「アートの日」展

コマンドNから展覧会の案内です.
明日1日のみ,『湯島もみじ』内のコマンドNにて展覧会を開催.『Thank you @RTの日』(通称:39ART)参加企画とのこと.

Pina Baush

『ネフェス』Nefes(呼気)
ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踊団(Tanztheater Wuppertal)による,2003年にイスタンブールで制作された作品.

遠藤利克

遠藤利克展「空洞説」/VOIDNESS
《6年振りにSCAI THE BATHHOUSEでの個展を開催.鉄や木を使用した,空間を埋め尽くすかのような巨大彫刻を中心に,すべて新作で構成されます.》

近代美術におけるキュレーションによる妙

「痕跡 戦後美術における身体と思考」(東京国立近代美術館)を見た.ほとんど期待せずに見に行ったのだが,なかなかの好企画.「痕跡としての美術」をテーマに国内外60人による120点が,表面,行為,身体,物質,破壊,転写,時間,思考の8つのセクションに分けて展示されている.展示の最初に断り書きがあるとおり,そのセクションの分類は厳密なものではなく,どのセクションに分類されてもおかしくないもの.それに伴い展示構成も,順路らしきものがあるようだが,こちらもやはり明解には分割されていない.近美の企画展示室はあまり好きではなかったが,やはりテーマに沿ってしっかりとキュレーションされた展示は見応えがある.しかも1点ごとに解説が付されている力の入れようで(カタログにも掲載されている),閉館1時間前から見始めたのだが,もう少し時間が必要なほどの濃い内容であった.もちろん50年代から70年代後半の作品によって構成されているため,いわゆる(コンテンポラリーアートではないという意味で)近代美術(絵画)がほとんどで,インスタレーションのように空間を作品化したものではなく,この天井高の低い展示室でも十分に対応できている.むしろ仮設壁によるルーズな分割は,久しぶりに良質な近代美術館の企画展示室を見たように思う.ホワイトキューブが全盛となる前は,どの美術館もこんな感じだった.
更によかったのは,作品の半数以上が日本の公立美術館より集めていること.海外のコレクションをそのまま持ち込む展示は多いが,これだけ丁寧に作品を集め,あまり実物を見たことのない作品も多く展示されており,その意味でも,これらの時代の美術を知るにはよい企画.

同時代の作家

阿部和重氏が『グランド・フィナーレ』芥川賞を獲った.毎回「文藝春秋」では芥川賞受賞作が全文掲載されているのだが,金原ひとみ氏,綿矢りさ氏が受賞した時には増刷を重ねて120万部近く売れていて,それに気をよくしたのか今回の受賞作掲載号では阿部氏のほぼ全身写真入りの全面広告が「朝日新聞」に掲載されていた.笑った.それはともかく,阿部氏とは生まれた年が同じであることもあって,同世代の作家として注目してきた.
受賞作である『グランド・フィナーレ』をまだ読んでいない.同じ神町という場所を舞台とした長編『シンセミア』をまだ読んでいないので,それの後に読もうと思っている.ちなみに,これら神町を舞台とした作品を「神町フォークロア」と呼ぶらしい.というわけで,芥川賞の話題.
阿部氏はようやく芥川賞を受賞したわけだが,本当に今更ながらという気がしている.『シンセミア』を書いた後の受賞なんて,中上健次氏に例えると,『枯木灘』を書いた後に『千年の愉楽』のどれかでようやく受賞するようなもの.そう考えると,中上氏は『岬』で受賞したわけだから,阿部氏も『シンセミア』より前の『ニッポニアニッポン』辺りで本当は受賞すべきだったのかもしれない.などというのは,ほとんど意味のない例え話.
阿部作品の中では,個人的には短編集『無情の世界』がお薦め.『ニッポニアニッポン』もまあまあ.『インディヴィジュアル・プロジェクション』は,読む前に少し期待が大きすぎたためにあまりよい印象がないのだが,阿部氏の代表作.文庫解説は東浩紀氏が書いている.ちなみに,こちらは東氏との鼎談.
芥川賞の話に戻す.芥川賞受賞といっても,1年間の内に上半期と下半期があって,1半期で2人受賞する可能性もあるため,1年で最大4人の受賞者,10年だと40人の受賞者が出る可能性がある.結構な量だ.例えば,この10年(1995〜2004年)で芥川賞を受賞した人たち.
保坂和志,又吉栄喜,川上弘美,辻仁成,柳美里,目取真俊,花村萬月,藤沢周,平野啓一郎,玄月,藤野千夜,町田康,松浦寿輝,青来有一,堀江敏幸,玄侑宗久,長嶋有,吉田修一,大道珠貴,吉村萬壱,金原ひとみ,綿矢りさ,モブ・ノリオ,阿部和重の24氏.この中で読んだことがあるのは柳,平野,阿部の3氏くらい.もう既に馴染みのない名前もある.
次の10年(1985〜1994年)はこんな感じ.
米谷ふみ子,村田喜代子,池澤夏樹,三浦清宏,新井満,南木佳士,李良枝,大岡玲,瀧澤美恵子,辻原登,小川洋子,辺見庸,荻野アンナ,松村栄子,藤原智美,多和田葉子,吉目木晴彦,奥泉光,室井光広,笙野頼子の20氏.池澤,大岡の2氏くらいしか読んだことがない.
更に次の10年(1975〜1984年).
三木卓,野呂邦暢,森敦,日野啓三,阪田寛夫,林京子,中上健次,岡松和夫,村上龍,三田誠広,池田満寿夫,宮本輝,高城修三,高橋揆一郎,高橋三千綱,重兼芳子,青野聰,森禮子,尾辻克彦,吉行理恵,加藤幸子,唐十郎,笠原淳,高樹のぶ子,木崎さと子の25氏.ここまで来ると大御所も混ざってくるが,読んだことがあるのは日野,中上,村上,宮本,尾辻の5氏くらい.
今回の阿部氏受賞に際して,審査員からは「村上春樹や島田雅彦に受賞させなかった失敗を繰り返さない」というような理由で受賞を決めたとかなんとかいう話があった.どうでもよい話だが,確かに村上春樹氏も島田雅彦氏も,ついでに高橋源一郎氏も受賞していない.これだけの数の受賞者がいながら,この3人は受賞できなかった.
村上春樹氏は2回候補になった.1979年上『風の歌を聴け』と1980年上『1973年のピンボール』
島田雅彦氏は,自ら「朝日新聞」の文芸月評で阿部氏受賞の話題に触れて未練がましいことを書いていたが,6回も候補になっている.1983年上『優しいサヨクのための嬉遊曲』,1983年下『亡命旅行者は叫び呟く』,1984年上『夢遊王国のための音楽』,1985年上『僕は模造人間』,1986年上『ドンナ・アンナ』,1986年下『未確認尾行物体』.確かにどれで受賞してもおかしくないような作品ばかり.
高橋源一郎氏に至っては,候補にもなっていない.
ちなみに阿部氏は過去3回候補になり,4回目で受賞.候補作は1994年上『アメリカの夜』,1997年下『トライアングルズ』,2001年上『ニッポニアニッポン』.
おまけに中上氏も4回目で受賞.候補は1973年上『十九歳の地図』,1974年下『鳩どもの家』,1975年上『浄徳寺ツアー』,1975年下『岬』で受賞.
要するに,これを機会に同時代の作家によるこれらの作品をぜひ読んでほしいということ.

おたくの原風景

先日ヴェネチアに行ったが,その1週間後にヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展が始まった.今回の日本館のテーマは「おたく:人格=空間=都市」.コミッショナーは森川嘉一郎氏『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』の著者として知られる建築の研究者である.今回の展示は,「波状言論」05号,06号に,森川氏自身により詳細に紹介されており,大変に期待していたが,残念ながらタイミングが合わずに実際に見ることはできなかった.
展示の内容については,公式ホームページに詳しくあるので,ここには書かないが,その構成は細部に亘ってていねいに考えられており,森川氏のコンセプトを読む限りは,非常に興味深い展示になるはずだった.しかし,現時点ではあまりよい評判を聞くことはなく,むしろ展示部門の金獅子賞を受賞したSANAAの『金沢21世紀美術館』の話題が大きく取り上げられている.
過去3回のビエンナーレ日本館は,磯崎新氏をコミッショナーを務めており,1996年は阪神・淡路大震災から「亀裂」をテーマにして,宮本佳明氏が瓦礫を持ち込み,宮本隆司氏が写真を展示した.その際に石山修武氏も展示を行っており,森川氏は石山研の学生として関わっていたらしい.2000年には「少女都市」をテーマにして,できやよい氏の作品や妹島和世氏の展示構成,2002年には「漢字文化圏における建築言語の生成」をテーマに岡崎乾二郎氏の展示構成によって開催されてきた.「亀裂」では「金獅子賞」を受賞しているが,個人的には「漢字」が,岡崎氏の作品の延長として興味深いものであったのだが,残念ながらあまり話題にはならなかった.今回の「おたく」も,そのような末路を辿りそうな気がする.
そのカタログ『OTAKU』(幻冬舎)が輸入版として発売されたので読んでみた.これには,展示の核の1つである海洋堂のオリジナルフィギュア(新横浜ありなという美少女フィギュア)までオマケに付いている本格的なものだった.ここで書こうと思ったことは,実はビエンナーレ自身のことではなく,カタログの最初に掲載されている1枚の写真についてだった.
カタログの最初に(もちろん展示の最初にも)おたく空間を説明するために,宮崎勤被告の部屋の写真が使われている.1つの驚きは,このおたく空間が世に知られた最初のイメージが,彼の部屋であったという事実に気が付かされたことだった.よく考えてみると,当時おたくと呼べるような友人も何人かいたが,彼らの部屋を見たことがあるわけでもなかった.しかし,おたくの部屋はこのようなものだとイメージを持っていたことが,実は宮崎被告の部屋(おそらく,当時のニュースなどで繰り返し流されていたのだろうと思う)に端を発していたことに気付かされた.
もう1つの驚きというか,これは心配でもあるのだが,もちろんこのカタログにはイタリア語訳と英訳が付けられており,その写真キャプションの英訳には,「The room of TSUTOMU MIYAZAKI」と書かれ,その註釈として,参加作家の1人である斎藤環氏による「おたくのセクシュアリティ」という文章中に,「TSUTOMU MIYAZAKI for the serial murders of young girls」と書かれている.しかし,「young girls」だけでは,あの犯罪の特異なニュアンスは伝わらないだろう.宮崎被告が犯罪者として国際的にどのくらい知名度があるのか知らないが,おたくではない人たちにとっては,その背景を詳細に知る日本人と,そうではない海外の人たちの,おたく空間の原風景とも呼べるこの写真から受け取る印象は大きく異なるだろう.これは冗談だが,展示場所がヴェネチアだけに,このMIYAZAKIの部屋が,HAYAO MIYAZAKI氏の部屋と勘違いされないことを期待する.

相対的

「MUMI クリテリオム61 嵯峨篤」を見た.確かに展示室の壁を磨き上げた今回の作品には,一種異様な迫力がある.しかし,少し残念なところもあった.
今回は展示室の壁面そのものを磨いた『cube on white』とともに,SCAIでの展示作品が大型化された『MUMI』6点が展示されている.『MUMI』は,MDFにウレタン塗装とアクリルラッカーを磨いたもので,ちょっと何でできているのかわからない美しい作品だ(そして,何が描かれているかもわかりにくい).つまり,ここでの表面磨きの順番は,一般の展示室壁面を併せて考えると,
 MUMI > cube on white > 一般の展示室
となる.しかし,今回のクリテリオムの展示室には,
 MUMI > cube on white
の2つの関係しか存在していない.本来であれば,
 cube on white > 一般の展示室
という関係が,大変に大きな差の「>」であることがポイントになる.しかし,その比較対象物である普通の壁が,同時に視角に入ることがなく,しかも近接していないため,この『cube on white』という作品がどのくらい異常であるかがうまく理解できない.もう1度外に出て,廊下の壁面と比較することで,ようやくその異常さに気が付く.それどころか,より完璧な『MUMI』が展示されていることにより,
 MUMI > cube on white
の「>」が大きな差と感じられるため,
 cube on white > 一般の展示室
の「>」がそれほど大きな差ではないように思えてしまう.それが少し残念だった.更に残念なことに,写真ではほとんどその作品が理解できない.本当にバカバカしいほどの労力による,鬼気迫るインスタレーションである.

Mトレ@湯島もみじ

中村政人さんから連絡です.
下記の予定で「湯島もみじのMトレ2005/01」を行います.参加希望者の方はこちらまで連絡願います.どなたでも参加可能です.

[湯島もみじのMトレ2005/01]
場所:文京区湯島
作業期日:1月16日(日)〜20日(木)
時間:9時〜18時
作業内容:壁,天井制作など
条件:昼食付き.作業着持参.
半日,一日だけ参加できる人でもOKです.

湯島もみじについてはこちらをご覧ください.ダイアリーで過去の施工状況も見ることができます.
その他,「JA」53号「Renovation Forum」に取り上げられています.

三浦基・田原桂一・marcel duchamp・fluxus

『雌鶏の中のナイフ』
青年団リンク・地点の第9回公演.三浦基氏による演出.関連エントリはこちら

「田原桂一 光の彫刻」
ガラスや石灰岩やアルミや布の上に印画した写真作品を展示.

「マルセル・デュシャンと20世紀美術 芸術が裸になった,その後で」
『彼女の独身者たちによる花嫁,さえも(大ガラス)』東京ヴァージョンも展示.

「フルクサス展 芸術から日常へ 」
これほど集められることもほとんどないと思う.まあ,アートの勉強だと思って…….

クァクァ

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明けましておめでとうございます.
舞台の美術をやります.ぜひ見に来てください.
作品情報はこちら.上演はこちら.関連エントリはこちら

クァクァとは何かそれは声それは息それはことばしかも異語どんなかベケット・ライブvol.6

ベケット・ライブとはどんなだったかvol.12345つねに声の問題ことばの問題日本語の問題翻訳の問題ベケットのテキスト日本語による肉声化いったいどんなかからだをとおしてたえず挑戦

ベケット・ライブvol.3以降つづいた後期の戯曲きびしい制約今回は趣向をかえる思い切るあいかわらず声の問題ことばの問題いたって真剣でももっと広くもっと自由もっと暴走初心に戻る読むことから始める他人の書いたもと外国語どこまでいくか

今回はクァクァどんなか小説『事の次第』ひどくマイナーほとんど知られず読まれずそんな作品へのベケット・ライブからの回答オマージュちょっと参照「どんなだったかおれ引用するピム以前ピムと一緒ピム以後どんなか三部構成おれ言うそれ聞こえるとおり」舞台上でどうなるかスリーポイントお贈りするベケット・ライブvol.6クァクァ
(テキスト:長島確)

ものとしての小説

舞城王太郎氏の『熊の場所』のノベルズが発売された.これは,ノベルズ出身の舞城氏が,初めて文芸雑誌に発表した同名短編を収めた第1短編集.以前はハードカバーの単行本で出ていたもののノベルズ化.ハードカバーといっても,実際にはふかふかしたソフトなカバーを使用した凝った装丁で,デザインは講談社の舞城本をすべて手掛けているVeia.
続くように,舞城氏の処女作である『煙か土か食い物』の文庫が発売された.これは,以前はノベルズで出ていたものの文庫化.そもそも,単行本がノベルズ化されるというのは珍しい気がするが,どうもここには,単行本>ノベルズ>文庫というヒエラルキーがあるようだ.となると,将来『熊の場所』は更に文庫化されのだろうか? それはともかく,話のポイントは中身について.中身といっても,これらの小説が印刷されたページ自体のデザインについての話.
ノベルズ版の『熊の場所』には3つの短編が収められているのだが,実は,それぞれ使用しているフォントの種類とポイント,段組がすべて違っている.もちろん,単行本版で使われていたのは1種類だけ.通常の単行本のつくり方だった.このアイディアは,そもそも「ファウスト」で始まったもの.すべての作品は,それに相応しいフォントや段組を必要とすべきであるということから,1つの雑誌に,作品毎に異なるフォントや段組が選択されている.もちろん,In Design(今はCreative Suite)使用によるDTP技術の発達が背景にある.そして,芥川賞を取り損ねた『好き好き大好き超愛してる.』の単行本では,異なるフォント,段組どころか,使用している紙までが作品によって異なっていた.作品を読ませるに当たって,ものとしての小説が持っている空気をつくり出すためのデザインが行われているように思う.
実際に,それらのデザインによって作品の印象がどれくらい変わるかは,読み比べたわけではないのでわからないが,何れにしても,『熊の場所』ノベルズ版は,単行本版より更に進化した完成版である.

アートそのものが疑われてる

先を越された感があるが,横浜トリエンナーレ2005のディレクター交代問題.このタイトルは,磯崎新氏が,辞任発表4日前に行われたシンポジウムの席上で発言したものとのこと.このシンポジウムは,web上でもさまざまに取り上げられているが,その後の経過も含めて,やはりここに注目.
しかしここでは,「朝日新聞」12月16日の夕刊の大西若人氏による記事が,シンポジウムの状況を整理してくれていることから,大幅な引用となってしまうが紹介する.
磯崎氏の当初のプランは,《「従来の国別展示でも,キュレーターの指名制でもなく,最もまともに美術展を支えている組織」を前面に出す新システムで,国際展の枠組みを再構築する試み》を目指したもの.これに対し,南条史生氏が《「若い作家を選んで,国際舞台に出す」という国際展の機能が果たされない,と指摘.磯崎氏が「そのキュレーターの思い上がりが困りもの」と切り返すと,南条氏も「アーティストのためにやるのではないのか」と反発する場面も》あったり,北川フラム氏は《「そもそも建物の中でやるのが間違っている.横浜市が市民のためにやるなら,町づくりの実績を表に出す『都市展』しか意味がない」と語った》り,岡部あおみ氏が《「小都市でも国際展が開かれるのは,特徴を持つことでグローバリゼーションへのアンチとなるから」と話したが,磯崎氏は「ローカリズムを主張する国際展が多数あるのが,もうグローバリズムの枠内」と異論を呈した》りしたようだ.結局,《ショック療法的な磯崎案だが,「アートは国境を越えるだけでなく,国という単位に依存しない点で,21世紀に大きな力を持つはず.それには,ただ見せるだけの展覧会ではいけない」との指摘は,傾聴に値する》とのこと.磯崎氏がディレクターを務めることから,大変に期待をしていたのだが,これもまた氏がお得意とするアンビルトになったようだ.
新しい国際展の1つの例として,9月に開催された「光州ビエンナーレ2004」での試みが挙げられる.「artscape」の村田真氏のレビューより.《今回のユニークな試みは「観客参加」だ.これは農民や学生,主婦など一般人や美術以外の専門家,社会活動家らの「観客」を事務局が選び,アーティストとコラボレーションしてもらおうという企画.》この企画自体は大変に興味深い.しかし,《これはうまくいけばアーティストにとっても「観客」にとってもメリットがありそうだが,「お見合い」に失敗したりケンカ分かれする可能性もあり,効果はあまり期待できない.大半の作品は「観客参加」によってどこがどう変わったのか,または変わらなかったのかまったくわからないのだ.》結果はともかく,このような試みは更に続いてほしい.まあ,こんな国際展ですら,財団や観客とのコラボレーションが要請されているということか.

草間彌生・長島有里枝

「草間彌生 永遠の現在」
新作中心の「クサマトリックス 草間彌生展」に続き,今回は初期の作品も交えた回顧展.展示されている作品は代表作ばかりで必見だが,展示空間が狭いため,やや窮屈な印象なのが残念.この展示は東京からスタートする巡回展で,サブタイトルを変えながら,「永遠の現在」「魂を燃やす8つの空間」「無限の大海をいく時」「魂のおきどころ」と続く.出展作品や展示構成も会場毎に変化するらしい.その出展作品すべてを納めたカタログが出色.中島英樹氏のデザイン,ホンマタカシ氏によるポートレートもよい.このカタログを買うためだけにでも行くとよいかも.
「木村伊兵衛展」も同時開催.こちらは,日本近代写真の古典.

「長島有里枝展 Candy Horror」
様々なサイズの新作約30点による個展.オープニングには,浅田彰氏も来ていた.会期中イベントとして,モデルを募った撮影会を開催.申し込み方法はこちら.他人を集め,疑似家族写真を撮るという作品のためとのこと.
同時にNADiffでは,「not six」という最新写真集を中心とした個展も開催.

湯島の人々

湯島もみじに関わった人々の展覧会が相次いで開催.

「life/art '04」
中村政人さんが参加しているグループ展の4年目.SHISEIDO GALLERYで開催.今年は永芳リライブプロジェクトを紹介.須田悦弘氏も参加している.

「MUMI クリテリオム61 嵯峨篤」
嵯峨篤さん水戸芸術館のクリテリオムに登場.本人曰く,また磨いているらしい.現代美術ギャラリーでは「まほちゃんち」が開催.

また,湯島もみじ「Archi+Decor」No.2に掲載されている.

We wish you a Merry Christmas and a Happy New Year.

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震災後に初めて長岡リリックホールで行われた,市民吹奏楽団によるコンサートの前座として行われた,ロビーコンサート.

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長岡市内の仮設住宅.後ろの高架は,現時点では不通の上越新幹線.仮設住宅の通路は,入口が向き合った側が広く,反対側の窓が向き合う側はやや狭い.入口に案内図.左上のやや大きい建物が集会所.青いところは駐車場.

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関越高速から見た仮設住宅.十日町付近.

ニュータウン@nagaoka

もちろん,これはニュータウンではない.一見すると同様な配置であるが,建設の意図が大きく異なる.長岡駅から徒歩15分くらいのところにある仮設住宅.山間部で被災した人たちが暮らしているらしい.

がんばってます@nagaoka

いつもと変わらぬ風景@nagaoka

山間を走るバスの車中から,仮設住宅や,家の屋根を覆うブルーシートが見えた他は,普段と変わらなく見える長岡の街.昨日の講演でのぽ氏曰く,反省する大建築家の作品も変わらず建っている.しかし,よく見るとエントランスの取り付きに段差あり.もちろん,地震によるもの.他には大きな被害はなかったそうだが,やはりそれほど,相も変わらぬわけではなかったらしい.

地震のあとで@echigoyuzawa

地震のあとで,初めて長岡に向かう.この写真は越後湯沢駅から出る代行バス.依然として新幹線が不通のため,乗り換えなければならない.

1000000万人のキャンドルナイト

「1000000万人のキャンドルナイト」が冬至の21日に行われます.冬至にもやっているのは知りませんでした.20時から22時まで,電気を消して,ロウソクの灯りで過ごしましょう.

コラボレーションという名のエクスキューズ

「アジアン・フィールド」を見た.アントニー・ゴームリー氏による,旧都立高校の体育館を会場とした巨大なインスタレーション作品.教室で使われていたと思しき椅子と机が並べられていて,それが体育館を別の場所に見せてしまう働きを持ってしまい,少し余計な気がした,素焼きの微妙な色の違いを完璧にコントロールした,アーティストによる配置だけで十分な気がする.入口に展示されている,粘土像とその作者の写真もおもしろい.
受付に置いてあった「毎日新聞」(だったと思う)の本展を紹介する記事に,中原佑介氏の文章が用いられていた.《コラボレーションという考え方には,創造する人間があり,その人間によってつくりだされた作品を鑑賞する人間がいるという二極構造の通念を壊す要素が存在していると私は思います.》「芸術の復権の予兆」『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2003』(現代企画室)
もちろん,『アジアン・フィールド』は(中国における)壮大なコラボレーションによる作品である.しかし,一方で,コラボレーションが単なるエクスキューズでしかない作品が増えてきていることもまた事実ではないだろうか?

全国のサッカーファンへ(もしくは全国の構造ファンへ)

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『スタディオ・オリンピコ』(1960)
ASローマとラツィオのホーム.ローマオリンピックのメインスタジアムとして建設され,ワールドカップ対応として90年に座席と屋根が増築.その屋根の構造をJ&P.ズッカーが担当した(らしい).先端のリング状のケーブルを締めることにより,屋根を保持している.

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『アルテミオ・フランキ』(1932)
フィオレンティーナのホーム.P.L.ネルヴィの処女作.キャンチレバーの屋根もいいが,スタンド裏にあった螺旋階段が美しい.階段自体とそれを支える梁によるダブル・スパイラルという不思議なもの.しかし,スタンドを支える梁も柱も細く,おまけにスタンドの鉄筋が露出しているところも垣間見え……。

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『アリアンツ・アリーナ』(2005)
将来のFCバイエルン・ミュンヘンとTSV1860ミュンヘンのホーム.H&deM設計のワールドカップ用スタジアム.アウトバーンから工事中の様子を遠目に見ただけなのでなんとも言えないが,よくなさそう.フッ素樹脂ETFEフィルムによる膜構造.この膜は日本製なのに,日本では法的に使用できない優れもの.

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『ミュンヘン・オリンピアスタジアム』(1972)
現在のFCバイエルン・ミュンヘンとTSV1860ミュンヘンのホーム.ミュンヘンオリンピックのメインスタジアムとして建設され,74年のワールドカップでも決勝戦に使用.ギュンター・ベーニッシュとフライ・オットーの設計.アクリル屋根による力ずくの造形.ベッケンバウアーが,こんなモダンではないスタジアムは使わないとか言ったとか言わないとかで,アリアンツ・アリーナが建設されることに.敷地内には,J.シュライヒ構造によるスケート場もあり,近所のBMW本社前では,コープ・ヒンメルブラウのBMWミュージアムが建設中.

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『ゴットリープ・ダイムラー・シュタディオン』(1933)
VfBシュトゥットガルトのホーム.74年のワールドカップでも使用.93年にJ.シュライヒによって屋根が増築された.06年ワールドカップでも使用.ローマと同様な構造形式だが,こちらの方が軽快で,屋根より上に外側のリングが出ているところが特長.目の前にUNスタジオの現場(オフィス?)あり.

/04

坂本龍一氏のニューアルバム『/04』(スラッシュ・ゼロヨンと読む)がリリース.CM曲,映画音楽や過去の曲など,ベスト版的な内容.ただし,24年も前の曲をピアノ8台分の多重録音で収録するなど(本人曰く,「ピアノ・オーケストラ」),全く新しい作品.sitesakamotoでは,本人による全曲解説あり.

鉄板

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『キョロロ』写真コンテスト参加.
何れも錆びた鉄板に見える手塚貴晴+手塚由比+池田昌弘3氏の『「森の学校」キョロロ』と遠藤利克氏の『足下の水(200m3)』.誰が考えたのか,これが並んで設置されている.一方は建築作品で,見えている鉄板は外壁であるとともに構造体である(らしい).一方は美術作品で,見えている鉄板の下には容積200m3の水がある(らしい).鉄板が構造体であったり,鉄板の下に水が入っていたりすることがどうやら重要なようだが,見ただけではわからない.もしかすると,構造体になんかなっていなかったり,水なんか入っていないかったりするかもしれない.いや,そうでなければ,構造体であったり水が入っていたりする鉄板が,構造体でもなく水も入っていない鉄板とどのように違うのか? それが問題.

舞城最新作?

舞城王太郎の最新刊『みんな元気。』の刊行を記念して,山手線沿線の書店店頭における意味不明なキャンペーンが行われている.「バラバラPOP漫画 on 山手線」というもの.舞城の最新作ということになる.地図上の右の方は見に行けそうだが,左はちょっと遠い.近所に用事があって行った方,舞城作のPOPを写真に撮って送ってください.ご協力お願いします.

更なるこの美術館が用意する組み合わせ

「COLORS:ファッションと色彩 VIKTOR&ROLF&KCI」「小沢剛:同時に答えろYESとNO!」(森美術館)の2つを見た.相変わらずの森美術館による2つの展示と展望台の抱き合わせ販売だが,今回は更にCOLORSを見ないと小沢が見ることができないシステムに発展.
小沢は期待通りの大個展.趣味に合わない人も多いかもしれないが,1つずつ丹念に見ていくと巧妙な仕掛けが理解できるはず.意外だったのがCOLORS.これがおもしろかった.展示品もともかく,シンプルでありながらもかなり質の高い(お金の掛かった)全体のインスタレーションは見物.これがまた小沢のチープさとあまりにも対照的で笑える.その意味では,今回の2つのセットは観光客たちがどちらか(きっと大人はCOLORS,子どもは小沢)に反応するであろうということでは大成功.一見の価値あり(あまりにも入場料が高いけど).しかし,さすがに今回は展望台には見向きもせずに帰ってきた.
それから,出口への質(たち)の悪いみやげもの屋のような動線には閉口.あれはどうにかなりませんか,森美術館?

例えば日本語を壊すとすると

三浦基さんの演出による『三人姉妹』を見た.原作はアントン・チェーホフの有名な作品.それは見事に壊れた日本語で演じられていた.簡単に言うと,完成した日本語を壊れた発声により演じることで,日本語を壊している.後は劇評をリンクするのみ.詳しくはそちらを読んでほしい(劇評はいずれも初演のもの).
現代演劇なんか見たことない人,普通の劇場にしか行ったことがない人.そんな人こそ行ってみてください.きっと楽しめると思います.
  劇評1  劇評2

Antony Gormley

「アジアン・フィールド」
アントニー・ゴームリーによる,旧都立高校の体育館を会場とした巨大なインスタレーション作品.

真下慶治記念美術館

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『真下慶治記念美術館』
設計:高宮眞介,川島茂,佐藤慎也
構造設計:アラン・バーデン,田尾玄秀

開館@murayama

今日は山形.真下オープニング.

言の問い

上野近辺数カ所で開かれる「サスティナブル・アートプロジェクト2004 言の問い」では,セキスイハイムM1・MRをフィールドとしたプロジェクトが展開.中村政人さんの作品も上野桜木空き地に展示予定.

横尾忠則・森万里子

「横尾忠則 in the bath」
会場であるSCAIをテーマとした新作ペインティング9点.確かに,ある意味ではサイトスペシフィック.

「森万里子 縄文 - 光の化石 トランスサークル」
どうしてこんなところで,こんな展示が行われているのかわからないが,普通はこんな時しか行かないところだと思う.植物園自体がよいところなので,天気のよい日にピクニック気分で行くとよいかも.11月7日には「テレビ美術館」で紹介あり.

牛腸茂雄・高木正勝・Noism04

「牛腸茂雄展 自己と他者」
『日々』,『SELF AND OTHERS』,『見慣れた街の中で』の3冊の写真集を全点展示.荒木経惟やホンマタカシ,HIROMIXを知っている今となっては,再発見を実感できる写真家.同時に立派な作品集が刊行されており,そちらに全点掲載されているので,展示もともかく,そちらは必見.

『wonder girl』
高木正勝氏が空間構成・音楽・映像で参加している,コンテンポラリーダンス.最終日は終演後に,舞台で使用した映像を無料で展示.

『black ice』
金森穣氏率いるNoism04の第2作.まつもと市民芸術館(設計:伊東豊雄氏)でも公演あり.

小学校と現代美術

磯崎新さんが『バス・ミュージアム』の発表とともに,「現代美術館のこと」というインタビューに答えている.《今となっては,第一世代の空間の中であろうと,第二世代の中でも関係ない.倉庫の中でもルイ王朝スタイルの部屋でもいい.場所の特定はしなくていいというくらいに現代美術のアーティストは拡張している.……ぼくとしては,この建物は本来の意図が実現していないんだけど,現代美術館にとっては関係のないことかもしれません.》(「GA JAPAN」55号) 単純化すると,「第二世代」は近代美術のための空間,「第一世代」はそれ以前,「第三世代」は現代美術となる.
たまたま近所の図書館へ行く道に迷ってしまったために,旧坂本小学校でやっている「Voice of Site」展に出くわした.これは,シカゴ美術館附属美術大学,スクール・オブ・ビジュアル・アーツ(ニューヨーク),東京藝術大学という3芸術大学の学生,卒業生,教員のインスタレーション作品による現代美術展だ.藝大大学美術館陳列館,gallery J2,旧坂本小学校の3会場を使って開催中.展覧会の存在は知っていたが,たまたま横を通らなければ見に行くつもりはなかった.
都内の廃校となった小学校を利用した現代美術展は,旧赤坂小学校の「日本オランダ現代美術交流展」(1996),旧原町小学校の「セゾンアートプログラム・アートイング東京2001」(2001)などを見たことがある.その他にも,「越後妻有アートトリエンナーレ」(2001,03)でも多くの小学校が使われていたし,アーカス・プロジェクトのように小学校自体をアーティスト・イン・レジデンスの恒久施設にしてしまったものもある.磯崎さんの言うように,現代美術が拡張しているとも言えるけれども,廃校となった小学校は,まるで現代美術のための1つのビルディング・タイプをつくっているかのようでもある.
実は坂本小学校の展示も,会期の早い午前中に行ったためか準備中の作品が多く,ほとんど見ることができてなかった.陳列館などもまだ未見であるので,時間があれば見てみたいと思う.今まで見た中では,坂本小学校の理科室に展示されている,大竹敦人の『光闇の器』が必見.ただし,天気のよい日に行くこと.

東京の五大粗大ゴミ

東京国際フォーラム(設計;ラファエル・ヴィニオリ)が完成したとき,磯崎新さんが「読売新聞」に,東京には5つの文化施設という粗大ゴミができたと書いた.完成した順番に書くと,東京芸術劇場(設計:芦原義信),東京都新庁舎(設計:丹下健三),江戸東京博物館(設計;菊竹清訓),東京都現代美術館(設計:柳澤孝彦),東京国際フォーラムの5つ.それに続いて,「GA JAPAN」22号の「現代建築を考える○と× 東京国際フォーラム」という鼎談でも,藤森照信さん,二川幸夫さんとともに,その話題について語っている.
そんな話に至る伏線となったであろうことがいくつかある.もちろん大きな背景として,バブル期に完成したこれらの建物が,建築家のデザイン以前に,プログラム上の過剰な要求に問題を持っていたことが挙げられると思う.更にその鼎談では,建築家のデザイン自体の話や,都市や国家の話にも繋がっていくのだが,その他にもう少し磯崎さん自身の個人的な伏線があった.
まずは東京国際フォーラムだが,この設計は公開国際コンペによって設計者が決定された.元々この敷地には,丹下健三さんの名作の1つである『旧東京都庁舎』(1957)が存在していた.設計当時,東京大学大学院に在籍していた磯崎さんは,ディテールを描きに現場の手伝いに行っていたという.その旧都庁舎を取り壊すコンペの要項に対し,それを残したカウンター案を提案することを考えていたほど,磯崎さんはそのデザインを高く評価していた.
その旧都庁舎が取り壊されることになったのは,もちろん新宿に都庁舎が移転することになったためである.その新都庁舎も指名コンペによって設計者が決定された.その勝者が丹下さんであったことから,結局,丹下さん自身が旧都庁舎を壊すことを認めることによって,新都庁舎を作ることができたという格好になってしまっている.そして,そのコンペの指名者の中に磯崎さんもまた含まれていた.そのコンペ案は磯崎さんの最高傑作と言ってもおかしくない作品であったのだが,超高層建築を要求した要項に対し,中層建築を提案したこの案は,所詮カウンター案にしかなりようがなかった.
現代美術館も指名のプロポーザルコンペであったのだが,そこでもまた磯崎さんは指名者の1人に選ばれていた.結果は,柳澤さんが新国立劇場に引き続きコンペを勝ち取ることになったのだが,コンペが行われた1990年には,磯崎さんは『水戸芸術館』を完成させるなど現代美術館の設計者として最適任者であったと思われ,その選に漏れたことは非常に残念であった.運営上の問題を別にすると,少なくとも美術館建築としては,現在のものよりも遙かにすばらしいものができていたのではないかと思う.
もちろん,理由は複雑であるのだろうけれども,これらが五大粗大ゴミと呼ばれた評価は,現在でも大きく覆すことができていないのではないだろうか? 少なくとも,これらの磯崎案の1つでも完成していれば,もしかすると粗大ゴミを減らすことができていたのかもしれない.

東京の現代美術館にて

「近代美術」はModern Artの,「現代美術」はContemporary Artの翻訳であるわけだが,その定義は様々である.近代美術が,印象派以降の美術を指す場合があったり,キュビズムや未来派以降の美術を指す場合があったりする一方で,現代美術が,キュビズムや未来派以降の美術を指す場合があったり,第二次世界大戦以降の美術を指す場合があったりする(詳しくは,Wikipediaの「近代美術と現代美術」を参照).その意味では,現代美術館の展示範囲が様々であってもかまわない.日本の公立美術館で現代美術館という名前が付くのは,1989年に広島市現代美術館(設計:黒川紀章)が開館して以降,水戸芸術館(1990,設計:磯崎新)の現代美術ギャラリー,丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(1991,設計:谷口吉生),奈義町現代美術館(1994,設計:磯崎新),東京都現代美術館(1995,設計:柳澤孝彦),熊本市現代美術館(2002)というくらいのものである.その東京都現代美術館で2つの展示を見た.
「近代フランス絵画 印象派を中心として 花と緑の物語展」と「ピカソ展 躰[からだ]とエロス」である.前者は,タイトルが示すように花と緑をテーマに,モネやセザンヌなどの印象派を中心に展示したものであり,後者は,パリのピカソ美術館のコレクションから,1925〜37年に制作された作品を中心に展示したものである.それぞれ展示自体は,テーマに沿ったキチンとしたものであり,充実した内容である.特に「ピカソ展」の方は,ピカソ美術館との共同開催だけあって,ややマニアックなピカソの一断面で構成されたものだが,本格的な展示である.
しかし,どうして現代美術館でこのような展示が行われるようになってしまったのだろう? 現代美術は人が入らないから,印象派やピカソを展示すれば観客動員が増えるということなんだろう.常設展示にしても,美術館の新規作品購入予算がゼロであるから,将来性はまったくない.現在の館長は,日本テレビの会長である氏家齊一郎氏で,年に一度はアニメの展示を行う方針とも聞く.まだジブリの展示であれば現代を扱ったものとして微笑めなくもなかったが,ピカソはともかく,どの定義を見ても印象派は現代美術とは呼べない.もちろん,従来の美術館に比べて,東京都現代美術館の天井の高いホワイトキューブの空間は,近代美術に対しても良好な展示環境をつくり出す.現代美術館と名付けているわけだから,広義の現代美術の定義に照らし合わせて,キュビズム以降の作品を展示するのは大いに結構だが,せめて印象派以前の作品は扱わない分別が必要だろう.「ピカソ展」を開くにしても,展示室外にミュージアムショップがあるにも関わらず,更に展示室内にピカソ・グッズを販売するスペースを特設するような,商魂逞しいことはやめてほしい.デパートだって展示室内でグッズなんて売らないんじゃない?
とにかく,「ピカソ展」自体は一見の価値があるが,この美術館の態度は最悪である.

art-Link 上野-谷中 2004

「art-Link 上野-谷中 2004」が9月25日(土)〜10月11日(月・祝)まで行われる.吉田五十八設計の日本芸術院では,須田悦弘のタデが一輪展示されるとのこと.SCAIは「古武家賢太郎展 PARFAIT」を開催.

釜山ビエンナーレ2004現代美術展

韓国で開かれている「釜山ビエンナーレ2004現代美術展」に出展中の中村政人さんの作品「Metaunit / Tetra Project」(commandNのサイトで展示写真公開中)に,宮里直也,二瓶士門とともに,ほんのちょっとだけ協力.10月31日まで釜山市立美術館で開催中.この期間に韓国に行かれる方はぜひご覧ください.

ようやく@narita

やっと帰ってきた.3週間は長い.こんなに集中して建築を見たのは久しぶり.しかし日本は暑いね.

西から東へ@paris

帰りもパリ経由.5時30分にホテルを出発.11時50分発だが,成田に着くのも早朝.これがヨーロッパからの最後のアップ.

壁@berlin

ベルリン郊外の工業団地の後,チェックポイントチャーリーへ.アイゼンマン,ゼンゲリス,ヘイダック,磯崎らのIBA集合住宅が至るところに.そしてユダヤ博物館へ.細かいところまでよくできており悪い建築ではないが,あまりにも中の展示との整合性がなさ過ぎる.日本の博物館のよう.現地で発見したドイツ・グッゲンハイムではメイプルソープ展.そしてtkmyさん推薦のハンブルガー・バーンホーフに向かうが,インフォメーションと異なり,なぜか日曜休館.期待していた両美術館に入れず,本当にがっかり.気を取り直してシンケルのアルテス・ムゼウムを見たところでokdさんに呼び出され,ペイの歴史博物館へ.これがなかなかの大人の建築.最後にマーティン・グロピウス美術館でソフィ・カルの個展.原美術館と重なるものもあったが,展示も凝った力の入ったもの.帰り道にホロコースト博物館を通ると,ズントーの新館はまったく進んでおらず,空き地が広がるだけ.その横にはベルリンの壁が残されている.

入れない!?@berlin

無事にベルリンへ到着.まずはAEGのタービン工場.歴史的な一品という感じ.次にミースのナショナルギャラリーに行くが,周囲は長蛇の列.何が起きているのかと聞いてみると,実はMOMA展をやっていて,その順番待ちが11時間待ちとのこと! 確かに最終月の9月は夜中の2時までやっているようなので,計算は合う.それにしてもそんな理由でミースに入れないなんて…….結局予定を変更して,ヌーべルのギャラリーラファイエットを通って,OMAのオランダ大使館へ.もちろん中には入れない.少し乱暴さに欠けるが,なかなかの秀作.ホテルに戻ってから再び中心地へ向かい,ライヒスタークへ.22時まで開いているので夜にも登頂可能.鏡とガラスが不思議な空間をつくり出していて,一見の価値あり.ポルケ,ハーケのアートワークも迫力あり.

911@frankfurt

これからルフトハンザ178でベルリンへ.ベルリンにツインタワーはあったっけ,なんて変なことを考えながら搭乗を待っているところ.

作業中@strasbourg-frankfurt

ストラスブールではロジャースの人権裁判所などEU施設を見る.22時まで開いているので,近現代美術館へ行く.展示空間はよくないが,パイクやビュランなどのコレクションあり.フランスの現代作家も企画展示として広いスペースを使っている.大きな窓を持つトラムにも乗る.一泊後,バスでハイデルベルグへ.城観光.そしてフランクフルト.ウンガースの建築博物館を見た後,ホラインの現代美術館へ.やはりこれは美術館建築の傑作.半分くらいが企画展などの展示替えの最中で,普通にペンキを塗っていたり,養生していたり,作品を掛け替えていたり,それら自体もパフォーマンスやインスタレーションのよう.日本ではそんな作業を見せるなんてあり得ないが,それがまたおもしろかった.

快晴@ronchamp

ロンシャンに来た.ここが快晴の時に来るのは運がよいらしい.ロンシャンは,ロンシャン以上でもなく,ロンシャン以下でもなかった.今はストラスブールに向かっています.

名作の内部へ@stuttgart

朝早くワイゼンホーフ・ジートルングへ行くと,コルビュジエ棟が工事中.どうやら改修を行い,一般公開するかの雰囲気.外からもの欲しそうに眺めていると,庭で測量していたおじさんが中に入って来いと手招き.期せずして内部へ.改修前のボロボロの状態だったが,それでも感激.アウト,ミースなども見たが,やはり内部まで見ないと.その後はシュライヒ・ツアー.歩道橋,タワーなど8作ほど歩き回る.そしてスターリングの美術館.ポストモダンの佳作という感じ.それにしてもこっちの美術館はコレクションが充実している.しかもピカソであろうと自然光で展示.たいしたものだ.歩き疲れて早めにホテルへ.

橋ツアー@stuttgart

最近ワンパターンな書き方になってきたけど,さすがに疲れてきたため.特に携帯で文章を書くと思う通りにいかない.アウグスブルグからケルハイムへ.シュライヒの歩道橋を見る.なかなかよい.次にエッシングの歩道橋.いまいち.そしてシュトゥットガルト.またもやワールドカップ2006の視察旅行のようなダイムラースタジアム見学.続いて,またもシュライヒの歩道橋.構造ツアーの1日.しかしドイツは食事がおいしくない.

ようやく傑作@munchen

アウグスブルグからバスでミュンへンへ.動物園でフライ・オットーの鳥かごを見る.ケーブルネットのなかなか楽しいもの.月曜日だったので,唯一開いているノイエ・ピナコテークへ.アンソールやゴッホ,シーレなど.建物も,展示室の配置や道線,漆喰の展示壁面など興味深い.そしてドイツ博物館.シュライヒのガラス床のブリッジ.展示自体も興味深く,ドイツ語が理解できればかなり楽しそう.帰りにH&deMのゲーツギャラリー.これはやはり傑作.たかだか10年ちょっと前だが,昔はよかったとつくづく思う.断面構成,光の取り方と構造の考え方の関係など,よく考えられている.もちろん,現在に続く表面の表現もおもしろい.図面には現れていない,地下のビデオアート用スペースがあったことに驚いた.昨日の商業施設内にもギャラリーがあったが,展示替えで見ることができなかった.どんなものだったろうか?

5年ぶり@munchen

バスに乗りミュンヘンへ.ヘルムート・ヤーンの空港ホテル.構造ネタ.高速より建設中のH&deMのスタジアム.WC2006用.ひどい(かもしれない).次にオリンピック公園.5年ぶりだが,きれいに改修されていた.しかし,スタジアムはWCには使われないらしい.市内でH&deMの最近の商業施設を見る.世界中に仕事があるようだが,ちょっと密度が薄くなっている.そして,モダン・ピナコテークへ.ボイス(写真)やジャッドなど,現代コレクションが充実.ギャラリーのテラゾー製の床も新鮮でよかった.またバスに乗りアウグスブルグのホテルへ向かう.

観光@hohenschwangau

ベネツィアから移動して宿泊はパドバァ.そこからフュッセンへバスで6時間.途中,オーストリアのインスブルグで高速車中よりザハのジャンプ台を目撃.そしてノイシュバンシュタイン城へ.時間がなく,ビィース教会には行けなかったが,宿泊はシュタイン城の目の前にある4つ星ホテル.部屋からは城が見えないが,小さいバルコニーが付いており,ルードビィヒが住んでいたもう1つの城が見える(写真参照).夜にはバルコニーから屋外ステージが見えて,アルペン・ロックのコンサートをやっていたり,すっかり観光気分を満喫.

またまた短い滞在@venezia

バスでベネツィアに.まずはスカルパのオリベッティ.ダリなどのレプリカを売る店に変わっていたが健在.ドゥカーレ宮殿ではボッシュの絵が数点あり,堪能する.次にペギー・グッゲンハイムのコレクションを見る.すばらしいコレクション.イタリアだけあってボッチョーニなどの未来派の作品まである.ボートでパラディオのサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂へ.隣では,開催中のベネツィア映画祭の関連企画の準備が行われている.今年は建築ビエンナーレの年だが,残念ながら開催は1週間後.最後はお約束のようにサン・マルコ広場までの道に迷う.なかなか楽しい場所だった.アート・ビエンナーレのときにまた来たい.

サッカースタジアム視察団@firenze

バスでフィレンツェへ.またもやネルビィのスタジアム.これから中田の本拠地となるところ.昨日,記者会見を開いたばかりだったので,僕たちも歓待され,市長から記念品まで受け取る始末.またもやサッカー少年とokd先生は感激.実際,初期の作品らしい挑戦的な構造デザインはおもしろく,特に周囲の螺旋階段は秀逸.バスを降りて徒歩で市内ツアー.ブルネレスキの孤児養育院やドゥオモを見る.話題はドゥオモの施工方法を巡り,ブルネレスキとネルビィのどちらが天才かという話へ.結局時間がなく,一番行きたかったウッフィツィ美術館に行けなかったのが心残り.ホテルの窓からはドゥオモのクーポラが見える.これからベネツィアに向かう.

ローマは一日にしてならず@roma

最初はオリンピコ・スタジアム.下まで降りることができ,サッカー小僧たちは感激.もちろんokd先生も構造に感激.a.c.578の皆さん,ここでサッカーをやってみたいですね.次にネルビィの小体育館.これはデザイン的にも見るべきところあり.ピアノのコンサートホールへちょっと寄り道.自由行動になり,昼食はそれほどおいしくないイタリアンで失敗.カンピドリオに行くも工事中で,広場に巨大なクレーン車.仕方なく美術館でカラバッジオの絵を初めて見る.更に学生に捕まり,行きたくもないコロッセオに.okmr先生,ytg先生と偶然に出会い,疲れてしまって結局ホテルへ.初ローマだというのに,後半は充実することなく終了.使い方が間違っているけれども,ローマは一日にしてならず,という感じ.夜はようやくおいしいパスタを食べて一安心.日記もローマでは書ききれず,フィレンツェでアップ.

構造体の表面@roma

1週間経過.空路ローマへ.出発と到着後荷物の遅れで空港で待ってばかり.ネルビィのオリンピック体育館,テルミニ駅を見る.okd先生感激.駅は巨大な構造にモザイクタイルが貼られていることに感心.写真の白い構造体がすべてタイルで覆われている.おもしろい発見かも.今はローマのホテルで一休み.このblog,こっちに来てからネットに触れていないので,アップされているのかどうか未確認.見ているという話は聞くのできっと大丈夫でしょう.というわけなので,もちろんコメントを送ってもらっていても読んでいません.ごめんなさい.インタラクティブではないことが今回の企画の欠点.ちなみに,この携帯の時間は調整してないので,アップしている時間は表示の7時間前.それでは,これからokd先生たちとピザ屋で食事です.また.

行かなかったもの@barcelona

朝からグエル公園.午前中を費やし,マイヤーの現代美術館へ.展示がよく,思った以上に建物もよい.カサ・バトリョにも行くが,ガウディの中では一番密度が高いかも.夕方からForumへ.H&Mの現代美術などの巨大な展示施設や,FOAの海際公園など.どちらもそれほどでもない.その他にも博覧会のように展示が行われているが,アートではないのでおもしろくない.写真はグエル公園より.右の影がサグラダ・ファミリア,左の影がヌーベル.どちらもバスの車窓より見ただけ.

ミースと磯崎@barcelona

朝から団体でグエル教会など.モンジュイックの丘で解散し,ミロ美術館,サンショルディ・パレス.そして,念願のバルセロナ・パビリオンへ.最高でした.今まで疑問だった光壁の部分にトップライトがあったことに驚く.向かいに磯崎さんが増築をした,Caixa Forumを発見.こんな近くに…….しかも,ダグ・エイケンの個展を開催中で,これが傑作.写真は磯崎さん越しのミース.タピエス美術館(これもなかなか)やカサ・ミラへ.ガウディはどこも観光地化している.今日は歩き疲れた.

青の時代@barcelona

TGVとバスを乗り継ぎ,約10時間,バルセロナに到着.ホテルのダブルブッキングのおかげで,スペイン広場前の4つ星に宿泊.到着するとすぐに,学生やokd先生たちとピカソ美術館へ.スペイン時代の初期作品がたっぷりで,青の時代の名品を堪能.

頭で作った庭園@paris

ホテルの窓から見える場所だったので,学生たちと早朝よりラ・ビレット公園へ行く.あまりよい評判は聞かないが,結構おもしろく,結局,建物に全く入らずに散策だけで3時間を費やす.確かにフォリーはよい建築とは言えないが,チュミのアイディアは楽しい都市公園を作り出すことに成功していると思う.カルティエでは,JPGの展示.パンを使った,服というか人型の作品によるインスタレーション.なんと地下では,展示用のパンを作る厨房が展示されている.おまけにパンは販売されてもいる.そのバカバカしいエネルギーに感心.1人になって,コンコルド広場前で偶然見つけた現代ギャラリーに入ると,なかなかよい写真家の個展が開催中.展示空間もなかなか.オルセー前でバッタリとokmr先生と会い,お茶.中に入らず,再びポンピドゥーへ.昨日見逃した企画展などを見る.やはり壁面の作り方など,展示のやり方がうまい.前庭に増築されたピアノ設計のブランクーシのアトリエもすばらしい.パリでは必見.別館コンペで勝った坂さんを見たとの学生情報もあり.そして,スガワラ君と再会.今はTGVで移動中.車中より長めの日記 でした.

再会@paris

W研出身のスガワラ君と会う.彼はパリの設計事務所に勤務している.そこはポンピドゥーのレストランのインテリアをやったところ.夕食後,ノートルダムが見えるカフェで語り合い,楽しい時を過ごす.というわけで,昼間の日記はまた明日.スガワラ君,本当にありがとう.

別館@paris

数人の学生とともにポンピドゥーへ.21時まで開いている近代美術館に行くも,ボリュームがあり過ぎて見きれず.別館のコンペ案の展示あり.写真は,H&dM,FOA,MVRDVなと.見えないか? 市庁舎前では巨大なスクリーンに仮設席で,パリ市民が映画に釘付け.大迫力でかっこいい.何のイベント?

三角@poissy

villa savoyeを初めて見た.感動はしなかった.予想通りという感じ.サッシの断面が三角だったことが発見.

やってない!?@rotterdam

最初にファンネレを外から見る.やはり名建築.次に,content展をクンストハルに見に来たわけだが,なんと……(上の写真参照).日本の雑誌の情報では,まだ開催しているはずなんだけど…….こんな看板が立つくらいだから,間違えている人が多そう.まあ,フンデルトワッサー展でお茶を濁してもらう.学生を置いて1人Sonneveldハウスへ.これもなかなか.他はアウトの集住,ルクソールなど.最後にロッテルダムの耳寄りな情報.レムと小野は同じマンションに住んでいるとのこと.今晩は,これからウェルカムパーティー.(と,書いていたが,電波の状況なのかホテルからは送信できず,アップ遅れる.)

道路は大渋滞@den haag

強い雨.気温も低い.ホテルを出て,バスでハーグへ.ダンスシアターを見る.その後,Mauritshuisでフェルメールなど.写真は市内で開催されていた彫刻展におけるレイノーの新作.晴れ間が出てくる.オランダの天気は変わりやすいようだ.

24時間後@amsterdam

日本を出発して24時間.ようやくホテルへ到着.ドゴールの遅延が1時間.もう夜中の12時過ぎ.寝ます.写真はスキポールにあったホルツァー.豊田と同タイプだが,断面が8角形.

雨のドゴール@paris

到着.ちょっと小雨.乗り換えのために時間を潰す.ちゃんと現地時間でアップされるのかな?空港の建築ひどし.

AF275@narita

行ってきます.okd先生も元気にしています.それでは,またね.

団体行動の憂鬱@narita

早く着きすぎた.空港に8時41分着.出発は12時5分.学生は無事に全員集合.まだ時間はたっぷり.

日本画によるインスタレーション

「横山大観「海山十題」展」(東京藝術大学大学美術館)を見た.黒田清輝に引き続き,横山大観はよく知っているし,おそらく作品もいくつか見ているが,全く興味のない作家だった.更に,六角鬼丈さん設計の展示空間が好きではないこともあって,ほとんど期待をしないで見に行った.ところが,これがすばらしい展示だった.
大戦に向かう国家に貢献するために,大観は海の絵10点と山の絵10点を描き,現在のお金で20億円の売り上げを得て,4機の戦闘機を軍に寄贈したとのこと.その背景の善悪はともかくとして,完成直後でも山と海が10点ずつ別会場で展示されたのみだったものが,一同に20点が集められている.
つまり,同一のコンセプトで描かれた作品が,当時の大観が意図した配列を再現されているとともに,1点ずつ展示ケースが作られている熱の入りようで,展示空間が1つの作品として十分成立している.ここでもまた,確かな展示がすばらしい作品空間を生み出す好例となっている.日本画もバカにできない.

なぜblogか?

4月からgumoblogに参加し(このページのエントリ中,7月まではgumoblogより転載したもの),5ヶ月近く経つ.結局,研究室のホームページ自体をblogでリニューアルし,この小学生の交換日記が集積されたような個人ページを作るに至っている.
非常に単純な話,ある情報や問題を共有することにより,個人ではたどり着くことのできない結論へと到達できるのではないかという淡い希望を持っている.そのためのツールとなる,気軽な他者の介入を可能とするcomment機能と,更なる深い他者との応答を可能とするtrackback機能は,わざわざ僕が説明するまでもなく,blogの重要な魅力である.もちろん,blog自体は,未知の他者に対してもtrackbackが可能であり,そこから関係が始まることを可能にするわけだから,研究室という単位で交換日記(trackback)をやり合うことには積極的な意味はないかもしれない.それでも,gumoblogの経験から言うと,既知のメンバーによる交換日記を足掛かりとして,更に大きな交換日記へと向かう方法は,現時点でのblogの使用方法としては有効ではないかと思う.
blogは,17日の「朝日新聞」夕刊にも取り上げられているように,注目されているツールである.批評家演出家複数作家によるblog雑誌美術館の学芸員アイドル校長社会学者大学授業での使用女優の携帯日記,その他様々な著名人によるblog,もちろん建築家建築研究者住宅のクライアントまで存在している.
「日記」として書き始めているように,わざわざヨーロッパで携帯を使うのも,もしかすると,そこから何かが発見できることを期待しているから.日記も携帯も嫌いだけれども(もしかすると大好きで,中毒になるのが怖いだけかもしれないけれども),blogをツールとして最大限に使うことで,楽しめればよいと思っている.乞うご期待.

幻影城@ikebukuro

立教大学の講堂にいる.東武百貨店で開催中の「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」では,乱歩が書庫として使っていた土蔵(幻影城)が,修復され,特別公開されている.これが立教の隣に位置しており,現在は立教の所有.そこへ見に来たわけだが,大混雑で1時間待ち.講堂の中で記録映画を見ながら待たされている. その後土蔵へ.しかし,よく考えれば当たり前なんだけれど,蔵書保護のため内部はガラス張りで,入口に一歩入ることができるだけ.何も見えない.結局,書斎のあったタイル張りの主屋の方がよかったりして,そちらの写真をアップ. マニア向け企画.saeさんは是非.

日本の本物@ueno

西洋美術館で「ぐるぐるめぐるル・コルビュジエの美術館」を見た.もちろん,これからフランスで本物を見る前の予習というわけではない.この展示は美術館自体を解説するもので,鈴木明さんたちによる企画.こんなことでもなければ,この美術館をコルの作品として見ることはなかったろうから,これもまた本物であることが確認できる好企画.しかし,残念ながら入ることのできない場所が多い.写真の中3階もそんな場所.管理の問題などあるとは思うが,こんな企画のときこそ入ることができるようにしてほしかった.一番驚いたのは,西洋美は館内撮影可なんだね.さすが国立.

初日記,初携帯@yanaka

このblogには,意図的に日記のようなものは書いてこなかった.どちらかというと,感想以上,批評未満となるものを目指してきた.しかし,これから日記を,しかも短期間だけ始めてみようと思う.理由は簡単で,これから3週間ヨーロッパを旅行するから,その間だけ日記を書いてみようと思う.実は今まで携帯を持ったことがなかった.しかし,このblogのために初めて契約した.しかも,旅行から帰ってきたら手放すつもりだ.今も操作に苦労しながら,近所の公園で,この文章を送っている.そんな意味も含めて初めてづくしの試みである.果たしてヨーロッパから無事に送信できるか不安があるが,始めてみたい.

1ファンのたわごと

『スチームボーイ』を見た.正直言って,ほとんど絶望的な気分で映画館へ行った.
僕は『アキラ』の連載が始まる前からの大友克洋の大ファンだった.今でも,最も衝撃を受けたマンガだと思う『童夢』を読んでから,既に20年以上が経過している.その神様みたいな大友が,9年と24億円を掛けて映画を作る.あの『アキラ』でさえ,連載開始から,最後の単行本が出るまでが約10年で,その間に『AKIRA』も作っている.そして,今回の舞台は19世紀のロンドン.正直言って,企画が始まった時点から,おもしろいはずがないだろうと思っていた.それなのに,こんなに長い期間を掛けて……(ちなみに,『アキラ』はマンガ,『AKIRA』は映画.)
案の定,公開後の評判は最悪なものだった.特に夏目房之介さんが,自身のblogに《『スチームボーイ』はどうなんだろう.大友が抱え込んじゃったものだけに,ちょと不安はあるね.》と書いている.夏目さんに《大友が抱え込んじゃったものだけに》と言われてしまうと……そうだよな,9年間も抱え込んじゃったんだよな,とますます暗い気分になり,映画館に足が向かなかった.
そして,ようやく見た.結果は,とてもおもしろかった.これは紛れもない大友作品だった.この作品に批判的な人たちは,一体,何を大友克洋に望んでいたのだろうか? 『AKIRA』みたいな映画? 僕にとっては,『アキラ』以前の作品が,本来の大友作品だと思っている.むしろ,『アキラ』は少しハードすぎた.
『Fire-ball』は兄弟,『童夢』は女の子とおじいちゃん,『アキラ』は幼なじみ,そして,『スチームボーイ』は親子三代の話.それが,当事者以外の人から見ると,大事件に見えたり,戦争に見えたりするというのが基本的な構造.そして,その事件を冷静に見ている子どもたちの視線が描かれる.『童夢』もそうだし,初期の『宇宙パトロール・シゲマ』だってそう(まあ,今回のロンドンの子どもたちは中途半端だけど).スカーレットの行動がおかしいという話もあるが,これも初期の『酒井さんちのユキエちゃん』を彷彿とさせる.大友らしい女の子.もちろん,『AKIRA』の世界観から言えばアウトとなるキャラクターかもしれないが,この冒険活劇の中では違和感はない.科学に対する,少し説教じみたスタンスも,やはり『アキラ』の終盤で描かれていたことと同じ.それが陳腐だというならば,『アキラ』も大差ない.
褒めているのか貶しているのかよくわからなくなったが,結論としては,『アキラ』や『AKIRA』の亡霊を追い求めて映画館に行くのであれば,それはやめた方がよい.1つの娯楽大作として『スチームボーイ』を見るのであれば,絵の魅力とあいまって,必ず楽しめると思う.
そして,エンディングロールは,映画に更に拡がりを持たせるための粋な演出であって,次回作を予告するものなんかではないと思う.続編なんていう話も出ているようだが,間違っても大友には,そんなものはやってほしくない.『スチームボーイ』の続きが見たくないとかそういう意味ではなく,これで本当に続編があったとしたら,あのエンディングが台無しになってしまう.あれは,1本の映画として完結するためのエンディングであって,むしろその期待感を持たせることが重要である.
そして,まだ見ていない人がいるならば,ぜひ映画館の巨大なスクリーンで見てほしい.画面は全体に暗く,おそらくDVDで見たって,どこまで再現できることやら.それに,大友の全体を貫く画面構成は,巨大なスクリーンで見て初めて最大の効果を発揮する迫力を持ったものだ.小さな画面で見ることだけは勘弁してほしい.

PC造の住宅

山下保博さん(アトリエ・天工人)設計の『JYU-BAKO』の上棟見学会に行った.これは,PC造による4世帯住宅+店舗なのだが,完成してからの見学会はよくあるけれども,上棟した状態での見学会というのは初めて.見た感想としては,完成してみないことには,よくわからないというのが正直なところ.まずは完成を待つことにする.構造は徐光さん(JSD).

jyu_bako.jpg

新しい構造体

「朝日新聞」7月30日の夕刊に,「新しい構造体,次々に」という見出しとともに,建築の構造が大きく取り上げられていた.伊東豊雄さん『せんだいメディアテーク』foa『横浜港大さん橋国際客船ターミナル』などとともに,ヨコミゾマコトさんの『新富弘美術館』の建設中の様子がレポートされている.執筆は朝日新聞学芸部の大西若人.『新富弘美術館』は国際コンペにより選ばれた作品で,約1,200案の応募があったことから大きな話題となった.実は,このコンペ案に対して僕は否定的であった.しかし,今回紹介された建設中の構造躯体の写真は,確かに美しいもので,改めて期待を持ってゆきたいと思う.建設の様子を定点観測しているwebもある.完成を楽しみにすることにしよう.
しかし,この記事で一番気になったのは,構造設計者のこと.「新しい構造体」による建築の魅力を紹介しておきながら,意匠設計者は紹介されているが,その肝心の構造を実現している構造設計者が紹介されていない.もちろん,役割上は仕方がないことなのかも知れないが,少し残念だった.ちなみに,『せんだい』は佐々木睦朗さん,『横浜』はSDG(渡辺邦夫さん),『富弘』はArup Japanの金田充弘さん.

bye-bye CD?

最近はiPodでしか音楽を聴かない.CDでは,60分やそこらで取り替えるのが面倒だし,何を聴くかを決めるのも億劫で,ついつい同じものばかり聴いていた.iPodの実力を知らず,10GBを購入したわけだが(iPod自体は,知人の美術家Mさんに薦められた),我が家では3人でシェアしていることもあって,ライブラリの1/3も収納できず,今後の拡張性も含め,40GBを買えばよかったと後悔しているところ.僕は外に出てヘッドフォンで音楽を聴く趣味がないため(どちらかというと自分の置かれている環境の音を聴いていたい),iPodは自宅を一歩も出ていない.聴き方としては,ほとんどがシャッフル再生.とは言っても,実際にオペラから童謡まで入っているため,ジャンルやアーティストで制限を掛けて聴く場合がほとんど.確かにオペラだけでなく,アルバムとして完成された作品の場合(例が古いが,ビートルズの『サージェント・ペパーズ』とか),正しい曲順と呼べるべきものがある.個人的には,この曲についてはこれらの曲とこの順番で再生されなければならないという設定ができると,分割した曲も1つの長い曲として,シャッフル再生に取り込めると思う.
iPodにはもう1つ,音質の問題があるらしい.普通に聴いている限り,僕には音質が悪いかどうかよくわからない.こんな比較もある.同じ音質の話ではCCCD問題があるが(これは音質だけではないけど),佐野元春なんかは自分でレーベルを作るまでに至っている.坂本龍一は,新しいアルバム『CASM』のinternational盤をiTunes Storeのみで発売する.しかも,新曲が追加され,それらはCDで聴くことができないことになる.インタビューでは,2004年は,CDで音楽を聴くことをやめた年として記憶されるというようなことを言っている.坂本龍一みたいな耳のよい人がiTunesだけで販売するくらいだから,音質的には問題ないのだろうというのが,僕の人任せなiPod(というかMP3だかAACだか、よくわからないけど……)に対する個人的見解.さて.

日本の正確な表現

ヴッパタール舞踊団の新作『天地 TENCHI』彩の国さいたま芸術劇場)を見た.
ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踊団の公演は,1996年の『船と共に』以来,来日の度に見ている.最も好きなダンスカンパニーと言っても過言ではない.なぜ好きなのか? それは,ピナの舞台にはあらゆるものが含まれているからである.もちろん,洗練された肉体表現としてのダンスがある.言葉がある.英語もあるし,日本語もある.(ダンサーたち自らが,片言の日本語でセリフを話す!)音楽がある.歌もある.巨大な舞台装置がつくられる.(2002年の『緑の大地』日本公演では,装置の構造計算を岡田章さんがやっていた(笑).)水も砂も土も火も草も花も使われる.演劇のようでもある.コントのようですらある.そして,なんと言ってもユーモアがある.とにかく,コンテンポラリーダンスというジャンルだけで呼ぶべきではない何かがある.むしろ,そのダンスの能力を持っているが故に,後は何をやってもよいという自由さがある.
今回の『天地』は,日本をテーマに制作された最新作である.昨年日本で上演された『過去と現在と未来の子どもたちのために』は,2002年に制作された,その時点での最新作だった.それは,それまでの作品と比べると,圧倒的にソロの多い作品だった.個人的には,ヴッパタールの魅力はアンサンブルにあると思っていたので,ソロはやや退屈で,わずかなアンサンブルが印象的だった.そして,今回の『天地』では,全くといってよいほどアンサンブルがなかった.ほとんどが小さなエピソードをパッチワークしたような,徹底的に断片的な作品であった.それは,『過去と……』のように,最近の作品の傾向であるのかもしれないが,もしかすると,日本をテーマにした結果であるかもしれない.かつてのピナの作品には,もう少し構築的なところがあった.例えば,多くの作品が二部構成となっているのだが,1部に登場した動きやシチュエーションが,形を変えて2部に反復されて現れることで,作品が重層化していく.しかし,今回は反復すら行わない.ひたすら断片化されたコントが続く.しかも,そのことが決定的なのは,クライマックス(と呼んでよいのかすらわからない)である.ある意味ではアンサンブルなのだが,このようなものだった.1人が舞台中央で短く激しく踊ると,次の1人が中央に走り込んでくる.そうすると,先に踊っていた1人は舞台袖へ走り去っていく.そして,次に現れた1人がまた舞台中央で短く激しく踊り,更に次の1人と入れ替わる.それが繰り返されて,最後まで続き,閉幕.つまり,2人以上が同時に舞台上に現れることはなく,それどころか,それが激しいスピードを持って繰り返されるために,通常のアンサンブルを強烈に拒否しているようにすら見える.
片言の日本語で繰り返される,ゲイシャ,フジサン,サムライなどは,さすがに辟易するところでもある.しかし,『ロスト・イン・トランスレーション』(見ていないが)同様に,海外の持つ日本のイメージとしては,正直な表現であるのだろう.しかし,この超スピードの慌ただしい孤独なアンサンブルもまた,日本を表現したものだとするならば,現在の状況を正確に現すことにピナは成功しているように思える.

追悼 野沢尚 連続ドラマ編

脚本家の野沢尚さんが自殺した.僕がテレビドラマを見る場合,ほとんどが脚本家で選ぶことになる.よく考えると,彼の書いたドラマはほとんど見ているように思う.死んでからこんなことを書くのも何だけれど,彼の作品を紹介してみる.
元々は映画の脚本家であった.僕が見た映画は,1989年の『その男,凶暴につき』(監督:北野武)『ラッフルズホテル』(監督:村上龍)くらい.『ラッフルズホテル』は東京国際映画祭で上映されたのだが,それを見たときに客席に野沢さんを見かけたのを覚えている.1990年から95年頃までには,「シナリオ」という雑誌にエッセイを連載していて(『映画館に,日本映画があった頃』という本にまとまっているらしい),毎月おもしろく読んでいた.
1992年に初めての連続ドラマ『親愛なる者へ』を書く.浅野ゆう子,柳葉敏郎,佐藤浩市が主演,主題歌は中島みゆき『浅い眠り』.中島みゆきはゲスト出演もしていた.続いて93年が『素晴らしきかな人生』.浅野温子,織田裕二,佐藤浩市,富田靖子が主演,主題歌は井上陽水『Make-up Shadow』.デビューしたばかりのともさかりえも出演.94年が『この愛に生きて』.安田成美,岸谷五朗が主演,主題歌は橘いずみ『永遠のパズル』.このドラマはあまり記憶がないのだけれど,とにかく悲惨な話だった印象がある.ここまでが夫婦純愛三部作と言われるもの.どれも今までのドラマとは違うものを書こうという意欲は感じられて,それなりにおもしろかった.
そして,1995年が『恋人よ』.鈴木保奈美,岸谷五朗,鈴木京香,佐藤浩市が主演,主題歌はセリーヌ・ディオンwithクライスラーカンパニー『TO LOVE YOU MORE』.このときには小説を最初に書き,それからドラマのシナリオを書いていた.それだけに全体のバランスがよく,野沢作品のベストだと思う.
1996年『おいしい関係』(主演:中山美穂,唐沢寿明)は途中まで書いて降板というお粗末なもの.97年が『青い鳥』.豊川悦司,夏川結衣,鈴木杏,山田麻衣子が主演.2部構成となっていて,夏川結衣が死ぬまでの前半は最高におもしろかった.この作品で夏川結衣の大ファンになり,これが終わったら興味をなくしてしまったくらい.98年が『眠れる森』.中山美穂,木村拓哉が主演.話題になったが,映像を堂々と使ってミス・リーディングさせる手口に辟易.これでも江戸川乱歩賞受賞作家か? と思った.99年が『氷の世界』.松島菜々子,竹野内豊.これも最悪.
2000年の『リミット もしも,わが子が…』は,滅茶苦茶な話だったが,結構おもしろかった.安田成美,佐藤浩市,田中美佐子が主演,演出は鶴橋康夫も担当していた.01年が『水曜日の情事』.天海祐紀,本木雅弘,石田ひかりが主演.まあ普通.02年が『眠れぬ夜を抱いて』.財前直見,仲村トオルが主演.実はこれ,途中で見るのをやめてしまった.しかし,結局これが最後の連続ドラマとなった.(続く)

力の隠蔽

山本理顕さん設計の『東京ウェルズテクニカルセンター』の話.構造は佐々木睦朗さん.この建築は,4.2メートルグリッドの,ブレースが存在しないフレーム構造であるのだが,ちょっとした工夫がされている.全ての柱は200ミリ角の鋼管柱で統一されているのだが,一部にキャンティレヴァー(片持ち梁)部分があるため,柱の負担する鉛直荷重が異なる.それを解決する方法として,200ミリ角という外形はそのままに,一般部は厚さ16ミリの鋼管でありながら,キャンティレヴァー部のみ厚さ25ミリの鋼管を使用している.
モダニズムの建築では,力の強弱は視覚化されるべきものだった.当然,ある高さを持つ建築の場合,上階にいくほど負担する鉛直荷重が少なくなるため,柱は細くてもよいことになる.そこで,上階に向かうほど柱が細くなっていくことを,外部から視覚化することが表現となった.ルイス・カーンの『エクセター図書館』,村野藤吾の『横浜市庁舎』などが,その例である.
それに対し,この建築では,力の強弱は視覚化されることなく隠蔽されている.実際の建物を見ていないので何とも言えないが,おそらく柱の肉厚の違いは,外から見てもわからないだろう.そうだとすると,これもまたモダンというよりは,ポストモダンな構造かもしれない.

1000000万人のキャンドルナイト

「1000000万人のキャンドルナイト」が19,20,夏至の21日に行われます.20時から22時まで,電気を消して,ロウソクの灯りで過ごしてみてください.

偽物の本物

「スターウォーズ サイエンス・アンド・アート」国立科学博物館)を見た.小学校5年生で見た『スターウォーズ(エピソード4 新たなる希望)』(そして,同年に見た『未知との遭遇』)は,僕にとって原体験とも言える映画で,大きな影響を受けてきた.そんなスターウォーズ・サーガの撮影で使用された,様々な本物が展示されているということで,京都国立博物館で展示が開始された頃から大変楽しみにしていた.『エピソード5 帝国の逆襲』『エピソード6 ジェダイの帰還』までは,文字通り実際に映画に登場する模型などが展示されている.それに対し,特殊視覚効果の技術的な進歩が背景にあって,『エピソード1 ファントム・メナス』『エピソード2 クローンの攻撃』の展示では,衣装や実物大の乗物を除けば,模型の大半が実際の映画では使われていない参考のためにつくられたものであり,使われていたとしてもCGによって処理されているため,どちらかというと撮影の素材という感じであった.
それでは,『エピソード4〜6』の本物の展示が感動的なものであったかというと,思ったほどではなかった.展示の内容に不満があったわけではないのだが,結局,これらの展示は本物であるかもしれないが,僕にとっての本物ではなかった.いくら撮影に使われた本物のミレニアム・ファルコンが目の前にあったとしても,映画の中で飛行しているミレニアム・ファルコンが僕にとっての本物であって,今回の展示物は偽物のようにすら見えた(ちょっと極端だけど).
オマケに書くと,僕にとっての(フィルムで撮影されている)映画は,映画館のスクリーンで見るものが本物であって,ビデオで見ることは偽物を見ているようなものだと思っている(これも極端だけど).少なくとも,別のものだとは思う.更にオマケに,『エピソード2』はフィルムを全く使っておらず,全てデジタルビデオで撮影された.日本でも数カ所ではデジタル上映が行われたが,僕はフィルム上映しか見ていない.それでは本物を見ていないのではないか,という話もあるが,どうなんでしょうか?

スーパーフラットな構造

妹島和世さん設計の『梅林の家』を雑誌で見た.この住宅では,構造体でもある全ての壁が,16ミリの鉄板でつくられている.雑誌に掲載されている図面を見ると,壁はほとんどシングルラインのように見える.ちなみに,1/150の図面では,約0.11ミリ.構造は佐々木睦朗さん.
僕たちが学生の頃,それも妹島さんの影響が大きかったと思うが,グラフィカルに表現されたシングルラインの図面が流行っていた.「実際の建築物は厚みのあるものだ」と怒られたものだった.事実,その時点では,実際に厚みがなければならないものを,抽象的な表現として(時には,ダブルラインで描く手間を省いた手抜きな表現として)シングルラインを用いていた.しかし,妹島さんはこの住宅で,あるバランスの中で,物理的にシングルラインで表現することのできる建築を完成させた.しかも,構造的な技術を用いることで.
もちろん,建築物の厚さは構造体のみで決まるわけではなく,断熱材や仕上げによるところも大きい.この住宅では,これらの問題を断熱塗料を塗ることで解決しているらしい.塗装なので,厚さは限りなく0(ゼロ)であるし,そのまま仕上げにもなるだろう.この点についてもやはり,技術的な方法で解決を図っている.しかし,この塗装の性能がどのくらいのもので,ヒートブリッジ,つまり外部に面する壁が,内部の壁や床に直接溶接されているため,外壁が冷えると,そのまま間仕切り壁が冷えて結露を起こすという問題に対し,どの程度防止できているのかはわからない.もちろん,個人住宅であれば,クライアントがOKと言うのであれば,どのような性能であってもかまわないという話も一理ある.(事実,僕自身の設計した『湯島もみじ』は,結露どころかスキマがあちこちにあったりする.)とにかく,技術的な興味として,『梅林の家』の断熱性能がどのようなものであるかは興味深いところである.
何れにしても,その結果に得られた,特に内部空間の,手前の部屋と,16ミリの鉄板に開けられた開口部越しに見える隣の部屋が同時に見える風景は,確かに不思議なものがある.もちろん,ここでもまた,部屋と部屋との間に建具を取り付けなくてよいという,クライアント自身の要求によるところが大きいかもしれない.(現実には,音や匂い,空気があらゆるところに廻ってゆくのだろう.もちろん,ワンルームの要求を,一繋がりのいくつもの小部屋によるプランニングで解決していることが,この住宅の主題なのかもしれないが,この文章の主題はそこにはない.)いくら壁を薄くつくったとしても,その薄さを示す断面が見えなければ,知覚することもできないかもしれない.
この住宅は,構造計算上は12ミリの鉄板でも保たせることができたそうだ.しかし,施工上の溶接による歪みなどが問題になって,16ミリの鉄板を使っている.「新建築」2004年3月号のインタビューで,妹島さんが厚さについて語っている.現在設計中の,オランダに建つ『スタッドシアター』の壁の厚さは80ミリだが,建築自体が大きいため,図面上のバランスでは,やはりシングルラインに見える.この規模で80ミリの壁というのは,かなり薄い.ちなみに,1/1000の図面では,約0.08ミリ.『梅林の家』よりも相対的に薄い.それでも妹島さんは,〈実際に自分の体の前に80mmという寸法が出てきたときには,プロポーションとか関係性でない絶対的な厚みが出てくると思う〉と語る.
友人の構造家の多田脩二と,この住宅の話になったとき,「そんなに薄い壁がいいならば,天井から吊れば,いくらでも薄い鉄板でできるだろう」と言われた.そりゃそうだ.その壁が主体構造でないのであれば,1ミリくらいのペラペラな間仕切りだってつくれるかもしれない.
そうだとしたら,何が重要なのだろうか? 壁が薄いことか? 壁が構造体であるかどうかということか? 薄い壁が構造体となっていることだろうか? 次に考えるべきことは,ここら辺にある思う.

近くて遠い日本近代美術

「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝展」(新潟県立近代美術館)を見た.有名すぎることもあって,あまり気にして見たことのない作家であったが,「再考:近代日本の絵画 美意識の形成と展開」の第一部(東京藝術大学大学美術館)に出ていたものを見て,ちょっと興味を持っていたところだった.特に今回の個展でおもしろかったのは,構想画(composition)と呼ばれる作品と,そのためのデッサンであった.それらは,『昔がたり』という群像を描いた大きな作品のためのものだが,登場人物は実在のモデルを元に1人ずつデッサンが重ねられ,背景も部分ごとに下図を描き,最終的にそれらが構成(composition)されて1つの作品に仕上げられている.つまり,現実に見た光景を写実的に描いているわけではなく,頭の中に浮かんだ光景を,実際のモデルなどを参考にして組み立てているということだ.おまけに,その完成までの作業に2年ほど掛けているらしい.(更におまけに,『昔がたり』については,多くのデッサンが残されているが,完成作は戦災で消失してしまっている.)近代絵画において,そのような方法が一般的であるのかどうかはよく知らないが,僕にとっては,一目見ると単なる人物画のように見えるものが,実はcompositionという構築的な概念で描かれていることがおもしろかった.その他,同じ構想画の『智・感・情』(こちらはデッサンがなく,完成作しか展示されていない)もよかった.日本の近代美術なんて,あまり身近なものではなかったが,改めておもしろさに触れることができた.
この個展は新潟の美術館で見たのだが,カタログを買ってから分かったことがあった.これらの作品は,上野公園にある黒田記念室に展示されているものの巡回展であったらしい.実は,黒田記念室は我が家から徒歩10分ほどの場所にある.存在は知っていたのだが,1度も行ったことはなかった.そんな身近な作品たちを,わざわざ新潟で見たということもまた,何かの因縁かもしれない.

美術家に必要な能力

「小林孝宣展 終わらない夏」(目黒区美術館)を見た.ここは,区立の美術館でありながら,時折このような好企画が行われる注目すべき美術館の1つである.小林は,「MOTアニュアル2003  days おだやかな日々」などのグループ展や,年に1度くらい開かれる西村画廊での個展を見ていて,以前から僕の好きな作家の1人であった.美術館での個展は初めてだったので,見たことがない多くの作品を見ることができるだろうと期待していたが,見事に裏切られた.それは,非常に展示点数の少ない個展であった.しかし,作品数が少なかったことを除けば,期待以上の展示でもあった.むしろ点数を減らし,それを効果的に展示することで,作品の魅力を十分に引き出すことに成功している.目黒区美術館は決して好ましい展示空間とは言えず,エントランスホールからそのまま繋がる展示室,多角形の平面と不思議な形状のトップライトを持つ展示室,外部に面した階段から直接繋がる展示室など,全体的にルーズな構成を持つ.インスタレーションならまだしも,平面には不利な展示空間であるように思う.しかし,この個展では,全ての展示室に見事に作品がはめこまれている.それは,今回展示されているノートのスケッチに現れているように,小林自身が展示空間に対して,詳細な検討を行っている結果であることが分かる.特に2階の連作を展示する空間は,仮設壁によって分割されているのだが,その小部屋のスケール感や開口の大きさは見事であった.
もちろん作品自体も,最初期の潜水艦の作品を初め(これは初めて見た),点数が少ないながらも,これまでの小林の軌跡をたどることができる回顧展になっている.しかも,カタログには展示されていないものも含めて,全ての小林の作品の図版が(モノクロだが)掲載されており,これもまた必見である.
作品を描くことと同時に,それらがどのような空間に,どのように展示されるかについて構想することは,平面作家であろうと,優れた美術家に必要とされる能力の1つである.

コミュニケーション志向的時代におけるダンス

Noism04の『SHIKAKU』( りゅーとぴあ)を見た.Noism04は,ネザーランド・ダンス・シアター?に所属していた金森穣が,りゅーとぴあ舞踊部門の芸術監督に就任し,今年4月から活動を開始したカンパニー.専属ダンサーたちとともに,金森自身も新潟に在住している.『SHIKAKU』は,その活動第1作で,もちろん新作である.実際に僕が見たのは,本番と同じ劇場で行われたシミュレーション公演で,本公演は6月8,9日,その後,パークタワーホールで東京公演(6月16〜20日)が行われる.なぜ初日まで2週間以上もあるのに,通常は行われないシミュレーション公演が行われたのか?
あまり詳しいことを書くと,実際にダンスを見る人の楽しみを奪うので書かないが,おもしろい仕掛けが劇場で待っていることは事実である.新潟へ向かう新幹線の車中,「ファウスト」での東浩紀の連載を読んでいた.今回は舞城王太郎の『九十九十九』論だった.そこで東は,《メディアの役割が,特定のメッセージを伝えること(物語志向型)からコミュニケーションの場への参与を保証すること(コミュニケーション志向型)へ変わ》り,『九十九十九』が《コミュニケーション志向的な時代において物語をひとつに限定することはいかに可能か,というテーマに直接に接続されている》と書く.『SHIKAKU』もまた,コミュニケーション志向的な時代における,新しいダンスの試みであると思う.

スリム

2000年に『うつくしま未来博・エコファミリーハウス(EFH)』の構造設計チームとして,基本設計に参加した.意匠設計は山寺美和子,吉岡寛之,飯山千里,黒川泰孝,立川博之の5人.完成した時に,ある小冊子に書いた文章を,少し長めだが再録する.
《構造におけるチャレンジの1つとして,「スリム」にすることが考えられる.例えば,柱をスリムに(細く)すること.極端に柱の細い建築では,今までに体験したことのない新しい空間に出会うことがある.常識的に考えられてきた柱の太さを,新たな構造的な理論や技術によってスリムにすることは,明解に進歩を表現する1つの方法となる.しかし,このEFHの設計においては,細くすることではない「スリム」によって,新たな建築を生み出すことを目指した.様々に異なる要素を1つに集約することで,建築をスリムにする.その考えを中心に,2段階のコンペ(設計競技)から実際に建設するための設計(実施設計)までの過程において,構造の考え方がどのように変化してゆき,それが建築空間にどのような影響を与えていたのかを書いてみたいと思う.
コンペの最初の条件では,間伐材を構造体として用いることが要求されていた.間伐材とは,樹木の成長のために森林から間引かれた木材のことであり,安価であるが,それほど強度は大きくない.第1段階では,エコハウスとしてのライフスタイルの提案と,それに適合するスパイラル状の形態が特長だった.この時点では,外周を覆う間伐材のラチスパネルは,植物を這わせるためのものであると同時に,日除けとしての環境上の機能を持つだけで,構造上の機能を持っていなかった.そのため,全ての外壁がガラス張りの空間を,グリッド状に立てた柱が支えるという一般的な構造形式を採用していた.
第2段階へ進むことが決まり,全体デザインとともに構造に対する再検討を行った.そこで問題となったのは,ラチスパネルに覆われた部分の考え方だった.室内に構造体としての間伐材の柱が立ち並び,その外側を同じ間伐材のラチスパネルが覆う関係は,明らかに無駄なものに思えた.そこで,環境に対する重要な提案として考え出されたラチスパネルに,更に構造に対する重要な役割を与え,様々な機能を集約することで,必要最低限の要素だけで成立するスリムな建築を提案した.つまり,柱のない空間を考えたのだった.
最終審査の結果,この案は最優秀賞に選ばれたが,建設には多くの課題が残った.そこで,この画期的な構造を実現するために,岡田章さんを中心とする構造設計チームがつくられた.ラチスパネルは,デザイン面,構造面ともに中心的な役割を担うため,その両面から詳細な検討を行う必要があり,設計・構造両チームによるミーティングが何度も行われた.その結果,薄い鉄製フレームに間伐材のラチスを固定し,搬送可能な大きさに分割したパネルを,工場で製作してから建設現場へ運び込む方法を考えた.パネルの分割は,間伐材の使用可能な限界の長さから決めたもので,外壁面の一体化を損なうことになるが,それ以上に多くの建設上の利点が考えられた.鉄製フレームは,ラチスパネルの力を床と屋根に伝えるためのもので,接合部だけに用いる補助的な役割であることから, 限界まで細く,薄く,小さくすることで,外観上は目立たぬものとしている.そのため,ミリ単位の寸法を考慮する必要があり,多くのディテール(詳細)図が描かれた.同時に,そのディテールが構造的に成立するかどうか,立体的な構造モデルの解析によるチェックが行われ,その結果が更にデザインへと反映され,無駄のないスリムなディテールが考えられていった.このように,ほんの小さなことまでを考え抜くことによって,建築は新しい空間を生み出してゆく. 
こうして実施設計が完了したが,残念なことに,予算の問題などによりラチスパネル構造は中止となった.長期にわたって検討してきた結果が実現できないことは,建築の設計ではよくあること.結局,別の構造設計者によって,鉄骨の柱をサッシュと同一平面に並べた構造により,このEFHは実現した.もちろん,柱を細くすることによる「スリム」の可能性もあったが,そのチャレンジをするには時間が足りなかった.結局,やや太めの柱は,スリムなガラス張りの空間を実現することはなく,ラチスパネルも環境上の機能を持つだけのものとなってしまった.》

20年前の20年前

SCAIで中西夏之展「Halation・背後の月 目前のひびき」を見た.最終日前日ということもあり,本人も会場に来ていた.中西の絵画は本当に美しい.特に,最近インスタレーション系が続いたSCAIでは,久しぶりに堂々とした平面のみの展示で,作品はもちろんのこと,やはりよいギャラリーだなと痛感する.中西の作品としても,六本木クロッシングも,去年の退官記念展も,最近のシリーズである繊細なインスタレーションが続いたので,それと比べるとシンプルなよさがあった.しかし,今回も新作だったそうなのだが,ここ10年くらいの絵画作品は一見しても大きな違いはないため,新作だか何だかよくわからない.
このブログでは昔話が多くて申しわけないのだが,1つのことを説明するためには,どうしてもコンテクストから説明する必要が生じてしまう.勘弁してほしい.中西との出会いは20年前に遡る.高校生だった僕は,赤瀬川原平が書いた『東京ミキサー計画』という本を友人に薦められて読んだ.ハイレッド・センターという,今でいうアーティスト・ユニットの活動を記録した本である.メンバーは,高松次郎(高→ハイ),赤瀬川原平(赤→レッド),中西夏之(中→センター)の3人.20年前にこんなことをやっていた人たちがいたのかと愕然とし,現代美術に興味を持つきっかけとなった.だから中西夏之は,僕にとっての現代美術の父親みたいな存在である.(ちなみに,母親は著者でもある赤瀬川原平?)
それから20年が経過したわけだから,現在から考えると,ハイレッド・センターの活動は40年前!のものとなる.高松は何年か前に亡くなったが,赤瀬川は芥川賞を取り,「トマソン」や「老人力」などで有名になった.おかげで,『東京ミキサー計画』は現在でも文庫で読むことができる.古きよき時代の記録として,暇な人は読んでみてほしい.

スリムにすることにより美しくなるという発想

マルチリモコンというものをもらった.テレビにビデオにDVDが1つのリモコンで扱えるようになり,「シンプルにすることでインテリアの質と操作性を向上させる」というものだ.リアル・フリートAMADANAというブランドのものなのだが,デザインはそれっぽいし,値段も安いものではない.ホームページを見てわかったが,これは「美しいカデン」をコンセプトとしたブランドで,インテンショナリーズの鄭秀和がプロダクトディレクション,タイクーングラフィックスがアートディレクションとグラフィックデザインをやっている.なるほど,と思う.
しかし…….我が家の状況は,テレビはSONY,ビデオはPSXのHDレコーダー機能を仕様,DVDもPSXを兼用.Victorのビデオもあるが,DVDへとダビングするときしか使わない.おまけにテレビは,電波障害の問題があるためにCATVに入っており,TOSHIBAのホームターミナルを介さないと見られない.つまり,現在のリモコン状況は,ホームターミナル用1台とPSX用1台.PSXリモコンにもテレビやビデオを使えるマルチリモコン機能があるが,このホームターミナルはそれに対応していない.更にPSXリモコンにはホームボタンというのがあって,これを用いることでテレビやHDやDVDや様々な役割を切り替えることができる重要な機能のため,このボタンが使用できないと非常に困る.もらったマルチリモコンは,ホームターミナルにも対応しないし,もちろんホームボタンもない.というわけで…….

追憶の『ビューティフル・ドリーマー』

押井守脚本・監督の『イノセンス』を見た.僕は押井守の大ファンということになっているのだが(余談だが,誕生日が同じである),実は前編である『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』を見ていない.しかも,押井の作品を映画館で見るのは,『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』以来,20年ぶりになる.『天使のたまご』や『パトレイバー』はビデオやテレビで見ていたが,それほど押井作品を熱心に見続けていたとは言い難い.
押井が『うる星やつら オンリー・ユー』をつくったとき,不運なことに同時上映が相米慎二監督の『ションベン・ライダー』だった.有名な話だが,それを見た押井は,こんな勝手な映画でいいのかと頭に来て,次に『ビューティフル・ドリーマー』をつくった.そんな因縁は後から知った話だが,当時15歳だった僕は,この2作品から大きな影響を受け,相米,押井の2人は僕にとって重要な映画監督となった.
『イノセンス』については,そんな僕からすると,それほど楽しめる映画ではなかった.書店で立ち読みしただけだが,東浩紀「ユリイカ」4月号で,「追憶の『ビューティフル・ドリーマー』」という文章を書いている.彼は僕より3歳年下なのだが,かなり似たような感想を持っているようなので,『イノセンス』評についてはそちらを読んでほしい.「朝日新聞」で亀和田武が,この評を酷評していたが,『ビューティフル・ドリーマー』を思春期に見た者にとっては,『イノセンス』を押井作品として素直に評価することはできない.やはり東浩紀と同じことを書くことになるが,とにかく『ビューティフル・ドリーマー』を見てほしい,としか言えない.

繊細と思っていたが実はテキトーだった

西島大介の『凹村戦争』(早川書房)を読んだ.《二人のウエルズ氏に.》と献辞にあるように,『宇宙戦争』を書いたH.G.ウエルズと,それを元にラジオドラマをつくったオーソン・ウエルズ(だから,凹村→おうそん),その他にもジョン・カーペンター,『プリズナーNo.6』,『2001年宇宙の旅』だとか,ネタが散りばめられている.まあ,それだけが本題ではなく,東浩紀の帯文に端的に示されているように,「きみとぼく」に「メタとネタと萌え」というもの.しかし,マンガ自体は期待していたほどではなかった.
なぜ期待していたかというと,西島のイラストレーターとしての仕事に興味を持っていたから.『定本物語消費論』大塚英志の文庫版の表紙と中表紙や,『網状言論F改』東浩紀編の表紙をぜひ見てほしい.特に繊細な淡い色使いに注目したい.その意味では,『凹村戦争』は白黒だから…….しかし,期待していたポイントが違っただけで,全編に流れる(西島のホームページにもそういった雰囲気があるけど)「テキトー」感は気持ちよいです.

素材の良さ

デビッド・シルヴィアンのライブを見た.「Fire in The Forest Tour 2004」の日本公演.弟のスティーヴ・ジャンセンと高木正勝の3人しか出演しないシンプルな構成.正確に書くと,高木はVJなので,演奏は兄弟2人だけ.おまけに『ブレミッシュ』からの曲がほとんどで,黙々とライブは進んでいく.ライブ自体は,もう少し過去の曲もやってくれればいいのにという感想はあるが,それよりも何よりも高木の映像が素晴らしかった.
高木正勝を最初に見たのは,東京都現代美術館での「MOTアニュアル2003 おだやかな日々」で,アニエス・ベーのためにつくった『world is so beautiful』だった.どのようにつくられているのかはわからないが,美しく画像が処理されたビデオインスタレーションだった.その時は,現代美術の展示でよくあるように延々とビデオ作品が流されていただけで,十分に時間を割くことができず,チラリとしか見ることができなかった.しかし,かなり強い印象を持っていたので,DVDで販売されたときにすぐに買った.結局,高木の作品は,映写される空間性が重要なわけではなく,自宅のテレビで見たって十分楽しめた.
つまり,動き,編集といった映像そのものに力がある.それどころか,その1カットを取り出して,高木自身のライブのフライヤーに使ったりするのだが,これがまた1枚の絵として気持ちよい.そういった画像処理の質もまた持ち合わせている.
今回のライブで使われた映像は,『world is so beautiful』の延長として,子どもたちの映像が多く使われている.その1部は,新作としてDVDが発売されるらしい.そして,『World Citizen』では,アンコールであったこともあって,おそらく『world is so beautiful』や新作用の,ほとんど画像処理をしていない生のデジタルビデオ映像を編集したものが使われた.子どもたちが楽しそうに走り回っている映像が繋ぎ合わされた映像だった.これを見て思ったのだが,画像処理をしていなくとも,生の素材を編集しただけでも十分に高木の作品となっていた.画像処理の質の高さだけでなく,この生の素材の良さが,高木が他の映像作家から抜きん出ている理由だと思う.
高木の作品はホームページでも少しだけ見ることができる.ネット上の粗い画面でも十分に魅力的な作品を見れば,僕が書いたことが少しはわかるのではないだろうか?

目の前にある構造

以前,佐藤光彦さんの『梅ヶ丘の住宅』を見たときのこと.何も知らずに,真ん中にある螺旋階段を上り下りしていたところ,ふと手に触れている階段室の曲面の壁が,固い金属でできていることに気が付いた.「もしかすると,これは構造体ですか?」と,光彦さんに訊ねたところ,「そうだよ」との答.16ミリ(だったと思う)の鉄板を曲面にし,平面中央に設置することで水平力を受け持ち,最低限の断面による鉄骨が外周部を取り囲み,その軽快な構造体により鉛直力を受け持つ.構造は池田昌弘さん.構造計画としては非常にモダンな回答.
この住宅も,みかんぐみ『上原の家』のように,1,2階はほとんどが壁に囲まれているため,もっと断面の大きい柱を壁の中に忍び込ませることも可能である.しかし,地下では光を落とすハイサイドライトが隣地を除く三方を囲んでいるが,最低限の鉛直力を持つだけの構造体は,その開口部をほとんど妨げることがない.結果的に,構造のあり方をそのまま意匠が表現している.
構造体はどのような建物にも明確に存在するが,それを可能な限り意識させないように表現するという考え方がある.例えば,構造体を可能な限り最小の断面とすることで,存在感の小さなものとする方法は代表的なものである.しかし,この住宅では,目の前に見えていながらも,それが別の用途(ここでは螺旋階段の手摺)として存在しているため,構造体とは気が付きにくいという方法を取っている.

構造の遍在

建築の構造体が遍在しているのは当たり前のことである.柱や梁,壁は,建築空間の中にいれば,至る所に存在していることがわかる.例えば壁構造の建築であれば,目の前にある壁の全てが構造体であろう.もし構造体が偏在しているのであれば,おそらくアクロバティックな構造形式を取らなければならない.
みかんぐみ設計の『上原の家』を見た.構造はArup Japanの金田充弘さん.この住宅でも構造体は遍在している.ただし,本棚という姿に変えて.その本棚は,自らを構造体であると主張することなく,そのそぶりを見せずにあちらこちらにあるため,構造体ではないだとうという錯覚を起こす.
モダニズム建築においてル・コルビュジエは,列柱に支えられる床と,構造的な役目を持たない壁を分離した.所謂,「自由な立面」.その究極的な住宅がミース・ファン・デル・ローエの『ファンスワース邸』で,8本の柱に支えられているため,全ての外壁がガラスとなっている.その意味では『上原の家』も,「住宅特集」4月号や「建築文化」4月号で紹介されている建て方の写真を見ればわかるように,列柱状の本棚のみが構造体になっているため,本棚以外をガラス張りにすることだってできる.しかし,そうなってはいない.むしろ,この住宅は壁に囲まれている.
その代わりに,ここでは工業製品による薄い壁が実現されている.外部も内部も一律に工業的に仕上げられた,美しい既製品が選ばれている.ジョイント部分も工業化の恩恵を受けているため,室内にいると,飛行機や新幹線の内部にいるかのような感覚を受ける.この感覚は,今までの建築にはなかった質を実現している.
一方で,『上原の家』を視覚だけから見ると,どのようなことが考えられるだろうか? この住宅はガラス張りではないわけだから,壁を構造体として使用することもできるはずである.同様な仕上げを内外部に用い,その隙間に柱を入れればよい.意匠的に壁の薄さを強調している部分もないため,壁が厚くなることは問題とならないだろう.そうすれば,わざわざ本棚が遍在する必要もない.しかし,当たり前の話だが,建築は視覚だけで体感するものではない,ということを考えさせられた.

バランスのよい複雑さ

イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』(脇功訳,筑摩書房)を読んだ.最近,河出文庫で『柔かい月』『見えない都市』『宿命の交わる城』が続けて刊行されたため,これを機にまとめて読んでいる.
カルヴィーノの個人的な思い出としては,1989年にニューヨークへ行ったとき,クーパーユニオンだかコロンビア大だかの近所の建築系書店で,『見えない都市』が平積みになっていたことを思い出す.『見えない都市』が書かれたのは1976年であるが,80年代最後のNYの建築界は,ポストモダニズムからデコンストラクティビズムへの移行時期で,そんな時代の雰囲気にこの小説が合っていたのかもしれない.(ちなみに,ここでのポストモダンは狭義の意味で,古今東西の引用によるコラージュ的デザインを指す.デコンも狭義の意味で,ロシア構成主義的デザインを指す.もちろん,デコンは広義のポストモダンに含まれる.)マルコ・ポーロによる都市の描写を集めただけの物語は,建築関係の人たちには表面的に理解しやすいものだったのだろう.しかし,カルヴィーノの作品が,小説全体に及ぶ多様な解釈を内包することを目論んでいることを思うと,ただの都市論として『見えない都市』が読まれることは望ましくない.
その点,『冬の夜』は,バランスのよい複雑な構成を持つ小説である.『柔かい月』は,デッサンのような短編小説集.『見えない都市』は,都市論としての表情が強すぎる.『宿命』は,あまりにも実験的すぎる.とするならば,カルヴィーノを読むには,『冬の夜』がもっともおすすめである.

フルカラーにリミックス

『総天然色AKIRA(全6巻)』大友克洋(講談社)が完結した.これは海外で通常販売されているヴァージョンの『AKIRA』で,カラーリストのスティーブ・オリフによって,全ページがフルカラー化されているもの.だからといって,これが『AKIRA』の完全版というわけではない.縦書きの日本語がページを右から開くのに対し,横書きの欧米では左から開くため,全てのページが裏返されることになる.つまり,右利きだった金田が,国際版では左手にレーザー銃を持つことになる(鉄雄が失う腕は左手だし,アキラのナンバーは右手にある).絵の中の効果音もアルファベットに描き改められ,オマケにセリフは,大友の日本語を英語に訳したものを,更に翻訳家の黒丸尚が日本語に訳すという重訳.オリジナル版からは遠く離れたリミックス版という趣.もし『AKIRA』を読んでいない人がいたら,間違っても総天然色版を読まずに,白黒版を読んでほしい.
しかし,大友は2,158ページに及んだ『AKIRA』を描いた後,10年間で21ページ(3作品)しか描いていない.ようやく今年,『スチームボーイ』が公開されるが,どうなんだろう?

観光客とともに見る美術展

「六本木クロッシング:日本美術の新しい展望2004」「クサマトリックス 草間彌生展」(森美術館)の2つを見た.森美術館は初めてであったが,美術館と展望台の入場券がセットで販売されるシステムもあって,あの回転扉の事故直後にも関わらず,日曜午後の美術館は大変な人混みだった.
そのおかげで「六本木」は,ほとんど集中して見ることができなかった.おまけに,故障している作品が多かったり,撤去されている作品もあったり,その不完全さが更に追い打ちをかける.1つ1つの作品は決して悪いものではなかったように思えたが,あまりにも双方のコンディションが悪過ぎた.バラ撒かれたような取りとめのない展示構成も手伝い,全体的に散漫な印象しか残っていない.もう少し,こちらに時間的な余裕があり,作品も完全な状態であれば,まったく違う感想を抱いていたかもしれないだけに残念だった.
一方,「草間展」の脅迫的なインスタレーション群は,ぞろぞろと列をなして歩く観光客に対しても,圧倒的な迫力で迫る.その求心力のおかげで,そんなコンディションに関係なく楽しむことができた.さながらテーマパークのようである.特に最後の『ハーイ,コンニチワ!』のポップな空間は感動的ですらあった.

近代建築をめぐる12年前の話

僕がレム・コールハースに初めて会ったのは12年前である.『行動主義 レム・コールハース ドキュメント』瀧口範子(TOTO出版)にも触れられているが,日本大学理工学部で行われた「都市講座」のときであった.その3日間のレクチャーを書き起こした中から,ほんのわずかな部分を取りだして「建築文化」1993年1月号に掲載した.近代建築との距離ということで,この言葉を思い出した.12年後の彼の作品を考えると当然のように思えるが,当時の僕にとっては状況を正確に批評するショックな言葉だった.
《確かに私にとっての隠れた英雄というのは明らかに近代建築の人達であります.彼らは大変重要な基準を設けてくれたと思います.私の作品も1988年までは初期の近代建築の特徴を顕著に現していました.特に80年代のポストモダンの爆発的な影響の中では,初期の近代建築に倣ってつくることは必要であり,容易であると思っていました.しかし,私はあまりにもそれらに依存していたので少し不安になってきたのです.単なるノスタルジアから,審美的な要素だけからそれらを非常に尊重してしまったのではないだろうか? 私達の20世紀という非常に信じられないような変革が起きている時代の中で,建築だけが古いもの,70年前のものに対してオマージュのようなものをつくってゆくことが,果たして正当な方法なのだろうか? 私は自分の創造力を本当に必要なところだけに用い,それ以外は既知のボキャブラリーに頼る方がよいと思っていました.しかし,最近の私の作品には近代には例のないようなスケール,プログラムが関わっており,とても今までのボキャブラリーではつくれないものが出てきたのです.それから,私自身も驚いているのですが,私は少しオリジナルになりたいと思い始めているのです.建築を始めたときには,私はオリジナルにはなりたくない,自分は決して独創性を発揮しなくてもよいと思っていました.しかし,今までの方法に飽きてしまったからなのかもしれませんが,最近は新しい発明や発見に関心を持ち始めているのです.》

長さと短さのバランス

清涼院流水の『彩紋家事件』(講談社)を読んだ.清涼院を読んだのは,長大な『カーニバル(文庫版)』に続き2作目.『カーニバル』,そして未読だが『コズミック』『ジョーカー』よりも遡った1970年代後半の物語である.
その時代設定のためか,執筆している現在と70年代後半とのギャップをわざわざ強調し過ぎることと,奇術が物語の中心に据えられているのだが,その描写があまりにも詳細かつ冗長であることが気になる.前者は,『カーニバル』では現在と未来のギャップによる物語の飛躍を,今回は過去と現在のギャップに置き換える試みを行っているため.後者は,『カーニバル』では奇跡的な出来事を現象のみを詳細に描写することでトリックの説明を回避していたものを,今回は奇跡的な出来事を詳細に描写するとともに,現実に存在可能なトリック(ただし,超人的な肉体訓練を要する)を用いた説明もまた詳細に描く試みを行っているため.という理由はわかるが,ともすると中盤の奇術の記述は退屈する.
以下はネタバレになるが,それでも全てを読み通し,構成上の長さと短さのバランス故の詳細な描写かと思うと,納得がいかないこともない.

2つのベケット

サミュエル・ベケットの芝居を続けて2つ見た.1つは『あしおと』(下北沢「劇」小劇場).もう1つは『ゴドーを待ちながら』(あがたの森文化会館講堂).『あしおと』は,僕の高校からの友人である長島確の翻訳,同じく僕の友人である阿部初美さんの演出.『ゴドー』は,串田和美演出,串田,緒形拳の出演.ベケットの処女戯曲である『ゴドー』と,晩年の作である「あしおと」は,書かれた時期もあって作品が大きく異なるだけでなく,その演出もまた対照的であった.
『ゴドー』は,ウラジミール役の串田と,エストラゴン役の緒形(そして,ポッツォ役のあさひ7オユキ)のやり取りが,ベケットのテクスト(翻訳は安藤信也と高橋康也)に寄り添いながらも,時として(と言うよりも全般的に)お笑いコントの様相を呈する.もちろん,観客は大いに沸くし,網走刑務所での公演が好評であったことも納得できる.
それに対し『あしおと』は,日本語による上演に対する正確な翻訳への,確と阿部さんの徹底した意志が感じられた.ベケットのテクストを正確に上演することにより,初めて手に入れることができる本当の不条理さを,もしくは,不条理という言葉に短絡させるべきではない何かを手に入れることを目指した試みであった.
ベケットのテクストは一読すると不条理のように思えるが,実際に精読していくと,細部に渡り徹底して論理的に書き上げられていると,確は言っていた.少なくとも『あしおと』に関してはそうであるらしい.処女戯曲であった『ゴドー』が,どの程度緻密に書かれたものであるかは分からない.串田『ゴドー』は,ここで繰り広げられる不条理な会話を,普段どこででも行っている日常的な会話はこんなもんじゃない? と言わんばかりの雰囲気で演出を行う.それはそれで,主演の2人に負うところが大きいにしても,娯楽作として成立している.しかし,もし『あしおと』のように,ベケットが論理的に組み立てた(であろう)テクストとしての『ゴドー』を,日本語による正確な上演を行うとするならば,どのような『ゴドー』が立ち上がるのか,非常に興味深い.

ズレているモダンな構造

佐藤光彦さん設計の『巣鴨の家』を見た.構造はアラン・バーデンさん.何れ雑誌にも発表されるだろうが,アランさんのホームページを見てもらうと話が早い.それほど大きくない住宅だが,3世帯4人(夫婦2人,親1人,姉妹1人)が住む.その生活を成立させるための部屋の構成の是非については判断が付かないが,その構成を了承したとすると,構造の解決方法は興味深い.
2階部分のエキスパンドメタルに囲まれた外部(!)は1本の柱で支えられているだけで,外周にはブレースがなかった.当然全てS造だろうと思ったら,光彦さんに木造だと言われた.もちろん,2階部分の柱と,その上下のフレームはスチール製であり,実際にはハイブリッド構造である.どちらかと言うと,材料の特性(強度,重量),経済性などを考慮した構造形式は,合理的なモダンな構造であろう.しかし,部屋の配置による空間構成が通例とは異なるため,合理的な構造でありながらも,それほど合理的には見えない.
更に2階部分の柱は,蛍光灯による照明が取り付けられ,ポリカーボネート板に覆われているため,構造上で必要なスチールの柱に対し,意匠上はかなり太めのポリカの柱が支えているように見える.柱を細くすることで構造体を意識させない,構造技術に寄り掛かるだけのモダンな方法ではなく,構造体でありながら,それを別のものとして認識させている.
もちろん,この住宅のスチール柱の太さは非常に細く,モダンな構造を突き詰めた上で,それが少しズレていることにより,おもしろさを獲得しているのだと思う.

ポストモダンな構造

構造設計チームとして参加した建築が昨年完成した.『中国木材名古屋事業所』がそれである.意匠設計は福島加津也さんと冨永祥子さんご夫妻.実施コンペにより実現したものだが,構造設計を担当していたのが僕の大学の同期だった多田脩二で,そのため構造チームに加わることとなった.岡田章さん,大塚眞吾さん,宮里直也たちとともに,実施設計に向けて頻繁に行われたミーティングに参加することとなった.
提案の中心となったのは,木材事業所の事務空間の架構.木材による吊床版として,並べられた木材にケーブルを通し,それを両端から吊すことで屋根をつくるというものだった.施主が木材納入・加工業者であったことから,かなり過剰な数量の木材を面的な構造体として使っている.正確には半自碇式の吊り屋根構造と呼ぶらしいが,この「半自碇式」という言葉が構造設計界では話題になっているという話も聞く.詳しい構造的な話は,4月中旬に発売になる「建築技術」5月号に,多田と岡田さんによる解説文が掲載されるらしいので,そちらを読んでほしい.
構造チームに属していながら僕は構造の専門家ではないので,イメージだけの感想でしかないのだが,モダニズムの建築が持つ明快で経済的な構造形式と比較すると,この構造は非常に不思議なバランスで成立しているように思う.もし経済的な要求のみを優先した場合,今回のような構造への木材利用は必ずしも有効ではないかもしれない.しかし,これは別に否定的な意味で言っているわけではない.
構造材である木材をそのまま天井仕上げ面として見せるために,長さ3メートル,幅120ミリの集成材を136本並べ,7本のケーブルを貫通させ,更に厚さ9ミリの鉄板を貼ることで1つのユニットをつくり,それを11ユニット並べる.つまり,この曲面を描いた天井(屋根)面には1,496本の集成材が敷き詰められていることになるのだが,微細に見ると,変形の少ない集成材の使用と,正確なプレカット加工という工業的な技術によって,たった150ミリの厚さの中でケーブルと鉄板によるサンドイッチ構造が成立しており,俯瞰して見ると,それが16.5メートルのスパンに吊り下げられることで,緩やかな曲面が決定され,自己釣り合い系の構造が成立している.
部分と全体の関係が一繋がりの線的な関係を持つモダニズムの関係と比べると,この建築の部分と全体の関係には明らかな断絶,もしくは飛躍を感じる.微細な構造によって,ある性状を持つ材料(ここではサンドイッチ版)を生み出し,まずはそこで一段階が終了.次の段階では,ある材料の特性を活かした全体の構造(ここでは吊り構造)を成立させている.それらには,決定的な連続性はない.もちろん,連続性はあるが,それぞれは交換可能な関係を持っているように思う.
そこで,例えばこのような不思議なバランスで成立している構造を「ポストモダンな構造」と呼んでみたらどうだろうか,と思っている.

アップデート

昨年12月の発売以来2度目となる,PSXのネットワークによるアップデートを行った.インターネットに接続可能なイーサーネットケーブルを,本体にダイレクトに差し込むことでアップデートが行える.前回のアップデートでは,2倍,10倍,120倍速の再生に30倍速が加わり,HDDに録画したもののリストが名前順に並び替え可能となった.今回は,1.3倍速の早見再生(音声付)が可能になった.もちろん,それ以外の機能も更新されている.PCを考えれば,このアップデートの感覚は当たり前のことなのだが,PSXをゲーム機,もしくは家電(PSXは家電売場で売っている)というイメージでとらえると不思議な感覚がする.もちろん,PSXはHDDが内蔵されていて,DVDを見る/焼くことができ,CDを聴くことができ,デジカメから写真を取り込むことができ,ゲームもできる.後は,テレビチューナーが付いているくらいで,ほとんどがPCの機能の一部を紹介しているようなものだ.ちなみに,PSXには別売キーボードもあって,それを接続すると見た目もデスクトップのPCと変わらない.PCの機能を特化して家電にすり替えただけだと言われると確かにそれまでだが,これを機能がアップデートする家電だと考えると,PSXはおもしろい(iPodも同様).