初夢

大阪に帰ってきている。建つ位置は千里ニュータウンの中ではないが、阪急(民間)によって生まれた沿線の住宅街に、旧住宅公団のつくった団地が唐突に挿入されている。その中でも60年代のものは取り壊しが進み、四階建てから五階建てに一新される。家の窓からも見える。それに伴い、電波障害がおこるという理由で初期投資なし。というセールスでケーブルテレビの営業がやってきて、加入し、PC、TV、電話すべてがデジタル化した。目下、そんなプロセスを抜きに、配信され続けるコンテンツを、体が求めつづけている。正月とはそういう時間を作ってくれるものと考えたほうがいいかもしれない。戦後作られた新興の街にある一軒の家の中で動物的本能のまま、過ごしている。

少し反抗してみる。団地に住んだことはないが、団地はまとまって作られるため、個別の作りこみがせめぎあう住宅街と違い、公園や商店、うっそうとした緑が生むちょっとした死角を保有している。しかし、それらは団地のためというより、常時、街に開放されており、公共のものとして無意識に共有されている。秘密の電話をかけに、団地の電話ボックスを使ったり、コープの配送されてくる食料を受け取りに行ったり、地域の英会話教室があったり、なにかと生活の中の重要な場所を提供している。公団が作ってきた住戸自体には価値を見出せず建て直すようだが、冬至四時間日照に基づき、羊羹のような住棟を配列した結果生まれた場所は、なにげによいので残すようだ。公的な顔をもって保障できる公共空間というのはこういうものなのだろうか?。毛並みは違うが民によっても2chやmixiのような公共空間は生み出されている。ただ、そのような空間は、運営する個人の身の振り方次第ではいつでも搾取可能な状況にある。どのように継承されていくか今後、見ものである。建築的なスケールでの搾取不可能、継承が保障されている状況が顕在化し、祝祭性と日常性を備え実行力のある公共空間というのは、まだまだ神社お寺にしかないといっていい。いまブログをタイピングしている場所、新興地では団地のように集まって住む結果、提供されている場所が、ある人にとっては日常であり、甘い記憶であったりする。ただ、団地が生んだ公共空間が今のままでいいとは思えない。かつ、住戸と街の関係は冷え切っているし、住戸自体も魅力的なものとは言いがたい。どこを改善すれば何がよくなるという話ではないが、もっと良くしたい。ちょっと強引だが、40代の建築家達のようにベタ(日常)な視点から発想を得ることもいいし、60代の建築家のようにメタ(制度)に訴えかけることで得る発想もいい。ただ、そこを往復するような態度が必要なんじゃないか。僕は20代。これは初夢。

この手の妄想で困ったときは歴史家に聞くのが一番。歴史家のひとり言、歴史家が語る現実、歴史家の夢を感じるテキストを抽出。「場所に聞く 世界の中の記憶」 鈴木博之 著より
「建築は空間の芸術だと言われるが、むしろそれは時間の芸術ではないか。」
「われわれはあたかも建築家が自由な発想のもとに建築を構想するかのように考える。しかし人間のあらゆる営為は政治的であり、社会的であり、それゆえ歴史的なのだ。その全体に気づかないかのようにして建築を語るならば、単なる専門バカということになろうか。」
「あらゆる場所に歴史は降り積もり、やがて醗酵して文化になる。場所こそが文化を蓄積させる器なのだ。「場所に聞く」とは、場所の中に封じ込められているあらゆる歴史と文化を再び解き放つ試みなのだ。」

建築, monologue | Posted by simon at January 3, 2006 6:01 | Comments (0) | TrackBack (0)

15の住宅の模型

現在開催中の、GALLERY・MA ギャラリー・間20周年記念展 日本の現代住宅 1985-2005に合わせた、展示用の模型をつくりました。お近くにお立ち寄りの際は、ご覧ください。

模型を、僕の大学では15個作りました。依頼されたときは、何とかなるだろうと安請け合いした。なんて、言ってしまうと手伝ってくれたみんなに失礼ですが、何とかなったので良しとしましょう。基本的に、担当した建築全ての1/100と1/30の断面模型を作っています。成城シリーズだけ、1/100の三棟を一体にして造っています。せっかくですので、担当した建築の雑感を。なお、設計者の意図をくみ取っての解釈ではなく、尊重はしますが、今この時点で模型を制作してみて、という視点で勝手に書きます。

・早川邦彦の成城シリーズ 1982-1991
全体を見渡す役割だったので、1/100だけだし、パパパと終わらせる予定が、結構時間かかりました。
この建築(模型を作ったの三棟)は、結果的に一人の建築家が十年くらいかけ、ほぼ一街区(五棟)を設計することになったという、エピソード持つ建築たちです。建てた時代背景は、ポストモダン全盛期ですが、前面道路側の外観は、幾何学の組み合わせで構成されてます。機能的には内部空間と前面道路との緩衝帯になっていて(内部空間を流動的にしたい。とか、部屋と部屋がどう接続してるのかとか、社会構造と空間構造を一致させたい。とかではなく)建築と街がどう繋がることがハッピーなのかということを考えて、設計されたと思います。中庭側は、前面道路側にくらべると意外に古典的な解決でまとめており(頭のたてがみのような風貌と、意外にしっぽりしているおしりが組み合わさっている異色感が)まるでライオン。内部空間は、ちょっとワンパクなところがありますが、今回の展示で見ることは出来ません。最近の作品では、地下鉄のみなとみらい駅がありますね。あの色の使い方は、成城シリーズにも見られます。
中庭にある1/100の模型の中で一番大きいケースに入っているので、すぐ見つかると思います。前面道路と居室空間が繋がる部分で夢を感じてください。

・牛田フィンドレイのトラスウォールハウス 1993
この建築は、好き嫌いが明快にわかれるものだと思います。僕はどちらかというと左脳と右脳のバランスに触手を感じる建築が好きなので、現時点の自分ではきっと創造しないと思いますが、勇気を与えてくれます。建築の言葉を操って、建築のような建築をつくる建築家を目指そうとしているような体質が蔓延している、建築バカの物差しを解放してくれます。
この模型の舞台裏を少し。引き受けて一番不安だったのはこの建築だったと言って、過言ではありません。CADの時代であれば、formZのセクションツールで、模型の2mm間隔くらいの断面をアウトプットして、スチレンペーパーをコンタのように積み上げていけば良いですが、この建築はCAD以前。模型の担当は抽選で各校に分担するという話でしたが、いくつか問題児(笑)がおり、その中のひとつがトラスウォールで、事前にやらないかと言われ、そこでピント来ました。あぁ、あれこれがいるからなんとかなるだろと思いつき、引き受けた節があります。キャスティングで模型の生死が決まると思い、速攻でしつこくアポをとった甲斐がありました。結果から言うとなかなか上手くできたと思います。本当にありがとう。屋上に向かう手すりは、彼女の技によって出来たものです。再現不可能です。

・斎藤裕の蕣居 1997
この建築の内部はきっと暗いです。しかし、ぼくらが担当した建築の中では一番、自己の再生産の追求と徹底からなる、内にあるユートピアを最大限に解放してつくられた建築だと、勝手におもいます。個人的なバックグラウンドですが、当時、学部二年だったか、斎藤さんの展示の製作をじっくり手伝ったことがあるから言えるのかもしれません。というのと、その経験がなければ、評価に苦しむ自分が目に見えます。建築は硬くてなんぼという偏見から、レンジを広げてくれた建築家です。建築の外に対するアピールは少し(というよりそもそも時代が)違いますが、村野藤吾の内部におけるディテールに近いものを感じます。村野さんの「この手すりは貴婦人に手をさしのべるような〜」というくだりを思い出しました。
模型に関して言うと、1/30の模型はforexという低発砲の塩ビ版と、指定されていたので、その中では頑張りました。しかし、最近のような抽象化した建築。言い換えると、1/100くらいのスケールの模型がそのまま出来たような建築ではなく、1/1のスケールがある建築なので、1/100や1/30の模型にどう還元するかにかなり悩みました。とくに1/100は作り込めば込むほど、駄目になっていきます。粗探しせず、我が子を愛でるようなモードに入ってから見てください(笑)。

・坂本一成のHouseSA 1999
この模型が一番、時間かかりました。図面や写真ではわからず、実際に見に行きました。建築家は変態ばかりですが、この建築家もかなり変態です。でも、空間はとっても良いです。実際もよかったです。自分のユートピアと現実との折り合い、引き算のバランスが好きです。空間の構成は屋根の下に、とぐろを巻いた大きな空間があるのですが、単純なワンルームではありません。居心地のある小さい襞が寄り集まった大きい空間と言ってみましょう。建築家は一つの理論を徹底することで美意識を主張する傾向にありますが、坂本さんは、おもいっきり逆のスタンスをとっています。ロジックの集積と解体を繰り返し、ある瞬間でパッと止めたような空間です。模型も、襞の感覚を出来るかぎり、表現することを追求しました。まったくバリアフリーではありませんし、エコロジカルな図体にも頼っていません。でも、そこには現代に生きる空間があります。あぁいいです。すごくいいです。

・米田明のambi-flux 2000
この模型は三日くらいで出来たのであまり覚えていません(笑)。というより、しゃべりすぎな気がしてきました。いわゆるウナギの寝床と言われる敷地における狭小住宅で、ワークスペースがある現代的な機能を持った住居です。敷地が狭いのでそれほど、空間の構成のバリエーションはつくれません。クレバーな建築です。模型は、八割。螺旋階段のスタディにかかりました。楽しそうにつくっていたので、よい感じの階段が出来ました。

・遠藤政樹 + 池田昌弘のナチュラルエリップス 2002
さきほどのトラスウォールといい、舜居といい問題児シリーズの最後です。曲面の建築でひとくくりに言えることが一つあります。それは、実際に建てることと戦っているので、どこかで単純化しています。自分の理想の空間を追求する一方で、アルゴリズムの徹底が要求される。だから建築はおもしろい。
この建築は、幸いCAD以後の建築なので、骨格の再現に困る事はありませんでした。ただ、空間を追求するための模型ではなく、展示用の模型というのが意外な落とし穴でした。実際は、鳥かごのような骨格の内と外から膜を貼ってある構成なのですが、鳥かごなので一体でつくればバランスがとれているのですが(1/30は)断面模型なのです。初めは、骨格に伸縮性のある布を付ける予定でしたが、布と床が接する部分の処理がうまくいかないのと、半分の模型なので自立が難しいということで、その曲面の壁だけで自立するように軽量の紙粘土で下地をつくってから、モデリングペーストで盛り上げ、やすりの繰り返しです。ただ、紙粘土が肉痩せすることに途中まで気づきませんでした。そのぶん、やすりを頑張ってます。空間がストイックなのでストイックな後輩に任せたのが正解でした。全体を見る人はキャスティング能力が要求されます。はい。

・中村勇大の此花の長床 2002
この建築は、一階はピロティで、居室は二階だけ。敷地のほとんどが外部です。モダニズムの建築教育を受けてきた世代の建築には、求める理想と実際の都市の猥雑さとの落差についていけず、内部空間の豊潤さを無意識に求める美学があります。しかし、この建築は、内部空間が外部に露出しています。かつ、この傾向は無意識に今の建築にあると思います。空間を単純化、抽象化する傾向の次かもしれません。どうして、そう考えるのかは、またの機会に書こうと思いますが、一つ言えるのは、建築をつくると時に、街との関わり合いを考えることを見直そうという傾向が見えます。かつては都市に建築家は期待してきましたが、挫折し、今に至ります。その傾向の先に見えるのはコミュニティ。よこの繋がりです。上部組織と下部組織の隔たりを埋め、転覆させるかもしれない波です。

参照RSS:GALLERY・MA ギャラリー・間20周年記念展 日本の現代住宅 1985-2005の話題を追いかけて見る。

建築 | Posted by simon at December 14, 2005 5:05 | Comments (0) | TrackBack (0)

高過庵

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ちょっくら見に行ってきました。最近、書く余裕がないけど、書きたいネタはある。
藤森さんの建築は建築家が表現しないことをわざとしているようだけれども、(歴史家として)建築家が見たい桃源郷は理解していて、わざと避けようとしているのではなく、自ずから沸く欲求が、かわいらしく見えて何も言えないといった感じ。プリミティブすぎて真似できないところからもオリジナリティは十分垣間見える。テクノロジーをはねのける毛深さはどこへ向かうのか、それとも予定調和な劇場的なものなのか。僕には分かわらない。ようはどこでジャンプしているのだろうか。

建築 | Posted by simon at November 10, 2005 1:40 | Comments (0) | TrackBack (0)

SA

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House SAに行ってきました。いくら図面を見ても、疑問がでるもので。模型にするとなおさらだ。当日の私のコンディションは最悪で、二徹夜の作業(しかも、あのメディアテークの模型をつくった模型事務所での作業で、緊張と弛緩の連続の環境だった)後で、半分昏睡状態だった。行く途中も、なぜスパイラル(階段状の空間)なんだと、出口の見えない夢の中、神山健治・東浩紀の対談の中にある、最近の押井さんは年齢のせいか、獲得できないフィジカルな欲求ばかりば目立つ。という、一説との往復しか出来なくなっていた。
TOTO通信今秋号の「原・現代住宅再見 41(PDF)」で取り上げられている。物品の詩学なる藤森流のタイトルがついているが、まさにそういう空間だった。物品への欲求といえば、西沢大良の、空間を所有している物品と同系色に仕上げるという、空間への興味と通じているものがある気がした。坂本研だし。ただ、坂本さんが住宅と物品をテーマに設計をしたかは定かではない。朦朧な記憶をたどると、オブジェクトの配列の緻密さを、一緒に見ていた人々もすごいと言っていたが、それを解決することには無自覚だったような印象を持っている。物品への興味のたとえに藤森さんはオタクをあげているが、確かに物品に埋もれるような空間で、寝そべれるスペースがほとんど無い。寝るときに使うと言っていたスパイラルの最後にある畳と、途中にあるアフリカ民族の木彫りのベットの上でくらいしか寝そべることができない。オタクの原型を発見したのかもしれないな。風貌とイメージも一致している…。

そのあと、ぎりぎりの体調のまま、以前から約束していた、杉本 博司「時間の終わり」を見てきた。個人的な伏線があって、ブリゲンツ美術館で始めて作品を見、印象に残っていたので絶対行きたかったのだ。tkmyさんは、ブリゲンツは建築としてはおもしろいが美術館としては最悪と言っていたが、僕は杉本 博司の作品があまりにもフィットしていて最高にいい美術館だと思っていた。
建築シリーズがやっぱり好き。建築家の無自覚な欲求を顕すようなテンションでフレーミングされた建築たち。WTCなんて強烈だ。だれも見向きもしないくらいマンハッタンに埋没していた建築を撮影する嗅覚はさすが。911後、さらに意味が上書きされた気がする。消されて記憶に残る建築。無自覚な欲求=建築という墓。
全体としては作品数も多く満足したが、ハイサイドから柔らかい自然光が降り注ぐブリゲンツとは印象がまるで違った。写真は自然光に限る。護王神社の模型があって、直島の瀬戸内を見立てて、東京湾が見えるとなっていたが、朦朧としていたわたしはあほぉなことにのぞき忘れてきた。もう一回行きたい。

建築 | Posted by simon at October 12, 2005 4:51 | Comments (0) | TrackBack (0)

forbidden place

場所
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横浜市の都市デザイン室長の講義を聞く。実践的な話の中から一つだけ気になったことが。「都市計画的に健全とされているものしか良いとは言えない」というフレーズが印象に残っている。まち全体をそのテンションで徹底すると、ニュータウンという言葉に喚起される街並みが想像される。しかし、誰もが郊外の街にはどこか物足りなさを感じている。優良な計画学と実生活から得られる価値観の落差には、直接つないで説明できないほどの深い溝がある。

アノニマスな禁断かなにか。特異な条件下で発生した郊外団地を舞台としたコンテンツ(小説 映画 ドラマ)は数多い。金妻平成狸合戦ぽんぽこなど切りがない。最近では月9で放送されていたエンジンにも多摩NTのカットが入っていた。また、郊外団地を舞台とした映画が論文のテーマにもなっている。イメージと実態の落差に惹かれ群がる人々。

郊外団地をテーマにした議論や論文によく取り上げられる小説がある。直木賞作家でNTに住む重松清が書いた定年ゴジラだ。ある対談で冷静に都心回帰は郊外逃避であると言い放ちつつ、あとがきにはNTが少し好きになったと書くところ、自己矛盾を抱えていて面白い。

禁断な関係(場所
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群がるとおちつく?(場所
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建築 | Posted by simon at July 27, 2005 4:01 | Comments (0) | TrackBack (0)

リサイクル

転用1(場所
MYSTtrtora.jpg

転用2
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テトラポッドは、脚の頂点を結ぶと正四面体になる。
自重を無視すれば、正十二面体の立体で、組上げることが出来る。
構造のアルゴリズムとしては、最適化のたぐい。
*実は、テトラポッドは、株式会社テトラの登録商標。ウォークマンみたいなもん。

ギャラ間のレクチャーで最適化とリダンダンシーのプログラムを聞いている時に、ふと思った。
水戸芸のテトラ(四面体=三角形で構成した立体)で組上げた塔は、構造のアルゴリズム上、最適化されているが、リダンダンシーがない。(もっとも緊張した状態での構成のため、一本折れたりすると、崩れる)
例えば、車が理論上最適な三輪で普及出来なかったのは、急カーブの時、荷物の重量が想定外であると、力のながれをほかに逃がすことが出来ず、倒れやすいから。四輪ならば、倒れる方向に車輪がついているので、耐えられる許容が大きくなる(リダンダンシーがある)。
当たり前の話だが、三輪は理論上最適なものではあるが、流通できない弱さがあったということ。

建築における一つの潮流に、「合理性へ向かう目標を外す。といったことが挙げられるだろう。」と、前出のレクチュアで言っていた。
CGを作成しているときに、なーんかわくわくしなかった理由が分かった気がする。テトラポッドで構成した立体は、最適化された構成(リダンダンシーがない)のため。新しい予感がしなかったのかぁ。

アントチェアにも三脚がある。倒れやすそうだが、正しい姿勢であれば問題ない。モダニズムでは、正しい姿勢での椅子の着席が最適とされていた。んー、リダンダンシーがない。(笑)

関連リンク:simon|DERIVEに魅せられる

建築 | Posted by simon at July 2, 2005 23:28 | Comments (0) | TrackBack (0)

万博

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ロボットと戯れる人間と、自然はいいなぁといったような、全体的に楽観的なムード。なんの目的に万博をやったかは、行っただけでは分からなかった。隊列を組む自動走行のバスや、感覚的に操作出来るモビリティなど、テクノロジーだけを見ればおもしろいものもあったが、とにかく建築がつまらない。
そんななかTOYOTAパビリオンが突出しているように見えた。21世紀的な技術的テーマと、個人的な創意のバランスがとれていて好印象。小さなパーツ(軽鉄)を組み合わせて大きな空間を得る悦びと、解体できる明快さが結果的に何を生むか。そのへんをもっとアピールしても、いいかなとは思ったけど。
まぁ。万国博覧会というフレームで何を生もうとしているか考えないと、ただの観光アピールの場になっていた。

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建築 | Posted by simon at June 6, 2005 1:25 | Comments (0) | TrackBack (0)

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