ちいさな家で考える構造

建築をやっていくからには、常に批評性を意識したい。
無理にでも背負いこむというのが、正確な表現かもしれない。
約26坪の都市住宅の設計課題に取り組もうとしている。
さて、どう接しよう。
今回は、建築家が家具だったり家電だったり本だったり、空間に表出してくる立体に、
なにもポーズをとっていないではないかと指摘している西沢大良にちょっと興味がある。
歴史的には、メディアの影響によって、
最小限の戦後、立ち向かう70年代に匹敵する、コンテンポラリーなキーワードというきらいがあること。
自分の問題として、すまいに対して広ければ広いほどいいのではないかという考えに立ち向かえる切り口が欲しい。言い換えると小さいというサイズに負けない小さな家という意味は ということか。

M1.gif

つくること それを貫く強い形式やルールが欲しい。
乱暴な言い方をすると、20世紀は、社会がもつイデオロギーを批判することで、つくられることが持つ構造を満足できたようなところ、それが羨ましくすら思っている。

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余談だが、建築を作る時の構造の例として、前期課題において、セキスイハイムM1のような社会的なバックグラウンドをもったカタチを利用することで、安心して要求されているナカミを満足させることに集中出来た。当時のM1は、そのカタチの根拠を主張する必要性が正しく思える歴史的背景にあり、工業的なカタチをしている。しかし、純粋な抽象的な形式として利用することで、ナカミを反映させた結果のカタチ、もしくは、カタチを主張した結果のバーチャルなナカミを超えた図式の中で、恣意性を排除出来る。あのM1で構成しましたと言わないことが追求されたことになる。
さて、今回どういった構造を利用することにするか。
構造を切り離すということも可能なのかもしれないが、それは想像できない。
デシャンのような剽窃の美みたいな構造が今は、好きだ。

建築, 作品, かたい | at September 7, 2004 4:36


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