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「新しさ」のインパクト

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事務所が入っている建物の廊下、最近とある美術家が壁のひびを骨董品の修復と同じ手法で施したようで、金色の筋が入っている。普通の補修だったらパテ処理して同色のペンキを塗って終わりなのだがここではささやかではあるが「新しい」ことが行われていると感じた。
8月号の新建築で藤本さんが「新しい座標系」というテキストがあり、そこでは「ではその新しさは何のなのか。僕はそれは座標系、ということだと思う。座標系とは、単なる形のことではなく、何か新しい価値観、物を思考する枠組みのようなものであろう」と書かれている。その新しさにたどり着くために「二人」「居場所」「弱さ」というものをキーワードに話を展開しており日本的なるものに新しい座標系を近づくためのポイントがあるとも思うとここでは話している。直感的には「新しさ」に対してとても共感できる内容、しかしわからないことが一つあって「新しさ」に近づくための手がかりが今までの価値観をうち破る強烈なインパクトをもつものではなく逆に「弱さ」をもとにしたあいまいでゆるいものに可能性を感じている点であった。
テキストを読んだあと、上の写真の壁を眺めていたら確かにテキストで述べられているようにこれからの「新しさ」は決してインパクトのある強いものではなく、これまた直感なのだがもう少し別なものではないかと僕も感じてきたのだ。その気持ちを例える上で「弱さの空間秩序」という言葉も理解できてきている感じがする。以前、いろいろなアクティビティを引き受けられるゆるい空間について少し考えたことがあるがそれに近いとも思う。
shinyaさんのレポートを読んで、振り返って考えてみると初めてみた村野藤吾の建築を直感で一言でいうと「体験したことはなかったが新しい感じがしない」という点である。それはもしかしたら近代以前の価値観に近いものの上で組み立てられているのかもしれない。藤本さんの建築を実際にみたことはないが雑誌でみる限り弱さのある空間秩序よりハードエッジな外観の印象と佇まい、少しゆがんだ平面形ということばかりが目にとまってしまう。そう思うとこれからの「新しさ」はインパクトが感じにくいほうが正常なのかな。「弱い」ってインパクトはどんなものだろうか?

architecuture | Posted by at 8 19, 2005 18:02 | TrackBack (0)

谷村美術館@糸魚川

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先日、富山を車で通過することがあったので村野藤吾が設計した谷村美術館に行って来た。ある木彫り作家のための美術館で、木彫り作品とちょっとしたドローイングの展示がされている。そこでは一人の作家のために対応した空間が展開されており、奈義MOCAと同様第三世代の美術館なのかもしれない。写真などではみたことがあってもここまで有機的で作品に対してどのような光を取り入れるべきかということのみを訴えかけてくる空間は初めてでとても印象的。当日は僕ら以外の客がいないため照明が消されていて、それがかえって空間には良い方向に働いていておもしろい体験ができた。ピュアに光りのことを考えているのにもかかわず照明計画が十分にかんがえられている感じがせず、そのあたりが残念。様々な窓からの光により仏像のような木彫り作品が神々しくみえ作品と空間の関係性が合致していて良いと感じた。照明など使わず昼間の時間のみ営業するなどしたほうがこの美術館にとっては健全なのかもしれない、でもそんな余裕は今のご時世社会が受け入れるゆとりがないため成立は難しいと思う。ふところのない社会において完成した建築は様々な合理性を求められ、出来上がる以前のつくりかたも合理性の思想のもとに組みあげられていく、そのためどんなに新しい建築でも必ず合理性は求められその裏付けを成立させるために日々苦労するのだ。すごく感覚的だがその新しさの裏付けとしての合理性は美術表現では必要ではなくデザインの表現ではとても重要なことだと感じている。表現での新しさというものは例えば「拘束のドローイング9」のように受け手にとって理解できないがある印象を与えるものだと仮定すると、建築の新しさは本当の意味での新しさではなくもう少し別な言葉が適切な気がしている。メディアテーク、21世紀美術館、、、これらは新しいと思うのだが、それは多く人に理解され受け入れられ空間の広がりを感じさせくれる。人にとって新しい空間体験が何をもたらすのだろうか?と考えると今の自分にとっては「新しい価値基準」みたいなものが生まれることなのかとぼんやり思っている。意匠ではなく形にならない価値基準を相手に建築を挑む姿勢は嫌いではないなと思う反面、いろいろと悩む日々だなぁ。

architecuture | Posted by at 8 17, 2005 20:57 | TrackBack (1)

拘束のドローイング9@金沢21世紀美術館

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先日、マシュー・バーニーの「拘束のドローイング9」を遠路はるばる金沢で見てきた。ちなみにこの展覧会は意地悪なことに東京に回ってこないでソウルとロサンゼルスは巡回。バーニー本人のことは以前、東京都写真美術館で行われた「クレマスター」という作品がきっかけで知っていた。当時、「クレマスター」を見た時、「わからない」というもやもや感で一杯でその時の感覚は今でも覚えている。最近、岡本太郎のある本の中で芸術は「わからない」もので極端な話、生半可には理解されないものが真の芸術だと書かれているの読み、クレマスターの思い出に少し整理がついた状態であった。そんな中、今回の「拘束のドローイング9」を見て、やはり「わからない」のであるがバーニーの表現力の凄みにただただ関心してしまう。バーニーがつくり出す映像の数々はとてもスケール感が大きい。とてもじゃないけど昨今の不景気から生まれてこないない表現だと思う。お金の使い方をしっていて、なおかつ強靱な想像力をもたないと決してつくれない素敵な映像作品である。展覧会場のチラシの中で「バーニーさんからみなさんへ」という子供むけのコメントがあってその中で彼は「とにかくめいいっぱい想像してみな、そうすればきっと誰でも〜」と書いてあったきがする。自分の生い立ちや、経験、環境によって想像力などの思考回路はかわるものだと一部では思うが、最大限意識を傾けるという基礎が大事なものなんだと振り返らさせられとてもよい刺激。僕もバーニーになりたいと少し思った(笑)。21世紀美術館は今回で2度目。立面のない空間の新しい体験が出来るおもしろい建築だと再認識。

art | Posted by at 8 15, 2005 22:14 | Comments (1) | TrackBack (1)