身体のある空間とヴァーチャルな空間のあいだ

この前、二年生後期の課題をネタにして
3人の建築家にインタービューを行った。
はっきり言って、
建築的にどうおもしろいか。という話は無理難題である。
目的は課題集を見る学生たちが、
今後よい空間を共有していく、きっかけを持って欲しいことにつきる。

CIMG0998.JPG

現在、つくっている課題集にも書くつもりだけど、
建築を。まぁ何かを作ろうとしたり、訴えたい時、
扱って行くとおもしろそうなパラメータを、
幾つか同時に展開していく勘を効かせなければいけない。
それは始め非常に断片的で、意識的に操作しないといけない。
僕は僕としての興味ある建築がもつ構造のテンションがある。

結果には、自分の操作を越えて、
感情的なことや時代性、暴力性、執着性などが無意識に付いてくる。
後に、その結果が意識化される事もある。
その無意識な反応のみによって、構築していると見失い、
批評される時、他の文脈に回収され、自分の思考が蓄積されていかない。
今回のインタビューでは、学生が課題を操作するきっかけとして、
自分の経験が、よくもわるくも空間に反映されているという話題が共通して出ていた。
代官山に作る集合住宅の部屋の作りが、公団を彷彿させるものだったり、
明らかに美術館に行ったことがないような、作品と人の距離だったり。
鈍い身体感覚が無意識に出てしまっているテンション(=意識的な操作)のない中で、
作品群を大きく二つに大別した。
「自分の周辺」で想像しやすい距離から始めたものと、
「全体の構成」で精魂尽き果たしたもの。
ちなみに、当時僕は後者のタイプだった。(笑)
結果的に出来たモノが、ある一定方向にしか見えない。というのは、非常に貧しいのだが、
この二方向を同時に意識することで、かなり視野が広がる。
前者は、まさに身体の経験からの空間で、
後者は、経験を越えたヴァーチャルからの空間の一つと言える。
身体のある空間は、何となく正しいことを言っている気がする。
では、ヴァーチャルな空間は嘘なのか?
インタビューの中にも出てくるが、
例えば自分より明らかに裕福な人の家を設計するとなると、
そこにある生活を想像しなくてはならない。

すなわち、パラメータを操作するには、ある一定の両端を意識する必要があるようだ。

建築 | at August 20, 2004 17:23


TrackBacks




Comments

課題集って、こんなところで見られるようになっていたのね。知らなかった。。。

Posted by sae at August 25, 2004 11:10 PM