即興のコミュニティ

1 direction

1-0 即興のコミュニティ

a コミュニティの定義
コミュニティとは自分を含む集団の事を指し
集団の他者と自分との間に同一であると認める事が出来るような特徴があれば 自己のアイデンティティと呼べる。

b ここでのコミュニティ

従来のコミュニティは 地域や家庭というドメスティックなフレームの中で強固に成り立ってきた。
質はともあれ 現在のコミュニティは個人が 想像の共同体(社会)に直接開く距離に至っている。
それは 学校であったり 会社であったり 部活動であったり
従来の物理的距離というのは 今も(IT革命後も) フラットへ向かっている。
そんな中 自己のアイデンティティを 急速的に 時には強制的に 見いだしているはずである。
ここでは それを即興のコミュニティと呼び
具体的には家族から 学校 地域 会社を指し
健全なコミュニティほど積極的に 利用できる→自己のアイデンティティを主張し合える→表現(アクティビティ)ができる場を作ろうと考えている。
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1-1a 今回の敷地でどのような風景を想像しているか。

誰もいない風景と集団の風景という
両端を収めるものを考えている。(即興のコミュニティ=両端)

1-1b 両極(即興のコミュニティ)の中間体として、日常的な風景を挙げていく。(ワークショップで提案してもらったり。)

敷地にたくさんの日常的風景を想定して
そのスケールを木でプロットしていく。
(例)
子供がサッカーをするのに楽しいスケール→高速の下
親子がバトミントンをできるスケール→家の前の道路
鬼ごっこするのに適当なスケール→団地

1-1c 即興のコミュニティ(日常的な風景/だれもいない風景/集団の風景)を 木とガラス によって獲得していく。

コンペ時に提案することは
・日常的な風景→規定される屋外(木とスケールとガラス)
・誰もいない風景と集団の風景→曖昧に横断的に利用される屋外と屋内と半屋外。
以上 二項の関係性で建築ができることを提案する。

1-2 テーマ

「もりのがらす」

1-3 キーワード

・土臭いガラス(ガラスの新鮮な使われ方)
・場を行為者によった ヒエラルキーを持つ建築的自由度(建築が受動的へ向かう事への拒否感)
・外部/半屋内/内部の関係性がシステムとして増改築の幅が効きやすいものを求める。(森のような未完景を建築する)
・フラットな社会における 建築のアイデンティティとしてのランドマーク(新しいバナキュリズム)

2 suggestion

屋外を規定する。
余残に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく。

3 extra

3-1ここでの建築→うれしい環境

a 人にとって
建築は日常的で他愛のない習慣的行動のなかに埋め込まれているとするならば
ここでいう建築 に向けられるアイデンティティ(自己同一性)は
行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり アクティビティをフラットに受け入れる建築を うれしい環境と呼ぶ

b 社会にとって
誕生までは 記憶をデザインするという事があって
ここに建設されるものが消える時点で
しこりなく消すことができるシステムが埋め込まれた環境を作る事も含まれる。(アンボンド構法/リサイクル)

3-2 アクティビティ

アクティビティを 行為者のひとつの表現と捉えれば
その表現は 場を探し 場をつくることから始まる。
例えば
行為が行われ 行為に轍が残せるよう 写真を撮りたくなるような風景を建築が提案をし
変容し続けるウツロイの空間を記録して 記憶にとどめてもらえたら
結果的に うれしい環境になる。
行為者にも建築家にも。
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3-4 システム

「規定される外部と曖昧な内部の関係」というシステムの提案だが
システムが均質を持つのでなく
システムが 行為という表現 を受容する。

shinyaさんからのコメント
言葉の説明に一つ一つ反応するよりも、後半の部分から、つくられるであろう建築の姿を想像することから始める。
「屋外を規定する。/余残(残余?)に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく。」とある。つまり、敷地いっぱい、もしくはそれに近い範囲を1つの建築として領域化して、その内側に「屋外を規定する」。敷地外との領域化は、ガラスの壁をたてて行うということだね? 屋外以外の領域には「半屋外と屋内の群」が設定される。「規定される外部と曖昧な内部の関係」ともある。この「半屋外と屋内の群」が「曖昧な内部」であるならば、半屋外と屋内は何によって分けられる? 屋根は掛かっているが、半屋外は外気に触れており、屋内は外気から遮断されているとする。そうすると、その区分けはガラス(もしくは壁)で行われていると考えられる。「屋外」が屋根が掛かっていない外部、「半屋外」が屋根が掛かっている外部、「屋内」が屋根が掛かっている内部であるとすると、結局、それは3つの場所が規定されることとなる。そして、半屋外を介することで、3者が(正確には2者ずつと思うが)曖昧であることになる。とは言っても、その曖昧さがどのような方法で獲得できるのかは考えるべき点。開口部が全面的に開かれることで、外部と内部が一体となる。ガラスが透明であるから、その境界はないものと錯覚される。床や壁の仕上げが、内部と外部で同一となることで一体感を得られる、など。ありきたりの手法はいくらでもあるが、それだけではない方法がないだろうか?(その点、ミースの「バルセロナ・パヴィリオン」は巧妙である。あそこには、屋外と半屋内しかない。故に、規定されていると同時に曖昧であることを獲得している。しかも、ガラスと壁と柱で。)
この関係に、「木」と「ガラス」が加わる。木は屋外にのみ植えられるということ? なぜ木が(必ず)植えられる必要がある? 外部としての記号としての意味? ガラスの存在感(屈折、反射、透明度)を明確にするための対象物として必要? それとも、やはり屋外だけは明確に規定する必要があるということ? そうだとすると、その必要性は?
そしてプログラム。「日常的な風景→規定される屋外」と「誰もいない風景と集団の風景→曖昧に横断的に利用される屋外と屋内と半屋外」とある。繰り返すようだけど、屋外のみが、規定されていると同時に曖昧であるということ? それとも、この2つの外部は異なるもの? 「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」は並列される3項のものなのか? それとも、「日常的な風景」と「誰もいない風景/集団の風景」は並列しないものなのか? その辺に「外部/半屋内/内部」と同様の不明解さがある。「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」という3つの風景をつくることには賛成。しかし、それらが「外部/半屋内/内部」に1対1で対応すべきなのか(そうであるならば、それを徹底すること)、それとも、それぞれの3つの項が複雑に対応することで多様な状況をつくり出すべきなのか(個人的にはこちらの方と思う)、そこが重要。おそらく、ガラスは外部を規定するとともに、内部を規定するものとして使わざるを得ない。そうなると、むしろ木についても、その規定を記号化するためのみに使われるべきではないと思う。そして、次に問題となることは、「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」の具体的なプログラムは?
「行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり アクティビティをフラットに受け入れる建築を うれしい環境と呼ぶ」とりあえずは、ここら辺が「うれしい環境」の答? 具体的には、これらをどのように獲得する?

建築, monologue | at July 3, 2003 9:00


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