imageの提出

駅をはじめ 住宅 商業施設 公園
そして 今回の計画全てにおいて
どういった場をつくろうかという話には そもそも関わることができない
これらが相互に関連せず無秩序に配置されている風景が
傲慢に出来上がらんばかりの舞台の上で
踊らされるわけには いかない。

この舞台を「いわゆる建築」のコンペティションではないと読み替える。
新しい もの こと を創造しようという機会であり
(都市計画による 建築家による 土木による ランドスケープやら 建築やらの)フレームを越えた
横断的な解釈と提案が 鮮やなインスピレーションを与える。
その解釈と提案を 「うれしい環境」と呼ぼう。

ここにガラスをたてる。

風景を 描こうとしているだけ ではない。
光景を 望もうとしているだけ ではない。
建築を 構築しようとしている のではない。
介入することにより 人々に 大地に 建築に「うれしい環境」を望み
記憶の中をデザインしようとしている。

美しい山並みを望むことが出来る敷地において
人々が見えること
山並みが見えること
ガラスが見えること
人々と山並みとガラスが重なって見えること
人々が強調されること
山並みが強調されること
ガラスが強調されること
光の中に人々が引き込まれること
光の中に山並みが消えようとすること、立ち現れようとすること
光の中にガラスが溶融すること
晴れだろうと 雨だろうと 曇りだろうと 雪の日だろうと その日その日の「やさしい環境」を 描く。

その全てを「やさしい環境」と呼び ガラスをたてることによって獲得する。

すべてが曖昧なバランスの中で
ここ(安中)という そのもの(アイデンティティ)として 人々に美しい印象を与える。

建築, monologue | at June 21, 2003 12:00


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Comments

「うれしい環境」というフレーズはよいと思う。しかし、「やさしい環境」というフレーズはよくない。なぜならば、「やさしい」という言葉は、あまりにも立場によって捉えられ方が異なるから。一方にとって「やさしい」ことが、他方にとって「やさしく」ないことはよくある。しかも、「やさしく」ないだけではなく、危害を被る、もしくは否定的な感情を抱かれすらする。「うれしい」という言葉は、そこまで反対向きの感情を生むことが少ない。そのため、「うれしい」を積み重ねていくことができる可能性がある。
「この舞台を『いわゆる建築』のコンペティションではないと読み替える。」ということにも賛成。多分、実際にそれこそが望まれていることだと思う。それが「新しい もの こと」と整理されてしまうとあまりにもありきたりな印象を持つが、1つの課題として、その「横断」をどこまで広域的に捉えることができ、しかも、それを整理して説明できるかが鍵。
「ここにガラスをたてる。」以下の文章。少なくとも、今の時点で要求されている言葉はこのようなものではない。このような詩的な表現は、最終的に、完成されたものを他者に伝える際に、それを感情的なレベルにおいても理解させるための(または、感情的に理解させるための)プレゼンテーションとして用いるのであれば、それも1つの方法かもしれない。しかし、現時点では、感情的に共感できるだけではなt?い何かを探さなければいけない。そうしなければ、いつまで経っても「ガラス」をたてることは、他者にとって意味を持ち得ない。
「うれしい環境」もまた、詩的な表現でもあるので、更なる具体化を望む。

Posted by shinya at October 3, 2004 10:32 PM

1
コンセプトで 最悪な間違いを犯していた

全て「うれしい環境」がであって
以下に書いてある「やさしい環境」というのは間違いです

うれしい と やさしい ではえらい違うのも わかります。

2
詩的なのは
すでに今回の計画のコンセプトダイアグラムがあって
それを文字に置き換えたら こんなに長い詩的な文章になってしまった。
でも 結構イメージを伝達するにはよいかと思って送りました。

僕のコンセプトと呼ぶものは
今回の提案において
何を考え 何を創造しようとしているのか という断片を連続的に伝える手段を 総じて コンセプトと呼んでいるので
その辺は ゆるやかに解釈願います。

詩的なものが 最終的なプレゼンで 感情に訴えかけるというのも 納得でき

今は 具体的な(従来で言う 建築的な)提案が 覗きたいというのも 納得です。

なので
次は絵を送ります。

いわゆる具体化した絵です。

Posted by simon at October 3, 2004 10:39 PM

1
「うれしい建築」の間違いの件は了解。

2
今までとは異なる方法で計画を考えてみること。今まで考えてきたコンセプトと呼ぶものを超えた(外れた)地点で考えてみること。「断片を継続的に伝える手段」=「詩的な文章」とは限らない。ゆるやかに解釈はしません。こんなことを行っている意味がなくなるから。
具体的な絵を待ちます。

Posted by shinya at October 5, 2004 12:10 AM