谷村美術館@糸魚川

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先日、富山を車で通過することがあったので村野藤吾が設計した谷村美術館に行って来た。ある木彫り作家のための美術館で、木彫り作品とちょっとしたドローイングの展示がされている。そこでは一人の作家のために対応した空間が展開されており、奈義MOCAと同様第三世代の美術館なのかもしれない。写真などではみたことがあってもここまで有機的で作品に対してどのような光を取り入れるべきかということのみを訴えかけてくる空間は初めてでとても印象的。当日は僕ら以外の客がいないため照明が消されていて、それがかえって空間には良い方向に働いていておもしろい体験ができた。ピュアに光りのことを考えているのにもかかわず照明計画が十分にかんがえられている感じがせず、そのあたりが残念。様々な窓からの光により仏像のような木彫り作品が神々しくみえ作品と空間の関係性が合致していて良いと感じた。照明など使わず昼間の時間のみ営業するなどしたほうがこの美術館にとっては健全なのかもしれない、でもそんな余裕は今のご時世社会が受け入れるゆとりがないため成立は難しいと思う。ふところのない社会において完成した建築は様々な合理性を求められ、出来上がる以前のつくりかたも合理性の思想のもとに組みあげられていく、そのためどんなに新しい建築でも必ず合理性は求められその裏付けを成立させるために日々苦労するのだ。すごく感覚的だがその新しさの裏付けとしての合理性は美術表現では必要ではなくデザインの表現ではとても重要なことだと感じている。表現での新しさというものは例えば「拘束のドローイング9」のように受け手にとって理解できないがある印象を与えるものだと仮定すると、建築の新しさは本当の意味での新しさではなくもう少し別な言葉が適切な気がしている。メディアテーク、21世紀美術館、、、これらは新しいと思うのだが、それは多く人に理解され受け入れられ空間の広がりを感じさせくれる。人にとって新しい空間体験が何をもたらすのだろうか?と考えると今の自分にとっては「新しい価値基準」みたいなものが生まれることなのかとぼんやり思っている。意匠ではなく形にならない価値基準を相手に建築を挑む姿勢は嫌いではないなと思う反面、いろいろと悩む日々だなぁ。

architecuture | Posted by at 8 17, 2005 20:57


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