原美術館ARC

HARA_arc.jpg

富弘美術館にも行ってきた。良くも悪くもあたまを抱えさせてくれる建築だ。コンペ的な思考にたてば、勝つと言う目的において、円形のプランを採用したことに問題はないだろう。何より勝者となり建築を作っているのだから。ただ、美術館として本当に良いかどうかはよく分からなかった。
確かに、建築の話としてはおもしろい。しかし、建築家の能力はそれだけではないはずだ。プロジェクトの規模に対して、ある程度の予算があり、その中で美しいまとまりを描かなければならない。完成に至る経過を詳しくは知らないが、建物とその周辺が断絶していた。アスファルトのアプローチ。湖面まで降りる動線。ツーリズムを優先させた車寄せ。それと建築。それらが、縦割りで工事区分が分担されているような印象すらあった。それが、建築家が発言した結果であれば、少し悲劇的な建築かもしれない。
空間のバリエーションは、断面のヒエラルキーがなく、円の大きさのみで違いを出している。そのため、素材をいろいろ使っているが、少しうるさかったかもしれない。加えて、円が詰まりすぎている気もした。円と円がぶつかった余りの空間などを利用して、外部が感じられる空間などが、もうすこし混じり合っても面白かった気がする。それを解決するためには、箱の大きさを広げれば良いのだけれども。無理だったのかなぁ。ただ、円が迫ってくる空間は、負けている感じが強く、居心地は悪そうなので、見えているだけでいい。
プランは、道路側がサービスで、湖に向かってオープンな機能へグラデーションする従順なもの。壁から壁を抜けて、予期せぬ風景が重なっている種類が、全方位へ展開できるように散らすことはできなかったのだろうか。
文句を言っているのではない。いろいろ考えさせられたのだ。円を徹底するという方法論の中で、他の手はなかったのか、ずっと考えながら、ぐるぐると歩いていた。
円形の壁づたえに、人がオートメーション化されているように、並んで動いているのには、少し驚いた。笑
原美術館ARCが、すばらしかったので、そういう気持ちになったのかもしれない。

建築 | at May 16, 2005 10:32


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Comments

コンペで良い(勝てる)建物が、実際に出来た時に良い建物かはわからないという指摘。
そのとおりかも知れないね。
これは建築の評価軸がいくつもあるということの証明だと思うのだけれども、
少し違う軸で、僕も最近同じような事を考えたので、メモ代わりに書いておきます。

最近、フランスの建築・インテリア取材に同行する機会があって、幾つかの作品を実作・写真あわせて見せてもらった。
方向性としては「ライフスタイル系雑誌」に載るものを思い浮かべてもらえば良いと思う。

そこで、メディアの人が「素敵ですねー。」「カッコイイですね。」という。僕もそうは思うのだけれども、所謂「建築コミニティー」においては評価されないであろう<ものたち>だということは良く分かる。(たぶん批評性がないという意味で)

でも、それが悪い空間化といえばむしろ良い空間だったりするし、納まりも素晴らしくきれいだったりする。参照源も多いかも。結構好きだった。
だって、オシャレなんだもの。

「建築的批評性軸」と「雰囲気良しオシャレ軸」なんて評価軸が確かにあるんだけれども、「プロウケ」対「素人ウケ」なんて単純に分けられるものではないことは確か。でも、自分の中で上手く整理できない。
だから、この文面を借りて、誰かにふってみようかな・・・・・・・・・・・。

Posted by sugawara at May 21, 2005 9:24 PM

メールも頂いていたのに。ここで、返信というかたちで。
んーと。結論から言うと、学生が建築にどう立ち向かうかという視点に立って言うならば、ハッピー(自分に素直)であることにこしたことない。と、簡単に書いてしまうと馬鹿もいいところなので、考えてみた。
評価軸って、そんなに意識するものではないが、批評的な議論や、一般的な議論を往復することで、いろんな評価軸を知ることは基本的にはずせない。単純な知的欲求なので、それが、ハッピーになれる建築に繋がるかは、どうでもいい。議論のためのツールのようなものかなぁ。
デザインをいいとも悪いとも、直接的な表現で言葉にするより、示唆的な表現を共有することの方が、エネルギー的には正しい方向性だと思う。そういう意味でのツール。
作業は、必ず協働の中でおこわなわれるわけだし、クライアントやメディアといった対外的な評価も同時に存在する訳だし、それぞれの評価軸の中で答える必要はあると思う。そうやって立ち回れるならば、きっとすばらしい建築家になれるんではないかと。楽観的に考えている。
と言っておきながら、建築家になりたいとは、恥ずかしくて言えない。それも対外的な評価がつくっている妄想だし、信じれるものではない。やっぱり、自分に素直に。なのだ。

Posted by simon at May 22, 2005 5:37 PM

そうだね。確かに自分に素直が一番大事だよね。

一方で、僕は物事を自覚的に認識しながら作っていることは、<もの・こと>を作る者にとって、とても重要だと考えていて、これは多様な『評価軸』を自分の中でどの様に認識するかと同じ意味な気がするんだ。
(これは『新しさ』につながると思っている)
その場合、僕が勝手に名づけた『建築的批評性軸』と『雰囲気良しオシャレ軸』て奴は、どう捉えて良いか分からないんだよね。
これを単純化してしまえば、やはり『プロウケ』対『素人ウケ』といえるのかもしれないな。

それは『作り手』と『施主』の評価軸ともいえるんだけど、その評価軸の設定の仕方、もしくは切り口みたいなものをどう考えるかは、デザインをしていく際の『土俵』みたいな存在になると思うの。
つまり、二つの評価軸はそもそも存在しないのか?/一方の評価軸しか存在しないのか?/両方は一つのものとして存在しているのか?とかね。

これはすなわち『作り手』と『施主』の関係(simonさんの言葉を使えば『ツール』なのかな?←simonさんの意味を正確に理解していないけど。)そのものでもある気がする。
これって、コンペ応募時でも実施設計でも重要な要素で、かつ設定の仕方によってスタンスがカチカチと簡単に変えられる『スイッチ』みたいな物でもある。それによって、ある<もの>に対して、いろんな見方の『気づき』を得ることができるでしょ?

だから、それを『ツール』として使いこなす第一歩、もしくはそれを見つけるためのたたき台の一つとして、『建築的批評性軸』と『雰囲気良しオシャレ軸』をみんなはどう捉えているかな?もしくは意識しているのかな?と思ったわけです。

当然、そんなものをはるかに飛び越えることができたら、『ますたーぴーす!!』と呼ばれるものになるんだろうけど。ね。

Posted by sugawara at May 23, 2005 9:04 AM

また、僕が答えてしまっては。せっかく、(雑然とした中から)そぎ落とした二軸によって、理論を展開する「土俵」をつくり、「新しさ」へ向かいたい根源から期待する、多様性を持った見解が薄らいでしまうかも知れませんが。笑(くどい言い回しになってしまった)
どういう場所でも、自分の意志が伝えられるように、どのような人に会っても、やわらかい持論を展開することを、意識的に訓練しています。(一歩間違えると、かなりうざいはず。)こうやって、ブログを書いていることも一端かも知れませんが、もっと即興性のある空間のほうが、得られる展開が大きいのは、経験的にわかってきた。
そんななか、作り手にも施主にも満足できる土俵をつくれないか。と言った話は、無意識にだれもが考えることだと思います。ときには、共同作業のようなクライアントもいれば、教育的に指導しないとどうにも駄目なときなど(笑)。どちらが、傑作に近いかは不明ですが、方法論としては、満足感の矛先がそろっていなくとも、プロジェクトの、ある具体的なカタチや、それを含んだ空間。ようは「シンボル的なストーリー」(=土俵。と言えるのかも。)が共有出来ると、困ったときに立ち戻れたり、自分の創意の活力みたいなものになると考えたことがあった。
あくまでも、一つの方法論であって、万全に適応可能だとは思いませんが。

Posted by simon at May 23, 2005 4:09 PM

smonさんの一発目の文章で明らかに
『コンペに勝つ軸』と『建築として良い軸』という
設定をしていると思ったんだけど。
僕の解釈違いだったみたいだね。

でも、明らかに上記の評価軸を区別している語り口は
もし、そうででないのであれば何を言いたかったんだろうなー。と思ってしまうかも。

まあ、smonさん的には『当たり前のことガタガタ言うな』みたいな(笑)感じだから、退散しときます。

Posted by sugawara at May 24, 2005 7:37 AM

誤解をおそれずに書くと。
ブログって新しいと思い。いろいろ期待して始めたけれど。
やっぱり、言葉で表現しているだけあって。自分の中ですでに整理されていることを、つらつらと並べることに、結果的になっている。
ただ、膨大な情報を整理する手段。オリジナルのアーカイブとしては貴重で。頭の整理にはなっている。その行為の中で、議論の火がつけば楽しい。どこかのエントリーで書いたけれども、ブログによって「横のつながりが生まれる」ということを、まさに体感している感覚が気持ちよかったりもする。ただ、一方で、突然、新しい回路に接続される、緊張感みたいなのも、どこかで欲しているというのは確か。
ちょっと、コメントの流れを見直して、思い立ち、書きました。
一発目の文章というのは、エントリーのことですよね。『コンペに勝つ軸』と『建築として良い軸』というのを設定しながらエントリーは書きました。ただ、sugawaraさんの感覚を引き出してみたいという好奇心からすこし議論が脱線した模様です。笑
従って、エントリーとコメントは全く、コンテクストを持っていない状態で書き込まれてます。はい。よくないですよね。笑

Posted by simon at May 26, 2005 1:57 AM

遅まきながら登場します。
『作り手』と『施主』の評価軸というのは、プロジェクト毎に個別の関係を持つもので、それぞれの事例において検討することは可能であるかもしれないけど、一般論にはなりにくい。

>つまり、二つの評価軸はそもそも存在しないのか?/一方の評価軸しか存在しないのか?/両方は一つのものとして存在しているのか?とかね。

1つか2つかと言われれば、基本的には2つだと思う。それがときに1つになるときもあるだろうし、相反する2つかもしれない。評価軸という言葉に少し違和感があるけど、まあ単純に言って、良いか悪いかという判断だと考えると、片方がない、もしくは両方ともないというのもあり得るかもしれない。
何れにしても、この評価軸が存在したとして、それらが相反するのか、もしくは一致するのかということは、必ずしも建築の評価と関係を持たない。ファンズワース邸などの例を出すまでもなく。hyに言わせれば、『施主』の評価軸を拡大するようにして『作り手』の評価軸に取り込んでゆく、とでもなるのかもしれないけど、僕としては、『施主』の評価軸を必要以上に『作り手』のアリバイとして説明してゆくことには興味を持てない。
そして、『コンペに勝つ軸』と『建築として良い軸』というやっかいな問題。ここに至っては、『作り手』と『施主』の評価軸以上(以下?)の問題で、つまり、『作り手』『審査員』『施主』という三つ巴の評価軸が存在するのだろうけど、これも個別な事例があるだけ。ハッピーなコンペによる建築もあれば、そうでないものもある。
そうなると、結局『ますたーぴーす!!』を作ることだけが、それらの問題を回避する可能性を持つ一般的な方法ということになっちゃうのかな? ゴメン、中身のない結論で。
もう一言。『建築的批評性軸』と『雰囲気良しオシャレ軸』の問題。個人的には、『雰囲気良しオシャレ軸』というのは、何も自分がやらなくても他に(もっと器用に)やってくれる人が山ほどいるだろうと思っちゃう。もちろん、僕も『雰囲気良しオシャレ』は嫌いではない。自分の家だったら、こういうところに住むのも悪くないよなと思う(笑)。一施主の意見として。でも、それを自分がやるかというと、やっぱり別の問題なんだよね。

Posted by satohshinya at June 2, 2005 7:32 PM

ようやく件の美術館を訪れました。やっぱり、『コンペに勝つ軸』と『建築として良い軸』が違うという結論に達するしかない。少なくとも、前回のコメントに書いたとおり、このコンペにおいて勝つための軸は、良い建築をつくるための軸ではなかったと言わざるを得ない。これでは、ただの審査員批判か?
その意味では、設計者はコンペに勝ったコンセプトに忠実に、構造設計者は更にそれを過激に推し進めるように忠実に、最後の仕上げでは、やや設計者の多彩な趣味が溢れ出てしまった感はあるが、やはり基本的にはコンペに勝った軸をパワーアップさせる方向で建築は完成しているように思う。そうなると、もう矛先は審査員に向けるしかない(笑)。もちろん、このコンペの一コンペティターとしての僻みを加えて、そう思う。

Posted by satohshinya at June 22, 2005 12:59 AM

と、なるとやはり
コンセプトを純化することによって引き起こされた悲劇的な建築なのか。
審査員も、純粋に新しい建築を期待したのであって。
コンペティターも、純粋に自分のボキャブラリーを突き詰め。
足尾銅山の再生、村に愛されている作家のため建築。ひかえているナラティブな部分も、非常に美しいものである。
…。
困難な環境なほうが。良い建築が生まれやすいのか。
簡単なシュートは外して、困難なシュートは決めるどこかの国のFWみたいだな。

Posted by simon at June 23, 2005 6:05 AM

《コンセプトを純化することによって引き起こされた悲劇》なんて言われちゃうといやなので一言追加すると、やはりスケールの問題とビルディングタイプの問題が大きいと思う。それらとコンセプトが合致しているかという問題。もし、あの同じコンセプトで、もう少し大きく(広く)、美術館ではない建物であったとしたら? そんな仮定は考えるに値するような気がする。

Posted by satohshinya at June 23, 2005 7:11 AM

実際、あの円形の構成で、住宅など他のプロジェクトをすすめているという話を聞いたことがある。可能性を感じているのだろう。

Posted by simon at June 25, 2005 4:31 AM