鉄板

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『キョロロ』写真コンテスト参加.
何れも錆びた鉄板に見える手塚貴晴+手塚由比+池田昌弘3氏の『「森の学校」キョロロ』と遠藤利克氏の『足下の水(200m3)』.誰が考えたのか,これが並んで設置されている.一方は建築作品で,見えている鉄板は外壁であるとともに構造体である(らしい).一方は美術作品で,見えている鉄板の下には容積200m3の水がある(らしい).鉄板が構造体であったり,鉄板の下に水が入っていたりすることがどうやら重要なようだが,見ただけではわからない.もしかすると,構造体になんかなっていなかったり,水なんか入っていないかったりするかもしれない.いや,そうでなければ,構造体であったり水が入っていたりする鉄板が,構造体でもなく水も入っていない鉄板とどのように違うのか? それが問題.

建築, 美術 |Posted by satohshinya at November 17, 2004 05:33 AM | TrackBack(2)
Comments

妹島さんの梅林の家でもこのような話ありましたね。もしキョロロの鉄板が単なる仕上げで構造ではないと仮定してみて、その場合何が嫌なのか?僕としては一つは合理的ではない感じる。本来仕上げと構造という二つの要素が必要なところが一つになるということは、最終的に出来上がった空間とどのよういに効くかは別として建築に関わる「コンサルタント」としては魅力を感じる。フォルム、空間をつくる「作家」としては一つにしたことによって空間に影響を与え今までにないものが出来上がったのであればそれはもちろんよいこと、妹島さんのの梅林なんて外装、構造、内装の3つが一つにまとめられ、まさに良い例だと思う。手前みそですが上原の家も構造と家具を一つにまとめ、外装と内装も一つにまとめた。残念ながらキョロロの場合は内部空間ではわかりにくですが、佇まいにはよい影響を与えていると感じますね。要素をまとめることが「合理的」な思考のものなのか、それとももまとめたことによって今までにない「新しさを求める」ための思考なのかどっちなのですかね?「新しいもの」にはそれを成立させるために誰しも理解できるある種の「合理性」がないと難しいからかなとも思う。なんかうまく話つながらなかった、、、すんません。

Posted by: hy at November 20, 2004 04:03 PM

梅林のときに続いて同じようなことばかり書いていてすみません.hyの話もよくわかるとともに,今回の話題で考えるための新しいヒントになるかもしれないと思ったのが遠藤氏の作品.これには本当に水が入っている(と信じたい).それが何によるかはわからないが,誰かさんに大雑把と言われるのを承知で書くと,それを取り巻く空気が異なるため,水が眠る鉄板とそれ以外に違いが生じると思う.やっぱり大雑把かな?
実を言うと,この松之山の遠藤氏の作品ではあまりそれを感じられなかった.1999年に箱根彫刻の森美術館で「森に生きるかたち」http://ma-museum.com/kngw/takanosu-chokoku/01hako-sakuhin.htmという展示があった.そのときに出品されていたのが『足下の水(70m3)』http://www2u.biglobe.ne.jp/‾artgyw/artwalk02.htmlという作品.これは,その水が実感できる作品だった.(こんなもの撤去されるわけがないので,多分まだあると思う.)
ちなみに『キョロロ』について.鉄板も外観の佇まいという意味ではうまくいっているけど,やっぱりこの雪に埋まったアクリル窓http://ma-museum.com/niigata/2004-yuki-keshiki/02-kyororo.htmがおもしろいね.

Posted by: shinya at November 22, 2004 10:47 PM

建築の持つ構造が、位相可能でオルタナティブなアイデアを持つ事(=梅林の家が外装 構造 内装をまとめた事)と、建築が持つ判然なアイデアがみな(社会)に開放できないことは、表裏一体で前衛になるひとつの可能性がそこにあると感じる。それがどーした。が考える可能性のしるし。かな

Posted by: simon at November 24, 2004 01:38 AM

《建築が持つ判然なアイディアがみなに開放できない》というのはよくわからないけど,《それがどーした。》に可能性があるというのは大賛成.アイディアが判然なのではなくて,判然としていないから開放できないというのではなく?

Posted by: shinya at November 24, 2004 04:56 PM

暗に僕に対して言われている気もしますが、自戒の念を込めて言葉にしているところが本当。自らの創意や工夫があれば、あふれる創意を伝えたくなるのが本能だと思う。結論から言うと、現在のフレームで説明するならば、建築を考える時に、恣意的にあるスケールで止めた都市を解釈し(幾重かのスケールが介入し、それらを統制する単純なアイデアで鮮やかに見せる事がおもしろいと今は思っている。)、それに対する実践のアイデアを組み入れる時が来たのだと思う。具体的なものとして、伊東豊雄のTODSのケヤキのモティーフは、都市に開きたいという重責から生まれた物だとも取れると思う。「楽しい建築」という表現に垣間見えるように、魅力的に見える手段[けやきのように見える(=それがどーした)=判然なアイデア]を選び、建築で伝える事で、建築の外部から価値を再認識されていくようなきっかけを作っていく。(以下自分メモ。当然、問題がデザインを生むのではなく、デザイン(自ら連れ回すイメージ)が問題を発見させるという眼差し。また、本杉先生がよく言われる、わかりやすい批評が構造になっていると良いというのは忘れたくない)

Posted by: simon at November 24, 2004 11:26 PM

TOD'Sついでに.今朝の「朝日新聞」にTOD'Sの内観写真が掲載されている.「表参道物語」という連載記事に,TOD'S広報の女性が紹介されているため.12月11日オープンのようです.
ちなみに,TOD'Sの例が端的に示すように,判然としたアイディアであれば社会に開放される可能性があるのであって,判然としていないから解放されにくいということではないの? この社会に開放という言葉もわかりにくいけど,社会に対して誰にとっても有効に機能するとかそんな意味でよいの?

Posted by: shinya at November 25, 2004 06:55 AM

すれ違いの力の入りすぎたオープンスペースに代表されるように、技術や、多くは施主に対して使命をはたすことに注がれる力量。建築の豊かさを言おうとせずただ立ちつくす。自戒の言葉としても、判然としたアイデアを持ち、自信を持ってデザインしていかない態度を変えたいなぁと思っています。まわりくどくて…。(半笑) 御茶ノ水スクエアの近くに新しく焼き肉やがオープンで半額で肉が食える。行こう行こう!わかりやすく社会に還元している。建築だったら、もっと大きいことが。スカルプチュァガーデンのように。

Posted by: simon at November 25, 2004 01:50 PM

hyさんが指摘している要素を「まとめる」デザインを考えていて思ったのが
どうやら『まとめる』デザインには幾つか種類があるのではないかと言うこと。

まず、hyさんがおっしゃる内外装・構造などといった『技術的機能の合理化』によるデザイン。
例は上記のように色々とあります。

もう一つは、床・壁・天井なのどの要素をまとめてしまうデザイン。
例えをうちの作品を例に出してみると、
床と間仕切りを『まとめた』ポンピドーのレストラン、
天井と壁面を『まとめた』ルノー・コミニケーションセンターなど。

前者にも非常に興味があるんですが
僕は後者の可能性に特に興味があります。

床とシンク
家具と窓
壁と照明



想像できないような『まとめ方』が『行為』の関係性を編集し
それが空間のあり方を編集する。

少しコンペ色が強いのかもしれないけど・・・・・。
藤本壮介さんなんてこんなこと積極的にやっているのではないでしょうか?

Posted by: sugawara at November 26, 2004 07:21 AM
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