大阪に建つ二つの教会

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二つのとあるのは、同じ日に行ったから。三年前に行ったときの写真。ひょんな会話で、三ヶ月ミサに通うと光の教会で結婚式を挙げれるようになる。という話を聞く。地元の人のための教会となっているようだ。増築されたことで安藤さんらしい戦う構成がなくなってしまった感はあるが、愛着は変わらない。建築的な構成という話で光の教会の話を始めると、残念な気持ちになるが、愛着が増して、要求プログラムが増したことは、ほほえましい事実である。その事実を目の前にして、モダニズム建築の冗長性がないというのは、短絡的な感情に過ぎないが、それに答える形で存在する40代の建築家のスタンスもどこか利用者に近すぎる感じもする。もっと違うかっこのつけかたもあると思う。このつじつまの合わない妄想は、僕らの同時代性はどんなものなのだろうか。という疑念に始まること。もうひとつの写真は、村野籐吾の宝塚カトリック教会。そういえば、心斎橋そごう無くなったなぁ。

建築 | at January 3, 2005 3:49


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Comments

『光の教会』は本当に名建築ですね。ただし、増築されたことにより構成云々というのは、プログラムが増したことに問題があるのではなく、単純に増築が建築としてよくないということに尽きると思う。その意味では、おそらく依然として『光の教会』が変わらなく評価ができるだろうと思えるのは、結局これがインテリアの建築だからかもしれない。そういう意味では、確かにモダニズム建築に冗長性がない(ゆるくない)というのはそのとおりだね。キーワードはredundancyということかな?
ちなみに村野藤吾はぼくの大嫌いな建築家だけれども、『宝塚カトリック教会』はいいよね。実は先日ロンシャンに行ったとき、宝塚の方がいいじゃん、なんてちょっと思ってしまった。

Posted by shinya at January 6, 2005 11:24 PM

ナイスなアシストされてしまった。サッカーで言えば、アシストまでの流れでほぼ点をとれる形になっていたという感じ。やーられた。
インテリアという解釈は、僕には腑に落ちませんが、たとえば、ピーター マークリの彫刻の家に近いところなのでしょうか?光の教会は、既視感のある住宅街を彷徨うと、ふっとたどり着き、周辺を忘れさせてくれる、洗礼感。彫刻の家は、スイスの山渓に立つ街と周辺のランドスケープに酔いしれて、ぬっと入り込んでしまう無造作感。要は建築の外の形をよく思い出せない。
ロンシャンのより宝塚の方がなんて、繋げようと思ったことない。年輪差を感じる(笑)。言われてみれば。あぁともおもったけど。宝塚は、僕の行ったタイミングが悪く、人に使われてる感じがイメージできなかった。あと、デジカメも壊れた。そんなもんだ。

Posted by simon at January 7, 2005 1:23 AM

『彫刻の家』まで出されちゃうとなんだけど、建築のオブジェとしての見え方を評価して『光の教会』を考えると、確かに増築はそれをブチ壊している。でも、そういうことでもないのか、simonの言ってることは。周辺との関係の持たせ方ということかな?

Posted by shinya at January 7, 2005 10:43 AM

周辺との関係となると、場所が違うので、違う回答が生まれるものだと思う。オブジェ的なものの評価というのも違うかなぁ。インテリアの建築というのがなんか新しい評価だなぁと思って。内へ向かいやすい傾向にあった、当時の建築家の思考性から言って、内の存在が堅く守られていれば。いいんだ。という、感覚なのでしょうか。そういう視点なら、確かに比較できない二者の建築だ。

Posted by simon at January 11, 2005 12:22 AM