20年前の20年前

SCAIで中西夏之展「Halation・背後の月 目前のひびき」を見た.最終日前日ということもあり,本人も会場に来ていた.中西の絵画は本当に美しい.特に,最近インスタレーション系が続いたSCAIでは,久しぶりに堂々とした平面のみの展示で,作品はもちろんのこと,やはりよいギャラリーだなと痛感する.中西の作品としても,六本木クロッシングも,去年の退官記念展も,最近のシリーズである繊細なインスタレーションが続いたので,それと比べるとシンプルなよさがあった.しかし,今回も新作だったそうなのだが,ここ10年くらいの絵画作品は一見しても大きな違いはないため,新作だか何だかよくわからない.
このブログでは昔話が多くて申しわけないのだが,1つのことを説明するためには,どうしてもコンテクストから説明する必要が生じてしまう.勘弁してほしい.中西との出会いは20年前に遡る.高校生だった僕は,赤瀬川原平が書いた『東京ミキサー計画』という本を友人に薦められて読んだ.ハイレッド・センターという,今でいうアーティスト・ユニットの活動を記録した本である.メンバーは,高松次郎(高→ハイ),赤瀬川原平(赤→レッド),中西夏之(中→センター)の3人.20年前にこんなことをやっていた人たちがいたのかと愕然とし,現代美術に興味を持つきっかけとなった.だから中西夏之は,僕にとっての現代美術の父親みたいな存在である.(ちなみに,母親は著者でもある赤瀬川原平?)
それから20年が経過したわけだから,現在から考えると,ハイレッド・センターの活動は40年前!のものとなる.高松は何年か前に亡くなったが,赤瀬川は芥川賞を取り,「トマソン」や「老人力」などで有名になった.おかげで,『東京ミキサー計画』は現在でも文庫で読むことができる.古きよき時代の記録として,暇な人は読んでみてほしい.

スリムにすることにより美しくなるという発想

マルチリモコンというものをもらった.テレビにビデオにDVDが1つのリモコンで扱えるようになり,「シンプルにすることでインテリアの質と操作性を向上させる」というものだ.リアル・フリートAMADANAというブランドのものなのだが,デザインはそれっぽいし,値段も安いものではない.ホームページを見てわかったが,これは「美しいカデン」をコンセプトとしたブランドで,インテンショナリーズの鄭秀和がプロダクトディレクション,タイクーングラフィックスがアートディレクションとグラフィックデザインをやっている.なるほど,と思う.
しかし…….我が家の状況は,テレビはSONY,ビデオはPSXのHDレコーダー機能を仕様,DVDもPSXを兼用.Victorのビデオもあるが,DVDへとダビングするときしか使わない.おまけにテレビは,電波障害の問題があるためにCATVに入っており,TOSHIBAのホームターミナルを介さないと見られない.つまり,現在のリモコン状況は,ホームターミナル用1台とPSX用1台.PSXリモコンにもテレビやビデオを使えるマルチリモコン機能があるが,このホームターミナルはそれに対応していない.更にPSXリモコンにはホームボタンというのがあって,これを用いることでテレビやHDやDVDや様々な役割を切り替えることができる重要な機能のため,このボタンが使用できないと非常に困る.もらったマルチリモコンは,ホームターミナルにも対応しないし,もちろんホームボタンもない.というわけで…….

追憶の『ビューティフル・ドリーマー』

押井守脚本・監督の『イノセンス』を見た.僕は押井守の大ファンということになっているのだが(余談だが,誕生日が同じである),実は前編である『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』を見ていない.しかも,押井の作品を映画館で見るのは,『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』以来,20年ぶりになる.『天使のたまご』や『パトレイバー』はビデオやテレビで見ていたが,それほど押井作品を熱心に見続けていたとは言い難い.
押井が『うる星やつら オンリー・ユー』をつくったとき,不運なことに同時上映が相米慎二監督の『ションベン・ライダー』だった.有名な話だが,それを見た押井は,こんな勝手な映画でいいのかと頭に来て,次に『ビューティフル・ドリーマー』をつくった.そんな因縁は後から知った話だが,当時15歳だった僕は,この2作品から大きな影響を受け,相米,押井の2人は僕にとって重要な映画監督となった.
『イノセンス』については,そんな僕からすると,それほど楽しめる映画ではなかった.書店で立ち読みしただけだが,東浩紀「ユリイカ」4月号で,「追憶の『ビューティフル・ドリーマー』」という文章を書いている.彼は僕より3歳年下なのだが,かなり似たような感想を持っているようなので,『イノセンス』評についてはそちらを読んでほしい.「朝日新聞」で亀和田武が,この評を酷評していたが,『ビューティフル・ドリーマー』を思春期に見た者にとっては,『イノセンス』を押井作品として素直に評価することはできない.やはり東浩紀と同じことを書くことになるが,とにかく『ビューティフル・ドリーマー』を見てほしい,としか言えない.

繊細と思っていたが実はテキトーだった

西島大介の『凹村戦争』(早川書房)を読んだ.《二人のウエルズ氏に.》と献辞にあるように,『宇宙戦争』を書いたH.G.ウエルズと,それを元にラジオドラマをつくったオーソン・ウエルズ(だから,凹村→おうそん),その他にもジョン・カーペンター,『プリズナーNo.6』,『2001年宇宙の旅』だとか,ネタが散りばめられている.まあ,それだけが本題ではなく,東浩紀の帯文に端的に示されているように,「きみとぼく」に「メタとネタと萌え」というもの.しかし,マンガ自体は期待していたほどではなかった.
なぜ期待していたかというと,西島のイラストレーターとしての仕事に興味を持っていたから.『定本物語消費論』大塚英志の文庫版の表紙と中表紙や,『網状言論F改』東浩紀編の表紙をぜひ見てほしい.特に繊細な淡い色使いに注目したい.その意味では,『凹村戦争』は白黒だから…….しかし,期待していたポイントが違っただけで,全編に流れる(西島のホームページにもそういった雰囲気があるけど)「テキトー」感は気持ちよいです.

素材の良さ

デビッド・シルヴィアンのライブを見た.「Fire in The Forest Tour 2004」の日本公演.弟のスティーヴ・ジャンセンと高木正勝の3人しか出演しないシンプルな構成.正確に書くと,高木はVJなので,演奏は兄弟2人だけ.おまけに『ブレミッシュ』からの曲がほとんどで,黙々とライブは進んでいく.ライブ自体は,もう少し過去の曲もやってくれればいいのにという感想はあるが,それよりも何よりも高木の映像が素晴らしかった.
高木正勝を最初に見たのは,東京都現代美術館での「MOTアニュアル2003 おだやかな日々」で,アニエス・ベーのためにつくった『world is so beautiful』だった.どのようにつくられているのかはわからないが,美しく画像が処理されたビデオインスタレーションだった.その時は,現代美術の展示でよくあるように延々とビデオ作品が流されていただけで,十分に時間を割くことができず,チラリとしか見ることができなかった.しかし,かなり強い印象を持っていたので,DVDで販売されたときにすぐに買った.結局,高木の作品は,映写される空間性が重要なわけではなく,自宅のテレビで見たって十分楽しめた.
つまり,動き,編集といった映像そのものに力がある.それどころか,その1カットを取り出して,高木自身のライブのフライヤーに使ったりするのだが,これがまた1枚の絵として気持ちよい.そういった画像処理の質もまた持ち合わせている.
今回のライブで使われた映像は,『world is so beautiful』の延長として,子どもたちの映像が多く使われている.その1部は,新作としてDVDが発売されるらしい.そして,『World Citizen』では,アンコールであったこともあって,おそらく『world is so beautiful』や新作用の,ほとんど画像処理をしていない生のデジタルビデオ映像を編集したものが使われた.子どもたちが楽しそうに走り回っている映像が繋ぎ合わされた映像だった.これを見て思ったのだが,画像処理をしていなくとも,生の素材を編集しただけでも十分に高木の作品となっていた.画像処理の質の高さだけでなく,この生の素材の良さが,高木が他の映像作家から抜きん出ている理由だと思う.
高木の作品はホームページでも少しだけ見ることができる.ネット上の粗い画面でも十分に魅力的な作品を見れば,僕が書いたことが少しはわかるのではないだろうか?

目の前にある構造

以前,佐藤光彦さんの『梅ヶ丘の住宅』を見たときのこと.何も知らずに,真ん中にある螺旋階段を上り下りしていたところ,ふと手に触れている階段室の曲面の壁が,固い金属でできていることに気が付いた.「もしかすると,これは構造体ですか?」と,光彦さんに訊ねたところ,「そうだよ」との答.16ミリ(だったと思う)の鉄板を曲面にし,平面中央に設置することで水平力を受け持ち,最低限の断面による鉄骨が外周部を取り囲み,その軽快な構造体により鉛直力を受け持つ.構造は池田昌弘さん.構造計画としては非常にモダンな回答.
この住宅も,みかんぐみ『上原の家』のように,1,2階はほとんどが壁に囲まれているため,もっと断面の大きい柱を壁の中に忍び込ませることも可能である.しかし,地下では光を落とすハイサイドライトが隣地を除く三方を囲んでいるが,最低限の鉛直力を持つだけの構造体は,その開口部をほとんど妨げることがない.結果的に,構造のあり方をそのまま意匠が表現している.
構造体はどのような建物にも明確に存在するが,それを可能な限り意識させないように表現するという考え方がある.例えば,構造体を可能な限り最小の断面とすることで,存在感の小さなものとする方法は代表的なものである.しかし,この住宅では,目の前に見えていながらも,それが別の用途(ここでは螺旋階段の手摺)として存在しているため,構造体とは気が付きにくいという方法を取っている.

構造の遍在

建築の構造体が遍在しているのは当たり前のことである.柱や梁,壁は,建築空間の中にいれば,至る所に存在していることがわかる.例えば壁構造の建築であれば,目の前にある壁の全てが構造体であろう.もし構造体が偏在しているのであれば,おそらくアクロバティックな構造形式を取らなければならない.
みかんぐみ設計の『上原の家』を見た.構造はArup Japanの金田充弘さん.この住宅でも構造体は遍在している.ただし,本棚という姿に変えて.その本棚は,自らを構造体であると主張することなく,そのそぶりを見せずにあちらこちらにあるため,構造体ではないだとうという錯覚を起こす.
モダニズム建築においてル・コルビュジエは,列柱に支えられる床と,構造的な役目を持たない壁を分離した.所謂,「自由な立面」.その究極的な住宅がミース・ファン・デル・ローエの『ファンスワース邸』で,8本の柱に支えられているため,全ての外壁がガラスとなっている.その意味では『上原の家』も,「住宅特集」4月号や「建築文化」4月号で紹介されている建て方の写真を見ればわかるように,列柱状の本棚のみが構造体になっているため,本棚以外をガラス張りにすることだってできる.しかし,そうなってはいない.むしろ,この住宅は壁に囲まれている.
その代わりに,ここでは工業製品による薄い壁が実現されている.外部も内部も一律に工業的に仕上げられた,美しい既製品が選ばれている.ジョイント部分も工業化の恩恵を受けているため,室内にいると,飛行機や新幹線の内部にいるかのような感覚を受ける.この感覚は,今までの建築にはなかった質を実現している.
一方で,『上原の家』を視覚だけから見ると,どのようなことが考えられるだろうか? この住宅はガラス張りではないわけだから,壁を構造体として使用することもできるはずである.同様な仕上げを内外部に用い,その隙間に柱を入れればよい.意匠的に壁の薄さを強調している部分もないため,壁が厚くなることは問題とならないだろう.そうすれば,わざわざ本棚が遍在する必要もない.しかし,当たり前の話だが,建築は視覚だけで体感するものではない,ということを考えさせられた.

バランスのよい複雑さ

イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』(脇功訳,筑摩書房)を読んだ.最近,河出文庫で『柔かい月』『見えない都市』『宿命の交わる城』が続けて刊行されたため,これを機にまとめて読んでいる.
カルヴィーノの個人的な思い出としては,1989年にニューヨークへ行ったとき,クーパーユニオンだかコロンビア大だかの近所の建築系書店で,『見えない都市』が平積みになっていたことを思い出す.『見えない都市』が書かれたのは1976年であるが,80年代最後のNYの建築界は,ポストモダニズムからデコンストラクティビズムへの移行時期で,そんな時代の雰囲気にこの小説が合っていたのかもしれない.(ちなみに,ここでのポストモダンは狭義の意味で,古今東西の引用によるコラージュ的デザインを指す.デコンも狭義の意味で,ロシア構成主義的デザインを指す.もちろん,デコンは広義のポストモダンに含まれる.)マルコ・ポーロによる都市の描写を集めただけの物語は,建築関係の人たちには表面的に理解しやすいものだったのだろう.しかし,カルヴィーノの作品が,小説全体に及ぶ多様な解釈を内包することを目論んでいることを思うと,ただの都市論として『見えない都市』が読まれることは望ましくない.
その点,『冬の夜』は,バランスのよい複雑な構成を持つ小説である.『柔かい月』は,デッサンのような短編小説集.『見えない都市』は,都市論としての表情が強すぎる.『宿命』は,あまりにも実験的すぎる.とするならば,カルヴィーノを読むには,『冬の夜』がもっともおすすめである.

フルカラーにリミックス

『総天然色AKIRA(全6巻)』大友克洋(講談社)が完結した.これは海外で通常販売されているヴァージョンの『AKIRA』で,カラーリストのスティーブ・オリフによって,全ページがフルカラー化されているもの.だからといって,これが『AKIRA』の完全版というわけではない.縦書きの日本語がページを右から開くのに対し,横書きの欧米では左から開くため,全てのページが裏返されることになる.つまり,右利きだった金田が,国際版では左手にレーザー銃を持つことになる(鉄雄が失う腕は左手だし,アキラのナンバーは右手にある).絵の中の効果音もアルファベットに描き改められ,オマケにセリフは,大友の日本語を英語に訳したものを,更に翻訳家の黒丸尚が日本語に訳すという重訳.オリジナル版からは遠く離れたリミックス版という趣.もし『AKIRA』を読んでいない人がいたら,間違っても総天然色版を読まずに,白黒版を読んでほしい.
しかし,大友は2,158ページに及んだ『AKIRA』を描いた後,10年間で21ページ(3作品)しか描いていない.ようやく今年,『スチームボーイ』が公開されるが,どうなんだろう?

観光客とともに見る美術展

「六本木クロッシング:日本美術の新しい展望2004」「クサマトリックス 草間彌生展」(森美術館)の2つを見た.森美術館は初めてであったが,美術館と展望台の入場券がセットで販売されるシステムもあって,あの回転扉の事故直後にも関わらず,日曜午後の美術館は大変な人混みだった.
そのおかげで「六本木」は,ほとんど集中して見ることができなかった.おまけに,故障している作品が多かったり,撤去されている作品もあったり,その不完全さが更に追い打ちをかける.1つ1つの作品は決して悪いものではなかったように思えたが,あまりにも双方のコンディションが悪過ぎた.バラ撒かれたような取りとめのない展示構成も手伝い,全体的に散漫な印象しか残っていない.もう少し,こちらに時間的な余裕があり,作品も完全な状態であれば,まったく違う感想を抱いていたかもしれないだけに残念だった.
一方,「草間展」の脅迫的なインスタレーション群は,ぞろぞろと列をなして歩く観光客に対しても,圧倒的な迫力で迫る.その求心力のおかげで,そんなコンディションに関係なく楽しむことができた.さながらテーマパークのようである.特に最後の『ハーイ,コンニチワ!』のポップな空間は感動的ですらあった.

近代建築をめぐる12年前の話

僕がレム・コールハースに初めて会ったのは12年前である.『行動主義 レム・コールハース ドキュメント』瀧口範子(TOTO出版)にも触れられているが,日本大学理工学部で行われた「都市講座」のときであった.その3日間のレクチャーを書き起こした中から,ほんのわずかな部分を取りだして「建築文化」1993年1月号に掲載した.近代建築との距離ということで,この言葉を思い出した.12年後の彼の作品を考えると当然のように思えるが,当時の僕にとっては状況を正確に批評するショックな言葉だった.
《確かに私にとっての隠れた英雄というのは明らかに近代建築の人達であります.彼らは大変重要な基準を設けてくれたと思います.私の作品も1988年までは初期の近代建築の特徴を顕著に現していました.特に80年代のポストモダンの爆発的な影響の中では,初期の近代建築に倣ってつくることは必要であり,容易であると思っていました.しかし,私はあまりにもそれらに依存していたので少し不安になってきたのです.単なるノスタルジアから,審美的な要素だけからそれらを非常に尊重してしまったのではないだろうか? 私達の20世紀という非常に信じられないような変革が起きている時代の中で,建築だけが古いもの,70年前のものに対してオマージュのようなものをつくってゆくことが,果たして正当な方法なのだろうか? 私は自分の創造力を本当に必要なところだけに用い,それ以外は既知のボキャブラリーに頼る方がよいと思っていました.しかし,最近の私の作品には近代には例のないようなスケール,プログラムが関わっており,とても今までのボキャブラリーではつくれないものが出てきたのです.それから,私自身も驚いているのですが,私は少しオリジナルになりたいと思い始めているのです.建築を始めたときには,私はオリジナルにはなりたくない,自分は決して独創性を発揮しなくてもよいと思っていました.しかし,今までの方法に飽きてしまったからなのかもしれませんが,最近は新しい発明や発見に関心を持ち始めているのです.》

長さと短さのバランス

清涼院流水の『彩紋家事件』(講談社)を読んだ.清涼院を読んだのは,長大な『カーニバル(文庫版)』に続き2作目.『カーニバル』,そして未読だが『コズミック』『ジョーカー』よりも遡った1970年代後半の物語である.
その時代設定のためか,執筆している現在と70年代後半とのギャップをわざわざ強調し過ぎることと,奇術が物語の中心に据えられているのだが,その描写があまりにも詳細かつ冗長であることが気になる.前者は,『カーニバル』では現在と未来のギャップによる物語の飛躍を,今回は過去と現在のギャップに置き換える試みを行っているため.後者は,『カーニバル』では奇跡的な出来事を現象のみを詳細に描写することでトリックの説明を回避していたものを,今回は奇跡的な出来事を詳細に描写するとともに,現実に存在可能なトリック(ただし,超人的な肉体訓練を要する)を用いた説明もまた詳細に描く試みを行っているため.という理由はわかるが,ともすると中盤の奇術の記述は退屈する.
以下はネタバレになるが,それでも全てを読み通し,構成上の長さと短さのバランス故の詳細な描写かと思うと,納得がいかないこともない.

2つのベケット

サミュエル・ベケットの芝居を続けて2つ見た.1つは『あしおと』(下北沢「劇」小劇場).もう1つは『ゴドーを待ちながら』(あがたの森文化会館講堂).『あしおと』は,僕の高校からの友人である長島確の翻訳,同じく僕の友人である阿部初美さんの演出.『ゴドー』は,串田和美演出,串田,緒形拳の出演.ベケットの処女戯曲である『ゴドー』と,晩年の作である「あしおと」は,書かれた時期もあって作品が大きく異なるだけでなく,その演出もまた対照的であった.
『ゴドー』は,ウラジミール役の串田と,エストラゴン役の緒形(そして,ポッツォ役のあさひ7オユキ)のやり取りが,ベケットのテクスト(翻訳は安藤信也と高橋康也)に寄り添いながらも,時として(と言うよりも全般的に)お笑いコントの様相を呈する.もちろん,観客は大いに沸くし,網走刑務所での公演が好評であったことも納得できる.
それに対し『あしおと』は,日本語による上演に対する正確な翻訳への,確と阿部さんの徹底した意志が感じられた.ベケットのテクストを正確に上演することにより,初めて手に入れることができる本当の不条理さを,もしくは,不条理という言葉に短絡させるべきではない何かを手に入れることを目指した試みであった.
ベケットのテクストは一読すると不条理のように思えるが,実際に精読していくと,細部に渡り徹底して論理的に書き上げられていると,確は言っていた.少なくとも『あしおと』に関してはそうであるらしい.処女戯曲であった『ゴドー』が,どの程度緻密に書かれたものであるかは分からない.串田『ゴドー』は,ここで繰り広げられる不条理な会話を,普段どこででも行っている日常的な会話はこんなもんじゃない? と言わんばかりの雰囲気で演出を行う.それはそれで,主演の2人に負うところが大きいにしても,娯楽作として成立している.しかし,もし『あしおと』のように,ベケットが論理的に組み立てた(であろう)テクストとしての『ゴドー』を,日本語による正確な上演を行うとするならば,どのような『ゴドー』が立ち上がるのか,非常に興味深い.