原理主義と純粋さ

上原の家はすべての部分が本棚柱による構造ではない、それに対してハンガートンネルはすべてハンガーで同じ組方でつくれている。上原の家はリアルな住まい手がいる住宅という建築、そのためコストや住まい手の与件、作り手の表現などをバランスよくまとめあげ最終的なモノとなる。そのため作り手の思いで己の表現をよりよくするために原理主義的にすべてが本棚柱となって美しくなった?としても様々な与件の中でクライアントと話ながらバランスが悪いと判断した場合、その原理主義は排除されべきだと思っている。ただ、それが見方によっては場当たり的にとらえられる。でも最終的にクライアントにとって建築家の原理主義がどこまで理解され必要とされているのだろうか?
またハンガートンネルは扱い的にはギャラリーのアプローチ工事なのだが住宅などのいわゆる建築とは若干違う扱いと思っていて、どちらかというとその場の空間を読み込んでつくったパブリックアートに近いものと考えている。そのため作り手の表現がより強度をもて見る人により印象的になるように1/1で試行錯誤をくり返し制作した。その制作プロセスは住宅の場合と違い、どちらかというと作り手の表現がより伝わるように純粋さを大事に考えていく、それはある種の原理主義に近い。美術をつくっていく上でその原理主義がどこまで大事かは未だにぼんやりとしているが、ただ良いか悪いかは別として表現をわかりやすくするには原理主義と純粋さは大事なのだと感じているし、その反面、建築ではどこまで必要かも???である。

architecuture | Posted by at 6 15, 2005 2:51


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Comments

純粋さを追求する一方で、混沌さを追求する美学もあると思います。クァクァを見たときも、そう思いました。
伊東さん×セシル、または伊東さん×睦朗さんの会話にでてくる「複雑なものが複雑なまま解決できる」なんていうのが、建築における後者の解釈のひとつではないでしょうか。
前者の思考性がまかりとおっているので、伊東さん的な解法がアバンギャルドに見える。
しかし、かつての様式やそれを越えようとしたインターナショナルスタイルは、ブルジョアなものから廉価なものまですべてに対応できたが、今のところ、建築の混沌さの中にはそれがない。
次の話題。
渦中にいるhyさんが抱える建築と美術の違いというのは、自覚できない状況にあると思います。笑 みかんの建築を追求するスタンスとして、純粋さの追求や混沌というような、そぎおとしていく美学を、ぬきにしたところで戦っているのだと、はたから見ると思うのです。ハンガーは、建築を追求する純粋さの延長の行為であって、それがアートとして評価されてもかまわないというところでしょうか。それがアートとしてどうかという話は、荒川さんが建築に手をだしているようなものだと、僕の頭は翻訳しています。笑

Posted by simon at 2005年06月16日 02:01

>「複雑なものが複雑なまま解決できる」
これも複雑なままという原理主義のもとに到達できる話しだと思っています。中途半端な複雑ではだめである種の純粋さによってキープされてつくられないと複雑ということが表現にならないと感じますがどうでしょうか?個人的にいつも気になるのがモノをつくって表現として置き換える時、いつも必ず表現の強度が問われていると考えています。その強度というのは建築においては必要な時といらない時があると僕自身は考えていてそれは原理主義の有無にも繋がる。美術に置いてはかならず必要となると感じているのだが、普段建築で強度があるものをつくらないから余計に難しいと思っている。建築作品でもある種のテイストという風にごまかされ下手な強度をもつものが多い、そんな時は下手なアート系だなと思ったりもしています。

Posted by hy at 2005年06月21日 03:45

(文献を参照すべきですが)伊東さんの文脈で言えば、現代建築は、自由なアクティビティを、適切なサイズに切り分けた部屋に還元し、組み合わせていくものだった。機能を指示されるのではなく、場所を選択するというイメージへ近づきたい。その欲求から、メディアテークが生まれ、サーペンタインなど、現在の創作活動につながっている。自由な活動を、(ひとつの原理主義的な)幾何学的な解答へ向かわせることに違和感を覚えていたときに、かべや柱と言った、建築的な言語に還元してスタディをしなくても、自分が近づきたいイメージと近い物、もしくはそれを越えて喚起されるようなものが、現実可能なものとして立ち現れる。それは、「複雑なもの」=「自分がイメージするもの」を、建築にするとき、収斂させていくプロセスとしては新しいということが言いたかったのだろう。もちろん、建築を越えたいとう原理主義のもとに到達できる話でしょう。

Posted by simon at 2005年06月25日 03:41