美の殿堂

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先日、豊田市美術館で行われているヤノベケンジの展覧会に行って来た。当日は彼の巨大立体作品であるトラやんが火を噴くというイベントがあり300人以上の長蛇の列。作家本人がマンモス型の作品のまたがりながら「感無量」といいながらとてもすがすがしい表情だったな。素敵な作家日和な一日な立ち会えた。

art | Posted by at 9 27, 2005 22:40 | Comments (3) | TrackBacks (0)

「新しさ」のインパクト

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事務所が入っている建物の廊下、最近とある美術家が壁のひびを骨董品の修復と同じ手法で施したようで、金色の筋が入っている。普通の補修だったらパテ処理して同色のペンキを塗って終わりなのだがここではささやかではあるが「新しい」ことが行われていると感じた。
8月号の新建築で藤本さんが「新しい座標系」というテキストがあり、そこでは「ではその新しさは何のなのか。僕はそれは座標系、ということだと思う。座標系とは、単なる形のことではなく、何か新しい価値観、物を思考する枠組みのようなものであろう」と書かれている。その新しさにたどり着くために「二人」「居場所」「弱さ」というものをキーワードに話を展開しており日本的なるものに新しい座標系を近づくためのポイントがあるとも思うとここでは話している。直感的には「新しさ」に対してとても共感できる内容、しかしわからないことが一つあって「新しさ」に近づくための手がかりが今までの価値観をうち破る強烈なインパクトをもつものではなく逆に「弱さ」をもとにしたあいまいでゆるいものに可能性を感じている点であった。
テキストを読んだあと、上の写真の壁を眺めていたら確かにテキストで述べられているようにこれからの「新しさ」は決してインパクトのある強いものではなく、これまた直感なのだがもう少し別なものではないかと僕も感じてきたのだ。その気持ちを例える上で「弱さの空間秩序」という言葉も理解できてきている感じがする。以前、いろいろなアクティビティを引き受けられるゆるい空間について少し考えたことがあるがそれに近いとも思う。
shinyaさんのレポートを読んで、振り返って考えてみると初めてみた村野藤吾の建築を直感で一言でいうと「体験したことはなかったが新しい感じがしない」という点である。それはもしかしたら近代以前の価値観に近いものの上で組み立てられているのかもしれない。藤本さんの建築を実際にみたことはないが雑誌でみる限り弱さのある空間秩序よりハードエッジな外観の印象と佇まい、少しゆがんだ平面形ということばかりが目にとまってしまう。そう思うとこれからの「新しさ」はインパクトが感じにくいほうが正常なのかな。「弱い」ってインパクトはどんなものだろうか?

architecuture | Posted by at 8 19, 2005 18:02 | TrackBacks (0)

谷村美術館@糸魚川

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先日、富山を車で通過することがあったので村野藤吾が設計した谷村美術館に行って来た。ある木彫り作家のための美術館で、木彫り作品とちょっとしたドローイングの展示がされている。そこでは一人の作家のために対応した空間が展開されており、奈義MOCAと同様第三世代の美術館なのかもしれない。写真などではみたことがあってもここまで有機的で作品に対してどのような光を取り入れるべきかということのみを訴えかけてくる空間は初めてでとても印象的。当日は僕ら以外の客がいないため照明が消されていて、それがかえって空間には良い方向に働いていておもしろい体験ができた。ピュアに光りのことを考えているのにもかかわず照明計画が十分にかんがえられている感じがせず、そのあたりが残念。様々な窓からの光により仏像のような木彫り作品が神々しくみえ作品と空間の関係性が合致していて良いと感じた。照明など使わず昼間の時間のみ営業するなどしたほうがこの美術館にとっては健全なのかもしれない、でもそんな余裕は今のご時世社会が受け入れるゆとりがないため成立は難しいと思う。ふところのない社会において完成した建築は様々な合理性を求められ、出来上がる以前のつくりかたも合理性の思想のもとに組みあげられていく、そのためどんなに新しい建築でも必ず合理性は求められその裏付けを成立させるために日々苦労するのだ。すごく感覚的だがその新しさの裏付けとしての合理性は美術表現では必要ではなくデザインの表現ではとても重要なことだと感じている。表現での新しさというものは例えば「拘束のドローイング9」のように受け手にとって理解できないがある印象を与えるものだと仮定すると、建築の新しさは本当の意味での新しさではなくもう少し別な言葉が適切な気がしている。メディアテーク、21世紀美術館、、、これらは新しいと思うのだが、それは多く人に理解され受け入れられ空間の広がりを感じさせくれる。人にとって新しい空間体験が何をもたらすのだろうか?と考えると今の自分にとっては「新しい価値基準」みたいなものが生まれることなのかとぼんやり思っている。意匠ではなく形にならない価値基準を相手に建築を挑む姿勢は嫌いではないなと思う反面、いろいろと悩む日々だなぁ。

architecuture | Posted by at 8 17, 2005 20:57 | TrackBacks (1)

拘束のドローイング9@金沢21世紀美術館

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先日、マシュー・バーニーの「拘束のドローイング9」を遠路はるばる金沢で見てきた。ちなみにこの展覧会は意地悪なことに東京に回ってこないでソウルとロサンゼルスは巡回。バーニー本人のことは以前、東京都写真美術館で行われた「クレマスター」という作品がきっかけで知っていた。当時、「クレマスター」を見た時、「わからない」というもやもや感で一杯でその時の感覚は今でも覚えている。最近、岡本太郎のある本の中で芸術は「わからない」もので極端な話、生半可には理解されないものが真の芸術だと書かれているの読み、クレマスターの思い出に少し整理がついた状態であった。そんな中、今回の「拘束のドローイング9」を見て、やはり「わからない」のであるがバーニーの表現力の凄みにただただ関心してしまう。バーニーがつくり出す映像の数々はとてもスケール感が大きい。とてもじゃないけど昨今の不景気から生まれてこないない表現だと思う。お金の使い方をしっていて、なおかつ強靱な想像力をもたないと決してつくれない素敵な映像作品である。展覧会場のチラシの中で「バーニーさんからみなさんへ」という子供むけのコメントがあってその中で彼は「とにかくめいいっぱい想像してみな、そうすればきっと誰でも〜」と書いてあったきがする。自分の生い立ちや、経験、環境によって想像力などの思考回路はかわるものだと一部では思うが、最大限意識を傾けるという基礎が大事なものなんだと振り返らさせられとてもよい刺激。僕もバーニーになりたいと少し思った(笑)。21世紀美術館は今回で2度目。立面のない空間の新しい体験が出来るおもしろい建築だと再認識。

art | Posted by at 8 15, 2005 22:14 | Comments (1) | TrackBacks (1)

設計者の夢

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先日、二俣川の家をみてきた。この家については仕事がはじまった段階からuheさんから構造家の選択について話を聞いていたのでいつも以上に興味を持っていた。2層のRC造打放しで外観ではキャンチレバーがかなり特徴的である。

| Posted by at 7 8, 2005 1:35 | Comments (7) | TrackBacks (0)

成層圏の光

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色温度が20,000ケルビンのライト。この色温度は地球上では存在していないもので成層圏にあるそうです。ちなみに太陽光は直射光が6,000ケルビンで雲からの反射光が8,000ケルビン、そう考えると20,000という数字がいかに高いかがわかる。確かに光を浴びたあと、蛍光灯でさえ少し黄色く見えた。

architecuture | Posted by at 6 21, 2005 23:46 | Comments (1) | TrackBacks (0)

原理主義と純粋さ

上原の家はすべての部分が本棚柱による構造ではない、それに対してハンガートンネルはすべてハンガーで同じ組方でつくれている。上原の家はリアルな住まい手がいる住宅という建築、そのためコストや住まい手の与件、作り手の表現などをバランスよくまとめあげ最終的なモノとなる。そのため作り手の思いで己の表現をよりよくするために原理主義的にすべてが本棚柱となって美しくなった?としても様々な与件の中でクライアントと話ながらバランスが悪いと判断した場合、その原理主義は排除されべきだと思っている。ただ、それが見方によっては場当たり的にとらえられる。でも最終的にクライアントにとって建築家の原理主義がどこまで理解され必要とされているのだろうか?
またハンガートンネルは扱い的にはギャラリーのアプローチ工事なのだが住宅などのいわゆる建築とは若干違う扱いと思っていて、どちらかというとその場の空間を読み込んでつくったパブリックアートに近いものと考えている。そのため作り手の表現がより強度をもて見る人により印象的になるように1/1で試行錯誤をくり返し制作した。その制作プロセスは住宅の場合と違い、どちらかというと作り手の表現がより伝わるように純粋さを大事に考えていく、それはある種の原理主義に近い。美術をつくっていく上でその原理主義がどこまで大事かは未だにぼんやりとしているが、ただ良いか悪いかは別として表現をわかりやすくするには原理主義と純粋さは大事なのだと感じているし、その反面、建築ではどこまで必要かも???である。

architecuture | Posted by at 6 15, 2005 2:51 | Comments (3) | TrackBacks (0)

部屋着の暮らし

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日曜日、鶴見のオープンハウスにいってきた。敷地は駅から徒歩15分ぐらいはなれた小高い丘の上にあり、道は坂道が多く幅の狭く交通量も限られている場所。建物1階はピロティ形式でオープンな大きなガレージと玄関と寝室があり、2階は居間を中心に台所、浴室、テラスが隣接している。居間は敷地の樹木をたよりに短手方向に大きな開口があけられており、片方はテラスとの連続を獲得し、もう一方は1階からの階段部分も含めて潔くかなりな大開口となっており開放感がある。ちになみに個人的には階段部分の雰囲気が開口のおかげで浮遊感を感じ一番好き。またこの階段部分の大開口が建物のフォルムを特徴づけており、写真ではわかりにくいがかなり複雑な形となっていて施工監理の精度に関心した。ただ一つ話を聞いてわからなかったのがプランニングである。かなりドライに住宅を機能分化しそれにあわせて個室が配列されており、パジャマ以外に気の利いた部屋着が似合う暮らしが展開できそうだ。部屋着によるきちんした暮らしを望む施主には理想なプランなのかもしれないが、設計者としてそのきちんとした暮らしについてどう考えているのだろうか?設計者の役割は施主の与件を満たすことはあたりまえで、さらに設計のコミュニケーションの中でその与件をもっと拡げられそれを引き受けられるものがつくれればお互いハッピーだと考えている僕にとってあるくらし方を続けるというのは僕にはなかなか難しいかなとも思ったりした。(uheさん、率直に書かせてもらいました、ご勘弁を。)

architecuture | Posted by at 6 1, 2005 21:44 | Comments (1) | TrackBacks (0)

public=un+public @ BankART1929

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先日、BankART1929で行われたOff Nibrollのダンス公演を見てきた。ダンスはほとんど見たことないので正直なところたまにみたても何が良くて何が悪いかという判断が出来ない場合がほとんど。今回も開演前に主旨を記したテキストを読んでから公演をみたのだがやはり理解はできない。それでも今回の公演は自分にとっては判断や理解を超えたところでとても印象的で新鮮な感覚があった。あたりまえだけど年をとって色々な経験をしてくことによりある既知感のもとに判断や理解の思考回路をめぐらせがちになってしまうのに対して、この手の新鮮な感覚は自分の考える時に貴重で刺激的だと感じている。まぁ、ひとことで言えばとてもよかったということなんだけど。

art | Posted by at 5 31, 2005 11:52 | Comments (1) | TrackBacks (0)

Variations on a Silence リサイクル工場の現代芸術

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家が比較的近くなため、上記に行ってきた。場所がわかりづらし車が必要だし、たどり着くまでハードルは高いが、なかなか見応えもあり無料ということもあって充実感はあったな。オープン前のリサイクル工場(設計:坂牛卓)の作業場と倉庫をつかって展示されている。メディアアート系の映像モノは大体はブラックボックスを要求するので展示場所との関係性が薄くなりがちだが、クリスチャン・マークレーの展示はリサイクル工場の場を意識していてなかなか印象に残るものだった。このような展覧会は事業としてもよいと思うからまたどこかであるといいな。

http://variations.jp/index.html

art | Posted by at 5 23, 2005 3:02 | Comments (3) | TrackBacks (0)

スケール感と臨場感

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最近、うちではやっていたもの。内容がかなり地味だがそれをカバーできるほどスケール感、臨場感を備えており、そのため眺めていて結構たのしめる。いつか模型でつかってみたいな。

diary | Posted by at 5 22, 2005 19:33 | Comments (1) | TrackBacks (0)

シンボルとキャラクター

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最近、キッコロとモリゾーが気になってきた。初めて見た時はとっかかりがないやつだと思っていたがちょっとした表情の違いで色々な見方が楽しめる味わいあるゆるキャラなのだろうか。万博がはじまりそろそろ1ヶ月がたつのだがそんなキッコロ,モリゾーがあちらこちらで増殖中である。キャラものなので当然の展開だが、以前の大阪万博ではそんなゆるキャラは存在したのだろうか?太陽の塔はキャラではなくシンボルだった。今回の万博はシンボルは存在しないがキャラクターは大いに元気である。開会式も天皇と同じポジションで垂れ幕がつくられ、ステージには着ぐるみがはしゃいでいた。最先端のリニモやロボット,パビリオンよりキッコロ、モリゾーが一人勝ちに見えてきている。気にしすぎか・・・

diary | Posted by at 4 23, 2005 22:36 | TrackBacks (0)

整理メモ 2005.04.22

最近読んだ本の整理。

・良否、美醜、善悪などの価値観ははずす
・驚くもの、どう判断していいかわからないもの
・事例を可能な限りサンプリング
・体調が悪いと堂々巡り
・分裂的折衷主義
・東大寺大仏殿
・毛沢東「矛盾論」
・デザインは民主的に決まるものではない
・良いか悪いか、エスティックの問題
・源氏物語、枯山水、浮世絵、ウォークマン
・継ぎ木の文化
・外圧→内乱→輸入→和様

memo | Posted by at 4 23, 2005 7:15 | TrackBacks (0)

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