ホワイトアウト

僕らの世代は「ホワイトアウトの建築」からどう逃れるのか。自立出来るのか。というのが、無意識に抱えている困惑ではなかろうか。こんな会話をプレゼンを作りながらしていた。
先月、あるコンペのプレゼンテーションを作っていた。アーキテクトは、アドビイラストレーター独特のホワイトアウトする仕上がりが、気に入らないらしい。(笑)

ex-planticon.jpg
近年、ユーロで最大規模になった自動車サプライヤーメーカーが、グローバルリーダーとして展開する中、各地に作る工場に、共通のビジュアルアイデンティティを提案して欲しい。というのが主旨だった。
土地が具体的に想定されていないコンペだった。そのため、一つの解答(建築)を目的とする事に、違和感を覚えた僕らは、現代的なテーマや、従来からあるテーマを示唆するキーワードを四つ挙げ、僕らが建築をアセンブルする流れを、プレゼンテーションすることになった。
それらから連想される建築化するアイデアを、彼らが持つ工場のシステムにアディションすることで、はなしの構造と同時に、僕らの持つボキャブラリーを伝えようとした。
キーワードから派生した、離散する20のアイデアを、アイコンに表現できるレベルまで還元し、四つの軸の中での関係性(位置)をプレゼンテーションで表現した。

建築 | at March 15, 2005 0:08


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Comments

「ホワイトアウトの建築」を正しく定義する必要があるね。仕上げが白い?
「ホワイトアウトするプレゼンテーション」も同様。線が少ない? 線が細い? 紙の地の色が白い?
そうしないことには話が先に進まない。

Posted by satohshinya at March 18, 2005 8:10 AM

このエントリーは、曖昧にしてあって、危険である。
ひとつは、SANAAのプレゼンのことを言っている。NEW MUSEUMのQuicktimeがもっとも特徴的。もともと、ホワイトアウトは、映像のフェイドテクニックに由来?していると思うのだけど、大枠としては、非装飾と言ってしまう程度の理解しかしていない。
もうひとつの、アーキテクトの嫌いは、意図が曖昧になっているように見えていることを、ホワイトアウトと皮肉っているだけ。
このエントリーに通じる話が、頭の片隅にはある。ホワイトアウトな建築。スーパーフラットな構造。この差異を意識することで、次の展開が理解できるかも知れない。それは、先立つものではないとは思うが。

Posted by simon at March 19, 2005 1:04 PM

スーパーフラットについての附記。
東浩紀によると、スーパーフラットは〈カメラアイの欠落、フレームの弱さ〉、そして〈透視図法的な視線の機能不全〉、〈曖昧な目の増殖〉と説明される。更に、あるトークショーにおいて、〈コンピュータの「インターフェイス」も重要だと思っているんですね。インターフェイスというのは、……きわめて表面的で、その背後には何もないフラットなものです。……でもそこで、フォルダ(folder)をクリックすると、パッとウィンドウが開くわけです。そのウィンドウとフォルダの関係をひとつの手掛かりに、スーパーフラットの中に畳み込まれた(畳む=fold)「スーパー」について考えられないかと、僕は考えているわけです。〉と続くはずだったのだが……。

Posted by satohshinya at March 19, 2005 4:19 PM

ホワイトアウトってモダニズムの延長にあるものなんじゃないかって、ちょっと前に原(研哉)先生と話してました。

日本では元より、日本画において中景を描かないという
スーパーフラットな視点は当たり前で(村上隆も日本画ですし)オタク文化に限らず広告界でも“主題の無い画面”が流行ってますし。

ヨーロッパの方ではリヒターとかユタ・バースが、
(輪郭=情報)過多に対するアンチテーゼも込めて
>こんな写真撮ったりして。
去年妹島さんと隈さんの講演聞いたときも、「現象としての光」「見るためのコミュニケーション」など視覚的なキーワードを多様してました。妹島さんは特に「フッと抜けるかんじ」とか擬音連発で。
みんな輪郭に疲れているんじゃないかって。
そのうちまた負けない建築が流行るんですかね。

Posted by shiro at March 23, 2005 1:23 AM

歴史は繰り返されるってやつですかね。思いついたこと書いてみる。
・個人的な印象としては、今世紀、「日本的なもの」みたいな話が盛り返す気がしている。丹下健三さんが亡くなったのもあるし、彼をとりまく伝統論争(香川県庁舎や広島ピースセンターの頃)を、もう一度ざっくり見直そうかな。感覚だけど、数寄屋建築や仏閣は線が多い。細い線の組み合わせ。そういう原風景の解釈に対して、個人の理想をむりやり繋げて考えてみるのも面白いと思う。
・戦後復興から、高度成長を経て、海外から評価される建築家が多く出ている。世界における日本的な視点が捻出される状況にあるなど。外から見た日本的な視点を説明する必要がより要求されるような気がする。アジアにおける日本の立場なんか気になる。(建築における「日本的なもの」 磯崎新 新潮社)
・前世紀は、様式からの脱却が、きっかけとしてあった。今世紀は、ホワイトアウトからの脱却か。未だ早いかな(笑)んんん。いろいろ考えされる。
・流行っているっていうのは、すでにある概念だから、そこを越えたいという欲求が生まれるのが素直なポジション。線が多いというのは、線が少ないという事に対して分かりやすい大枠であるのは、確か。数寄屋でもない、伝統建築でもない、建築って?表現って?。線が、多い表現好きなんだけどね。実は。
・モダニズムの解釈って、人それぞれにあると思うのだけど、当時の背景として、合理主義的な思想の原点があって、生活(住居)レベルの水準をあげるためという社会的な使命があった中での、量産住宅、量産技術、なんて言うのは、個人的におもしろいと思っている。量産という合理性は、風景に繋がるような話で、同潤会アパートにあげられるような、全国的に展開した団地。これは、風景、ランドスープ、街並みを作る、仕組みに繋がる可能性を持っていると思っている。
いやぁ。雑なコメントですまない。

Posted by simon at March 23, 2005 2:41 AM

「日本的なもの」に関しては、デザインの分野でも原研哉と内田繁が今やっきになって打ち出してますね。
内田さんの茶室シリーズとか原さんの(無印を利用した)広告とか。自分も線が多い建築好きです。東雲キャナルコートの隈棟も線で構成されてました。
最近ちょっと上野千鶴子さんの本を読んで、上の東浩紀さんのスーパーフラットじゃないけど、nLDKだけじゃない団地の在り方、もっとフレキシブルな、様々な空間の使われ方ってのがようやく始まったのかなぁって思いました。山本理顕が、ストリートファニチャーをあえて“曖昧に”作ったと言ってましたし、空間もホワイトアウト、でしょうか。

Posted by shiro at March 24, 2005 2:07 AM

団地作る団体って、都市機構(UR)になったんだよね。東雲は、ちょっと家賃が高めで、当たり前といえば、当たり前なんだが、が。新建築の山本理顕との対談で、伊東さんがこのプロジェクト「嫌い」と言っていたのを、インタビューアーだった人が言っていた。(ちなみに、過激すぎで、このコメントは、未収録。)個人的には、「突き抜けるおもしろさがないプロジェクトに、結果的になったようだ。」という印象を持っている。

Posted by simon at March 25, 2005 1:03 AM