コラボレーションという名のエクスキューズ
「アジアン・フィールド」を見た.アントニー・ゴームリー氏による,旧都立高校の体育館を会場とした巨大なインスタレーション作品.教室で使われていたと思しき椅子と机が並べられていて,それが体育館を別の場所に見せてしまう働きを持ってしまい,少し余計な気がした,素焼きの微妙な色の違いを完璧にコントロールした,アーティストによる配置だけで十分な気がする.入口に展示されている,粘土像とその作者の写真もおもしろい.
受付に置いてあった「毎日新聞」(だったと思う)の本展を紹介する記事に,中原佑介氏の文章が用いられていた.《コラボレーションという考え方には,創造する人間があり,その人間によってつくりだされた作品を鑑賞する人間がいるという二極構造の通念を壊す要素が存在していると私は思います.》「芸術の復権の予兆」『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2003』(現代企画室)
もちろん,『アジアン・フィールド』は(中国における)壮大なコラボレーションによる作品である.しかし,一方で,コラボレーションが単なるエクスキューズでしかない作品が増えてきていることもまた事実ではないだろうか?
中原佑介氏の一言。
わかっていることだけど言葉の選択が巧妙だから
今まで以上にわかった気がする。
僕も同じようにコラボレーションに可能性を感じているひとり。
色々な意味で。
だけど、かつてあったOMAとH&deMのコラボレーションは中原氏の文脈で読み解くことができるんでしょうか?
むしろ二極化が強化された気がするんです。
もしかして、コラボレーションにも種類があるのかもしれない。
どうなんでしょう?
この文脈は,作者と鑑賞者がコラボレーションするということについて,越後妻有アートトリエンナーレのことを書いているもの.作者同士のコラボレーションというのとは別の話.まあ,種類があるということですね.
ちなみに,ゴームリー氏の作品中のコラボレーションは,エクスキューズではありません.念のため.
「作家」と「鑑賞者」のコラボレーションなんですね。
建築だと『設計者』と『使用者』に当たるんでしょうか?
このコラボレーションは絶対に
エクスキューズになってしまいますね。
何からか逃れるように、受動的な形態決定理由の提示や
ワークショップをして見るんだけれども
建築家が先に設定したフレームの中で右往左往しているだけで
「設計者」と「使用者」の関係が崩れているとはいいいいがたい。
逆に言うと、現在建築界で一生懸命行われている
この関係崩しは何のためなんだろうと思ってしまう。
本当に「関係崩し」をする気があるのかどうかは
わからないけれども。
これは
「デザイン」自体が正当性をもてない結果なのか、
「デザイン」が一般の人々に開かれていく過程なのか?
僕は後者を目指しているけれども、
やり方は全く逆と言ってもいい。
少なくともみんなが気になっていることだろうから
真剣に考えていくテーマとしては
面白いと思っています。
面白いけど難しい。
ちなみに作家同士のコラボレーションは
上記とは別の土俵であることは書いておきたいと思います。