荒川修作×磯崎新

ABCのトークイベントに行ってきた。文字に出来るところだけ書いてみる。荒川さんがゾンビのように感情をこめて話を始めた。局所的に美術や建築をもちいたアメリカに500年しいたげられてきたラディンがやったのは当たり前と。はなから暴走気味。続けて、磯崎さんが自分の主張として書いたなら建築する身体を半分書き直せと言う。アーティストを放棄し建築家になろうとしていると指摘。一方、荒川さんは、堀江(ライブドア社長)さんは「私は死なない」という視点で、倫理や社会を断絶し、経済に切り込んでいったと評価。かみ合っているようなかみ合っていないような展開に翻弄される。荒川さんが、記憶を形成するというのは、外に対する免疫であることを発見したと言う。彼が言う有機学の思考にたった発言。彼曰く有機学というのは、(たぶん荒川さんのつくった場所で)そこに行きたいと思い、はいつくばって行くと、途中でいがいと心地がよくなってそこで居座るということらしい。デシャンに人差し指でこづかれて、君は有機体に入っていてのはだめだと言われたと。当時さっぱりわからなかったと回想。

・磯崎さん。幾何学を信用している。始めるにあたって、生物にかかわるものを排除して、エンジニアリング(幾何学)の領域を選択した。有機的な形態なのは、風潮でそれに従っているだけと。
・バブル崩壊後ロンドンでvison of japanという展示をやった。日本人からひどく非難された。
・荒川さん。記憶って言うのは、筋肉の使い方でわかる。
・コルビジェっていうのは、階段をかけあがって、メジャーで測って2mでも10mくらいだね。とかいうのがない。
・水が抱きしめてくる風呂ってあるんだよ。おそらく進行中の集合住宅のこと。
・建築をデザインしない。アンチデザイナーである。有機学のような自分に対応する理論を組み立てるためにやった。
など、文章化できないような話が飛び交う。

建築 | Posted by simon at May 29, 2005 20:21 | Comments (5) | TrackBack (0)

原美術館ARC

HARA_arc.jpg

富弘美術館にも行ってきた。良くも悪くもあたまを抱えさせてくれる建築だ。コンペ的な思考にたてば、勝つと言う目的において、円形のプランを採用したことに問題はないだろう。何より勝者となり建築を作っているのだから。ただ、美術館として本当に良いかどうかはよく分からなかった。
確かに、建築の話としてはおもしろい。しかし、建築家の能力はそれだけではないはずだ。プロジェクトの規模に対して、ある程度の予算があり、その中で美しいまとまりを描かなければならない。完成に至る経過を詳しくは知らないが、建物とその周辺が断絶していた。アスファルトのアプローチ。湖面まで降りる動線。ツーリズムを優先させた車寄せ。それと建築。それらが、縦割りで工事区分が分担されているような印象すらあった。それが、建築家が発言した結果であれば、少し悲劇的な建築かもしれない。
空間のバリエーションは、断面のヒエラルキーがなく、円の大きさのみで違いを出している。そのため、素材をいろいろ使っているが、少しうるさかったかもしれない。加えて、円が詰まりすぎている気もした。円と円がぶつかった余りの空間などを利用して、外部が感じられる空間などが、もうすこし混じり合っても面白かった気がする。それを解決するためには、箱の大きさを広げれば良いのだけれども。無理だったのかなぁ。ただ、円が迫ってくる空間は、負けている感じが強く、居心地は悪そうなので、見えているだけでいい。
プランは、道路側がサービスで、湖に向かってオープンな機能へグラデーションする従順なもの。壁から壁を抜けて、予期せぬ風景が重なっている種類が、全方位へ展開できるように散らすことはできなかったのだろうか。
文句を言っているのではない。いろいろ考えさせられたのだ。円を徹底するという方法論の中で、他の手はなかったのか、ずっと考えながら、ぐるぐると歩いていた。
円形の壁づたえに、人がオートメーション化されているように、並んで動いているのには、少し驚いた。笑
原美術館ARCが、すばらしかったので、そういう気持ちになったのかもしれない。

建築 | Posted by simon at May 16, 2005 10:32 | Comments (11) | TrackBack (0)

MoMAは50%

オペラシティで開催されている「谷口吉生のミュージアム」に関連した講演会に行ってきました。以前のエントリーで、高宮さんが見たMoMAを書いたのですが。今回は、槇さんと谷口さんが見たMoMA。槇さんの直感で、辞退するつもりだった谷口さんを、ぎりぎりでとどまらせたなんて、逸話を聞いていたので、この二人の話は是非聞きたかった。人の話を聞きに行くのは、99%が事実の反芻で、1%の狂気を期待していくわけですが、今回は谷口さんが「50%しか満足していない」と言ったのが、それでした。笑
お二人の真っ正面に座り、モダニズムを壮観した気分に浸りながら、入り時間になる。矢萩喜從郎さんが、まず谷口建築を解説。シンケルやミースに通じる理性的な態度や、門構え、にじり口、座といった日本的な解釈、絶対水平や鏡面性が特徴の深さのない水面。ご自分で撮影されたと思われる写真を交えて、自分の解釈を、誤解をおそれず話されていました。一番、印象的だったのは、ブルーモーメントに輝く豊田市美術館をファインダー越しに見たとき、「理性と日本的な感性の溶解」に見て取れ、大変美しかったと。スライドとセットだったので、感動。
次に、槇さんの視点での評価。展覧会を見て分かるように、多くのメディアから讃辞を贈られている点は、40%は建築家がよかったから。残りは、MoMAだったから。なぜか。グッケンハイムとは違って。と言っていいほど、アメリカ人にとってMoMAは特別であると。自身がNYで働き始めて、まずMoMAの会員になったほどであり、移民文化のアメリカの先進的なコミュニティは教会しかなかった。次にデパートやボールパークができ、それから美術や演劇がついてきた。その中でも象徴的なものがMoMAであると。彼ら自身の幸福感であり、先進的なサンクチュアリとまで。このコメントからも、アメリカの身体感覚が根付いていた槇さんがMoMAのプライド、戦略からいっても、勝ち取る可能性を感じていたのだと。槇さんとしては今回の計画は、何よりアーバンデザインがすぐれていて、18世紀から現在にいたるまでの建築が集積している場所で成立させている今回の計画を高く評価されてました。
それを聞いていた谷口さんが開口一番、僕は話がうまくないと前置きをし。既存の保存、改築の復元、新築が複合した難しい計画だったと。そういう提案をしたのが自身ではあるのですが。内部にある作品との拮抗を望まないMoMA。MoMAが所蔵する作品は世界中どこでも見れるから、NYが館内からどう見えるのかというのを慎重に考えた。知ってはいたが、この謙虚で紳士的なコメント。んー背筋も伸びてる。また、あの特徴的な門構えは、中と外との連続性を意識した窓の枠でもあると。アベニューからのひきがないので、内部空間を豊かにしたかったと。建築を学んだのは都市の理想を語られた60年代。しかし、日本の都市の猥雑な風景を見て、どちらかというと閉じることに興味があったのかも知れない。矢萩さんが日本的な解釈のことを述べられていたので、日本的な事は意識していない。どちらかというと避けていると。一方で、非対称 線的 うすあかり コンポジション。モダニズムと共通するものを、そういった日本的な空間構成に感じると。
それを聞いていた槇さんは、内部空間に興味のあったroom to roomの磯崎さんや回遊性の谷口さんと比べれば、もうすこし楽観的だったと。門やにじり口もしない。ヒルサイドでもわかるように、隅入りを好むと。谷口さんとの違いをコメントされてました。
最後に、質疑応答。「どこで筆を止めるのか」谷口さんは、どんどん単純化していく。ぎりぎりまで純粋化して(作為が)残るか残らないかのぎりぎりのところで止めるとコメント。「敷地から何を得るのか」槇さんが、ア プリオリな欲求を確認するために敷地を利用することもあると。

建築 | Posted by simon at May 12, 2005 19:10 | Comments (1) | TrackBack (2)

作為のない具合

八代の保育園
Ytsr_Mkn.jpg
化に向けて整理してたら発見。みかんぐみの建築は、八代から見たというマニアな出会い。しかもほぼ竣工順。
この建築は、エコロジカルなシステムをしょっているが、それが反映されたような作為がなく、好感。一連のアートポリスの作品と比べると、かなりくだけている印象を持つ。素人のような考えを、玄人として実践すると言った具合が、でっぱりのある屋根や、テラスの連続感ある仕上げ、校庭に散在するケモノからも見れる。内部空間は見れてないので分からない。
JAのPROCESSにある脱力したダイアグラムなど、みかんぐみの建築が示唆しているところは、創意をどこで落とす(決める)のか。そこは、もっと自由で良いのではないか。と言った具合だと思っている。一方で、いかに一貫性のある態度を示すのかといった。疑問ももつわけで。はっきりしない全体ではある。
最近は近未来な話題にくびったけ。もちろんテクノジーの進化にも興味あるが。人口や経済の急速な構造変化。情報社会がもたらすあたらしい人格。僕が理想とする建築家はやっぱり夢を語るストラテジスト。ものたりないのかも。

LINK:アートポリスつながりで。砥用町林業総合センターの写真があるエントリー

建築 | Posted by simon at May 3, 2005 6:20 | Comments (0) | TrackBack (0)

28年生まれの建築家

今日は、docomomoに関連した講演会に行けた。失礼極まりないが、三人が、群になると妖怪のようだった。
三人とも生まれが同じなんて、趣味の悪い編集者がレイアウトしない限り、判明するもんじゃないと、林昌二さんが新建築編集長の大森さんに、横ヤリを入れつつ始まった。はっきりいって、この三人が集まれば、場を仕切れないことは想像たやすかったが、案の定、初めから放流された。(笑)
三時間超と長丁場だったので、ここでは印象的だったことをレポートしてみたい。前半は三人のdocomomo選定作品を、本人がプレゼンするという、きわめて貴重な体験。
菊竹清訓さんは、「スカイハウス」と、「出雲大社庁の舎」、「ホテル東光園」を選定されている。ここでは、自分の原風景(筑紫平野)と出雲大社の思い出話がほとんどだった。機能主義を崇拝していた自分を変えた、個人的にも印象的な建物なんだと。打ち合わせするたびに、「ここは何に使っている部屋か」と聞いても、毎回返事が違い、信じるものが何もなくなった状態から構築した。という、体験に基づいた話。加えて、コンクリートで雨仕舞いまで、おさめてしまった結果、さしせまり老朽化という現実にぶつかり、どこを保存するか迷っていると。断面だけ残し、日本の風土も考え、やっぱり木。木を使って再構築しようかと思っているとおっしゃっていました。さいごの質疑で、現在のすがたをとどめて欲しいと、選定委員の建築家が言ってましたが、あっさり、docomomoは、何を保存し伝えるか明快じゃないんだと。まぁ、たしかにテクノロジーが進化したからって、ギブスのように構造体を入れ込んでも、まるで創意がない。建築家がおこなうリニューアルプロジェクトは、おもしろそうだ。
続けて、林さんは、銀座の交差点に建つ、「三愛ドリームセンター」と、「パレスサイドビル」を選定されている。監事というかたちで、docomomo japanに関われているのに、なんで「私たちの家」を選ばないんだと。またまた横やり(笑)。毒本って言うのを出してて、言いたいことは全部そこに書いてあるから、もう何も言うことはない。とか言いながら、スライドの一覧表を手元に持っていて、やる気まんまんじゃん(笑)。パレスサイドに関しては特に新しい情報はなかったが、建築的な工夫をわかやすく説明されていた。パレスサイド、かなり好きだなぁ。屋上を開放している時期があるらしいので、ぜひ見たい。
最後に、槇文彦さん。「名古屋大学豊田記念講堂」と、「代官山集合住居計画」が選定されている。ヒルサイドテラスの後ろに配する旧朝倉邸(LINK:空中写真 S49撮影)が、まもなく公園として開放されるそうだ。東京の街は、前面道路の幅があって、用途が決まる順番だが、26m以上ある道路に面するヒルサイド一体は、都市や街並みが社会遺産として残っていない現状の中、非常に恵まれていると。ずっと残るんだろうなぁ。建築家冥利につきる。そうとう、マンションが建たないように抵抗したと思うけど。菊竹さんも、スカイハウスを建てた時は、崖の上に建っていたのに、いまでは、40mマンションの谷底にあって、今では雨戸も閉め切って、最悪だと言っていた。都市計画、アーバンデザインをやっていかなくてはと。一方、処女作の豊田講堂は、改修するのに、槇さんがすごく張り切っているという話を聞いていたので、やっぱり計画中の模型が出てきた(笑)。大森さん曰く、おおやけな場で槇さんが、豊田講堂についてコメントする事が、貴重だそうだ。計画中の中身については触れられなかった。
(LINK:ヒルサイドスクランブル
休憩後、菊竹さんの意気込みにやられる。谷底のスカイハウスの中で、布団やベッドは、快適ではない。コンパクトで、機能的な寝袋に限る。というコメントを発し、壇上の林さんと槇さんは、目をパッチリさせて唖然としていた。当然会場も、ざわつく。誰もが、スカイハウスのワンルームの真ん中で、ぽつんと寝ている姿を想像してしまったに違いない。話の流れは覚えてないが、建築を社会遺産として残すと考えたとき、自分の家をどうするか分からないと。身も蓋もないことを、だれかが言った。確かに、そうだ。日本の場合は、耐久性を下げやすい湿度や、リセットされるような地震の問題もあるし、物理的にも社会的にも、三世代住める家はない。槇家のように、90代の親と70代の息子と言った、とんでもない核家族像が、そこにはある。林さんは、ストラクチャーは道路並みのインフラとして考えるべきだと。完全に安全なものを作るというより、社会の中で保証される範囲のことをインフラと言っていたと思う。そういう思考の延長にたてば、社会遺産に繋がっていけるかもしれないと。正直、三人とも、どう残していくかを考えて当時、設計してはいなかったが。どこを残し、どこを変えるかを、実践していく必要があると。他にも示唆に富む、多くの事に言及されていましたが、そのためには、制度、都市計画、社会、思潮を含めて建築家が立つ必要があると、熱くおっしゃっていました。
展示自体は、はっきりいって、人と情報量が膨大すぎて、セキスイハウスM1を目的に見た。中村政人さんの発想で、はじまったM1保存企画のひとつ、模型復元。途中経過は写真でいくつか見せて頂いたが、実物を始めて見た。ヤハリすごすぎる、塗装屋が制作者を信頼しきって、と言うより崇めるくらいの精巧な技術で完成していた。
(LINK:MRでモンブラン@上野桜木

残すためにつくるって?
うちの実家は、売れるようにつくったって、言ってたな。確かにプランは標準的すぎて、はずかしいくらいだ。でも、その違和感はきっと理解する視点をもっている気がして、ずっと気になっている。しかも、木造で、なんかすごい大工が作ってた。おやじやるな。また、それを無意識にやっているんだろうが。作り込みすぎると、前の人の影を感じてしまう。実家の場合は、敷地に立っていた家に構造上の問題があって取り壊した。
今のところ、単純にかたちを残すという議論は、日本の場合、違うと思っている。土地の値段が上がれば壊されるし、地震や湿度の問題があるから、コンクリートには厳しい。また、マンションや単純なオフィスビルに挙げられるような、経済上の根拠だけでつくられたようなものは壊した方がよい。再構築の中で、何かをキープできないか。
docomomo japanは、ヨーロッパ的な視点での価値を評価する方へ、収斂するだろうか?。言い換えると、社会遺産として実行力のある建築っていう意味が乖離した状態で、立つ墓標のようなものを評価する団体になってしまうのか?。それとも、期待しすぎ?。docomomo japanとしての視点が必要なんでは?
セキスイハウスM1が100番目にエントリーされていることは、評価出来る一端かも知れない。このM1を始めとする箱形構造体を実際に、市場にもどす動きが始まってはいる。実行力のある社会遺産としての、ひとつの方法論かもしれない。経済的な視点だけで作られたバリエーション住宅の企画をやめて、今の技術で作る、市場を流れるM1的な箱。M0を作るプロジェクトなんておもしろそうだ。
LINK:M1居住者インタビュー富田玲子さん

建築 | Posted by simon at April 25, 2005 1:30 | Comments (2) | TrackBack (1)

バランス感覚

昨日も、阿部仁史ゆかいな仲間達のレクチャーへ、くりだしてきました。
阿部さんの建築見たことないですが、今回の動機は、完全にゆかいなゲスト達にあります。
そこから、阿部さんを知るのもいんじゃないという。のり。
二回終わった時点の阿部さんの印象。
「モダニズムの反動に陥らず、新しいものを、思考し、実践したいんだ。という姿勢を、かいま見れました。」建築家だから当たり前か。
僕は、(実は)本江さんの後ろの方に座っていたのですが、阿部さんも観客に背中を見せるくらい斎藤環さんに食いついていて、後ろ姿がシンクロした。髪型も。ちなみに、曽我部氏とも、僕の頭の中ではシンクロしていて。SONYの話が出たとき、苦労されていたのを聞いたことがあったので、三人ヒゲ面で並んだら、こりゃ、いい線だなと、ひとり笑いしながら、斎藤さんの軽快なトークに、身をまかせていた。

もっぱら、斎藤さんがゲストで来ていたので、ヴェネツィアビエンナーレの日本館の話題から、始まり。一貫して「おたく」。
ちなみに、今回の日本館は、他の楽観的な展示(明るい未来)にくらべ、未来喪失の街をテーマにしている点でプライオリティがあったとおっしゃっていました。
阿部氏の執念によって、僕の交感をくすぐるコメントが斎藤氏から出る。
「ソフトのアクセシビリティという身体性」っていうのが、あって。(ちなみに、今日のテーマは、「リアリティの身体」)。自身が、ヘビーローテーションを、すぐ手にとれない部屋のレイアウトでは、おたく失格らしい。(ソフトって、DVDとかCD、本のこと。この語呂はかなりヒットした。ギャルゲーが、手の届きやすいところにあるっていう話なんだけど。ね)
僕が、一番共感出来たのは、斎藤氏の口から聞けたというのもあって、「身体の多層化」は、本当だと思う。
要は、携帯電話での自分。ネット上の自分。会話している自分。というように、リアリティ(身体)が、複数ということ。
それをまとめる総体としての自分は、ないんではないか。という話まで及んでいました。斎藤氏の本を読めば出ているのだと思うけど。
まぁ。おもしろいこと、いろいろ言ってましたが、阿部さんに質問もされてました。ビフォーアフターって、番組あるけど、阿部さんだったらどうする?。あれって、構成上、家族関係と内部空間を一致させようとしていて、家族の問題は、水戸黄門のような匠によって、解決するって言うストーリーだけど。あれって、結局、天窓や、ウッドデッキといったギミックからの発想で、ものが、できているし、折りたたまれて出てくる机とか、壁に埋め込まれている椅子とか、ちゃんと使ってんのか。その後のレポートの方がおもしろそうだ。なんて言ってました。
僕は、ああいう番組や、メディアにでてくる妄想(ギミック)は、一括して「チープモダン」って呼んでますが…。
斎藤氏によって、阿部氏の身体がはがされそうな場面がいくつかありましたが、僕の中にしまっておきます。というか、うまく説明できない。ということに。

一つ前のエントリーの追記に、一回目のレクチャーの事を少し書きましたが。これを見ながら、思い出したことが。
山中俊治さんが、おもしろいことを言っていた。
「パソコンは、薄くすると、重くなる。ずんぐりしているほうが、軽くなる。だから、マックは重い。」
アメリカ人の身体感覚から言えば重くないっというのも、デザイン上のふっきる要素としてあると思うけど。
Tigerの供出が決まりましたが、G5のマシン、重いんだろうなぁ。

新四年も研究室に入ってきたようだし、自分で実践し、態度としてみせたい。自戒を再確認。
よいプロジェクトに必要な要素「方法論・スキル・自分のテーマ」
方法論っていろいろあると思うが、プロジェクトが、ある公式に還元されるっていうのも、大事。
自分の「ユートピア」と都市や社会に潜む「ヘトロピア」をつなぐ、「システム」を提案する。っていうような。
それよりも、完成度か。

今日のおもろLINK:住宅都市整理公団|団地一覧/公団

建築 | Posted by simon at April 14, 2005 6:21 | Comments (2) | TrackBack (1)

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