「極を抱えれば」と思っている

やはり 今回建築行為(=うれしい環境行為)を行なうことによって
なぜ ユニテを見て建築がいいと思ったのか と言ったところのつまりを
すこしづつ クリアーにしていきたいと思っている。
バカにされながら貫いた精神
不評だった異質感
よかれとコピーされる形態
今でも使われている存在感
この両極端の評価というものが収まりきる建築って?

>「家のところにしか 木が立っていない。」これは完全に誤解していました。そうだとすると、ここではインテリアの表現が重要であったはず。これを「うれしい環境」の1つのスタディと考えた場合、建物の中に取り込まれている樹木が歪んで見えることにどのような意味を持たせているのかが気になる。むしろ、素直に周囲の風景が歪んで見える装置という方がわかりやすい。平面が複雑(ランダム)な割には、断面が単純。そのヒエラルキーも気になる。

まずなぜ 木をたてたのか
木がたっていないと この建築は成立しない。
構造的にもからまず さけるようにプランが構成されている。
木に求めた質は いわゆるたたずまい。
作為的に新しく植えられようとも
もともと生えていようと
どちらに見えても良い。
その木の配置によって 場が構成されていく感覚を 直で表現したかった。

たてもの の中に 見える木と人と家具と影と光の映像が 空間を包むもの全てに写り込みそれが 変容し続けるテクスチャーになる。
周辺は 都市の中でも 山の中でも よかった
でも 僕らのイメージが昇華できる場所は 湖面の上です。
変容し 続けている形態の映像が水に反射し 見る人の印象を揺らがし続けている。

白井晟一の 直方体に円柱を差し込んでるヤツなんだったけなぁ
あれも 水の上にあって。

プランとセクションのヒエラルキーの話は
まず 空間に順位をつけたくなかったので
正方形に円を陥入させるという 縦横という概念が無いもので平面を構成し
家というものは 入り口の位置によって 順位付けがされてしまうと仮定をして
スラブを浮かせ らせん階段にした。 そのらせん階段も もちろん木に絡まっている。
そしてプロポーションで立面の 顔を決め
その結果 セクションが単純になっている。
ようするに この家はプランを決めた時点で設計が終了している。
セクションは無限に高くても 無くてもよかった。

>スケールの話は今の時点ではまだ重要ではないかもしれない。そういう問題があるということを頭に留めておく必要はある。

らじゃ。
ガラスの使われ方で 好きなものが なかなか無くて
自分が 自分でやりたい。

>「空に浮くプログラム」前段と同様。これでは当たり前(葛西のレストハウスか?)。

葛西は間違いなく頭に浮かべながら書いていた(笑)

建築, monologue | at June 23, 2003 18:00


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Comments

ユニテの話は基本的に君の個人的な話だね? あまり深入りはしない。
「湖面の上」? 「原風景」か?(笑) そこにも深入りする気はない。
白井晟一は「原爆堂計画」だね。若いのによく知っている(笑)。こういう話になるとコメントが書きにくい。最終的なものが「水の上」にあろうとどこにあろうとかまわない。しかし、そこへの道筋を示してもらわないと、こちらは反応できない(しにくい)。
平面と断面の説明は予想通り。つまり、そのヒエラルキーには無自覚だったということ。もっと全体をコントロールすべき。

Posted by shinya at December 13, 2004 5:11 AM