクトで、機能的な寝袋に限る。というコメントを発し、壇上の林さんと槇さんは、目をパッチリさせて唖然としていた。当然会場も、ざわつく。誰もが、スカイハウスのワンルームの真ん中で、ぽつんと寝ている姿を想像してしまったに違いない。話の流れは覚えてないが、建築を社会遺産として残すと考えたとき、自分の家をどうするか分からないと。身も蓋もないことを、だれかが言った。確かに、そうだ。日本の場合は、耐久性を下げやすい湿度や、リセットされるような地震の問題もあるし、物理的にも社会的にも、三世代住める家はない。槇家のように、90代の親と70代の息子と言った、とんでもない核家族像が、そこにはある。林さんは、ストラクチャーは道路並みのインフラとして考えるべきだと。完全に安全なものを作るというより、社会の中で保証される範囲のことをインフラと言っていたと思う。そういう思考の延長にたてば、社会遺産に繋がっていけるかもしれないと。正直、三人とも、どう残していくかを考えて当時、設計してはいなかったが。どこを残し、どこを変えるかを、実践していく必要があると。他にも示唆に富む、多くの事に言及されていましたが、そのためには、制度、都市計画、社会、思潮を含めて建築家が立つ必要があると、熱くおっしゃっていました。
展示自体は、はっきりいって、人と情報量が膨大すぎて、セキスイハウスM1を目的に見た。中村政人さんの発想で、はじまったM1保存企画のひとつ、模型復元。途中経過は写真でいくつか見せて頂いたが、実物を始めて見た。ヤハリすごすぎる、塗装屋が制作者を信頼しきって、と言うより崇めるくらいの精巧な技術で完成していた。
(LINK:MRでモンブラン@上野桜木

残すためにつくるって?
うちの実家は、売れるようにつくったって、言ってたな。確かにプランは標準的すぎて、はずかしいくらいだ。でも、その違和感はきっと理解する視点をもっている気がして、ずっと気になっている。しかも、木造で、なんかすごい大工が作ってた。おやじやるな。また、それを無意識にやっているんだろうが。作り込みすぎると、前の人の影を感じてしまう。実家の場合は、敷地に立っていた家に構造上の問題があって取り壊した。
今のところ、単純にかたちを残すという議論は、日本の場合、違うと思っている。土地の値段が上がれば壊されるし、地震や湿度の問題があるから、コンクリートには厳しい。また、マンションや単純なオフィスビルに挙げられるような、経済上の根拠だけでつくられたようなものは壊した方がよい。再構築の中で、何かをキープできないか。
docomomo japanは、ヨーロッパ的な視点での価値を評価する方へ、収斂するだろうか?。言い換えると、社会遺産として実行力のある建築っていう意味が乖離した状態で、立つ墓標のようなものを評価する団体になってしまうのか?。それとも、期待しすぎ?。docomomo japanとしての視点が必要なんでは?
セキスイハウスM1が100番目にエントリーされていることは、評価出来る一端かも知れない。このM1を始めとする箱形構造体を実際に、市場にもどす動きが始まってはいる。実行力のある社会遺産としての、ひとつの方法論かもしれない。経済的な視点だけで作られたバリエーション住宅の企画をやめて、今の技術で作る、市場を流れるM1的な箱。M0を作るプロジェクトなんておもしろそうだ。
LINK:M1居住者インタビュー富田玲子さん

建築 | Posted by simon at April 25, 2005 1:30 | Comments (2) | TrackBack (1)

バランス感覚

昨日も、阿部仁史ゆかいな仲間達のレクチャーへ、くりだしてきました。
阿部さんの建築見たことないですが、今回の動機は、完全にゆかいなゲスト達にあります。
そこから、阿部さんを知るのもいんじゃないという。のり。
二回終わった時点の阿部さんの印象。
「モダニズムの反動に陥らず、新しいものを、思考し、実践したいんだ。という姿勢を、かいま見れました。」建築家だから当たり前か。
僕は、(実は)本江さんの後ろの方に座っていたのですが、阿部さんも観客に背中を見せるくらい斎藤環さんに食いついていて、後ろ姿がシンクロした。髪型も。ちなみに、曽我部氏とも、僕の頭の中ではシンクロしていて。SONYの話が出たとき、苦労されていたのを聞いたことがあったので、三人ヒゲ面で並んだら、こりゃ、いい線だなと、ひとり笑いしながら、斎藤さんの軽快なトークに、身をまかせていた。

もっぱら、斎藤さんがゲストで来ていたので、ヴェネツィアビエンナーレの日本館の話題から、始まり。一貫して「おたく」。
ちなみに、今回の日本館は、他の楽観的な展示(明るい未来)にくらべ、未来喪失の街をテーマにしている点でプライオリティがあったとおっしゃっていました。
阿部氏の執念によって、僕の交感をくすぐるコメントが斎藤氏から出る。
「ソフトのアクセシビリティという身体性」っていうのが、あって。(ちなみに、今日のテーマは、「リアリティの身体」)。自身が、ヘビーローテーションを、すぐ手にとれない部屋のレイアウトでは、おたく失格らしい。(ソフトって、DVDとかCD、本のこと。この語呂はかなりヒットした。ギャルゲーが、手の届きやすいところにあるっていう話なんだけど。ね)
僕が、一番共感出来たのは、斎藤氏の口から聞けたというのもあって、「身体の多層化」は、本当だと思う。
要は、携帯電話での自分。ネット上の自分。会話している自分。というように、リアリティ(身体)が、複数ということ。
それをまとめる総体としての自分は、ないんではないか。という話まで及んでいました。斎藤氏の本を読めば出ているのだと思うけど。
まぁ。おもしろいこと、いろいろ言ってましたが、阿部さんに質問もされてました。ビフォーアフターって、番組あるけど、阿部さんだったらどうする?。あれって、構成上、家族関係と内部空間を一致させようとしていて、家族の問題は、水戸黄門のような匠によって、解決するって言うストーリーだけど。あれって、結局、天窓や、ウッドデッキといったギミックからの発想で、ものが、できているし、折りたたまれて出てくる机とか、壁に埋め込まれている椅子とか、ちゃんと使ってんのか。その後のレポートの方がおもしろそうだ。なんて言ってました。
僕は、ああいう番組や、メディアにでてくる妄想(ギミック)は、一括して「チープモダン」って呼んでますが…。
斎藤氏によって、阿部氏の身体がはがされそうな場面がいくつかありましたが、僕の中にしまっておきます。というか、うまく説明できない。ということに。

一つ前のエントリーの追記に、一回目のレクチャーの事を少し書きましたが。これを見ながら、思い出したことが。
山中俊治さんが、おもしろいことを言っていた。
「パソコンは、薄くすると、重くなる。ずんぐりしているほうが、軽くなる。だから、マックは重い。」
アメリカ人の身体感覚から言えば重くないっというのも、デザイン上のふっきる要素としてあると思うけど。
Tigerの供出が決まりましたが、G5のマシン、重いんだろうなぁ。

新四年も研究室に入ってきたようだし、自分で実践し、態度としてみせたい。自戒を再確認。
よいプロジェクトに必要な要素「方法論・スキル・自分のテーマ」
方法論っていろいろあると思うが、プロジェクトが、ある公式に還元されるっていうのも、大事。
自分の「ユートピア」と都市や社会に潜む「ヘトロピア」をつなぐ、「システム」を提案する。っていうような。
それよりも、完成度か。

今日のおもろLINK:住宅都市整理公団|団地一覧/公団

建築 | Posted by simon at April 14, 2005 6:21 | Comments (2) | TrackBack (1)

コンペにおける憂鬱から解放されるのか

最近、エントリーのペースが途絶えがちでしたが、理由は歴然。
コンペをしていたから。
先日、結果的に一ヶ月半におよんだプレゼン作りに区切りがついた。
幾度におよぶ提出期限の変更に、テンションがうまくコントロール出来ない不思議な環境での作業だった。
手は尽くしたとまではなくとも、そこそこ言いたいことを言って、やりたいことをやった気がして、満足している。
(大学院の授業の事まで話すことが出来た。もっと、煽らないのも悪いんじゃない。と、言っときました(笑)。→一応、ウケテました。)
まぁ。最後の提案をまとめる段階で自分の提案を、引っ込めたことだけが、悔やまれるが。
期限が、曖昧なコンペだった事からわかるように、要求も自由に解釈出来るものだったので、あらゆる想定を頭の中で組み立てた結果。アイデアをあたためて、実施に近くなった段階で、出すのもいいんではと、思ったのです。
FIAS.jpg
僕は、一貫して、システムの変更を提案することに徹底した発言をした。
最終的にはアーキテクトが決めるので、そういうことが出来たのですが。
様々なリサーチの結果、既存のシステムに新しいシステムをアディションする事で、結果的に大きなリダンダンシー(冗長性)が得られることを提案しました。
ここでのリダンダンシーとは、「長く使い込んでいける融通さ」というニュアンスであって、
アディションしたモデュールが、例えば気候や風土、オリエンテーションと言った、ローカリティに対応しながら、
共通した自動車工場としての風格が保てるというようなこと。クライアントから求められていたのは、あくまでも工場のヴィジュアルアイデンティティ。
(今回の公式は、ローカリティに対応したエコロジカルなシステムを持つアディショナルモデュール=サスティナブル と言ったところ。)
ただ、アディションするシステムが簡単なコストで解決するのかという、実現性における一押しがないのが、どう見られるか。わからない。現在、コンペティターは三者まで絞られていて、僕らのプライオリティは、エコロジカルな話を唯一していたこと。
そこで、今回の投資は限定的な範囲ではあるが、エコロジカルな機構をまとうことで、それが全体に好影響を与えるという「押し」で僕らはイケルと判断した。
あ。コストにおけるアルゴリズムを書かないことはまずいんじゃないかと言ったら、…そんなん分かるか。って言われたのを思い出した(笑)。フランスだしな。

それにしても、はやく、コンペティションをめぐる憂鬱から、解き放たれたい。

以下は、やりとりの一部。
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Yさんには、翻訳という作業の中で、
企業が持つ思想(アイデンティティ)をリサーチしてもらう。という事ですが、
コンペにおいて大事なことは、やはり、一発のアイデアがあるかどうかです。
建築家が審査するコンペならば、
その審査員の嗜好などを考慮して、イメージが鮮やかに伝わるように、
パーソナルなレベルで寄り添ったりするものですが、
今回は、企業戦略のコンサルタントのような感じなので、
僕らが、実践しようとする具体的なアイデアが、
「どういう新しい仕事場の風景を獲得できるか」や、
「どのように対外的な会社のPRに役立つのか」というメリットが明確になっていると、
相手にも好印象だと思います。
従って、ただ見た情報を整理するというより、
恣意的な視点をもって、編纂するような感覚も必要だと思います。
言い換えると、具体的なアイデアをイメージしながら、リサーチすると効率的だと思います。
単純に自分の興味もあるでしょうから、そちらも同時に深められれば、良いと思います。

・話し合いの中で僕が思いついたこと。→リサーチしたい項目。
・貧弱なエントランスの改善に伴って、会社がもつ判然なアイデアを、プレゼンテーションできるような目的で、共用部の展示方法など、空間を使い込んでいく提案。または、通常、ストレージとして使われるところが、イベントスペースとなるような、ドラスティックに風景が変わる提案。(日本の伊豆にある特種製紙の工場は、坂茂 設計の逆シャッターの倉庫なんかは、原弘賞の展示を行うとき、倉庫を開放して使用したりしています。)→CBDが言っているサポートファシリティの再構築のための調査。
・工場の立地が、人目に付かない場所ならば、風景が際だつような工場の全体像を作って、それが、企業パンフレットやWEBのイメージになるような提案。→立地を調べる。現状の企業PRのパンフレットを手に入れる。ロゴや会社名の由来を調べる。
・もしグローバルに展開している(しようとしている)企業ならば、工場を地球のディテールとみなして、地域に合わせた展開力を持つ一つのアイデアで、様々な工場をつくる提案。→今後の進出予定地域を調べる。
・建材が、自社製品でまかなわれるような、エコシステムの提案。→リサイクルされているマテリアルを調べる。

あと、知りたいことと言えば。
・工場の拡張のルール。例えば、1サイクルごとに展開されるものであれば、その1サイクルのサイズ。
・会社の一般的な概要。社員数や売り上げの伸び。今後の戦略。
などなど。

CBDが、閣下さんに依頼してきたのは、精度の高い建築のイメージと、精巧な部品のイメージがマッチしたからなんじゃないかなぁ。と思いながら聞いてました。そこら辺が、建築の提案に繋がってきても面白いかなぁ。

よいアイデアは、複雑な問題を、非常にシンプルに答えられるものだと思います。
無数の解答がありえる中で、何をたよりに自分のアイデアをシンプルに整理し、
多くの可能性が示唆(しさ)できるものになるか。
それが、次回の打ち合わせの論点になると思います。

建築 | Posted by simon at April 4, 2005 5:00 | Comments (4) | TrackBack (0)

テレビ東京 新番組 Design Channel

テレビ東京 新番組 Design Channel
4月2日(土)3:10〜3:40

本日は伊東豊雄さんが講師です。
次回は、伊東さん part2。

建築だけでなく、広くデザインに関係する番組のようです。
もっと、たくさんの人が見れる時間でもいいのに。次のクールからかな。

たまたま、発見して、途中から見れました。
よく見ている伊東さんなので、新しい一面を発見する事は、なかったですが、簡単に言うと。
メディアテークと、サーペンタインを挙げ、共通して「柱、梁、から出来ているという箱」からの脱却を目指しているんだと。
それが、「いかに美しく実現したのか。」という流れで話をされていました。
僕の美しさの追求を楽しんでよ。という意志が十分に伝わるものでした。
来週は、進行中のプロジェクトなどが出るのでしょうか。

番組の後半は、微妙なデザインニュース。この落差なんだ。

番組のエンドロールによると。企画 インタープラネッツ のようだ。
LINK:c-channel|TOYO ITO

LINK:テレビ東京 Design Channelの新着Blog検索結果

建築 | Posted by simon at April 2, 2005 3:29 | Comments (0) | TrackBack (0)

香川県庁舎

KGWcityhall.jpg

丹下さんの成果って、あまり理解できてないのだ。建築は良い。ということは分かる。

建築 | Posted by simon at March 23, 2005 3:23 | Comments (1) | TrackBack (1)

線の多い家

SNGK.jpg

いちいちかっこつけないとやってられない。(経緯

建築, portfolio | Posted by simon at March 23, 2005 3:19 | Comments (0) | TrackBack (0)

ホワイトアウト

僕らの世代は「ホワイトアウトの建築」からどう逃れるのか。自立出来るのか。というのが、無意識に抱えている困惑ではなかろうか。こんな会話をプレゼンを作りながらしていた。
先月、あるコンペのプレゼンテーションを作っていた。アーキテクトは、アドビイラストレーター独特のホワイトアウトする仕上がりが、気に入らないらしい。(笑)

ex-planticon.jpg
近年、ユーロで最大規模になった自動車サプライヤーメーカーが、グローバルリーダーとして展開する中、各地に作る工場に、共通のビジュアルアイデンティティを提案して欲しい。というのが主旨だった。
土地が具体的に想定されていないコンペだった。そのため、一つの解答(建築)を目的とする事に、違和感を覚えた僕らは、現代的なテーマや、従来からあるテーマを示唆するキーワードを四つ挙げ、僕らが建築をアセンブルする流れを、プレゼンテーションすることになった。
それらから連想される建築化するアイデアを、彼らが持つ工場のシステムにアディションすることで、はなしの構造と同時に、僕らの持つボキャブラリーを伝えようとした。
キーワードから派生した、離散する20のアイデアを、アイコンに表現できるレベルまで還元し、四つの軸の中での関係性(位置)をプレゼンテーションで表現した。

建築 | Posted by simon at March 15, 2005 0:08 | Comments (7) | TrackBack (0)

萌え@写美

僕が行ったときは、平日の秋葉原くらいの混み具合でした。観覧者も展示の一部。即席のインスタレーションと言った具合で。きっとベネチアよりも臨場感があって、より本質的な環境で楽しめた。(笑)。なぜ、写美で展示が行われたが僕には分からなかったのですが、建築展としては「さいごのポストモダン」という表層を持ったニュアンスが、私的に楽しめた視点でした。もう少し言うと、内生的なきっかけが、あるひとつの徹底を生み、街の風景になったというストーリーの組み立てが、ポストモダンらしいなと。僕は、それよりもランドスケープアーバニズム的なスケールから、街並みを考えたりすることの方が、わかりやすく新しいものを生み出すのかも知れないと、思いこみながら萌えていた。

建築 | Posted by simon at March 14, 2005 23:27 | Comments (0) | TrackBack (1)

Guggenheim@NewYork

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ちょうど一年前は、NYへ行ってました。床は、三度に傾いている。しかし、当時これをやったことがすごいよ。個人的には良さがよくわからなかった。動線の結末を期待しすぎたところもあったし。寒すぎたし。‐10は軽く超えていたし。その上、地下鉄降り間違えて20ブロック近く走った(笑)。68st 86stの駅があるとは思わないさ。展示もいまいち好きでなかったし。いろいろ理由はある。MoMAは工事中だった。(LINK:simon:ビッグネスが生んだ建築

NYにまつわるはなしを。まもなく、チェルシー地区に坂茂氏設計のNomadic museumがオープンするようです。ポンピドーセンターの紙にしろ、このコンテナにしろ、純粋建築を目指して、こういうのをつくる坂さん。かなり良い。

建築 | Posted by simon at February 14, 2005 8:19 | Comments (3) | TrackBack (0)

幼稚園から大学院まで

私、大阪出身なので、関西の情報にはなぜか敏感(な時もある。)まぁ三面記事的なニュースを無理やり全国レベルの話にしてみようかと。
関西大学新キャンパス構想によると、幼稚園から大学院まで入る30階の超高層ビルと、防災センター機能を有する体育館で構成されている一貫教育施設を作るようです。JR高槻駅北側の「都市再生緊急整備地区」に指定された地区に建てるということもあって、助成金と規制緩和が認められ、可能になったプロジェクトだと思う。全国で規制緩和に伴う官民合わせた投資は、全国の7割を占める東京において、五年間で10兆円と見込まれている。なぜ今、投資が必要なのかは、下記リンクを参照して頂きたいが、そのお金が有効に使われているかは、次々に完成しているので、経過を見て判断したい。

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写真の秋葉原のビルもその一例だ。
国土均等利用と言ってみたり、巨大都市にお金を注いだり、ゆとり教育じゃないが、中身がないものになっている気がするなぁ。

LINK:動き出す都市再生事業
LINK:NHK総合「明日を読む」都市再生

建築 | Posted by simon at February 10, 2005 5:55 | Comments (2) | TrackBack (0)

P ジョンソン逝く

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miyajima/weblog:Philip Johnson 逝く/ガラスの棺によると、25日亡くなったそうです。二ヶ月ほど前に、simon:ビッグネスが生んだ建築のエントリーの中で、未だにMoMAとのつながりがあるという話題を共有したばかりだったので、個人的にはタイムリーな話題です。しかし、グラスハウスを自らの墓に見立ててしまうとは…。NYtimesでも特集を組んで、彼の功績をたたえています。フィリップ・ジョンソン著作集(フィリップ・ジョンソン/ディヴィッド・ホイットニー 横山正 訳 ADA発行)をこの機会に読み直そうかな。nationaltrustによって、一昨年前に買い取られたfarnsworthhouseとグラスハウスを取り囲む歴史的な考証もこの際深めたい。

LINK:Architectural Record:Philip Johnson Dies

*写真は、コルビジェの墓。特に関係ないけど思い出したから。コルビジェは、大好きな海水浴中に カプ マルタン の海で。だもんなぁ。

ついでに、カブ マルタンで歩く私。
Colgrave.gif

建築 | Posted by simon at January 28, 2005 1:37 | Comments (2) | TrackBack (3)

名残のある風景

市電跡 大宮通り七条下ル
SDNato.gif

LINK:simon:かたい空間


「建築における日本的な風景をつくる制度は開発可能なのか」
ーPM・CM方式を通しての考察ー

 PM(プロジェクト・マネジメント)は、もともと米軍が第二次世界大戦で、マンハッタン計画という原子爆弾の開発プロジェクトを切り盛りする時に、「最小のコストと時間で高性能」な原爆を作るために、開発した大きなプロジェクトの推進管理手法という発祥を持つ。CM(コンストラクション・マネジメント)もまたアメリカで確立したプロジェクト実施方式だ。30年前アメリカでは、プロジェクトが大規模化、複雑化するのに伴い、工事遅延、予算超過が乱発し、それらを防止する目的で、マネジメントを専門に行う主体として、設けたのが始まり。
 しかし、現在、それらの方式が持つ意味は、歴史的なコンテクストは違えど、事業の推進を得意とするPM、工事の切り回しが得意なCM(施設の管理が得意なFM)。と言った、それぞれの方式が持つ発想の着眼が派生し、建築全体のマネージメントへ発展したものになっている。どの方式も、施主と一体となって良い建築を目指すという、表だった目標は同じものの、ネーミングが似ていることもあり、差異を認識しづらい。施主(発注者)が自分の希望する建築の性格に合わせて、それらのマネージャーを選択する。と、いうのも混乱をまねく原因になると思われる。日本における大型のプロジェクトの推進手法は、これから開発していかなくてはならない。というのが、今日抱える論点である。
 建築におけるCMやPMと言った、日本的な管理方式のスキルを育てるにあたり、社会的な命題としては、魅力的な日本の風景をつくる。と言うことがそれに、値するのではないだろうか。都市計画や、アーバンデザインという概念は、全世紀において、建築家が放棄せざるえなかった分野であると言ってよい。何一つ実現せず、「中銀カプセルタワー」のような派生した建築や、「横浜市の都市デザイン室」というような制度が形骸化して残っているだけで、社会に対する訴求力は、現時点では失われている。
 魅力的な都市を開発していくためには、建築家が関わらなくても、ほとんどの建築が建っているという現実の中、それ以外の9割以上の建築を見捨てていては、一向に日本が持つ風景は良くならない。その指標たるものとして、ヨーロッパのような歴史的な象徴性をセレブレートする風土を受け入れようにも、地震や戦争によって都市をリセットする歴史を背負う日本において、その概念のみによって具体的なアイデアを生むことは、難しい。また、湿度の高い日本において、300年も400年も持つような建築を、作ることは現実的には不可能で、再構築していく中で、都市が持つイメージを培って行く必要がある。また、アメリカのような建築が引き起こす問題すべてを、訴訟に持ち込む風土から生まれたCMやPMを全うに受けていては、それらが日本における風景を創造するにあたり、頭の痛い制度になりかねない。
 縦割り行政の性格上、都市の骨格(ファシリティ)である河川、高速、公園、海岸などは、デザインという価値が存在しなかった土木という分野が責任を負ってきた。もちろん、壊れない骨格を作るという理念に基づき、国土を作るという責務は全うしている。しかし、それのみで都市や国土が覆われており、その上に建つように見えてしまう、建築単体では、社会に対してクリティカルな視点が問えなくなってきていると言っても過言ではない。
 では、どこに「日本の風景をつくる」可能性があるのだろうか。それは、誰もみたことがない地平であり、非常に可能性がある方法論として、今世紀確立していく大きな目標になると考えている。継続して、建築家が建築を建てることも必要だが、もうすこし手前で、従前なる制度をデザインする。というスタンスで再構築も必要だと思う。そこで、ゼネコンが培ってきた技術や組織力、行政への働きかけといったスキルを、建築、土木、行政と言ったフレームを横断し、PMやCMの導入という口実を利用して、開発可能な人材と、社会を作ろうとしている。それらが、どこへシフトしていくかは注意深く見ていく必要があると思うが、建築家が作る建築がただの、ぼやきに。制度がこれ以上の創意の弊害にならぬよう。建築に携わる人たちで、社会に働きかけて行かなくてはならないのは確かだと思う。
 最後に、論点を分かりやすくするために、建築家とゼネコンという二項対立の構図をひいたわけだが、建築家が都市を創造することがあるべきであり、ゼネコンがマンパワーのアイデアを世に問う姿勢を持ち直すべきだと思う。僕は、風景をつくる。都市をデザインする。街をつくる。という事に興味が沸いている。

このエントリーは、
「建築マネジメントの実践p20〜47 日刊建設工業新聞 小菅哲」
「国土交通省 マネジメント技術活用方式試行評価研究会に関するHP」
建築家 塚本由晴、リノベーションについて語る。」を参照しています。

遺構, 建築 | Posted by simon at January 27, 2005 18:53 | Comments (0) | TrackBack (0)

いかに建築は社会的に構想されるのか

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ほんわかしたら、顔をぽちっと押してあげて
就職活動している人への、メッセージですね。

LINK:145号

就職用の写真を撮るならお勧め。目の前でフォトショップ実演してくれて、みるみるスマートな顔立ちになります(笑)
LINK:アソーカメラ

コメントに出てきた本
LINK:住宅論 SD選書 49  篠原 一男

建築 | Posted by simon at January 26, 2005 20:52 | Comments (3) | TrackBack (1)

ニュータウンの秋

桂坂
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もし、このくらい鮮やかな風景が、一年通して展開するならば
それとして、「美しい街並み」と言えるのかも、知れないなぁ。

遺構, 建築 | Posted by simon at January 19, 2005 0:52 | Comments (0) | TrackBack (0)

イメージをつくる美意識のひとつ

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面出薫と伊東豊雄の対談 (光の建築をめざしてー「風の塔」から「せんだいメディアテーク」まで TOTO出版) の中で、ブルーモーメンントという言葉が出てくる。簡単に言うと、昼と夜の間にある短い瞬間。面出さんの説明を拝借すると、「日没の直後、地平線に沈んだ太陽の光が天空に拡散して青い波長の光に包まれる瞬間。その青の瞬間というのは、胸騒ぎの時間、とても不安定な情緒になるのですが、気持ちが吸い込まれるような美しい時間です。」さらに、メモによるとジャンヌーベルさんは、建築家は昼と夜の二種類の図面を書けと言っております。伊東さんは、昼と夜の交差する時間に現れる建築は、その建築が美しいのかを見るひとつのものさしである。というようなことを言っています。メディアテークのコンペ時の衝撃の模型は、その背景が目に見えて表現されたものだと思います。ブルーモーメントに輝く建築を目指すというのは、ひとつの美意識として頼もしいものだと、コンペ案を思いだし、トッズを見て (パークドームも見て) 思いました。そういや、横浜の調査してたのに、風の塔見てねーや。今度行こーっと。

写真は、コンペ史上まれに見る、審査委員長の村野籐吾が設計した広島世界平和記念聖堂。

建築家 難波和彦のホームページにある青本往来記で、下記の一文を検索すると、当時の状況が少しわかる。
「広島平和祈念聖堂コンペ」の審査委員で、後に聖堂の設計を担当することになる村野籐吾の位置も興味深い。

建築 | Posted by simon at January 7, 2005 22:19 | Comments (1) | TrackBack (0)

SANAA


LINK:MoCo TOKYO

ホームページがあるなんて知らなかった。
建築同様真似できぬ。
ただのシンプルでもなく。
ただのミニマルでもない。
サナーという言葉が生まれても。
僕は疑わない。

建築 | Posted by simon at January 6, 2005 1:52 | Comments (2) | TrackBack (0)

大阪に建つ二つの教会

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二つのとあるのは、同じ日に行ったから。三年前に行ったときの写真。ひょんな会話で、三ヶ月ミサに通うと光の教会で結婚式を挙げれるようになる。という話を聞く。地元の人のための教会となっているようだ。増築されたことで安藤さんらしい戦う構成がなくなってしまった感はあるが、愛着は変わらない。建築的な構成という話で光の教会の話を始めると、残念な気持ちになるが、愛着が増して、要求プログラムが増したことは、ほほえましい事実である。その事実を目の前にして、モダニズム建築の冗長性がないというのは、短絡的な感情に過ぎないが、それに答える形で存在する40代の建築家のスタンスもどこか利用者に近すぎる感じもする。もっと違うかっこのつけかたもあると思う。このつじつまの合わない妄想は、僕らの同時代性はどんなものなのだろうか。という疑念に始まること。もうひとつの写真は、村野籐吾の宝塚カトリック教会。そういえば、心斎橋そごう無くなったなぁ。

建築 | Posted by simon at January 3, 2005 3:49 | Comments (4) | TrackBack (0)

モティーフが語る可能性

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伊東豊雄もの(建築)はあんま好みでない。メディアテークを始め、ぼくにはハードさがものたりない。艶めかしくやさしすぎる。案の定、ぽ氏におまえは嫌われるタイプだと言われた。ちょっと、いや結構ショックだったけど。何はともあれ、いつも期待させてくれる伊東さんの言説。今回も燦々とした気分でオープンしたトッズを見た。注目すべくは主に二点。実際のケヤキとのシンクロ感。ガラスのおさまり。目地を消そうとする、ガラスを填めてから、スムージングを掛ける行為。(ガラスのおさまり具合はこちらの方が写真豊富。サイドバーのTod's Building.をクリックすると見れます)。手作り的な思考性がもたらしている彼の目地フェチは、せんだいメディアテークまでさかのぼれる。GAdetail2の論文において五つの原則を発表しているが、そこで「目地を消したい」と言っている。明らかにコルビジェの五原則を意識していて、内容もモダニティというユートピアの進化を、一人の建築家のテーゼによって知らしめられるものになっており、気合い入ってる。そういうモダニストしての一面と、けやきが共存出来る彼の言説に惹かれる。惹かれまくり。全然建築の感想書いてませんが、内装も伊東さんが関与されているだけあって、商業建築にありがちなDiorのような外装と内装という二項対立もしくは、乖離は起きていない。ちなみに、実際見て比較するとすぐわかるが、Diorは表参道にお金かけ過ぎで、銀座がチープすぎる。建築家がどこまで関与できて、影響を及ぼしているかはわからないが、トッズはバランスがとれている。また、商品が通りまで出てきているのでどこかイタリアの街角らしさを感じる。自然に人も群がる。セリエのフィオレンティーナのオーナーでもあるが、セリエAに上がった時点で中田を獲得したタイミングと表参道に構える戦略なんて分かりやすすぎるが、なんだか愛らしい。で、建築の評価まだしてない。今後どのようにこの建築が残るのかが面白いところだと思っている。商業建築の場合その華やかさの裏に、予期せぬ事態に回収されるという、シニカルな側面を持つ。トッズが、日本でうまくいかなくなったり、プログラムの要求上、手放すなんてことも考えられる。そう言った時に、この建築がどこへ向かうのかが、楽しみ。実際のけやきは、表参道を象徴するような存在になっているが、けやきのモティーフを持つことで建築がどこまで社会に開かれていくか。楽しい建築を体現する象徴となれるか。注目すべき二点なんて書いているが、写真で十分わかりますね。

TODs2.gif

後で気づいたが、もっと振って撮ったらケヤキで覆われている感じがわかる。店内に投影されているプレゼンテーションもおもしろい。
LINK:architettura/TOYO ITO. TOD'S Omotesando Building
(ケヤキで覆われている感じがよくわかる写真がある)

再構築目まぐるしい表参道情報としては、安藤忠雄のhhstayleがまもなく出来上がりそうです。あと、キャットストリートへ入るところ(アールジーンのショップの前)にデッキみたいなの。なんだありゃ?まったくデザインしていない。聞くところによると学生が企画したとか。姿勢は評価できても、出来た「もの」としての評価も同時に立ち現れる事実を黙認している。

個人的な回想
けやきが、ショッピングと建築をつなぐポピュラリティ(大衆性)を獲得したということを、shinya:鉄板エントリーのコメントで口走ったついでに、トッズの敷地から近いところで、三年の時、僕もひとつの回答を出しているので、当時の思考をモティーフというキーワードで、けやきとシンクロさせてみようかと思う。当時のコンセプトは、こうだ「木のように見える構造があればいい」。単純に、僕の中にあった上位主義の建築がショッピングを扱うときのトラウマになっていた。従って、予期せぬ事態に回収されても残る部分を具体的なもので作ろうとした。建築が変わらないということを、シンボリックに見える構造で表現したのだ。空間構成は、目的空間がショーウィンドウと呼ぶ外からも見える部屋。(フェラーリの専売店を計画したのだが、ブランドと一般的に呼ばれているものであれば、なんでもよくて2500平米の敷地に、車のデリーブによって予期せぬように見える残余空間が作れるのではないかともくろんで、車を選択した。)それ以外のプログラム(車を搬入する動線 カフェ バックヤード 機械室など)は、一辺50m(敷地外周100m)の正六面体の中に立つ木のような構造と目的空間以外に充填されていく。多くはその足下で解決した。その足下の空間イメージは、ショッピングとは関係を切れる無目的な都市の庭とショッピング行為が共存する空間を想像していた。トッズも敷地全周100m。決定的に違うのが、L字の敷地ということ。氏も述べているが、敷地がここまでタイトでなければチューブが発生したということをPLOTで言っている。建築が建つという構造が、彼の建築にはあるので、真正面から立ち向かえば、比較することもばかばかしいけれど、今回は、建築が何をプレゼンス出来るのかということだけについて考えたい。僕の提案は、構造さえ残れば、機能が回収されても構わんと言うスタンスがコンセプト。(はじめは、ショッピングを楽しむ人、街を楽しむ人どちらも引き込める空間をつくりたいというところから始めた)空閑地になったとしても、足下に魅力的な空間が残ることによって、木のような構造の強度を説明しようとした。伊東豊雄が「20世紀を通じて、幾何学を頼りにしながら抽象的な建築を作ってきた。でも、それを今考えてみると、避けられない構造や施工の問題があって、単純化するとか、幾何学に一度置き換えて解析をしてきた。今や複雑な物を難解なまま解けてしまう。」というように技術に裏付けられたアルゴリズムが、わかりやすい形態に置き換えられ、そこの場所におけるシンボル(けやき)とリンクする。ただ、僕の場合は、木々が四季折々に風貌を変えることによって存在を示すことをイメージの始まりにしているので、目立たない(トッズは、表面がケヤキ。)もしくは意識されないが、残ってしまうようなシンボル性をもつ構造体にしたいというところが違った。と言いたい。

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なんだか変わらないじゃないという感じがするが、一人の建築家の思考を、自らの創作を通して理解していく。一人の建築家の思考の変遷を知る事は、建築を知るためのひとつの手段と思える。

建築, portfolio | Posted by simon at December 29, 2004 4:41 | Comments (0) | TrackBack (0)

映り込むWAIST DOWN@PRADA

Architectural Design×Curation and Exhibition Design
Herzog & de Meuron×AMO/OMA
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中止になったNYのAstor Hotelにおけるコラボレーションと今回はテンション(意味)が違うものの、国際巡回展という名目が実現したプラダ青山におけるテンポラリー空間。このコラボレーションも、エキサイトな気分になれた。akuエントリーが、正面からの写真(模型)だったので、鏡面に映り込んだ腰下をエントリー。繁忙期にも関わらず陳列している商品を大幅に減らしてまで展示する姿勢はすばらしいです。展示と商品を分けていない点。展示を見たい人とショッピングを楽しみたい人を含めた動線。同じような類をメゾンエルメスやルイヴィトンに見ることが出来ますが、プラダが一歩リードか。また、写真にあるような大物の展示空間はあまり人がおらず堪能できます。エレベーターの中も要チェック。
ちなみに、エピセンターはNYソーホーの一号店に続いて、二号店のロサンジェルス 三号店のサンフランシスコ 以上OMA。四号店の青山 H&deMとなっている。エピセンターというコンセプトは、単なるショッピング空間を超えて、公共性と文化活動の融合をめざした場所。本来的には震源地という意味を持っており、従来とは異なる顧客との関係を築く実験の場として捉えた店鋪。ミウッチャプラダが、ハーバードでレムが建築家という立場からショッピングの研究をしていることを知り、誘ったという話は有名ですが、プラダは、経営状況やショップの飽和感という危機感から、デザイナーから大企業への転換期を、エピセンターという判然なコンセプトで、建築や空間を含めた具体的なアイデアを都市に提示した。青山は、エピ?エゴ?という感がありましたが、この展示を見る限り、今のところ成功していると言えるのではないでしょうか。リーフレットにある「エピセンターらしい多元的な現代空間」というくだりも納得。
以下「いつもかみ合わない漫才みたいな会話」より。六階における展示の話題と結論。「テクストの位置が背面にあり、味見しながら見れない」「腰下が林立しているように見えることが優先された」という腑に落ちないニラミ合いをしながら下まで階段で降りる。地下一階のダンスするスカートは、うっかり下から覗きこんでしまいます。

補足
新建築一月号を見ると、六階の展示はスカートの森をイメージしたという事です。鏡面に空間と人と東京の風景を写しこむことを意図したと書いてあるので昼間の方が、陽の光とその反射がおりなすフレア感に包まれた空間の中で楽しめそうだ。展示は1月16日まで。

建築 | Posted by simon at December 28, 2004 1:32 | Comments (2) | TrackBack (2)

楽しいアイデアは人と共有できることで本当になる

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今日は、初めて(一年生の後期の課題)ティーチングアシスタントを体験しました。新しい体験をする時は、新しい発見を期待するものだけど、愚痴も聞けたし、笑い飛ばすくらいの余裕もあり、まだまだ大人げないところを露呈するくらいの交感はありました(笑)。彼らの具体的なアイデアを交えて、話をするので、初めて会った感じがしないくらい踏み込んだ話ができた。自分の考えたことが魅力的に見える。それが人と共有できる喜び。それが飛躍する瞬間。アイデアが持つ限界。それを超えるための緊張感。突き進むための執念。自分の思考が搾取(さくしゅ)される不快感。それらがめまぐるしく展開していくスピードが楽しかった。疲れるんだけどねそういうのは(笑)。結構カチンとくることもあったけど、もやもやが解消されるまで、時間の限り会話した熱意が伝わっていれば、それで十分。僕が正しい事を言っている訳ではないし。それを批判できる鋭い感性を持つことが大切。ただ、自分が間違っていることに気づくことが一番難しい。自分に素直になる開放感を発見する時の快感を味わうことができれば、きっと次の展開がどんどん現れる。時には、道筋立っていない事も許容しなければいけない。無数の解答がありえる中で、何をたよりに自分のアイデアをシンプルに整理し、多くの可能性が示唆(しさ)できるものになるか。僕の中でのシンプルというのは、多くの場合、人とアイデアを共有するためのシンボルのようなもので、迷ったときに戻れるような芯の強さを持てる思考。可能性というのは、人が飛躍させてくれる事が多く、自分の計算外であることが多い。コミュニケーションの中でもその立ち位置を確認できる。言葉で整理できなくても、自信に満ちた判然で具体的なアイデアがある空間。それは、今日のような即興性の空間でも生み出すことが出来る。そういう体験を積み重ねていく。きっと、それが自然に演じきれるような心地よさが忘れられなくなる。デザインにはそんな可能性が開かれている。今日は、僕の指摘をふまえて、文書を書いてもらいました。肩に力が入りすぎた、ある意味で完成され過ぎたもの。従順な気持ちが僕の健全な悪意によって汚されてしまった人(笑)。ただ否定的な態度をとることが正しいと勘違いしている人。などね。出来るだけ、アイデアを批判するために、よりよい具体的なアイデアによって、問題点をクリアーにしていくことを心がけました。無垢な感性がそれに引っ張られてしまうかもしれないが、きっと、プライドを持って僕の悪意を超える努力をしてくれると思っています。

以下、個人へのコメント。
4263 君も感じていると思うけれど強制力のあるシチュエーションはそぐわない場所だと思います。すでに美しい場所だから、そこに手を加えることの重みを意識しながら、妄想すべき光景は、きっと風景を切り取る瞬間に至るストーリー。または、それをじっと見ることが出来る心地よい場。そこにふたりで手をつないでいけるような健全な雰囲気。
4265 いいアイデアをもっているので、その理想に近づける一方、だれもがいいねと思えるような風景をひとつ想定してください。雑然とした住宅街に、どきっと立つような違和感かな。
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くさいものにふたをするような見た目は、みればわかってしまいます。
4269 じぶんの中で細切れの良い小さなストーリーがあるので、それらが、はまるシンプルな全体があると、人に良さが伝わると思います。個人的には、橋の上と下をつなぐ「光の柱」というのがいいかと思います。
4271 自分の世界を信じて、迷いを振り切るスピードで一度やりきってください。迷いも必要だけど、それを超える勢いも同時に必要です。内側から外を見るストーりーがあるので、海にせまる山の頂にたつ、外からそれを見る事も同じくらい考えてください。
4273 機能があるのではなく、魅せる空間が先にあるという考えは、僕の感性に一番近い感じがして楽しかったです。コンテナが、積み重なったり、つながったりするわかりやすいルールがあればいいと思うので、周辺にある程度、具体的なシチュエーションがあって、そこから派生するようなイメージ。でもいいし、ものすごい巨大な中のひとつとして考えるのも楽しいと思います。後者で行くならば、プレゼンテーションにその巨大な中に埋もれている感じがわかる、猟奇的な絵があると相当楽しいと僕は、妄想しています。
4275 自分の世界観を持って突き進むパワーを、人を誘惑するような具体的なアイデアに還元することを、否定的に見るあなたが、思考を大きく分断しています。僕が言ったようなアイデア以外で当然やってほしいし、自分の中で考える時はいいかもしれませんが、それをあなたが身体で理解していない「建築のような言葉」で説明することも、自然でない気がします。四つの場面があって、それらが繋がったり、切れたりする、複雑さが、シンプルなアイデアで繋がっていることを徹底して進めてください。あなたが言うようなのんびり出来るというのは4m×6m×9mの「小ささ」を四つに切った中で、埼玉新都心のけやきひろばで確保できるとは僕は思えません。それを鮮やかに、一蹴できるものを期待しています。
4277 音が響くための技術的な裏付けが可能ならば、良いかもしれませんが、もやもやしたまま、それを口実にこういうかたちになりましたと。言うのは、自分に対して無責任だと思います。また、空間を展開するイメージが一方通行にならないように、つないだり切ったり、試行錯誤する痕跡がまったく見えなかったので、そういう事も試してみるといいと思います。
4279 言葉に頼っているところが見られるので、具体的なアイデアを詰めてから説明できるといいと思います。携帯があるのに、あんなにたくさんの電話ボックスが必要なのかと思ってしまうということは、そこまで良い空間になっていないという事です。ハチ公前に、建つシュールさと、同時に存在する中の空間のイメージをもっと詰めてください。
4281 よい場所を見つけたので、既存の階段とどう繋がっているのかを模型でわかるようにし、現在のネガティブな場所のイメージが、反転するくらいの自分が良いとする鮮やかな風景を表現すればいいと思います。
4283 僕は見てないのでわからないですが、大西さんのアドバイス通りと思います。
4285 もっと使い込んでいけるようなイメージが沸くようにした方がいいと思います。
4287 内側から外を見るイメージがあるようなので、高層ビルの上にたったとき、外からどういう風に見える存在なのかとかも考えるといいと思います。
4289 川に浮くというのはシチュエーションがいいので、そこであり得る可能性(あながた言う、陽の光がつくる川面の輝き)を増幅するような空間を作っていけばいいと思います。
4291 木漏れ日のような空間を、実際の木でつくることでは、「手を加える必要がない。」と自分で言っているようなものなので、シンプルな箱に入ると、まるで木の下にいるような空間を作ればいいと思います。強風がそよ風になり、雨がしのげ、強い光を遮断する空間が、殺風景と言う住宅地の(待ち合わせなどに使われるような)シンボルとなるような場所を目指してください。
4293 同じ面積で、全く違う空間を体験できるアイデアは非常によいと思います。それが、ただのアトラクションとしてではなく、いろいろなシチュエーションで使えるなんて話が続くとさらに可能性が広がると思います。
4295 人工的なものを否定してしまうと、「人が手を加える事を否定する」シニカルな側面があることを知ってほしかった。だから、自然と共存できるような美しい人工物を想定することを目指してください。
4297 僕が言ったような人が居られるような使いこなせる部分と、あなたの世界観を色濃く投影した、他を受け入れないような純粋な空間があの小さな空間に共存するほうが、きっと多くの人の共感を生むことになると思います。
4299 僕が見ていないのでわからないですが、メールを見ると、難しいこと。自分の知らない世界に挑戦するところが感じられるので、大西さんの言葉を参考に、複雑に入り組んだイメージが、誰でもわかるシンプルなアイデアで繋がっていることを目指していけばいいと思います。
4303 シチュエーションは、本当にありえそうだし、よいと思います。あの大きさの中で二つの対照的な場所をもうけて、本を読む場所を使う人が選択できるイメージをもって、自分が納得できるかたちにして下さい。空間をつなぐあの狭い場所がポイントだと思うのですが、今のままでは住宅と住宅の余ってしまった隙間みたいで、心地よい気がしません。あの幅。小ささでも人を楽しい気持ちにさせることは可能だと思います。
4305 かなりもやもやしているようでしたが、人工物が、すでに美しい自然とどう融合できるのかを具体的に示すことが、あなたの使命だと思います。雪の上なかにある話ばかりでしたが、同じかたちで四季を通じて存在可能なものを考えるといいと思います。
4307 すでに魅力的な清流に、存在可能なものを考えると同時に、中に入った時に、川がもつ魅力の一つである音が反響することで、普段感じられない体験が増幅されるのは、いいと思いますが、自分の溢れる創意を作り込むことで解決するのではなく、わかりやすくする必要があると思います。造形的な表現でも可能かもしれませんが、ぼくが言うような四角い箱で、その川の魅力を増幅させる意図を解決することも可能だと思います。

建築 | Posted by simon at December 23, 2004 7:11 | Comments (2) | TrackBack (0)

ビッグネスが生んだ建築

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今日は、私の師である高宮先生が、MoMAのレクチャをされました。実際に見ていないので、あれこれ言いたくないんですが、建築を取り囲む話題がとても豊富な建築なので、感じたことを整理するのもいいかもしれない。ビッグネスが生んだ建築と言ってしまうと当の建築家はあまりうれしい気分になれないだろうか。それと、MoMAが持つクレバーさが、谷口建築事務所がもつ建築に対するスタンスと、非常に近いと思いました。プレゼンテーションは、まずMoMAの歴史から始まります。そこで、まずMoMAのクレバーさを知る。オープン前に実写がメディアに出ないことからもわかるように、全てが戦略をもっている。35年にJJPアウト、グロピウス、コルビジェ、ミース、FLライトに、初館設計のための白羽の矢がたつ。僕が思うにこれは、世に対するポーズだったと思う。結局五人とも辞退する運びになり、五人に比べれば、名の知れていないPhilip L. GoodwinとEdward Durell Stoneが、1939年に設計する。今回も、NYでそれほど知られていない、谷口が選ばれたんだと納得させられる。あと、有名な戦略としては、インターナショナルスタイルを、Pジョンソンとヒッチコックが企てたこともその一つ。Pジョンソンはまだ生きているそう(05'1/25に98才で亡くなりました)で、現在もMoMAと関わり合いがあり、今回のアディション(増築を含めた建築の再構築)にも少なからず関係されているというお話でした。谷口事務所が唯一コンペに出し、しかも獲得したという話はあまりにも有名ですが、コンペティションは一つのアイデアで決まってしまい実際建つ建築が良いかは全く別物という、建築に対する想いからの行動であって、今回も辞退するつもりで、ポストへ投函するぎりぎりまで行ったと。これまた納得させられる。(誰が。コンペの辞退を止めたのか? それは、谷口さんがハーバードでお世話になった師だそうです) うますぎる?いや、この仕事をやれば、このくらい言えるでしょう。言いきって欲しいとオーディエンスも思っている。豊富な図面や写真を用いて、charetteから、conceptdesign、designdevelopmentの流れの中で、こだわったNYに建つ美術館ということに聞き入り、それは楽しい時間だった。さいごに、宮本亜門がこけにされたなんてニュースも最近ありましたが、MoMAは、あのNYtimesが絶賛だったようです。それはなぜか?。氏の言葉を借りると、アメリカが持つプラグマティズムと、MoMAの戦略、今、アメリカに新しい建築があまりないという事がそうさせたのではないかと言うことでした。

*写真は、2004年1月時点の写真です。

追記:このエントリーを書くに至った楽屋落ち的な伏線。
今日は、毎度大盛況のtkmyforumでした。会が終わったあと、本音で言えよ!なんて言われ。感性剥き出しだった。感動した(笑)。MoMAのプレゼンテーションを聞いた感想を書く前に、どうでもいいけど面白い話題を羅列。先日の金沢行脚で、20数年ぶりに自分が設計した建築を見て、すごくよかった。と氏が言っておりました。なぜかというと、そのまま使われているとのこと。僕らがあーだこーだ言っている中を、かいくぐって聞いていると、行政が管理している建物だから、当時の川上元美の家具とかも、そのままあるし、いがらしさん(確認がとれたら訂正します。)の白いサインもきれいに残っていると。いっけん、使用が沈殿しているように聞こえるが、おそらくそうではないと思う。丁寧に使い込んでいるという方が、適切だと思う。こりゃ、タイムカプセルだなとか思っている時に、何か言いたそうな顔をしているように見える僕に、本音で言えよ!って言われちゃいましたが。休館日に行き、中に入れてないのもあって、よかったです。なんて言ってしまった。最悪のほめ言葉でしたが、実際よいと思っていたので。細かい見た目の趣味はおいておいて、経年変化好きには、他の視野が吹っ飛ぶくらいよかった。まぁこんなに褒め殺し、してもしかたないんですが、今日は、ずっとほめっぱなしの文章になりそう。いっつも読み返さず一気に書くのでもう先が見えている(笑)。他には、アクセスが多いんだったら、今後のことも考えて、OBからバナー広告代をもらって、レンタルサーバー代運営していけばいいんじゃないか。という話が出ている時、ライブドアの就職試験にblogを作ってアクセス数のカウンタがある程度越えないと、採用されないなんてどっかで聞いたのを思い出しながら、それもあるなと思った。今日の会で二人のOBがプレゼンテーションをしてくれて、どちらもおもしろい事をやろうとしていることが、わかりました。めじろは木造の架構の可能性。みかんは本棚がアフォードする愛着行為と建築エレメントの関係性。そういった意味で良い建築だと思います。完全なる個人的な感想を添えると。めじろのデザインはどこか、わかげのいたりというか。プランやセクションの図形的な収まりがあんまり好きじゃない(笑)。ぱっとしか見てないけど、直感でもっと整理できる気がした。もしくはやりすぎ。みかんのデザインは良いと言いたくない(笑)。それほどかっこよくもないんだけど、あえてモダンに見えないようにしている感じに素直さを感じられないが、筋はとおっているので、代表作がNHK?という感じ。全然認めてないように聞こえる?。帰り道、のんにぴよは、生活が破綻するまで行ってしまうのが危ないよ。なんて、横目で見られ、なにー!と思ったり。僕が一番素直じゃないと言いたいらしい(苦笑)。

建築 | Posted by simon at December 19, 2004 4:54 | Comments (4) | TrackBack (4)

楽しい建築

ローザンヌEPFL大学習センターコンペ勝ったSANAA
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原広司と大江健三郎の講演会に行けた人が少なかったようですね。社会人には厳しい時間だったが学生はどうだ?。ディスクリートの概念は、新しい社会(建築)を示唆するものになるのか。新建築12月号月評にnks architectsが「(〜)金沢21世紀美術館の建築自体を簡単に真似などできないが、この建物の空間構成のあり方を別の建物に移植することは比較的容易である。適度なバリエーションを持つ個々のパーツがヒエラルキーなく集合し、パーツの隙間に都市空間のような隙間をもつ構成。これは、現代の独立した個人と社会の関係に似ている。(〜)長谷川祐子さんは双方向、参加型、共同型の共創という価値観を示しているが、これは現代のリベラルな民主主義理念にも繋がる。(〜)」というような事を書いている。共振作用がどういう回路で増幅するか。興味深い時機に突入したに違いない。と僕の感性は頷いている。難解な概念をひっさげ、制度的な立場で社会を支配しているというスタンスが建築家なんだーとか。思っていた時期、せじまさんのボキャブラリーには、感心させられることがあった。とにかくわかりやすい。建築の内部に入っていない学生には、むちゃくちゃわかる。それは、市民レベルで共感できることを指す。新建築の1月号において、伊東豊雄が、近代建築のボキャブラリーを洗練させることが目的の建築を作っているだけだと、現在の建築の立場を一蹴している。氏はそこで、楽しい建築を作りたいと言っている。ふむふむ。機能的なものが美しいのは正しいし。社会(ここでは、自治体という制度)を批判することも正しい。建築をつくる目的が間違っていたと。僕はコンペティションをめぐる憂鬱で議論した中に潜む、淀んでいて掴みきれない建築をつくる目的が、楽しい建築につながってくるような気がしている。(あのときの議論は、建築に立ち向かう戦略の中でコンペをどう利用するかという事が内的な中心だった。議論を明確にするためにコンペ的な思考に立ち向かうという、表層を持っていた。) 
建築はわからないけど、すばらしいと思える建築が実際にある。この矛盾を打ち崩し、自分を切り開くために、建築が好きだ。(好きだと思いこませるくらいじゃないと建築はやめた方がいいと思っている。)という前提を抱え込み、私的なきっかけから生まれる具体的なアイデアがあって、前衛的な構造が見え隠れしていないか、既存が持つ上位下位を壊せやしないかという視座を持つスタンスが、自分に素直になる自分にうそをつかない境地の中で、どういう規模で自分が自分以外にコミットできるか。そんなことを思わせてくれる写真だ(笑)

建築 | Posted by simon at December 17, 2004 6:31 | Comments (6) | TrackBack (0)

デザインする態度

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ギャラリー間が主催した大江健三郎と原広司の講演会を聞いた。ちらしを見ると大江さんの事が書いてないので入稿後に決まったんだろう。来年、大江さんは70才。その機会に前日、海外メディアの取材を受けたそうです。日本の人は誰も祝ってくれていない。なんて笑いをとっていましたが、そこで、五冊。今日的な話題の本を挙げて下さいという話があったそうで、(30カ国語にも訳されている)「集落の教え:彰国社」を推したそうです。それほど、原さんとは親睦が深く、互いに知的な示唆を与える立場だと言うことが会話の中からも滲んでいました。また、メディアに対してdiscreteってわかるか?ということを会話したらしく、同じ発音のdiscreetは、分別のある、慎重、控えめな、目立たない。というように原さんとは正反対の意味を持っているっ。てな話でまた会場に華が咲く。続けて、縦を切った、横に繋がった民主主義の話とか、政治学者の丸山眞男さんが次の展開として全ての個人が自律している必要があるという、それはアナーキーな状態を生むのではないかという議論の展開がある例えを出し、大江さんの意見としてその次の民主主義として東京に、ディスクリートな10の社会があるとそれらの共存関係はどうなるかと聞いたら。原さんがファシズムを認める概念なんだなんて事を言って、大江さんが共感出来ないとか(語弊があるといけないので補足すると、彼曰く長い時間の中の一つの断面としてファシズム的な現象もありえるということを言いたかったらしい、ディスクリートな現象は長いスパンの中で展開しないと意味が無いなんて事を言いたかったようだ)。戦後食べたケチャップは民主主義の味がしたなど楽しい話題が次々と展開する。最後に、原さんがトイレへうろうろしているとき、大江さんが一人でディスクリートの事について話をまとめる方向へ、今年は二つのドアが印象的な年だったということにしようじゃないか。ひとつはお金をたくさん持っている、なんとかドア(livedoor)が、球団を買おうとしたこと。もう一つは、コネクタビリティとセパラビリティが共存しているディスクリートの概念を持って、未来のドアを開けようとしている、あまりお金を持っていない原さん。ね。(従前なる概念のひとつの具体性として、ドアが限度のある多様な連結可能性を開くという話が前にあって)最後にどっと沸く。当然原さんは苦笑。スライドはたくさん用意してあっただろうに、建築の具体的な話はとんとなかった。空間の現象で話す言葉と論理を用意することが自分のライフワークと語る一人の建築家が、概念はオープンソース的なものだということを、なんども言っていて、その概念によって具体的なものとなった建築を語ろうとせず、思考が介在するひとつの概念にすぎないんだということを全体として言っていた気がする。建築を言葉で覆い尽くすスペシャリストなんていないし、言葉のない建築なんてものも存在しない。建築を建てるという行為が、人を動かす概念を示唆出来る美学なんてものがあるんだと強く訴えられた二時間半でした。

建築 | Posted by simon at December 16, 2004 5:26 | Comments (5) | TrackBack (1)

図書館@金沢

玉川図書館フォトコンテスト参加
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読売新聞によると、たばこ工場を再生した近代史料館[別館]と、[本館]の二つで金沢市立玉川図書館になっている。ともに谷口事務所監修。異種の建築をつなぐ部分というのは、建築を見るときの醍醐味の一つだと思うのだけど、これは見た目もいけている。再生というと、ギブスっぽいビジュアルが目につくんだけど好きな感覚。構造的に連結しているかまでは、分からなかったが、動線は連結しているようだ。実は、月曜日に行ったので中に入れていない。

外装の鉄板の内側は、別館と同じ煉瓦です。
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建築 | Posted by simon at December 15, 2004 21:21 | Comments (0) | TrackBack (0)

窓ふき

京都駅とシアトル中央図書館
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メンテナンスの視点で建築を見ると、たまにおもしろい発見がある。ものとしてのサスティナビリティをまじめに考えると、自分がつくりたい建築を妄想しながら、こんな風景もを浮かべてしまう私。高所が苦手なので見ているだけで十分ですが(笑)

別のアングル
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建築 | Posted by simon at December 15, 2004 3:11 | Comments (0) | TrackBack (1)

都市と住居をつなげてみる

牟礼
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不穏な空。大地に参加する墓。崩れないように積み重なる石。奥へのびる道。浅い家型の家々。粒の細かい土色。車。それらがまとまった三色に見えるボーダーの構図の写真。感性の露出していないblogへの警鐘が届かない昨今。徹底抗戦するか。大川先生が最近、象の富田玲子さんの家に行かれたらしい。なんとM1住まい。藤森邸は、すでにないと聞いていたのでぜひ見てみたい。富田邸を見て、ここまでと言わしめるまで使いこなしている。という話を聞くと、ぽ建築は、M1が持つ構造と比べて、大げさな視座の上に立とうとしていない。建築という技術を世の中で使えるところにあてがっていこう。建築という規模を裁量する中に見いだす感性をあてがっていこう。という、ところなのだろうか。否定的に書いているが、どちらかというと教祖的なシンボル性が気になって書いている。稲垣栄三の朝日新聞に載っているコラムに、座敷の喪失は手作りの創造的な儀礼や祝賀の機会を住居から奪い、住居における祝祭と呼応した高揚が、リズムとなって都市の祝祭的な賑わいに繋がっていたと指摘している。おもしろい。建築と言うまでも住居に対する愛着行為が、住まいの中のヒエラルキーを伴う中で、座敷に物を置かないドメスティックランドスケープをつくりだしていた。そのコラムの始めに、「近頃の平均的な都市住宅は、居間 食堂 台所を中心として、六畳程度の広さをもつ個室がいくつか付属するという形にほぼ定着したかのように見える(〜)ひとまず快適な生活を送る条件が整う。その上で多くの家庭用電化製品、家具そのほかさまざまのモノが配置され、部屋の機能と利便性が一層明快に発揮される。住居におけるモノの氾濫は最近の住居で無視できない傾向であって、生活空間は建築によって与えられるよりモノの種類と配置によって決定されているといっても過言ではあるまい」と書いている。どこかで聞いたことあるフレーズだが、煮え切らないユニオンのコンペ案を見ながら、んー。機能的な欲求から生まれたものを整理することよりも、かつての住居が持つ祝祭性を壊したような、社会の大きな枠組みを変えられる提案が出来ないかと思ってしまう。今、M1のような箱の家をつくっても、モダンなように見えるモノがいいとされている風潮にのってしまうだけで、室内風景は良くならないし、案を見ていると室内風景をつくることが前倒しで、住んでみたいというのとは話が違う。元倉さんのを見ると象徴的にはめているだけ話が違う、コストも高い。愛着があれば→モノが整理されるという単純な図式でもないし。空間を作り込んでいく→愛着を持つというのも、建築の規模を規定してしまう気がする。課題で、創造的な手作りの祝祭性が取り扱える規模の建築を提案したいのかもしれない。都市と住居の空間を繋げて考えるのは楽しい。

建築 | Posted by simon at December 7, 2004 17:30 | Comments (2) | TrackBack (0)

市民のターミナル@時雨の広坂

「21世紀の出会いー共鳴、ここ・から」@金沢21世紀美術館で感じたこと。いいものを体験する意見を言う。本当に、こころとからだに内在している感性を、二重の身体(原始的な肉体としての身体と情報としての身体)を行き来しながら揺さぶられた。

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円を構成するガラスは意外に単調。プランが可能ならば外部の貫通通路などを通して表情をつくってもよいかと思った。コンペ直後のイメージで、せじまさんが言っていた、自由曲線の方がよかったのかもしれない。鬼石町のプロジェクトはコンペ時とだいぶ変わったが、ガラスの曲げパターンをいくつかつくりコスト的にもクリア可能な曲面を描いている。メインアプローチおぼしきところは、アクティビティーが豊かなライブラリーやカフェが配されていて耐えられるが、裏が丸出しになっているところも少なくなかった。また、見通せる通路のプロポーションで決まったであろう天井も結構高く、その高さでファサードのガラスが構成されおり、遠くから見るとちょっとめざとい。風景が映り込んでいると言うより、内部で多用されているガラスとレイヤーをなしてしまい、くすんでしまっている。抽象的な白は、ひたひたと音を立てるように汚れ始めている。メンテナンスが大変そうだ。インテリアも気になった。今後使い込んでいく中で解決する程度かもしれないが、チケットカウンター周辺はなんだかおちつかない。地下はふつう。いくつかある中庭から眺めるとアートが展示されていないアングルも多く、アートがあってというのが成功しているとも言えるが、建築がもう少し自律できたのかとも思う。中庭もガラスがうるさい。空間に潜む狂気は察することが出来たのか?初めてタイムリーな状態で見たので、正確にはわからない。突き抜ける瞬間を、ブレのニュートン記念館を喚起させる112.5mという円の巨大さが、全てを飲み込んでしまったのだろうか。もっとよくなるんじゃないかと想像をかき立てられる建築だ。

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建築が良いという印象よりも、いい美術館だということを感じられた。休館日も開いていて、有料の区画以外は自由に入れる。金沢も美術館の建つ城下町が栄えており、僕は無料のロッカーに重たい荷物を置いて、トイレや、休憩に美術館に戻っていた。ここが、行動の起点となるようなパターンを自然に演じていた。夜は10時まで開いていて21世紀と、いうだけある。今後、みんなさわっていた無料区画の展示物の破損や、あまり好ましくない方が住み着いてしまう事によって、その魅力を収縮して欲しくない。「広坂芸術街」というタイトルでコンペを行っただけあり、開かれているのはいいのだが、中心の有料エリアの外側に、無料エリアがあって、さらに外側に休日立ち入られないところがあったりと、中に入ると妙に閑散としている感覚がさみしい。休館日も一番外側にあるカフェとライブラリーを開けて欲しい。一方、日曜日の昼間。(僕にとっては)かつて遊園地に家族連れでくるような感覚で市民が集まっていた。体験的な展示が多く、列をなすこともあり、はじめはあまり集中できなかったが、夕方以降は、家族連れが引き楽しめた。休館日に入れることを知らずに急いで見たところもあったので、もう少しゆっくり楽しみたかった。静寂と喧騒。雨天と晴天。夜と昼。建築が持つポリフォニーを街の体験の中で連続的に感じられ、この経験は貴重だった。

GAのプレオープンの写真にミツPコが載ってる。
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*補足1 この時期、日本海側で雨が降ったりやんだりするのは「時雨」と言うそうです。
*補足2 21世紀美術館のHPを見ると、有料ゾーンだけが月曜日休みのようです。他のサービスは10時〜22時まで。
*補足3 建物の高さ4mは、二辺支持で自立できる大きさのガラスと作品の搬入に必要な高さから決まったと建築文化で述べています。

建築, art | Posted by simon at November 23, 2004 19:00 | Comments (15) | TrackBack (10)

矩形の森

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矩形の森をさまよう。貫通通路が場所のイメージをつくると思いきや始めは結構迷う。ガラスとアクリル間仕切りの取り合い。ガラスと天井の取り合い。

建築 | Posted by simon at November 23, 2004 18:38 | Comments (0) | TrackBack (0)

建築と風景が乳化する瞬間

天候がめまぐるしく変わる中、垣間見えた瞬間。
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風景が映り込むガラスと、雨上がりにタレルウィンドウが写り込んでいた床石。

建築 | Posted by simon at November 23, 2004 18:22 | Comments (3) | TrackBack (0)

新潟の冬@キョロロ

新潟の冬は、並の雪量でない。

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雪の耐力を考えて、水族館のようにアクリルの開口部にしているというこの建築。コンセプト通り歩いてみた。

建築 | Posted by simon at November 16, 2004 6:11 | Comments (2) | TrackBack (2)

新しい建築を目指す行為

建築の界隈を紡ぐ瞬間に出会えるかもしれない。そんな期待が金沢にある。美術手帳が、建築を特集すること。象徴している状況の一つに思える。SANAA自身、「広場」というある環境の状態をどうやって空間化するかという事を熱烈に述べている。また、新建築11月の月評に太田浩史が、建築家が実践者であることをやめ、解釈者の位置にとどまるのか。という表現が非常に今ある状況を捉えている気がしている。建築が単体で完結する社会性だけでなく、既存の環境を読み解くことで、デザインという実践(アイデア)によって、社会にひとつの回答をしめす。「都市と関わっていく」時期が来たと。実際、横浜のリサーチを通して僕も実感している。横浜の場合、巨大な空地を持てあましている。今まで、建築家が都市計画を放棄、民間が責任を負い切れず、行政に投げていた。今日、都市スケールの実践を行政が抱えきれず、現代的状況という事実が破綻を立証している。

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今回飯田ユニットで、直接空地に介入し街を創造するプロジェクトから、見過ごされている場所を持ち上げることによって都市を循環させるプログラム、横浜的なソーシャルハウジングの持つ構造を都市に還元するプロジェクト、巨大なスケールを置換して、街の転用をはかるプロジェクトなど、さまざまな都市的な介入がリアリティの温度を持って、実践への足掛けを作ろうとしている。新しい建築を目指す、個人的な発想は、見る物も、実践する側も、使用者も楽しくさせるんだ。

写真:JR新八代駅前モニュメントきらり
設計者:乾久美子建築設計事務所
所在地:熊本県八代市西片町
竣工:2004年

建築 | Posted by simon at November 16, 2004 4:54 | Comments (3) | TrackBack (0)

サスティナブルが持つ視座

野沢正光さんのトークは相変わらず引き込まれるなぁ。また、来年から戻ってこられるということなので、それだけでなんだか楽しい気分になる。そういう影響力のある人間になりたいものだ。さてさて今回のトークを楽しみにしていた理由として、個人的にこれからの建築を仕掛けていくには、サスティナブルな視点は必要不可欠な要素だと思っているからだ。話題の中で、やや危なかしく出てきていた、客観的な性格を持つ工学的な視点。それを振りかざして、デザインが持つ主観的な発想を阻害してしまいかねないサスティナブルという言葉のイメージ。そんな緊張感の一方、魅力的な個人的な発想なしに工学的なメリットは魅力的に見えてこないということは絶対に言えると信じている。野沢さんが挙げていた、ボンに建つポストタワーにおけるデザイナーの地位が喪失した感覚。少し勘違いを生むのではないかと、はらはらしながら聞いていた。モダンが近代化を貫くことによって、それに対応するような思想や運動が起こった。サスティナブルな建築が目指すところ、インターナショナルに背負える共通のキーワードなんだが、コルビジェのパリボアザン計画が、正しいとも思えるような現在まかり通っている総合設計制度にうんざりする残響感は、否めない。また、モダンに対する反動を手がかりにすることも僕は違うと思う。サスティナブルなデザインは、席巻できるキーワードでありながら、地域的な影響を受けながら、解決する規模や、回答を見いだしていくという、根底に流れている理解があることに可能性を感じている。話を聞いていて思い出した小嶋さんのハノイは、サスティナブルな視点を建築にフィードバックしているというより、どこかモダン的な一刀両断したい感覚の香りがする。スライドにも出てきたヘルツォーク的な研究・開発・設計が一体となって仕事を展開する。その建築が持つヒエラルキーが、建築の界隈を広げようとする推進力になっていると思うのです。

建築 | Posted by simon at November 13, 2004 21:55 | Comments (1) | TrackBack (0)

コンペティションをめぐる憂鬱

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完敗の結果で八代の夜にうち放された四人は、がべ氏を連行して七時間近く監禁。前回のツアーに比べると違った意味でテンションの高い、内容の拡散した話題がのどを通る焼酎を熱くした。乾さんがどうぶつのようにかわいくステージ上で跳ねている自由さに心奪われつつ、近代建築が取りこぼしてきた、何かをキープしているという言葉でわかるように、伊東氏の戦略的な一撃は、鮮やかすぎて僕には到底理解できない。彼曰く、スタイルではなく、デザインする作法に、近代を越える何かがあるのではと言いたいらしい。建築的な思考の支配がないものを指し、それがあるものと比較して、大切にする必要があると言ってしまった。デザインコンペじゃないでしょ今回は。とまで。まぁ、壇上にも上っていない僕には、なんの権利もない歯がゆさしか残らないが、もさもさしたビジュアルの一石も投じない彼らには、僕は何かを裏切られた気がしてならなかった。反骨のバネよりも、支配的な観念から見下ろしたいと、未だに思っている人には、とてつもなくつらい空間だったのは確かだった。(笑) 一転、翌日は、気分を変えて、組み体操をしたり、アイドルのおっかけをしたり、はらまわりのエネルギー消費のためにランニングしたり、それなりに満喫。集合住宅は視線くらい抜けている方がよさそうだ。しもんの作品と対峙してある工事中のユートピアが語りかけてきた。

LINK:砥用町林業総合センター

建築 | Posted by simon at October 26, 2004 16:05 | Comments (14) | TrackBack (1)

扇動者のつもり

熊本県いぐさ・い製品の流通状況によると、いぐさ生産農家が出荷する75%は自ら畳表の加工をしているようだ。原草販売は、残りの25%。さ○もとくんが気にしていた、県外移出は、25%中のたった13%。付加価値販売が主流なのは、想像がつく。あさみは、子供の名前をいぐさにするらしい。て○か夫妻のぶな、みたいな感じか。建築家は、こうじゃなきゃねみたいな話をがちゃがちゃ昨日していて、結構気分がよかった。ネタの中心は、コンペの下のパースがわかりにくという指摘を受けて、無理矢理納得してもらうプレーに走ったのだけど、見る目があるなと感心。続けて建築はなんで、はこものって言われるんだとう話にうつり、どっかでスティックしたものを思いだした。[建築ってどうして四角いのばっかりなんでしょうね,という質問があり。隙間なく空間を充填することが可能な立体のうち,いちばん簡単なのが直方体だから,とまず答え,なぜそれが「簡単」なのかと言えば,人間というか脊椎動物のシンメトリーな身体にとって,前後左右上下ってのは根源的な六方向であって,それぞれに面が対応する直方体はとても自然に認知できる形だからじゃないか。]あと、テンセグリックとテンセグリティの違い(ちなみにどっちかが自立的で他方が他律的。自碇という言葉があることを知る)。ワークショップって怪しいとか。建築家は政治を背負う位の方が楽しいとか。無茶な話で盛り上がる。何が正しいと整理するより、ぶつけて分解して、反応を楽しむ行為が、楽しい。

コミュニケーション力 斎藤孝著より
すべてのトラブルは、具体的なアイデアによってのみ乗り越えることができる。
アイデアを批判するには、よりよいアイデアというのが本筋。

建築, 日記 | Posted by simon at October 22, 2004 14:36 | Comments (0) | TrackBack (0)

街の幕引き

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昨日まで営業していたお店が突然店を閉めている事実を目のまえにして 街が消えるストーリーを考えることは長い時間の中でリアリティのある事だと感じた。 アーケードはお店が並んでいることを前提に備えつけられたもので雨をよけて買い物をできるというメリットしかない。護岸のような土木的思考の構築物だ それ自体に関与する余地はない。商店自体は街に点在していて、目について空きを抱えたアーケード街にとって、維持することを考えると足かせにすら見える。群れになっていることで、にぎわうという幻想は、もはやはがされている。沈殿してしまっている街の気質を、サーキュレーションする発想が求められている。建築が本来的に備えているストラテジーと、アートが持つ事件性の間で切り口を探す。写真はおおまえがさ○もとくんに頼まれた写真をとりに走り回っていた場所。

遺構, 建築 | Posted by simon at October 13, 2004 20:44 | Comments (0) | TrackBack (0)

DERIVEに魅せられる

テトラポットの展開図。釜山ビエンナーレの中村政人さんの展示を手伝った時、スタディとして提出したドローイングに手を加えた物。
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コンピュータのシュミレーションのように詳細かつ正確に検討される軌跡。僕も好きな恣意性の排除された空間。物事を記述する手法のひとつとしてあるDERIVE(軌跡)の始まりは、モダニズム全盛時に、シチュアシオニスト・インターナショナルに代表されるような女学生が動いた軌跡やドゥボールの裸の都市のような、歩行者の感情の起伏やストリートの特徴のディテールの集積など、合理主義の取りこぼしの復権、ケヴィンリンチの都市のイメージにも通じる主観的な都市像を客観化した手法だ。その魅力的なドローイングたちが、今にいたるまで派生物を生んでいる。中村さんとも、今回の釜山での展示とは文脈が違うが、これはこれで美しいよねという会話をしていて。僕的な小さなきづき(回想)でした。

建築, 趣味, art, portfolio | Posted by simon at October 3, 2004 23:58 | Comments (3) | TrackBack (0)

上野毛の家

デザインワークショップ。一週間かんづめで住宅の設計をやりました。

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適切な空間という不的確さを貫く強い形式を欲した。
アクティビティのイメージが主張することへの不満。など批判的なことがもりもり。
ただ、共有できるよい風景(イメージ)を発見出来なかったので、そこまでやりきれていない。
あるアイデアに向かって、詰め切ると次の展開が、続き間のようにでてくる感覚にスタディの徹底という事を学んだ。

建築, portfolio | Posted by simon at September 13, 2004 21:50 | Comments (2) | TrackBack (0)

梅林の家のじつはのところ

そもそも建築家がなにをもって建築家なのかは決まっていない。
ちょっといじわるに一般化してしまえば、
都市への事も、都市でのこと、現代的なテーマ、どれもを素通りして、
ただ、室と室がどうくっついているかといういう話に始まりそれに終わっている。
確かに、新しい。確かに生活が想像できる。
悪質な言い方をすれば、せじまさんはセンスの極みの頂点。とぎすますタイプの建築家。ただ、女性だからだろうか(笑)とぎすましすぎない。様なふりをしているのか、本能なのか。
まぁ、そこは、自明的なところで、議論にはならない。
話のついでに、建築家が建築家としてやる仕事ではないと50年代後半の時点で、言っている磯崎なんかは、やはりきれきれだ。(「現在の小住宅の設計というのは、せいぜいそれくらいの利用価値としての前衛的な歴史的対象としての前衛的な歴史的使命はすでにおわってしまった。設計の対象として問題にすべきものは、もうほとんど残っていない」)僕もどちらかと言えば、この意見に賛同していて、住宅だけをやっていって、自分の理想や追求は物足りない?!目立ちたがり屋で恥ずかしがり屋だから?困った(笑)
せじまさんが、新建築のインタビュー最後のほうで、スタッドシアターのプランを発見した時にそれを、断面的に使いたいと思ったといっていて。勢い任せに言わされたのかなぁとおもったりしながらも、どこが断面的にいっているのかがちょっとわからない(現時点では)。どっちかというと断片的?

そういえばどっから小住宅っていうの?扱えあるパラメータが極端に少ない建築のことをいうのかなぁ。今日、高宮さんにやりたいことありすぎて、一個でいいんだよ。小さいんだからと言われました。

建築 | Posted by simon at September 10, 2004 19:33 | Comments (0) | TrackBack (0)

ルイヴィトン

毎日新聞の写真を拝借。
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昨日のスマステに村上隆が出ていて、ふつうのおっさんだった。
ルイヴィトンの特集のようで、青木淳もさらっと。スマステ風のプレゼンで出てきた。
NYや並木通りのルイヴィトンを見ると、かつてのような異様さが無くなってきた気がする。
消費の中でデザインすることは、そういうことなのか。
GAを見る限り、設計の話自体は、芸の域だな。
隆が、二年前のパリでやっていたカルティエ財団の展示を思い出した。
このまま新手のジャパニズムというレッテルを引っ張る?のかな。
僕が知ったときは、すでにビックになっていたので、それという愛着はわかない。

建築, art | Posted by simon at September 5, 2004 10:03 | Comments (0) | TrackBack (0)

気に入っている梅林の家

梅林の家について考えたこと。
・ヒエラルキーが住まい手によって移動可能な、選択できる自由さを獲得している。
・小さなということに対して、適切な大きさを鉄板の薄さでつなぐということで、回答している。
ただ、掃除しにくそうな、というイメージからくる枠のようなしつこさ。特にベットが置いてある部屋に対するベットというボリュームが不健康な不適切さを連想する。また、住環境として快適なのか。あつそうさむそう、という点はやはり気になる。冷暖房が全ての部屋についているわけでもないし。
今回の住宅で、一番気に入っているのは、建築を図面で表現する場合の、前衛的な歴史的使命を果たした点。本能的に脱帽ということですね。

建築 | Posted by simon at August 29, 2004 4:22 | Comments (0) | TrackBack (0)

身体のある空間とヴァーチャルな空間のあいだ

この前、二年生後期の課題をネタにして
3人の建築家にインタービューを行った。
はっきり言って、
建築的にどうおもしろいか。という話は無理難題である。
目的は課題集を見る学生たちが、
今後よい空間を共有していく、きっかけを持って欲しいことにつきる。

CIMG0998.JPG

現在、つくっている課題集にも書くつもりだけど、
建築を。まぁ何かを作ろうとしたり、訴えたい時、
扱って行くとおもしろそうなパラメータを、
幾つか同時に展開していく勘を効かせなければいけない。
それは始め非常に断片的で、意識的に操作しないといけない。
僕は僕としての興味ある建築がもつ構造のテンションがある。

結果には、自分の操作を越えて、
感情的なことや時代性、暴力性、執着性などが無意識に付いてくる。
後に、その結果が意識化される事もある。
その無意識な反応のみによって、構築していると見失い、
批評される時、他の文脈に回収され、自分の思考が蓄積されていかない。
今回のインタビューでは、学生が課題を操作するきっかけとして、
自分の経験が、よくもわるくも空間に反映されているという話題が共通して出ていた。
代官山に作る集合住宅の部屋の作りが、公団を彷彿させるものだったり、
明らかに美術館に行ったことがないような、作品と人の距離だったり。
鈍い身体感覚が無意識に出てしまっているテンション(=意識的な操作)のない中で、
作品群を大きく二つに大別した。
「自分の周辺」で想像しやすい距離から始めたものと、
「全体の構成」で精魂尽き果たしたもの。
ちなみに、当時僕は後者のタイプだった。(笑)
結果的に出来たモノが、ある一定方向にしか見えない。というのは、非常に貧しいのだが、
この二方向を同時に意識することで、かなり視野が広がる。
前者は、まさに身体の経験からの空間で、
後者は、経験を越えたヴァーチャルからの空間の一つと言える。
身体のある空間は、何となく正しいことを言っている気がする。
では、ヴァーチャルな空間は嘘なのか?
インタビューの中にも出てくるが、
例えば自分より明らかに裕福な人の家を設計するとなると、
そこにある生活を想像しなくてはならない。

すなわち、パラメータを操作するには、ある一定の両端を意識する必要があるようだ。

建築 | Posted by simon at August 20, 2004 17:23 | Comments (1) | TrackBack (0)

無目的な空間

日田市のコンペを議題にしたゼミの中で、
今村案の小ホールが、無目的な箱として、評価出来るという点で、
まとまりのある説明が出来なかったので、
自分のためにも補足すると、
実際のところどこまで考えて、
”スポーツが出来る小ホール”という、しつらえを用意したかはわかりません。
しかし、従来の劇場という形式を崩す。という姿勢と、
一様な公民館的無目的空間ではなく、
小ホールと言ってしまい、スポーツも出来るという言い方は、よい無目的な空間を目指す表現の一つ(ほんのわずかなきっかけ)だと思いました。
ナスカ案のように、誰にでも魅力的と、たやすく想像ができる、屋上という無目的な空間を作ることもあり。
まぁ、あくまで、僕個人が無目的な空間をどうやったら、魅力的な環境にレイアウト出来るか。と言うことを考えているので、書いてみました。
今のところの、言葉の上での整理では、
無目的な空間の目指すところ、
作る側ではなく、使う人がいかに空間を実践できるか。という、ところに視点があり、
現在のリノベーションブームをきっかけに、
メディアが興味を持ち始めたことを利用して、
外から空間に参画することを売りにした、建築家のたち方を、もっと際だたすことはできないかととも考えられないかなど。
新しく見えることは、建築家の責務だという前提では、
その建築が、否定的に見られるかもしれない。
ただ、やれる余地があると僕は思っている。

劇場建築の割合の目安として、
機能を目的として目的的空間55パーセント
機械室10パーセント
残りの35パーセント。
その余白を、どんだけ魅力だと言っても、獲れそうなコンペの質ではないですがね・・・

建築 | Posted by simon at May 11, 2004 21:26 | Comments (0) | TrackBack (0)

場所という素材性

場所の素材性としての差を二者の間で考えてみる。
国際フォーラムを建てること。と、丸ビルを建てること。
僕は、前者の建築がよいなと最近よく思う。
フォーラムはニカフのドキュメンタリーの時、べったり浸っていたので、僕なりの愛着があるが、それを差し引いても、断然いい。
同じ開発手法が、丸の内を占拠している。
(丸の内に蔓延している総合設計的な周りを空けて、縦に積むという考えは、シンボルな形態で主張したいコルビジェから来ているお話。輝く都市をぶちあげて、アテネ憲章に刷り込む執着心が、インターナショナルに展開していることが実感出来てしまう街でもある。)
敷地の形状と設計者が違う事のみが、価値となっている街であると同時に、丸の内で国際フォーラム的なアクションを展開するには、都合の良いフラットな状況であった事は、想像するだけで快感である。
実際、昼休み時などたくさんの人がお弁当を広げたりするのを見るといいなと思う。

◎をめぐって妄想したこと。

二者の場所の素材性としての差は、
コンテクストを作ろうとしている白金台。
コンテクストの崩壊をうたう大手町。

白金台は、偶然、区の歩道拡張地域にぶつかり、現在前面道路が空白でとまっている。
オープン時に同時に出来上がるタイミング。
かつ、カフェが同じ通り沿いに全く無い。
通りの通称名もこれからつくであろう。(前面道路にぶつかるプラチナ通りとか言うのが有名)
◎が象徴になり得る位置にある。

大手町は、テナントが、出店する時、契約上現状復帰という項目がもりこまれ、
これが、くせもの。
へんてこなガラスサッシがついていて、取っ払って、営業する勇気が皆ないのか、
そろいも揃って、同じ規格のサッシによって、廊下の両側の面が構成されている。
はじめ見たとき笑ってしまった。
三年で取り壊すことが決まっていることもあり、
取っ払うことによって、差異が生まれることを想像することはたやすい。

建築 | Posted by simon at March 4, 2004 1:52 | Comments (0) | TrackBack (0)

新しい建築を目指したい気持ち

個人的な思考性の中で、建築にどう立ち向かっていくのかを個人的な見解で考えた安中シリーズのラスト。

1-direction

・敷地全体に目指す空間の質は「匿名性のルール」を持ったもの。
・行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり 「行為という表現」をフラットに受け入れる「匿名性のルール」をもった質を「うれしい環境」と呼ぶ。
・「うれしい環境」は 誰もいない風景(=ルールが発生していない状態)⇔集団がある風景(=特別なルールをもっている状態/イベントなど)という両極を内包できる 質を持つ。両極の内に収まる曖昧な状態を 日常的な風景と呼び。中間的な層 曖昧な状態 とも言い換えられる。その日常的な風景が「匿名性というルール」を持つ。

・曖昧な空間は 屋外から屋内のグラデーションスケールが定まらない状態。
・曖昧な空間は 森の中を歩く時のように 人々に様々な要素を与えてくれる。自然に知性へ刺激をアフォードする質を持つことにより 同じ世界の中で 見え方を変える事が出来る。
・曖昧な空間は 外部空間を離散的な範疇で規定(レイアウト)する事で (グラデーションスケール)フレームを獲得出来る。よって 曖昧な空間の中で よどむこと サーキュレーションすることを 行為者が 連続的に行なっていく中で 複雑な環境の中に 「匿名性のルール」を見つけ 全てのヒエラルキーを対象とする「行為という表現」を選択し 獲得する。
・曖昧な空間は 「もりのがらす(暫定)」 と呼ぶ。(機能名)

・「もりのがらす」 には 今日の建築家が理解し使用するような意味でのプログラムは全く無く 外部に規定された曖昧な空間という質に含まれている「匿名性のルール」の中で 「行為という表現」を受容する。

・唯一の機能として ヒエラルキーの高い表現を展示できる 屋内空間を 高層化によって獲得する。
・高層化される機能は 半屋内という状態の地上から 離れて行けば行くほど より屋内的な空間へ向かうことを意味する。
・いわゆるビルディングタイプの美術館が 開くということに関連して 機能を選定する。これからの新しい美術館のありかたへ向かう。

・曖昧な空間は 予測不可能な 今後へ 解答を連ねる事が出来る。独立壁を立てれば目的空間を獲得できること。

・建築の強さは 規定される外部によって崩れない。

2- suggestion

・「行為という表現」の場
   →高い順位に芸術があり、展示できる機能を持つ。
   →「即興のコミュニティ」の中にあるコミュニケーションを記録保存し、発信する機能を持つ。
   →「もりのがらす」という機能を持たない部分に全ての表現のヒエラルキーを内包できる余地を持たせる。
・「うれしい環境」という読み替え
   →「匿名性のルール」という質をもっている。

3-extra

「匿名性のルール」について

「ミース」
コンクリート造オフィス1922
煉瓦田園住宅1923
コンクリート田園住宅1924
ドイツパビリオン1928-29
ブル丿チューゲンハット邸1928-30
1924年に建築とその時代における関係を次のように指摘している。
「ギリシャ時代の神殿、ローマ時代の会堂、中世の大会堂は私たちにとって個々の建築の作品としてよりも時代全体の創造物として意義深い。これらの建造物の名前を詮索する者があるだろうか。本来こうした建物は非人格的であり、それぞれの時代を純粋に表現したもので、まぎれもなくその時代のシンボルとして意味がある」

「現代芸術」
芸術が一部の飛び抜けた天才のものであると考えられていた時代、芸術の現場が、造り手と受け手を分離していた時代には、特権的なものであった。
例えばゲームのルール。
複数の人間によって受け入れられることなくして成立しない。実際、トランプのゲームをサッカーのゲームも、作者の名前は分からない。これほどの無名性の中にありながら、これだけ多くの人間達がそれをたのしむことが出来る。
匿名であるからこそ、誰もがたのしめるものである。
そこには社会的な公共物といしての著作権が、きちっと倫理をして組み立てられているということ。
社会に開かれた表現 自己から他者に向けて 共振する芸術のありかたを現代芸術は探っている。
もしかしたら 作り手も受けてもない平坦な 複数の人間が参加できる環境が 創造の現場かもしれない。
そのヒエラルキーのない状態をどう言った方法で解消してゆく事が出来るのかが わからない。
そのための模索が必要である。

「ミカングミ」
場はフィジカルな環境だけでも生まれないし
そこを運用するソフトだけでも
そこにいる人たちのキャラクターだけでも場は生まれない。

まじめに対応してくれたshinyaさんに感謝です。

建築, monologue | Posted by simon at July 6, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

即興のコミュニティ

1 direction

1-0 即興のコミュニティ

a コミュニティの定義
コミュニティとは自分を含む集団の事を指し
集団の他者と自分との間に同一であると認める事が出来るような特徴があれば 自己のアイデンティティと呼べる。

b ここでのコミュニティ

従来のコミュニティは 地域や家庭というドメスティックなフレームの中で強固に成り立ってきた。
質はともあれ 現在のコミュニティは個人が 想像の共同体(社会)に直接開く距離に至っている。
それは 学校であったり 会社であったり 部活動であったり
従来の物理的距離というのは 今も(IT革命後も) フラットへ向かっている。
そんな中 自己のアイデンティティを 急速的に 時には強制的に 見いだしているはずである。
ここでは それを即興のコミュニティと呼び
具体的には家族から 学校 地域 会社を指し
健全なコミュニティほど積極的に 利用できる→自己のアイデンティティを主張し合える→表現(アクティビティ)ができる場を作ろうと考えている。
014.jpg
1-1a 今回の敷地でどのような風景を想像しているか。

誰もいない風景と集団の風景という
両端を収めるものを考えている。(即興のコミュニティ=両端)

1-1b 両極(即興のコミュニティ)の中間体として、日常的な風景を挙げていく。(ワークショップで提案してもらったり。)

敷地にたくさんの日常的風景を想定して
そのスケールを木でプロットしていく。
(例)
子供がサッカーをするのに楽しいスケール→高速の下
親子がバトミントンをできるスケール→家の前の道路
鬼ごっこするのに適当なスケール→団地

1-1c 即興のコミュニティ(日常的な風景/だれもいない風景/集団の風景)を 木とガラス によって獲得していく。

コンペ時に提案することは
・日常的な風景→規定される屋外(木とスケールとガラス)
・誰もいない風景と集団の風景→曖昧に横断的に利用される屋外と屋内と半屋外。
以上 二項の関係性で建築ができることを提案する。

1-2 テーマ

「もりのがらす」

1-3 キーワード

・土臭いガラス(ガラスの新鮮な使われ方)
・場を行為者によった ヒエラルキーを持つ建築的自由度(建築が受動的へ向かう事への拒否感)
・外部/半屋内/内部の関係性がシステムとして増改築の幅が効きやすいものを求める。(森のような未完景を建築する)
・フラットな社会における 建築のアイデンティティとしてのランドマーク(新しいバナキュリズム)

2 suggestion

屋外を規定する。
余残に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく。

3 extra

3-1ここでの建築→うれしい環境

a 人にとって
建築は日常的で他愛のない習慣的行動のなかに埋め込まれているとするならば
ここでいう建築 に向けられるアイデンティティ(自己同一性)は
行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり アクティビティをフラットに受け入れる建築を うれしい環境と呼ぶ

b 社会にとって
誕生までは 記憶をデザインするという事があって
ここに建設されるものが消える時点で
しこりなく消すことができるシステムが埋め込まれた環境を作る事も含まれる。(アンボンド構法/リサイクル)

3-2 アクティビティ

アクティビティを 行為者のひとつの表現と捉えれば
その表現は 場を探し 場をつくることから始まる。
例えば
行為が行われ 行為に轍が残せるよう 写真を撮りたくなるような風景を建築が提案をし
変容し続けるウツロイの空間を記録して 記憶にとどめてもらえたら
結果的に うれしい環境になる。
行為者にも建築家にも。
015.jpg
3-4 システム

「規定される外部と曖昧な内部の関係」というシステムの提案だが
システムが均質を持つのでなく
システムが 行為という表現 を受容する。

shinyaさんからのコメント
言葉の説明に一つ一つ反応するよりも、後半の部分から、つくられるであろう建築の姿を想像することから始める。
「屋外を規定する。/余残(残余?)に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく。」とある。つまり、敷地いっぱい、もしくはそれに近い範囲を1つの建築として領域化して、その内側に「屋外を規定する」。敷地外との領域化は、ガラスの壁をたてて行うということだね? 屋外以外の領域には「半屋外と屋内の群」が設定される。「規定される外部と曖昧な内部の関係」ともある。この「半屋外と屋内の群」が「曖昧な内部」であるならば、半屋外と屋内は何によって分けられる? 屋根は掛かっているが、半屋外は外気に触れており、屋内は外気から遮断されているとする。そうすると、その区分けはガラス(もしくは壁)で行われていると考えられる。「屋外」が屋根が掛かっていない外部、「半屋外」が屋根が掛かっている外部、「屋内」が屋根が掛かっている内部であるとすると、結局、それは3つの場所が規定されることとなる。そして、半屋外を介することで、3者が(正確には2者ずつと思うが)曖昧であることになる。とは言っても、その曖昧さがどのような方法で獲得できるのかは考えるべき点。開口部が全面的に開かれることで、外部と内部が一体となる。ガラスが透明であるから、その境界はないものと錯覚される。床や壁の仕上げが、内部と外部で同一となることで一体感を得られる、など。ありきたりの手法はいくらでもあるが、それだけではない方法がないだろうか?(その点、ミースの「バルセロナ・パヴィリオン」は巧妙である。あそこには、屋外と半屋内しかない。故に、規定されていると同時に曖昧であることを獲得している。しかも、ガラスと壁と柱で。)
この関係に、「木」と「ガラス」が加わる。木は屋外にのみ植えられるということ? なぜ木が(必ず)植えられる必要がある? 外部としての記号としての意味? ガラスの存在感(屈折、反射、透明度)を明確にするための対象物として必要? それとも、やはり屋外だけは明確に規定する必要があるということ? そうだとすると、その必要性は?
そしてプログラム。「日常的な風景→規定される屋外」と「誰もいない風景と集団の風景→曖昧に横断的に利用される屋外と屋内と半屋外」とある。繰り返すようだけど、屋外のみが、規定されていると同時に曖昧であるということ? それとも、この2つの外部は異なるもの? 「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」は並列される3項のものなのか? それとも、「日常的な風景」と「誰もいない風景/集団の風景」は並列しないものなのか? その辺に「外部/半屋内/内部」と同様の不明解さがある。「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」という3つの風景をつくることには賛成。しかし、それらが「外部/半屋内/内部」に1対1で対応すべきなのか(そうであるならば、それを徹底すること)、それとも、それぞれの3つの項が複雑に対応することで多様な状況をつくり出すべきなのか(個人的にはこちらの方と思う)、そこが重要。おそらく、ガラスは外部を規定するとともに、内部を規定するものとして使わざるを得ない。そうなると、むしろ木についても、その規定を記号化するためのみに使われるべきではないと思う。そして、次に問題となることは、「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」の具体的なプログラムは?
「行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり アクティビティをフラットに受け入れる建築を うれしい環境と呼ぶ」とりあえずは、ここら辺が「うれしい環境」の答? 具体的には、これらをどのように獲得する?

建築, monologue | Posted by simon at July 3, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

日常を取り込む美術館を作りたい

新しい美術館(=もりのがらす=うれしい環境)という姿勢で良いんではないか
アクティビティを
行為者の表現であると仮定し
その表現には優れた作品という順位の高いものもある。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「先端芸術宣言!」東京芸大先端芸術表現科 編 岩波書店より
個人的に気になる点を抜粋

今日 表現の実物(作品)を見る行為は
順位が高ければ高いほど 極論 確認作業という次元に向かっている。(人が一つの作品を見るのに20秒とも言われている)
それは さまざなメディアを通して 作品が目に触れるようになり
実際を見るという行為以外にもインターフェイスが広がっていることが指摘できる。
(例えば モナリザを一番始めどこでみましたか?なんて質問をすれば ほとんどの場合きっと答えられない なぜなら さまざまなインターフェイスに触れ 記憶が重なり合ったものが 今 自分の中にあるモナリザであるから)
それゆえ
表現者(アーティスト)は場を作る事から
そしてどのように見られたいのかということから(または どのインターフェイスで見られたいのか?ということから)
表現が始まるという傾向に向かっている。
例えば
廃校の利用や都市の副産物に対する表現であったり
表現のフレームがさらにボーダレスになってきている カタチすらないかもしれない。
つまり 表現の上で 作り手と受け手の中でどのようなコミュニケーションを想定しているかという原点回帰が焦点となり
内向的な閉じたコミュニケーションではなく 美術が開かれた回路の上に生成されるものへ向かっている。
言うなれば
美術館という制度によって保護されなくても成立する美術を作り出す事である。
しかし 美術館から離れると言うことは 制度を失う事になり 同時に文脈を失う事になる。
それはそれほど簡単な事ではなく じりじりとハードと寄り合っていく方向を探らなくてはならない。
そして 現在の美術館を開こうとするとなかなか難しい。
それは根本的に近代の経済理論がアートという価値を飲み込んでいるからだ。
美術館の敷居は低くなりつつある一方で、公共の美術館ですら採算性を問われるようになり
美術館は価値の保存という機能から 価値の保証のための場所へと変わっている。
そんな中 質はともあれ
キュレータ中心の展示企画
アーティストを巻き込んだトーク
普段美術館へ足を運ばない人を呼び込むためのワークショップなどが
美術館で行われるようにはなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これからの美術館はどう言ったビルディングタイプへ向かうのだろうか。
さきに 述べたように全く新しいという存在は定義できない。
優れている作品を展示することも必要であろうし
表現が開くと言う事と同時に 受け手とのコミュニケーションの場として機能する事も求められる。

ここで提案する事は そのコミュニケーションという一連の流れを 記録保存する場所。(なのかも知れない。)?

shinyaさんよりコメント
「『新しい美術館』(=もりのがらす=うれしい環境)という姿勢で良いんではないか」もちろん、よいと思う。アートに対する提案が要求されているコンペなのだから、それを外すわけにはいかない。それ以後の美術(館)をめぐる話。「表現のフレームがさらにボーダレスにな」ることから、美術館が「価値の保証のための場所へと変わ」る話は、よく言われていること。「コミュニケーションという一連の流れを 記録保存する場所」という提案。具体的には?

建築, monologue | Posted by simon at July 3, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

がんばって建築に近づこうとしている

多様な切り口については
建築の社会における立場で考えれば
建築は日常的で他愛のない習慣的行動のなかに埋め込まれているとするならば
結果的にいくらも切り口が見つかる。
思考の切り口は一つで良いかと。
切り口とは集約される方向ではなく
スタートに過ぎないとして。

話をすこし遠回りさせる。
今回の敷地でどのようなシーンを想像しているか。
固定的な機能が無いに等しいので
誰もいない風景と集団の風景という
両極を収めるものを考えている。

敷地にたくさんの日常的風景を想定して
そのスケールを木でプロットしていく。

日常的な風景を挙げていく。(ワークショップで提案してもらったり。)
子供がサッカーをするのに楽しいスケール→高速の下
親子がバトミントンをできるスケール→家の前の道路
鬼ごっこするのに適当なスケール→団地
などたくさん。

日常的な風景を 木と建築 によって獲得していく。

コンペ時に提案することは
・日常的な風景という屋外(木とスケールとガラス)と
・誰もいない風景 と集団(イベント時)の風景が 可能な 屋内と半屋外。
以上の関係性で建築ができることを提案する。

切り口として
「もりのがらす」

さいごに うれしい環境について
出来上がるまでは 記憶をデザインするという事があって
うれしい環境とは ここに建設されるものが
消える時に しこりなく 消すことができるシステムが埋め込まれた環境を作る事。

今 考えている設計の手順 は
先に外部空間をデザインして
余残に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく
イベントが無い時は (ガラスの)森の中を歩く (ガラスの)森を抜けたところの広場で遊んだりできる。ガラスの塔に登ってランドスケープを眺める事が出来る。
一人で占有できる うれしい環境を目指す。

イベント時は 屋外 屋内 半屋外 を横断しながら行なう。

アクティビティを 行為者のひとつの表現と捉えれば
その表現は 場を探し 場をつくることから始まり
行為が行われ 行為に轍が残せるよう 写真を撮りたくなるような風景を建築が提案をし 変容し続けるウツロイの空間を記録して 記憶にとどめてもらえたら
ものすごくうれしい環境になる。 行為者にも建築家としても。

「もりのがらす」
木が生える事によって すでにコンテクストがそこに含まれたような錯覚に陥る。
木があっての建築でも
ガラスがあっての建築でもない
積極的な建築が行為者に場を選択へ向かわせる。

キーワード
・土臭いガラス(ガラスの新鮮な使われ方)
・場を行為者によるヒエラキーを持つ建築的自由度(建築が受動的へ向かう事への拒否感)
・外部/半屋内/内部の関係性がシステムとして増改築の幅が効きやすいものを求める。(森のような未完景を建築する)
・ボーダレスな社会の中でのアイデンティティとしてのランドマーク(新しいバナキュリズム)

結果的に「外部と内部の関係」というシステムの提案だが
システムが均質を持つのでなく
システムが 行為という表現 を受容する。

建築, monologue | Posted by simon at July 2, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

「極を抱えれば」と思っている

やはり 今回建築行為(=うれしい環境行為)を行なうことによって
なぜ ユニテを見て建築がいいと思ったのか と言ったところのつまりを
すこしづつ クリアーにしていきたいと思っている。
バカにされながら貫いた精神
不評だった異質感
よかれとコピーされる形態
今でも使われている存在感
この両極端の評価というものが収まりきる建築って?

>「家のところにしか 木が立っていない。」これは完全に誤解していました。そうだとすると、ここではインテリアの表現が重要であったはず。これを「うれしい環境」の1つのスタディと考えた場合、建物の中に取り込まれている樹木が歪んで見えることにどのような意味を持たせているのかが気になる。むしろ、素直に周囲の風景が歪んで見える装置という方がわかりやすい。平面が複雑(ランダム)な割には、断面が単純。そのヒエラルキーも気になる。

まずなぜ 木をたてたのか
木がたっていないと この建築は成立しない。
構造的にもからまず さけるようにプランが構成されている。
木に求めた質は いわゆるたたずまい。
作為的に新しく植えられようとも
もともと生えていようと
どちらに見えても良い。
その木の配置によって 場が構成されていく感覚を 直で表現したかった。

たてもの の中に 見える木と人と家具と影と光の映像が 空間を包むもの全てに写り込みそれが 変容し続けるテクスチャーになる。
周辺は 都市の中でも 山の中でも よかった
でも 僕らのイメージが昇華できる場所は 湖面の上です。
変容し 続けている形態の映像が水に反射し 見る人の印象を揺らがし続けている。

白井晟一の 直方体に円柱を差し込んでるヤツなんだったけなぁ
あれも 水の上にあって。

プランとセクションのヒエラルキーの話は
まず 空間に順位をつけたくなかったので
正方形に円を陥入させるという 縦横という概念が無いもので平面を構成し
家というものは 入り口の位置によって 順位付けがされてしまうと仮定をして
スラブを浮かせ らせん階段にした。 そのらせん階段も もちろん木に絡まっている。
そしてプロポーションで立面の 顔を決め
その結果 セクションが単純になっている。
ようするに この家はプランを決めた時点で設計が終了している。
セクションは無限に高くても 無くてもよかった。

>スケールの話は今の時点ではまだ重要ではないかもしれない。そういう問題があるということを頭に留めておく必要はある。

らじゃ。
ガラスの使われ方で 好きなものが なかなか無くて
自分が 自分でやりたい。

>「空に浮くプログラム」前段と同様。これでは当たり前(葛西のレストハウスか?)。

葛西は間違いなく頭に浮かべながら書いていた(笑)

建築, monologue | Posted by simon at June 23, 2003 18:00 | Comments (1) | TrackBack (0)

ひろげたい視野

>もう1つ、妹島さんの横浜にある高齢者施設のファサードの考え方。
あれはちゃんと使われているのかなぁ?

>光源氏に関しては、確かにプランが類似しているが
ラカトンバッセルは林の中に建っているけど
光源氏の家(=空白の家と呼んでいる)は 家のところにしか 木が立っていない。
空間を目的としたのでなく
空間を包むものすべてを目的としたところ
包むものを 厚みの不均質な透明なもので構成した結果
表情が一定しない空間と外観が得られた。

>ガラスとガラスの間に、それらを支持するものが必要となる。 それはそうなんだ。
スケールを大きくしたり小さくしたりすることを
意図的にエスキスすることで
視野の範囲を狭めないように努力している。

>ミースのやったことは、
余談です。(笑)

>とにかく、次の要素は?

1 コンクリート スティール ガラス
リサイクルできない最も耐用年数の短いコンクリート。
リサイクルできるスティール。
耐用年数が最も長い リサイクルできるガラス。

ニュータウンはいずれ無くなる。
耐用年数が長く リサイクル可能なものだけで構成したい。
アンボンドの構法を提案するのも良いかも知れない。

2 風景スケールとヒューマンスケール
ガラスに透明性だけを求めるという手法ではなく
ガラスも当然汚れる。
原点復帰しても 汚れたままでも
うれしい環境を成立しているものを目ざす。

→風景のスケールならば汚れは消える。

→ヒューマンのスケールなら汚れの方が目に付く。
 本当は汚れている石や木に もたれ掛かるような感覚の ガラスの質感を追及する。

3 シングルとダブル
ガラスという素材は熱負荷が高く
特に日本のような気候の変化に影響を受けやすい。
その結果

内を構成する時
ガラスそのものという 表現は皆無に近い。
ガラスと木を組み合わせる
ルーバーを付ける
ガラスを二重にして間に空気を入れるなどのように
ガラス単体での表現ではなく
サンドイッチされたり
対になったりする。
→二重のガラスはうるさい。青みががり質感が変容する。
→いわゆる室を構成する部分をどうするか?
→ガラスに陥入するプログラムは熱負荷が最も軽視できるもので構成する。
→(ただ 安中の場合 軽井沢のように 冬季 極寒にはならず
東京のように 夏季 灼熱にはならない。→穏やかな気候をうまく利用したい。)
嘸
外を構成する部分
→一枚で構成する。ヒューマンスケールを無視できる。たちさえすればいい。

一枚に見えるガラスの立面を
風景スケールの質感と ヒューマンスケールの質感の ゾーニングをする

4 ガラスに設けられる空に浮くプログラム
ランドマーク
敷地内にまったく均質に並ぶ機能を規定する空間アドレス性
展望/眺望
気候に左右される展望カフェ/レストラン
階段
すべり台
エレベーター

5 ガラス自体に設けられるプログラム

強い陽射しをカットし 涼をもたらす
イベント時の映像の投影
夜間の照明効果

建築, monologue | Posted by simon at June 23, 2003 12:00 | Comments (1) | TrackBack (0)

好きかもしれない建築写真

009.jpg010.jpg

>これは写真のようにフレーミングされた風景を示したものですね? 実線のガラスと破線のガラスの違いは?

 (人々が見えること)
 山並みが見えること
 ガラスが見えること
 人々と山並みとガラスが重なって見えること
 (人々が強調されること)
 山並みが強調されること
 ガラスが強調されること
 (光の中に人々が引き込まれること)
 光の中に山並みが消えようとすること、立ち現れようとすること
 光の中にガラスが溶融すること

視界の中に広がるイメージ(印象)の中で
フォーカスされる部分(実線)と 
ピントが飛ぶ部分(点線)と
ゆがんで見える部分(複線)が組み合わさり
行為者が活動するたびに 連続的に絵がすりかわり
「うれしい環境」のイメージが限定されない。

この四枚の絵に加え
人々というパラメータを視野に入れると
「うれしい環境」すべてのピントがボケる。

写真家 杉本博史の シーグラムビルやWTCのように

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建築, monologue | Posted by simon at June 23, 2003 8:00 | Comments (1) | TrackBack (1)

ガラスが好き

ガラスの壁をたてようとしているわけではない。
ガラスをたてようとしている。
いわば日本の伝統的な建築である紙・襖・障子・のれん・格子という
曖昧に区切る素材の質感をガラスに求めている。

ガラスにおける曖昧さ
それは 
時に 傲慢にそそり立つようであったり
時に 透明で見失うくらいピュアであったり
時に 半透明で美しいちらつきをもたらしたり
時に 景色を写り込ませる
ガラスという素材自体の豊かさを示す。

ガラスという素材と戦った ミースという建築家がいる。
彼はスカイスクレイパーで宙(そら)に溶けているような溶融するガラスを用い
その行為がバルセロナパビリオンまで続く。
その後 シンケルを模倣したとまで言われる クラシシズムに行き
ソリッドな壁に戻っていく。
私は
そのどちらの表情とも 同時に獲得する事が 出来る質感を求めている

一年前のサイトから移しているのだけど。今、読むとぞくぞくする(笑)

建築, monologue | Posted by simon at June 22, 2003 22:00 | Comments (1) | TrackBack (0)

木が突き抜けている家

>参照可能と思えるもの。妹島さんのヤコブセンの展示で製作したアクリルのオブジェ。同じく、妹島さんの「ひたち野リフレ」のガラスルーバーのファサード。原広司さんの「梅田スカイビル」のガラスファサードによる、空中庭園のアイディア。

せじまさんのはヤコブセンの記念展覧会のやつですよね。はらひろしは 調べる価値がありそうですねぇ。

>「厚みの違う一枚に見えるガラス」の指すもの。

ガラスの厚みを不規則にすることによってガラスを通した景色がゆがむことの面白さに光源氏のコンペの時からはまっていて↓
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↑このプランを曽我部さんに見せたらこの↓下の写真のやつに似てるっていわれた訳です(lacaton&vassal/fr)
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展開エレベーション↓
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>「厚みが違う」部分を持つ「一枚」の「ガラス」? 
>「厚みが違う」部分を持つが、「一枚」の平滑な面に「見えるガラス」? 
>「厚みが違う」複数枚の「ガラス」であるが、「一枚に見えるガラス」?

木割りとでも言うのでしょうか。一枚のガラスで構成することは不可能な大きさなのでガラスが分節されていく。その分節しているガラスそれぞれが 厚みの違うものによって構成されていて 全体の一枚のガラスとして 表情を豊かにする。その一枚のガラスが 部分で抜けているところもあれば。ボリュームが陥入していたりという話。

建築, monologue, portfolio | Posted by simon at June 22, 2003 20:00 | Comments (1) | TrackBack (0)

風景のフレーミング

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建築, monologue | Posted by simon at June 22, 2003 19:55 | Comments (1) | TrackBack (1)

厚みの違うガラス

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厚みの違う一枚に見えるガラス

建築, monologue | Posted by simon at June 21, 2003 12:30 | Comments (1) | TrackBack (0)

imageの提出

駅をはじめ 住宅 商業施設 公園
そして 今回の計画全てにおいて
どういった場をつくろうかという話には そもそも関わることができない
これらが相互に関連せず無秩序に配置されている風景が
傲慢に出来上がらんばかりの舞台の上で
踊らされるわけには いかない。

この舞台を「いわゆる建築」のコンペティションではないと読み替える。
新しい もの こと を創造しようという機会であり
(都市計画による 建築家による 土木による ランドスケープやら 建築やらの)フレームを越えた
横断的な解釈と提案が 鮮やなインスピレーションを与える。
その解釈と提案を 「うれしい環境」と呼ぼう。

ここにガラスをたてる。

風景を 描こうとしているだけ ではない。
光景を 望もうとしているだけ ではない。
建築を 構築しようとしている のではない。
介入することにより 人々に 大地に 建築に「うれしい環境」を望み
記憶の中をデザインしようとしている。

美しい山並みを望むことが出来る敷地において
人々が見えること
山並みが見えること
ガラスが見えること
人々と山並みとガラスが重なって見えること
人々が強調されること
山並みが強調されること
ガラスが強調されること
光の中に人々が引き込まれること
光の中に山並みが消えようとすること、立ち現れようとすること
光の中にガラスが溶融すること
晴れだろうと 雨だろうと 曇りだろうと 雪の日だろうと その日その日の「やさしい環境」を 描く。

その全てを「やさしい環境」と呼び ガラスをたてることによって獲得する。

すべてが曖昧なバランスの中で
ここ(安中)という そのもの(アイデンティティ)として 人々に美しい印象を与える。

建築, monologue | Posted by simon at June 21, 2003 12:00 | Comments (3) | TrackBack (0)

first impression

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現状
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介入後

遺構, 建築, monologue | Posted by simon at June 20, 2003 12:00 | Comments (1) | TrackBack (0)

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