第1次審査結果発表

第1次審査通過10組は以下のとおりです。
通過者は、2013年10月26日(土)開催の第2次公開審査にてプレゼンテーションを行い、各賞を決定します。
プレゼンテーションは、発表5分、質疑10分。プレゼンテーションソフトを用いた発表も可能です。スクリーンは1面使用可能(要項から変更)。
本体模型(縮尺1/500)を作製してください(敷地模型は事務局にて準備)。
また、プレゼンテーションではあらゆる図などの追加を認めます。第1次審査通過案の中には内部のプログラムを示していない案もありますが、第2次公開審査では、必ず具体的な平面図などを追加してください。

安祥毅(理工建築3年)
小杉真一郎・清水亮輔・土屋伸吾・波多腰渉(理工建築3年)
中島奈津実(理工建築M1)
ショウ・カキ(理工建築3年)
敦賀谷俊・白木大一(理工建築3年)
宮本悠平(理工建築4年)
安西彩香・川田実可子・小関眞子(理工建築3年)
落合恵子・中辻千尋・奈良橋佳洋(理工建築3年)
沢田拓郎(理工建築M1)
落合俊太(理工建築M1)

応募総数:33点
理工建築:30点、理工海建:2点、生産工:1点

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 10 10, 2013 19:14 | TrackBacks (0)

第5回日本大学桜門建築会学生設計コンペティション

日本大学建築系学科卒業生のOB会である桜門建築会(通称 桜建会)では、このたび在学生向けの学生設計コンペティションを企画しました。これまでにも桜建会では、「桜門建築学生設計コンクール」(1984~98年)を主催してきましたが、2009年からは名称を「日本大学桜門建築会学生設計コンペティション」に改め、今年は第5回を開催することになりました。今回も世界的に活躍されている建築家・隈研吾先生を審査員に迎え、出題を兼ねた公開レクチャーを開催します。
日大生のみなさんから魅力的な提案が数多く集まることを期待しております。ぜひ応募してください。

テーマ:
明日の市役所

新しい形のシティホール(市役所)を提案して下さい。
従来の「市役所」というイメージにこだわらない、機能・プログラム・スペース・アクティビティーをどんどん自由に提案してみて下さい。
日本の地方が、地元が元気になれば再び日本は元気になるという「希望」の拠点となるシティホールです。

計画敷地図pdfダウンロード

敷地:新潟県長岡市大手通1丁目4番地10
敷地面積:14,939㎡
延床面積:35,000㎡(地下も含む)
最高高さ:31m
用途地域:商業地域
備考:敷地内の高低差は無いものとする。ベデストリアンデッキ・敷地内神社は考慮しなくても良いものとする。

計画敷地写真

審査員:
隈研吾(建築家・東京大学教授)

賞:
最優秀賞/1点(賞金10万円)
優秀賞/2点(賞金2万円)
佳作/数点

応募資格:
日本大学・大学院に在籍するすべての学生
ただし、学部生はグループでの応募を認めるが、大学院生は個人で応募すること。

公開レクチャー:
2013年7月16日(火)18:00~20:00
理工学部駿河台キャンパス1号館CSTホール

第1次審査提出締切:
2013年9月24日(火)
郵送の場合は当日消印有効。持参の場合は17時締切。

第1次審査提出内容:
A1サイズ(841㎜×595㎜)用紙1枚
平面図(縮尺1/500程度)、立面図、断面図、配置図、アクソメ、パース、その他設計意図を説明するのに必要と思われる図面や、模型写真、ダイアグラムなどの図版、文章などを各自選択して描くこと。
また、用紙の裏側に応募者の氏名、住所、電話番号、e-mailアドレス、所属学部・学科、学年を記入すること。

作品提出先:
郵送 桜門建築会事務局 当日消印有効
持参 以下の各場所 17時締切
理工学部建築学科 設計講師室(駿河台キャンパス5号館5階)
理工学部海洋建築工学科 教室事務室
生産工学部建築工学科 教室事務室
工学部建築学科 教室事務室
短期大学部建築・生活デザイン学科 教室事務室

第2次公開審査:
2013年10月26日(土)
理工学部駿河台キャンパス1号館CSTホール
第1次審査により若干名を選出し、通過者は模型などを追加製作してプレゼンテーションを行う。
15:00〜17:30 公開審査
18:00〜20:00 表彰式・懇親会(応募者のみ)

第2次公開審査プレゼンテーション内容:
プレゼンテーション(発表/5分、質疑:10分)
プレゼンテーションソフトを用いた発表も可能。スクリーンは2面使用可能。
本体模型(縮尺1/500)敷地模型は事務局にて準備。

問合せ:
日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会
担当/佐藤慎也 satoh@arch.cst.nihon-u.ac.jp

主催:
日本大学桜門建築会

日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会:
実行委員長/重枝豊(桜門建築会事業委員会副委員長、理工学部建築学科教授)
実行委員 /浦部智義工学部建築学科准教授)
     /亀井靖子生産工学部建築工学科専任講師)
     /佐藤信治理工学部海洋建築工学科専任講師)
     /佐藤慎也理工学部建築学科准教授)
     /田所辰之助短期大学部建築・生活デザイン学科教授)

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 7 26, 2013 7:04 | TrackBacks (0)

計画敷地写真

nagaoka01.jpg
大手通り駅側からのアプローチ
nagaoka02.jpg
大手通りから敷地を見る
nagaoka03.jpg
敷地北側から南を見る
nagaoka04.jpg
敷地西側から東を見る

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 7 26, 2013 7:01 | TrackBacks (0)

第2次公開審査結果

最優秀賞
なし

優秀賞
新城雄史(工M1)
富樫由美(理工建築4年)
三浦洵(工M2)
落合俊行(理工建築4年)

佳作
小島弘旭(理工建築3年)
遠藤一成・川島慶之(工3年)
飯名悠生・緒方彩乃(理工建築3年)

応募総数:17点
理工建築:11点、工:5点、生産工:1点

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 1 15, 2013 6:43 | TrackBacks (0)

第1次審査作品受付

12月11日の時点で受付が完了しているのは以下の作品です。
通信エラーなどでで送信できていない方は連絡願います。

1石田敬幸・渡辺憲造・橋本和弘
2久保京介・児玉嵩史・中村岳立
3柴田俊太郎
4新城雄史
5ショウカキ
6岩井都夢
7斎藤佑樹・敦賀谷俊
8小島弘旭
9阿部慎也
10佐藤伸哉・樋口卓史・山本彰記
11藤井玄徳
12遠藤一成・川島慶之
13飯名悠生・緒方彩乃
14富樫由美
15三浦洵
16岩崎晃太
17落合俊行

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 12 10, 2012 4:20 | TrackBacks (0)

第4回日本大学桜門建築会学生設計コンペティション

日本大学建築系学科卒業生のOB会である桜門建築会(通称:桜建会)では、このたび在学生向けの学生設計コンペティションを企画しました。これまでにも桜建会では、「桜門建築学生設計コンクール」(1984~98年)を主催してきましたが、2009年からは名称を「日本大学桜門建築会学生設計コンペティション」に改め、今年は第4回を開催することになりました。今回も世界的に活躍されている建築家・石上純也先生を審査員に迎え、出題を兼ねた公開レクチャーを開催します。
日大生のみなさんから魅力的な提案が数多く集まることを期待しております。ぜひ応募してください。

テーマ:
100㎢,100㎡

条件1
敷地面積=100,000,000㎡
建築面積=100㎡

条件2
敷地の
環境
形状
周辺の環境

建築の
延べ床面積
プログラム

を設定すること

条件3
建築と敷地が強く関係すること

審査員:
石上純也(建築家・石上純也建築設計事務所代表)

賞:
最優秀賞/1点(賞金10万円)
優秀賞/2点(賞金2万円)
佳作/数点

応募資格:
日本大学・大学院に在籍するすべての学生
ただし、学部生はグループでの応募を認めるが、大学院生は個人で応募すること。

公開レクチャー:
2012年10月20日(土)18:30~20:30
理工学部駿河台キャンパス1号館CSTホール

第1次審査提出締切:
2012年12月9日(日)

第1次審査提出内容:
pdf形式、A1サイズ(841mm×595mm)1枚、ファイルサイズ:10MB以下
平面図、立面図、断面図、アクソメ、パース、その他設計意図を説明するに必要と思われる図面や、模型写真、ダイアグラムなどの図版、文章などを各自選択して描くこと。

作品提出先:
日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会(担当:佐藤慎也)
satoh@arch.cst.nihon-u.ac.jp
応募者の氏名、住所、電話番号、e-mailアドレス、所属学部・学科、学年を付記すること。
受け取り完了後、以下のホームページに応募者氏名を掲載する。
http://tkmy.net/u41

第2次公開審査:
2013年1月12日(土)
理工学部駿河台キャンパス
第1次審査により若干名を選出し、通過者は模型などを追加製作してプレゼンテーションを行う。
15:00〜17:30 公開審査
18:00〜20:00 表彰式・懇親会(応募者のみ)

問合せ:

日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会

担当/佐藤慎也 satoh@arch.cst.nihon-u.ac.jp

主催:
日本大学桜門建築会

日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会:
実行委員長/重枝豊(桜門建築会事業委員会副委員長、理工学部建築学科教授)
実行委員 /浦部智義工学部建築学科准教授)
     /亀井靖子生産工学部建築工学科専任講師)
     /佐藤信治理工学部海洋建築工学科専任講師)
     /佐藤慎也理工学部建築学科准教授)
     /羽入敏樹短期大学部建設学科准教授)

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 11 7, 2012 6:27 | TrackBacks (0)

第1次審査通過作品

審査員の青木淳さんのコメントとともに、第1次審査を通過した各作品を紹介します。作品画像をクリックすると、より大きい画像を見ることができます。
第1次審査通過者は、このコメントをもとに、2011年12月10日(土)に行われる第2次公開審査に挑みます。


1asano_m.jpg
living anothe life
浅野麻由美(生産工4年)小林雅実平方智侑長谷川学(生産工2年)
考えることやつくることの飛距離をのばすために、「人間にとって」という視点を一度外すことは、とてもすぐれたことです。もちろん、そういう場合でも、最終的には「人間にとって」という視点に戻って着地しなければならないわけですが、今の案では、あまりに着地が早すぎるようです。もっと、先まで行ってから、降りてみましょう。


2abe_m.jpg
屋根裏三丁目
阿部雄介(生産工4年)岡安佐和高橋知広髙野隼望月淳史(生産工2年)
すでに、案としてよくまとまっていると思います。これはこれでいい、でも、もっと膨らませようとするならば、家型がひとつでなく、それが重なっていることによってなにかおもしろいことが生まれないか(つまり、貫通する方向の展開)考えてみるといいでしょう、また、家型ごとに断面のヴァリエーションに変化をあたえたらどうなるか、考えてみるのもいいでしょう。


3koizumi_m.jpg
SHEA 廊下を建築に
小泉洋希(工4年)
ダイアグラム、とくに盲腸のような尻尾部分をプライベートな空間にする、というところがおもしろい。しかし、図面を見ると、この尻尾と本体の関係があまり練られていないなあ、という感想。また、外の環境との関係はどうなっているんだろう?とか。出だしは好調。展開はまだまだ。だからこそ、可能性あり、と思って選びました。


4shibata_m.jpg
後戻りしない家
柴田俊太郎(理工建築M1)
そんなバカなと思うくらい、めちゃくちゃなアイデアです。そこがいい。で、そのアイデアを前提とするなら、その世界はどうなっちゃうのだろう。それをどこまで構想・想像できるか、が勝負です。いまのところ、「ね、アイデア、おもしろいでしょ」どまり。この思考実験を前に進めてほしいなあ、と思っています。


5jinbo_m.jpg
家具から家を考える
神保寿弥(理工建築M2)
部屋という単位ではなく、家具という単位(ユニット)から住まい全体を再編する。これは、たいへん、すばらしい着想です。ただ、提示されている計画案は、別に「家具から考える」でなくても、こうなりますね、という内容で、残念ながら、あまりおもしろくない。家具から考えると、こんな具合に思わぬ家になります、というところまで、考えてほしいです。


6tanaka_m.jpg
抽象の森
田中麻未也(理工建築M2)
つまり、「柱」という出発点ではなく、「垂直材」というところからはじめようとしているわけですね。光合成をすることで栄養をとるので光を必要とする、という点ではどの樹木にも共通する側面があるけれど、それぞれが戦略がちがうので、個性が生まれてくる。この案では、各「垂直材」ごとの戦略まではいいけれど、その先がまだまだ。たとえば、この「垂直材」では、水平力を負担できないぞ、とか、ツッコミを入れたくなるところいっぱい。ここをまじめに考えると、おもしろくなるのです。


7yamamoto_m.jpg
都市の大きな家に住む
山本匡希塚越望栗田健佑(理工建築4年)
家と都市の中間項としての「大きな家」。そのアイデア、いいです。グラフィックもいい。足りないのは説得力。この「大きな家」、ほんとうに中間項になっている、と、案そのもので(テキストではなく)素直にぼくたちを説得させているだろうか?このあたりを補強していくのは、もう一段、努力がいりますが、がんばってほしい。


8wakui_m.jpg
にじむくらし
涌井匠海藤航斉藤亮介(理工海建3年)
縁側の復権。縁側に段差を見たのがいいです。ひとつひとつの段の大きさと段差の差だけで、開放的なのに「住める」空間。そのリアリティは、ひとつひとつのユニットの関係を丁寧に考えるところからしか生まれません。もう少し整理された形になってもいいから、それを考えてくれるともっとよくなるでしょう。


9wake_m.jpg
ひろがる 四畳半
和気聡志(理工建築M2)
空間の部品化。四畳半という大きさは、それを行うのにちょうどいい大きさだと思いました。とりあえず、いろいろなバリエーションを提示してくれていますが、5つでいいので、互いに相当違う配置・使い方になるためには、どのような仕掛けが必要/不必要か、考えてみましょう。


10watanabe_m.jpg
シェアする「とびら」の家
渡部亘(理工海建4年)
いろいろな開き方/閉じ方でいろいろな関係がうまれる。それを平屋でやるのではなく、一部、2階建てでやってみるということに興味が惹かれました。そのよりいっそう複雑さを増す全体のなかで、さて、どんな「いろいろな関係」が可変的に生まれるのか、図面から想像してみようと思いましたが、途中でギブアップ。プレゼンテーションでは、ぜひ、そこを伝えてください。

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 10 29, 2011 21:32 | TrackBacks (0)

第1次審査結果発表

第1次審査通過10組は以下のとおりです。
通過者は、2011年12月10日(土)開催の第2次公開審査にてプレゼンテーションを行い、各賞を決定します。プレゼンテーションの詳細は、審査員の青木淳さんのコメントとともに、後日通過者本人に連絡します。

浅野麻由美(生産工4年)小林雅実・平方智侑・長谷川学(生産工2年)
阿部雄介(生産工4年)岡安佐和・高橋知広・髙野隼・望月淳史(生産工2年)
小泉洋希(工4年)
柴田俊太郎(理工建築M1)
神保寿弥(理工建築M2)
田中麻未也(理工建築M2)
山本匡希・塚越望・栗田健佑(理工建築4年)
涌井匠・海藤航・斉藤亮介(理工海建3年)
和気聡志(理工建築M2)
渡部亘(理工海建4年)

応募総数:46点
理工建築:28点、理工海建:3点、工:8点、生産工:7点

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 10 26, 2011 6:18 | TrackBacks (0)

第3回日本大学桜門建築会学生設計コンペティション

日本大学建築系学科卒業生のOB会である日本大学桜門建築会(略称:桜建会)では、このたび在学生向けの学生設計コンペティションを企画いたしました。これまでにも桜建会では、「桜門建築会学生設計コンクール」(1984~98年)を主催してきましたが、一昨年からは名称を「日本大学桜門建築会学生設計コンペティション」に改め、今年は第3回を開催することになりました。今回も世界的に活躍されている建築家・青木淳先生を審査員に迎え、「『デザイン』の概念を変えた家」をテーマにコンペティションを実施し、最終審査では青木先生による公開審査会を行います。

日大生の皆さんから魅力的な提案が数多く集まることを期待しております。ぜひご応募ください。

テーマ:
「デザイン」の概念を変えた家
ほんとうにすごい「デザイン」というのは、それまで考えられてきた「デザイン」の意味・概念を、その「デザイン」によってすっかり変えてしまうものでしょう。へえ、「デザイン」というのは、そういうことをすることでもありえたんだ、ということを気づかせてくれるような「デザイン」。たとえば、チャールズ&レイ・イームズは、「ケース・スタディ・ハウス」で、鉄骨から内装材に至るまで、すべての部材をアメリカ国内に流通している既製品だけでつくろうとしました。「デザイン」というものについてのその考えだけで、もうすごいですね。
それで、これまでの「デザイン」の概念を、今こういうふうに変えて、こんな「デザイン」をするのがいいのではないか、ということを、みなさんに、家の設計というなかで提案してもらおう、というのが、今年の課題です。
なんと言っても今年、3.11を経験した前と後で、ぼくたちを取り巻く世界は、すっかり変わってしまった、と思うからです。

審査員:
青木淳 (建築家・青木淳建築計画事務所代表)

賞:
最優秀賞/1点(賞金10 万円)
優秀賞/2点(賞金2万円)
佳作/数点

応募資格:
日本大学・大学院に在籍するすべての学生
ただし、学部生はグループでの応募を認めるが、大学院生は個人で応募すること。

第1次審査提出締切:
2011年9月28日(水)必着

第1次審査提出内容:
A1 サイズ(841mm×595mm)用紙1枚
平面図、立面図、断面図、アクソメ、パース、その他設計意図を説明するに必要と思われる図面や、模型写真、ダイアグラムなどの図版、文章などを各自選択して描くこと。
また、用紙の裏側に応募者の氏名、住所、電話番号、e-mailアドレス、所属学部・学科、学年を記入すること。

作品提出先:
各学部・学科教室事務室
または桜門建築会事務局へ郵送。

第2次公開審査:
2011年12月10日(土)
理工学部駿河台キャンパス9号館901講堂
第1次審査により若干名を選出し、通過者は図面、模型を追加製作してプレゼンテーションを行う。
14:00~16:30 公開審査
16:45~17:45 青木淳レクチャー
18:00〜20:00 審査発表・懇親会(応募者のみ)

問合せ:
日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会
担当/佐藤慎也 satoh@arch.cst.nihon-u.ac.jp

主催:
日本大学桜門建築会

日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会:
実行委員長/重枝豊(桜門建築会事業委員会副委員長、理工学部建築学科教授)
実行委員 /浦部智義工学部建築学科准教授)
     /佐藤信治理工学部海洋建築工学科専任講師)
     /佐藤慎也理工学部建築学科准教授)
     /広田直行生産工学部建築工学科教授)
     /矢代眞己短期大学部建設学科准教授)

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 7 6, 2011 12:30 | TrackBacks (0)

最終結果発表

最優秀賞
村山寛子・三角奈津紀(理工建築4年)

優秀賞
森本栄貴(理工建築M1)
遠藤孝弘(理工建築M2)
南雅博・清水良輔(理工建築4年)・野田香織(理工建築3年)

佳作
田中麻未也(理工建築M1)
本山哲生(理工建築4年)
伊藤由華・大川朱音・川上玲奈(理工建築3年)
増田佳菜子・小山勇気(理工海建3年)
菅原雄太(生産工M1)
沼﨑一也(生産工M1)

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 12 14, 2010 12:21 | TrackBacks (0)

第2次公開審査

第2次公開審査・レクチャーを以下のとおり行います。

日時:
2010 年12 月11 日(土)
14:00~16:30  第2次公開審査プレゼンテーション
16:30~17:30  山本理顕レクチャー
17:30~17:45  質疑応答
(終了後、応募者を対象とした懇親会を行います)

会場:
理工学部駿河台キャンパス1号館CST ホール

審査員:
山本理顕(建築家・山本理顕設計工場 代表・横浜国立大学大学院教授)

賞:
最優秀賞/1点
優秀賞/2点

第1次審査通過者(応募順):
森本栄貴(理工建築M1)
田中麻未也(理工建築M1)
遠藤孝弘(理工建築M2)
本山哲生(理工建築4年)
伊藤由華・大川朱音・川上玲奈(理工建築3年)
村山寛子・三角奈津紀(理工建築4年)
南雅博・清水良輔(理工建築4年)・野田香織(理工建築3年)
増田佳菜子・小山勇気(理工海建3年)
菅原雄太(生産工M1)
沼﨑一也(生産工M1)

問合せ:
日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会
担当/佐藤慎也 satoh@arch.cst.nihon-u.ac.jp

主催:
日本大学桜門建築会

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 12 9, 2010 13:51 | TrackBacks (0)

第1次審査結果発表

第1次審査通過10組は以下のとおりです。
通過者は、2010年12月11日(土)開催の第2次公開審査にてプレゼンテーションを行い、各賞を決定します。プレゼンテーションの詳細は、後日通過者本人に連絡します。

森本栄貴(理工建築M1)
田中麻未也(理工建築M1)
遠藤孝弘(理工建築M2)
本山哲生(理工建築4年)
伊藤由華・大川朱音・川上玲奈(理工建築3年)
村山寛子・三角奈津紀(理工建築4年)
南雅博・清水良輔(理工建築4年)・野田香織(理工建築3年)
増田佳菜子・小山勇気(理工海建3年)
菅原雄太(生産工M1)
沼﨑一也(生産工M1)

応募総数:78点
理工建築:63点、理工海建:7点、生産工:8点

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 11 17, 2010 22:30 | TrackBacks (0)

第2回日本大学桜門建築会学生設計コンペティション

日本大学建築系学科卒業生のOB会である日本大学桜門建築会(略称:桜建会)では、このたび在学生向けの学生設計コンペティションを企画いたしました。これまでにも桜建会では、「桜門建築会学生設計コンクール」(1984〜98年に亘り8回開催)を主催してきましたが、昨年からは名称を「日本大学桜門建築会学生設計コンペティション」に改め、今年は第2回を開催することになりました。今回も世界的に活躍されている建築家・山本理顕先生を審査員に迎え、「建て売り住宅」をテーマにコンペティションを実施し、最終審査では山本先生による公開審査会を行います。
日大生の皆さんから魅力的な提案が数多く集まることを期待しております。ぜひご応募ください。

テーマ:
建て売り住宅
「ドラゴン・リリーさんの家」は日本の郊外のどこにでも見られる、スプロールした風景の中にあります。隣はおそらくハウスメーカーのつくった住宅です。周辺にはそうした戸建て住宅、あるいは低層の集合住宅がそれぞれ周辺環境とは無関係に建っています。でも子細に見れば、すぐ近くに私鉄の線路があってその周りは豊かな緑です。その緑の向こうを電車が走る風景もなかなか捨てたものではありません。あるいは目の前の道路は小学生たちの通学路です。近くには公民館もあります。こうしたスプロールした風景の中にこの住宅が建つことで、少しは周辺環境に役に立ってもらいたいと思いました。施主の「ドラゴン・リリーさん」も同じ気持ちだったようです。ガラス張りの開放的な家にしたのもそのためです。キッチンの前のベンチでときには小学生たちが楽しそうに話し込んでいます。カーテンも引かずに生活しています。夜でもひときわ明るい家は公民館と間違えて入ってきてしまう人もいるそうです。
この「ドラゴン・リリーさんの家」の隣の敷地に建て売り住宅を設計してください。容積率、建坪率を守ればどんな住宅でもかまいません。地下をつくっても、何階建てでもかまいません。でも、一つだけ条件があります。商売をしたい。お店を開きたい。どんなお店でも良い。そのお店ができることで周辺が活性化するような、そんなお店を考えてください。そのお店と一緒に住宅を考えてください。どんな人がこの店舗付き住宅を買ってくれるのか。何世帯かがまとまって住んでもいいし、高齢者の住宅でもいい。売れそうな住宅を考えてください。なお、駅前まで行かないと周辺にはお店は全くありません。周辺環境に貢献する住宅を考えてください。(山本理顕)
参考資料ページ 『住まう』2010年夏号 発行:大阪ガス

計画敷地条件:
site2.gif
計画敷地図pdfダウンロード
『ドラゴン・リリーさんの家』平面図pdfダウンロード

計画敷地 /群馬県桐生市相生町2丁目
敷地面積 /411㎡
用途地域 /第一種住居地域
許容建坪率/70%
許容容積率/200%
前面道路幅/東6.2m、南5.4m
参考画像ページ
コンペの対象となる敷地は私有地なので、見学は不可。絶対に立ち入らないこと。

設計条件:
店舗兼用住宅
階数(地下の有無)、構造などは自由。家族構成、業種などの設定は自由。

審査員:
山本理顕(建築家・山本理顕設計工場 代表・横浜国立大学大学院教授)

賞:
最優秀賞/1点(賞金10 万円)
優秀賞/2点(賞金2万円)
佳作/数点

応募資格:
日本大学・大学院に在籍するすべての学生
ただし、学部生はグループでの応募を認めるが、大学院生は個人で応募すること。

第1次審査提出締切:
2010 年11 月4 日(木)必着

第1次審査提出内容:
A1 サイズ(841mm×595mm)用紙1枚
平面図、立面図、断面図、アクソメ、パース、その他設計意図を説明するに必要と思われる図面や、模型写真、ダイアグラムなどの図版、文章などを各自選択して描くこと。
また、用紙の裏側に応募者の氏名、住所、電話番号、e-mailアドレス、所属学部・学科、学年を記入すること。

作品提出先:
各学部・学科教室事務室
または桜門建築会事務局へ郵送。

第2次公開審査:
2010 年12 月11 日(土)
理工学部駿河台キャンパス1号館CST ホール
第1次審査により若干名を選出し、通過者は図面、模型を追加製作してプレゼンテーションを行う。
14:00~16:30 公開審査
16:30~17:45 質疑応答
18:00〜20:00 審査発表・懇親会(応募者のみ)

問合せ:
日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会
担当/佐藤慎也 satoh@arch.cst.nihon-u.ac.jp

主催:
日本大学桜門建築会

日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会:
実行委員長/重枝豊(桜門建築会事業委員会副委員長、理工学部建築学科教授)
実行委員 /浦部智義工学部建築学科専任講師)
     /佐藤信治理工学部海洋建築工学科専任講師)
     /佐藤慎也理工学部建築学科助教)
     /広田直行生産工学部建築工学科教授)
     /矢代眞己短期大学部建設学科准教授)

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 11 4, 2010 0:00 | TrackBacks (0)

参考画像

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『ドラゴン・リリーさんの家』planスケッチ

《計画敷地写真》
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計画敷地より『ドラゴン・リリーさんの家』北面を観る
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計画敷地・東側道路より『ドラゴン・リリーさんの家』北面を観る

《前面東側道路》
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東側道路より南を観る
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東側道路より敷地方向=北を観る

《『ドラゴン・リリーさんの家』との境界》
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東側道路より計画敷地と『ドラゴン・リリーさんの家』の境界を観る
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『ドラゴン・リリーさんの家』越しに敷地方向を観る
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『ドラゴン・リリーさんの家』ファサード

《『ドラゴン・リリーさんの家』俯瞰》
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俯瞰/南から観る
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模型/南から観る

《『ドラゴン・リリーさんの家』インテリア》
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ラウンジから南を観る
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ラウンジから東を観る
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ラウンジから東(道路側)を観る
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ダイニングキッチンから東(道路側)を観る
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ラウンジから西を観る
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東側ベンチ

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 11 3, 2010 0:00 | TrackBacks (0)

参考資料

『住まう』2010年夏号

特集「平屋」のしあわせ ケーススタディ1「ドラゴン・リリーさんの家」
平屋で見交わす内と外

P.3
P.6-7
P.8-9
P.10-11
P.12-13
P.14-15

発行:大阪ガス
編集・制作:中原大久保坂口編集室+プランニングハウス・ウエスト
デザイン:佐藤芳孝(サトズ)
司会・まとめ:大山直美
写真:藤塚光政

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 8 19, 2010 22:21 | TrackBacks (0)

公開審査結果発表

最優秀賞
重野陽祐・清水良輔・鈴木章弘(理工建築3年)

優秀賞
松岡伸明(理工建築M2)
山中友希(理工建築4年)

東京ガスSUMIKA賞
細矢祥太・益山未樹(理工海建4年)

佳作
稲毛康二郎・谷田一平・中村隆法(理工建築2年)
倉又式子(理工建築M2)
景山悠・鳥居智之(理工建築3年)
荒井亮蔵(理工建築M1)
伊澤享・鈴木大志・永嶋竜一(理工建築4年)
細矢祥太・益山未樹(理工海建4年)
椎橋亮(理工海建M1)

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 12 12, 2009 18:00 | TrackBacks (0)

公開審査会

公開審査会・レクチャーを以下のとおり行います。

日時:
2009 年12 月12 日(土)
14:00~16:30  公開審査
16:30~17:30  伊東豊雄レクチャー〈My Personal History in House Design〉
17:30~17:45  質疑応答
(終了後、応募者を対象とした懇親会を行います)

会場:
理工学部駿河台キャンパス1号館CST ホール

審査員:
伊東豊雄(建築家・伊東豊雄建築設計事務所代表)

公開審査コメンテーター:
西沢大良(建築家・西沢大良建築設計事務所代表)
東建男(建築家・伊東豊雄建築設計事務所

賞:
最優秀賞/1点
優秀賞/2点
東京ガスSUMIKA賞/1点

第1次審査通過者(応募順):
谷田一平・稲毛康二郎・中村隆法(理工建築2年)
松岡伸明(理工建築M2)
山中友希(理工建築4年)
鈴木章弘・清水良輔・重野陽祐(理工建築3年)
倉又式子(理工建築M2)
鳥居智之・景山悠(理工建築3年)
荒井亮蔵(理工建築M1)
鈴木大志・伊澤享・永嶋竜一(理工建築4年)
細谷祥太・益山未樹(理工海建4年)
椎橋亮(理工海建M1)

問合せ:
日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会
担当/佐藤慎也 satoh@arch.cst.nihon-u.ac.jp

主催:
日本大学桜門建築会

協賛:
東京ガス株式会社

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 12 8, 2009 9:20 | TrackBacks (0)

第1次審査結果発表

第1次審査通過10組は以下のとおりです。
通過者は、2009年12月12日(土)開催の第2次公開審査にてプレゼンテーションを行い、各賞を決定します。プレゼンテーションの詳細は、後日通過者本人に連絡します。

○谷田一平・稲毛康二郎・中村隆法(理工建築2年)
○松岡伸明(理工建築M2)
○山中友希(理工建築4年)
○鈴木章弘・清水良輔・重野陽祐(理工建築3年)
○倉又式子(理工建築M2)
○鳥居智之・景山悠(理工建築3年)
○荒井亮蔵(理工建築M1)
○鈴木大志・伊澤享・永嶋竜一(理工建築4年)
○細矢祥太・益山未樹(理工海建4年)
○椎橋亮(理工海建M1)

応募総数:110点
理工建築:90点、理工海建:10点、生産工:6点、工:3点、藝術:1点

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 11 9, 2009 7:19 | TrackBacks (0)

第1回日本大学桜門建築会学生設計コンペティション

日本大学建築系学科卒業生のOB会である日本大学桜門建築会(略称:桜建会)では、このたび在学生向けの学生設計コンペティションを企画いたしました。これまでにも桜建会では、「桜門建築会学生設計コンクール」(1984〜98年に亘り8回開催)を主催してきましたが、今回からは名称を「日本大学桜門建築会学生設計コンペティション」に改め、今年より第1回目を開催することになりました。しかも今回は、世界的に活躍されている建築家・伊東豊雄先生を審査員に迎え、「未来の住処(すみか)をデザインする」をテーマにコンペティションを実施し、最終審査では伊東先生による公開審査会を行います。
日大生の皆さんから魅力的な提案が数多く集まることを期待しております。ぜひご応募ください。

応募要項 pdfダウンロード

テーマ:
未来の住処(すみか)をデザインする
昨年、栃木県宇都宮市で4人の建築家による明日の住空間のイメージが提案されました。藤森照信、西沢大良、藤本壮介3氏による実験的な住宅と、私のデザインによるキッチンを中心としたパビリオンです。
これらはそれぞれにコンセプトや表現は異なっていますが、自然環境との関係をテーマとした新しいライフスタイルが強くイメージされています。無機質で抽象的な空間ではなく、動物的な本能に訴えかけるプリミティブな住空間が提案されているのです。
人々に活き活きとした明るさや楽しさを与えうる21世紀の住処(すみか)とはどのようなものでしょうか。西沢、藤本両氏の住宅に隣接する敷地に、あなた自身の未来の住処(すみか)を思いきり提案してください。(伊東豊雄)
関連リンク/東京ガス「SUMIKA Project」ホームページ

計画敷地条件:
site.gif
計画敷地 /栃木県宇都宮市星が丘1丁目
敷地面積 /261㎡
用途地域 /第一種住居地域
許容建坪率/60%
許容容積率/200%
前面道路幅/7.1m(道路とのレベル差については、敷地写真から判断すること)
計画敷地写真ページ
コンペの対象となる計画敷地は私有地なので、絶対に立ち入らないこと。見学する場合は道路からのみとすること。

設計条件:
1戸建ての住宅、延床面積は200㎡以下とする
階数、構造などは自由。家族構成などの設定は自由。

審査員:
伊東豊雄(建築家・伊東豊雄建築設計事務所代表)

賞:
1等/1点(賞金10 万円)
2等/1点(賞金3万円)
3等/1点(賞金1万円)
佳作/数点

応募資格:
日本大学・大学院に在籍するすべての学生
ただし、学部生はグループでの応募を認めるが、大学院生は個人で応募すること。

第1次審査提出締切:提出日が変更になりました!
2009 年11 月4 日(水)必着

第1次審査提出内容:
A1 サイズ(841mm×595mm)用紙1枚
平面図、立面図、断面図、アクソメ、パース、その他設計意図を説明するに必要と思われる図面や、模型写真、ダイアグラムなどの図版、文章などを各自選択して描くこと。
また、用紙の裏側に応募者の氏名、住所、電話番号、e-mailアドレス、所属学部・学科、学年を記入すること。

作品提出先:
各学部・学科教室事務室
または桜門建築会事務局へ郵送。

第2次公開審査:
2009 年12 月12 日(土)
理工学部駿河台キャンパス1号館CST ホール
第1次審査により若干名を選出し、通過者は図面、模型を追加製作してプレゼンテーションを行う。

第2次公開審査コメンテーター:
西沢大良(建築家・西沢大良建築設計事務所代表)
東建男(建築家・伊東豊雄建築設計事務所

問合せ:
日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会
担当/佐藤慎也 satoh@arch.cst.nihon-u.ac.jp

主催:
日本大学桜門建築会

日本大学桜門建築会学生設計コンペティション実行委員会:
実行委員長/重枝豊(桜門建築会事業委員会副委員長、理工学部建築学科准教授)
実行委員 /佐藤光彦理工学部建築学科准教授)
     /畔柳昭雄理工学部海洋建築工学科教授)
     /広田直行生産工学部建築工学科准教授)
     /浦部智義工学部建築学科専任講師)
     /田所辰之助短期大学部建設学科准教授)
     /佐藤慎也理工学部建築学科助教)

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 10 30, 2009 0:00 | TrackBacks (0)

計画敷地写真

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前面道路西側からのアプローチ/1
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前面道路西側からのアプローチ/2
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前面道路西側からのアプローチ/3
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「宇都宮のハウス」(設計:西沢大良)と「House beore House」(設計:藤本壮介)
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計画敷地/前面道路北西より見る
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計画敷地/前面道路正面より見る
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計画敷地/前面道路北東より見る
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前面道路東側からのアプローチ/1
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前面道路東側からのアプローチ/2
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前面道路と計画敷地/北西より見る
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計画敷地/北西(「宇都宮のハウス」正面)より見る
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計画敷地/西(「宇都宮のハウス」側面)より見る
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計画敷地/南西(「宇都宮のハウス」後面)より見る
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計画敷地/南東コーナーより前面道路側を見る
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計画敷地/南東コーナーより「宇都宮のハウス」を見る
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計画敷地/東より「宇都宮のハウス」を見る
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計画敷地/北東コーナーより「宇都宮のハウス」を見る
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計画敷地/北東コーナーより見る
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前面道路と計画敷地の段差
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計画敷地/北西コーナー
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計画敷地/南西コーナー
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計画敷地/南東コーナー
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「宇都宮のハウス」正面と奥に「House beore House」
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「宇都宮のハウス」内部より計画敷地を見る/1
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「宇都宮のハウス」内部より計画敷地を見る/2
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「宇都宮のハウス」内部より計画敷地を見る/3

写真提供:伊東豊雄建築設計事務所

桜門建築会学生設計コンペティション | Posted by satohshinya at 10 29, 2009 23:59 | TrackBacks (0)

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関本竜太インタビューを追加しました。
展覧会は終了しました。ご来場いただき、ありがとうございます。終了後もこのブログでは、出展者のインタビューなど、最新情報を順次更新していきます。

| Posted by satohshinya at 6 28, 2009 0:00 | TrackBacks (0)

山中新太郎 展示作品

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旧南豆製氷所  静岡県下田市 2005〜

大正12年頃に建造された伊豆石造の製氷工場跡「旧南豆製氷所(国指定登録有形文化財)」の補修・活用計画。建物は約80年にわたって漁船に積み込むための氷の製造を行っていたが、2004年に廃業。その後、市民などの保存運動によって取り壊しを免れ、自主的な運営によって展覧会や音楽会などさまざまな活動が行われている。建物の構造的な劣化が進行している中で、廃墟的な雰囲気を残しながら、将来にわたっても安全で、市民によって柔軟に空間を使い続けられることが求められている。これに対し、既存建物は最小限の構造補強を施した「空っぽの箱」とし、必要な機能を建物本体とは切り離した「道具箱」によって成立させることを計画している。

設計 山中新太郎建築設計事務所  構造 腰原幹雄
敷地面積 922.56㎡  延床面積 744.00㎡  石造  平屋一部地上2階


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幸手ハウス  埼玉県幸手市 2006

日本のどの郊外とも見分けがつかないような穏やかさと凡庸さを持つ風景の中に、ありふれたシルエットである黒い家型を置いた。安易に郊外の景観を批判するのでもなく、反対に郊外に背を向けるのでもない、この場所に溶け込みつつも違和感のある風景を生み出すことを目指した。構造的に家型は独立しているため、内部の間仕切りや床を無関係に変えることで、刹那的な家族の生活に対応することができる。住宅は透明でなければならないという必然性はなく、モノコックな黒い家型の外部とブルータルなコンクリート打ち放しの内部という表裏の違いを持った「不透明な住宅」が意図されている。

設計 山中新太郎建築設計事務所  構造 腰原幹雄 佐藤孝浩
敷地面積 326.86㎡  延床面積 163.80㎡  鉄筋コンクリート造  地上2階

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 29, 2009 23:01 | TrackBacks (0)

松崎正寿 展示作品

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B house  東京都世田谷区 2005

旗竿敷地に計画された二世帯住宅。住宅密集地の狭小住宅において、「住空間の拡大」と「周囲との調和」という相反する要素を両立させると同時に、開放性を獲得することを目指し、内部である居室の外周に半内部を拡大する。それは、LDK を取り巻くグレーチングのテラスと、隣地との境界を覆うステンレスメッシュで実現されている。2枚の直交するRC壁に木造による居室が取り付き、更に半内部へと拡がる。テラスとその表皮は、周囲に光と風と距離を提供する「靄」として成立し、その「靄」の中で住環境は敷地一杯まで拡大する。

設計 atelier A5  構造 オーノJAPAN
敷地面積 70.02㎡  延床面積 81.69 ㎡  RC造+木造  地上3階


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KA house  東京都世田谷区 2006

30 坪程度の敷地に計画される住宅の場合、敷地の残余部分が環境的に好ましくない状態となることが多いのに対し、建物と残余部分に積極性を与えることを目指した。敷地が前面道路に対して高台に位置するため、高台の土留めと地下に必要なRCの擁壁を地上の敷地境界壁として立ち上げ、敷地全体を地面と宙に浮いたボリュームで挟んだ半中庭的な空間としている。地下はスロープによって回遊性を保ちながら地上レベルに連続し、LDKに繋がる敷地境界線まで張られたグレーチングのテラスに至る。それにより、建築と敷地の平面的な関係に加え、断面的な関係が与えられている。

設計 atelier A5  構造 オーノJAPAN
敷地面積 99.96㎡  延床面積 170.81 ㎡  RC造+木造  地下1階 地上2階


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IM house  埼玉県所沢市 2007

敷地は木々に囲まれた緑豊かな環境で、土地全体が約30 度の傾斜地を持つ。傾斜地と建物の関係を深め、内部と連続させるためには、床の接地が重要である。土留めを兼ねたRC造の基礎部分に傾斜と連続するLDKを配置し、その上部に持ち上げられた木造部分を個室としている。また、LDKは敷地の傾斜に沿って視覚的に連続する360 度の開口部を持ち、その中間部の支持には鉄骨柱が用いられている。基礎と土留めを居住空間とすることで、ローコストでありながら、敷地と一体となった住宅を実現させている。。

設計 atelier A5   構造 オーノJAPAN
敷地面積 602.33 ㎡ 延床面積 96.05 ㎡  鉄骨造+木造  地下2 階 地上1 階


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KU.building  東京都豊島区 2008

都心部の狭小地に計画される事務所ビル。その性質から、最大限の事務スペースの面積確保とともに、空間の快適性、周辺環境との調和が求められた。事務スペースに必要な書棚に注目し、それを出窓として外壁に廻すことでスクエアな事務スペースの確保、周辺からの視線のコントロール、採光、通風を獲得している。また、外壁は書棚部分によってフィーレンデールを構成して水平荷重を担うとともに、空調設備、電気設備が集約される場所となっている。

設計 atelierA5  構造 間藤構造事務所
敷地面積 65.42㎡  延床面積 148.54㎡  鉄骨造  地下1階 地上3 階

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 29, 2009 17:52 | TrackBacks (0)

福田創 展示作品

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大口の家  神奈川県横浜市 2005

狭い敷地の中に家族が集まって楽しめる場が要求され、さまざまな場を兼用することで、ひとつ屋根の下に包まれた家族室の広さを確保している。全体と部分の要素が絡み合い、ダイニングの床が延長してリビングのカウンターとなり、ロフトの床を通して洗面・浴室に光が注がれる。また、敷地は前面道路より高く、駐車スペースのために一部を切り下げる必要があったことから、そのレベル差を上階に取り込むことで大きなボリュームを確保している。RC造の基壇の上に、眺望を持たせるために南西方向へ開口を設けた木造の箱を載せ、屋根架構は予算を考慮して在来大工技術で施工が可能な斜交格子梁を採用した。

設計 福田創デザイン事務所  構造 アトリエ・ナイン/佐藤紀子
敷地面積 71.96㎡  延床面積 88.74㎡  木造+RC造  地下1階 地上2階


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葉山の家  神奈川県三浦郡 2007

敷地が海から少し離れた山の手の住宅地に位置することから、建物と周辺環境との繋がりをどのように取り入れるかがテーマとなった。そして、施主からは気持ちのよい場所と家族を見守りやすい計画が要求された。敷地の長手方向を有効に使い、隣地の緑を借景として扱うことで、リビングの拡がりを向かいにある竹林の続く小道まで延長している。キッチンを中心に配置し、リビング・ダイニングが庭に開くことにより子ども達を見守りやすくしている。一方で、リビングは前面道路から引きがあるため、開放しても気にならない。2階はプライベートな個室とし、ペントハウスからは360 度開放された景色を楽しむことができ、天気がよければ海が望める。

設計 福田創デザイン事務所  構造 アトリエ・ナイン/佐藤紀子
敷地面積 146.40㎡  延床面積 93.94㎡  木造  地上2階+ペントハウス

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 29, 2009 17:44 | TrackBacks (0)

鍋島千恵 展示作品

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輪の家  長野県北佐久郡軽井沢 2006

美しい森の中に建つこの週末住宅は、ある一定の方向を望むのではなく、さまざまな高さからあらゆる向きの森を眺められることが意図された。何層なのか、何階建てなのか、わからないように、森の中に溶け込む建築となる。ブレースや耐震パネル部材が一切無い、木造ラーメン構造のこの住宅は、床スラブ、キッチン、薪ストーブ、浴槽、踊り場、照明といった建築のアイテムを、「輪」の高さに揃えることで、建物のボリューム感を消している。室内を通して見える向こうの森と、ガラスに映り込んだ周囲の木々が幾重にも重なり、木造とは思えない軽やかさで佇んでいる。

設計 TNA  構造 ASA
敷地面積 1,387.27㎡  延床面積 101.61㎡  木造   地下1階 地上2階


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モザイクの家  東京都目黒区 2007

1階は寝室と納戸、2階は水廻りと子供室、3階はLDKという、どこにでもある都市型住宅である。唯一つ異なるのは、この家には屋根がない。3階の天井仕上げは「空」である。その空から注ぐ光は、アール壁に沿って下階へと柔らかく落ちていく。敷地は二面道路に接している角地なのだが、向かいには高い建物が建つことから、道路に対して窓を設けるのではなく、空に向かうことが意図された。同時に、狭小敷地において建物の形を大きく左右する北側斜線、道路斜線といった制限を潜在化するように、建物の形と配置が決められている。天井一面に広がる刻々と変化する空模様を見ていると、都心に居ながらも知らないうちに自然を満喫していることに気付かされる。

設計 TNA  構造 ASA/鈴木啓
敷地面積 58.45㎡  延床面積 84.50㎡  鉄骨造  地上3階

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 29, 2009 17:31 | TrackBacks (0)

仲條雪 展示作品

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しおさい  茨城県神栖市 2006

2棟のRC造の家を建て、その上に木造の大屋根を載せたような構成である。ホール部分を建物に挟まれた外部にある家族の広場ととらえ、上部にブリッジを渡している。RC部分の壁は杉板型枠による打ち放しであるが、質感を消さない程度に半透明の白い塗装を施している。白く清潔感があるだけでなく重厚に、重厚なだけでなく繊細であることが目指された。2階は、RCの手摺壁の上に木造の柱が立ち、大屋根が支えられた開放的な空間である。

設計 ジャムズ  構造 カラムアソシエイツ
敷地面積 502.18㎡  延床面積 203.72㎡  RC造+木造  地上2階


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ビアンコネロ  東京都立川市 2004

家族のための黒い箱、それを支えるRCの壁、更に水回りを納めた箱、キッチンや収納を収めた壁、そして、ルーフバルコニーにより構成される。RCの壁に囲まれた部分は、リビングや、テラス、玄関土間など開放的なスペースになり、黒い箱はリビングと吹き抜けを介して緩やかに繋がりながらプライバシーを保つ。

設計 ジャムズ  構造  構造デザインK&S
敷地面積 309.98㎡  延床面積 113.45㎡  木造+RC造  地上2階


そばかす  東京都目黒区 2002

40代の夫婦と高校生の息子、祖母の4人家族のための狭小住宅。外部に開かない代わりに、内部に光庭による豊かな吹き抜けを設け、南側のプライベートな個室と北側のパブリックな共有空間を曖昧に区切っている。道路面には、象徴的な大谷石の壁を配している。

設計 ジャムズ   
敷地面積 62.11㎡  延床面積 83.99㎡  木造  地上3階


ふたつの木箱  埼玉県川越市 2003

アトリエが付加された、夫婦と母親が同居する二世帯的住宅。庭、玄関、リビング部分を地盤面から1段上げ、2階ではダイニングキッチン棟と主寝室棟がデッキを介して向かい合う。ダイニングキッチンのような家族が集う場所と、寝室のようなプライベートな場所の間に、デッキや多目的室を設けることで、「たまたま会える」「よろしかったらご一緒に」といった、家族同士のほどよい距離感を生み出すことが意図されている。2階の外壁は温室部材とスギ板張りの2重壁であり、換気扇を設けることで壁体内換気を行い、断熱・通気性を高めている。

設計 ジャムズ  構造 カラムアソシエイツ
敷地面積 313.32㎡  延床面積 148.10㎡  木造  地上2階


仲條邸  東京都杉並区 2008

施主は設計者の両親であり、デザイナーである父親と設計者自身の2つのアトリエを持つ。北側斜線を避けた西側にスロープによるアプローチを設け、地盤面より上がった1階をエントランスとすることで、3層の上下移動を緩和するとともに、内部の廊下を最小限にしている。吹き抜けにある階段は、等価に並んだ南側の棟と、全く違うリズムの北側の棟を結ぶ。ハイサイドライトを持つ階段室は光庭となり、引き戸で仕切ることで階段室に面した各室を柔らかく閉じる。各室が曖昧に仕切られているために外断熱を採用し、外装はコンクリートレンガ積みの上に塗装を施している。

設計 ジャムズ  構造 構造デザインK&S
敷地面積 97.32㎡  延床面積 145.20㎡  RC造   地下1階 地上2階

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 29, 2009 16:46 | TrackBacks (0)

多田脩二 展示作品

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三ツ池の家  神奈川県横浜市 2007

敷地は起伏の多い横浜の住宅地に位置し、遠くに富士山が見晴らせる崖地の上であることから、両妻面を開口とした一室となる筒状の空間が建築家より提案された。そのため、短辺方向には耐震上で重要となる壁を設置することができない。このような木構造の場合、一般的には接合部を半剛接(完全な固定ではない)によるラーメン構造として設計を行うことが多いが、金物を多用する接合部のコストと性能の評価は非常に難しい。更に大地震時には、接合部のめり込みにより建物自体が大変形を起こしやすく、妻面のガラス部への影響も心配される。今回はツーバイ材による斜材を、意匠上で問題のない範囲に取り付けた偏心ブレースとすることで変形を抑制している。また、木材の部材が全て6メートル以下となるように形状を決定した。

設計 仲亀清進建築事務所  構造 多田脩二構造設計事務所
敷地面積 114.41㎡  延床面積 95.376 ㎡  鉄骨造  地上2階


森の家  長野県軽井沢町 2005

積雪と湿気対策のために地面より1階スラブが浮かせられ、その基壇としての性状を有したRC 造の上に、平屋木造の在来軸組工法が載せられた軽井沢の別荘。ゆるやかに湾曲した形状が特徴的である屋根は、全長約14メートルの集成材を455ミリピッチでジョイスト状に配している。断面形状は全て60×300ミリで統一し、全部材の曲率を徐々に変えて湾曲させる。最大スパンは7.25メートルであるが、ジョイスト梁を受ける壁の無いファサード面や後面に関しては、鉄骨のキャンチ梁(□-100×100)で支持し、梁せい300ミリ のジョイスト梁上部を100ミリ欠き取ってボルト接合することで、天井仕上げ内に収めている。また、徐々に勾配をつけた屋根面の合板は、ジョイスト梁の上部をなめらかに面取りし、形状をなじませながら接合しており、必要な面内剛性としての性能を有している。

設計 三浦慎建築設計質  構造 多田脩二構造設計事務所
敷地面積 2040.66㎡  延床面積 173.19㎡  鉄骨造  地上1階


e -house  東京都世田谷区 2006

この住宅では、敷地の高低差を利用し、中間階の浴室を介して上部階へと繋がる各部屋を緩やかに連続させ、吹き抜けにより一室空間として構成している。室内内部に柱を立てないようにするため、外壁面に耐震性能を有するブレースを設け、繊細な部材断面(H-100×100)の柱と梁による鉄骨造としている。特に上下階の境界部分となる2階床は、視線を遮らないようにできるかぎり薄くするため、RC と鉄板の組み合わせを採用することで厚さ100ミリとしている。接合部は、剛接合を一切用いずにピン接合とした。しかし、多数の部材がさまざまな角度から1点に集中して取り付くため、ディテールの検討と接合には十分な検討が行われた。

設計 福島加津也+冨永祥子建築設計事務所  構造 多田脩二構造設計事務所
敷地面積 111.93㎡  延床面積 100.80㎡  鉄骨造  地上2階


西麻布の集合住宅  東京都港区 2008

六本木ヒルズ近くに位置する集合住宅であり、近隣に建物がびっしりとひしめき合い、接道も狭く敷地は非常にコンパクトである。少しでも室内面積と階高を得るためと、施工時における重機搬入や施工性を考え、繊細な鉄骨断面で構成することを考えた。各階・各方向とも、コア部分や意匠計画上で可能でなる壁部分に耐震ブレースを配置し、□ー150×150 ミリ、またはH-150×150 ミリの柱梁断面によるブレース付きラーメン構造を採用した。高さが20メートルを超える「中層建築物」であることから、一次設計の水平力に対してラーメン部分の分担率を30%以上としている。また、短辺方向であるY方向は「塔状比」がほぼ4であり、C0=0.25 以上での弾性設計と保有水平耐力検討を行っている。長手方向であるX方向は、ブレースの水平力負担が70%以上であることから、応力割り増し1.5 倍のC0=0.3 とする強度型設計である。

設計 川辺直哉建築設計事務所  構造 多田脩二構造設計事務所
敷地面積 115.62㎡  延床面積 435.39㎡  鉄骨造  地下1階 地上8階

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 29, 2009 8:17 | TrackBacks (0)

関本竜太 展示作品

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OPENFLAT  埼玉県志木市 2007

事務所を併設した二世帯住宅であり、設計者の自邸である。互いのプライバシーを確保するために、住宅にはフロアで分かれるフラット構成を採用している。しかし、一方では住宅が家族としての親密な結びつきを持つことができるよう、中央には垂直空間としての中庭を挿入した。これにより各戸の視線は大きく開かれ、中庭を介して家族の視線は自由に交わる。構造はボイドスラブによるRC壁式ラーメンを採用。仕上げには多様な素材をパッチワークのように配置し、既知の素材に対する「検証」とともに、未知の素材に対する「実験」を行なっている。

設計 リオタデザイン  構造 与那嶺仁志
敷地面積  150.40㎡  延床面積 222.70㎡  RC造  地上3階


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ILMA  東京都目黒区 2003

緑道に面したわずか13坪の敷地に建てられた住宅。南向きの大きな開口部を持つとともに、住宅密集地の中で唯一の自然が残された北側の緑道にも大きな開口部を設け、狭さを感じさせない空間の「抜け」を効果的に獲得している。ありふれた素材をシンプルに使うことによりローコスト住宅を実現。狭小地での建設や搬入を考慮して、工場で組み立てた床フレームを現場で接合するユニットラーメン構造が採用された。「ILMA」はフィンランド語で「空気」という意味。領域を曖昧にし、浮遊感のある空間が意図されている。

設計 リオタデザイン  構造 与那嶺仁志
敷地面積 43.75㎡  延床面積 51.45㎡  鉄骨造  地上2階


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HAKKO  山梨県南都留郡山中湖村 2005

ミニマルなデザインとホスピタリティ。シンプルなハコ(HAKKO)であること、しかも力強く、美しい。施主からのシンプルな要望に応える、最小限の設備と空間を持つ週末住宅。視界を遮る大木のほとんどない、一枚の傾斜地に建つ住宅は、その傾斜角とほぼ同じ勾配の屋根を持つ。屋根には、山中湖の厳しい気候条件に対して導入されたOMソーラーパネルを設置。極限的なコストの制約からディテールは「普通」であることにこだわり、特殊な構法や材料は一切使用していない。小さいながらも景観を最大限に取り込み、奥行きと視線の抜けを獲得している。

設計 リオタデザイン  構造  与那嶺仁志
敷地面積 413.78㎡  延床面積 53.75㎡  木造  地上1階


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LIGHT BOND  東京都渋谷区 2008

「大きなソファとともに暮らす3人の家族の家」というテーマで、リビングデザインセンターOZONEが主催した住宅コンペ「2008 若手建築家・住宅設計P1グランプリ」のグランプリ受賞作品。家族の象徴として大きなソファを住宅の中心に据え、個人のスペースがそれを取り囲む。吹き抜けを通して家族は繋がり、常に互いの気配を感じることができる。プライバシーへの配慮からリビングの中心には大きなトップライトを設け、家中を光で満たすとともに、より強い求心力を持って家族と空間をひとつに繋いでいる。

設計 リオタデザイン 
敷地面積  61.16㎡  延床面積 65.83㎡  木造  地上2階

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 29, 2009 7:57 | TrackBacks (0)

齋藤由和 展示作品

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.730(point730)  沖縄県石垣市

石垣島の石垣港近くに建つ商業ビルである。石垣発のものを扱ったテナントだけが入る、島で最も大きな商業ビルであるため、シンボルとなることと石垣らしさが求められた。1年のほとんどが温暖で、外部がとても心地よい場所であることから、多機能な外部空間が計画された。そこにテラスや動線を兼ねることで、いろいろなテナントを外部から覗くことができ、2つの避難動線を同様に外部に設けることで、18メートル角のテナント部分は柱とエレベータだけの内部空間となる。古屋の解体によって、ごくわずかだが入手できるイヌマキの木をコンクリート部分の型枠として利用し、木目を繰り返し転写することで、半永久的に記憶として残すことを意図した。

設計 ア デザイン  構造 MI+D建築構造研究所/加藤征寛
敷地面積 833.49㎡  延床面積 2,512.12㎡  鉄骨造  地下1階  地上7階


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武蔵小杉の集合住宅  神奈川県川崎市 2008

ワンルーム形式の集合住宅であり、約20平方メートルのワンルームが45戸納まっている。通常ワンルームマンションは、構造上の梁や換気ダクトなどが梁型として天井に現れる場合が多い。6帖ほどしかない居室にとって、梁型の有無がその質を大きく左右する。梁型の無い、すっきりした天井を確保するために逆梁を採用し、床面に現れた梁をキッチンやカウンターテーブルとして使っている。ピロティー形式の1階は、実際のエントランス部分は小さいが、敷地全体を公園のようにすることで、ウエルカムなエントランスとなる。

設計 ア デザイン  構造 中山設計/中山悟
敷地面積 497.38㎡  延床面積 1,393.66 ㎡  RC 造  地上6階


岩城島の家  愛媛県越智郡 2004

愛媛県の人口約2千人の離島に建つ別荘である。1年に数回利用されるだけであったが、水戸に暮らす施主の実家の建て替えであったため、亡き祖先のための記念碑として建てられることとなった。そもそも「家」という施設は、実際に必要とされる以上に堅固な家を構えることで、家族を守っているという安心感を与えるものである。施主にとっては、1年の内に10日程度利用し、あとの355日は遠く水戸から思いを馳せるだけであるが、しっかりと瀬戸内海を眺めている家が、今日も大木のように堂々と建っていることを思い描き、安心させられる。その姿は、夏に法事で集まったときに快適に過ごせるように、敷地に影を落とすように上に向かって広がっている。

設計 ア デザイン  構造 MI+D建築構造研究所/加藤征寛
敷地面積 642.10㎡  延床面積 165.63 ㎡  RC 造  地上2階

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 29, 2009 7:49 | TrackBacks (0)

黒川泰孝+馬場兼伸 展示作品

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高松町ガレージ  東京都立川市 2004

外部に対して開くことが必ずしも心地よいわけではない環境下において、内部と外部が漸近した、包容力のある箱を置くことでさまざまな要求を満たしている。建物の外形は単純な箱形であるが、北側壁面を敷地形状に沿って斜めに振ることで、奥行き方向に伸びやかさを与えている。外壁にちりばめられたライトウォールは、昼夜を通じて内外に淡い光の表情を与える。その中に点在する黒い小さな窓は、周辺の雑多な環境を抽象的な風景としてフレーミングし、間仕切りガラスに反射しながら増殖する。そして、はじめから存在していたライトウォールに影響されて計画されたかのように、各スペースの用途と大きさの関係にルーズさを持たせている。

設計 メジロスタジオ  構造 日本大学理工学部/岡田章
敷地面積 118.34㎡  延床面積 158.15㎡  鉄骨造  地上2階


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白州山荘  山梨県北杜市白州町 2004

山々に囲まれた雄大な風景の下、甲斐駒ケ岳を眺めるための居場所をつくることが、施主からの要求であった。屋根を架けるだけで大地を領有するような素朴で力強い状態を意図し、方形屋根の持つ自然体のフォルムで内部空間を確保している。主室の床は隣接する水田の稲穂の高さに合わせられ、オレンジ色の床面がそのまま連続していくことを意図している。主室・ダイニング・キッチンは、それぞれ座位・机座位・立位の状態で目線が一致するように段差が設けられている。こうして、周辺の環境を引き込むフロアレベルと、建築的尺度による段差とが起伏を生み出し、内部空間を特徴づけている。

設計 メジロスタジオ  構造 オーク構造設計/新谷眞人
敷地面積 231.15㎡  延床面積 62.94㎡  木造  地上2階


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熊川の集合住宅  東京都福生市 2007

とらえどころの無い郊外の風景に対し、確かな存在感を纏った建築が求められた。北側の住宅地に対する圧迫感を軽減させるため、上階部分をセットバックさせ、反対に南側へオーバーハングさせている。この周辺環境との調整を意図した極めてシンプルな形態操作は、1階部分に軒下のバッファーゾーンを提供し、2階部分に開放的な幅広の共用廊下を生み出している。各住戸には南北を貫く形で、特定の用途に供することの無い自由度の高い通り土間を配し、リビングルームやベッドルームなどの各室はこの土間空間に面している。そして、外壁に開口部が規則的に配列されることにより、不特定な入居者の生活を抽象化することを意図した。

設計 メジロスタジオ  構造 構造計画プラス・ワン/金田勝徳
敷地面積 824.35㎡  延床面積 370.98㎡  木造  地上2階


井の頭の住宅  東京都三鷹市 2006

公園の裏手に建つ木造2階建て住宅の全面改修計画。バブル末期に建てられた既存住宅に対し、計画・設備・構造のあらゆる面を健全化するとともに、発注・解体・施工といった建設プログラムに施主自らが積極的に参加できることが求められた。設計に当たっては、こういった施主の活動を受け入れる「殻」と「中身」を設定し、施主の思いを受け止めながらも空間全体のバランスを保つことを目指した。具体的には、外壁を全面漆喰塗りとして「殻」の強度を担保しつつ、「中身」では素人仕事との相性を配慮し、既存部材を利用しながら極力単純な納まりとしている。

設計 メジロスタジオ   
敷地面積 62.10㎡  延床面積 88.55㎡  鉄骨造  地上2階


劣化によるメモリーのリレー  映像・音楽制作 2006

<情報化社会において私たちの身の回りにある様々なデータは、劣化せずに完全な状態で保たれていることが優れているとされている。しかしながら、例えば人間が辛い記憶を忘却することで社会生活を円滑に営むことが出来るように、また例えば20年前の色あせた写真にはなんとも言えない独特の雰囲気と連続感があるように、記録や記憶といったデータを劣化させることは必ずしも元の状態から劣ることを意味するものではない。/他者によってデジカメで撮影された風景をディスプレイに映し、それをまたデジカメで撮影すると言うことを数回繰り返し、ノイズを加えて劣化させていった。そのなかに私たちの建築作品や設計作業の風景も同様に劣化させ断片化した記憶としての都市の風景に連続させていった。/これら一連の作業は他者がつくった都市のコンテクストをどのように解釈し、そしていかにして建築を造るか、という設計行為そのものである。>メジロスタジオ

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 29, 2009 7:32 | TrackBacks (0)

國武陽一郎 展示作品

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N邸  東京都新宿区 2005

都心の密集住宅地に建つ築60年の木造家屋に対し、上げ屋工事による構造材の補修、断熱工事による室内環境の改善などの性能を確保した上で、現代生活に適した住まいへと再生を行った。建物は何回かに亘り増築されてきた形跡が見られたが、まるですべてが最初からあったような自然な佇まいであった。そこで、新たに現れる構成要素によって意味を付加する手法ではなく、存在するものを受け入れた計画が行われた。切妻屋根の内部は、低い天井や部屋を小割りにしていた間仕切り壁を取り払うことでワンルームとなり、妻面上部や屋根などに開口部を穿つことで、異なる光の質を取り入れている。

設計 one + one+清水淳建築設計事務所  構造 柴村構造設計事務所/柴村豊士
敷地面積 194.92㎡  延床面積 84.38㎡  木造  地上1階


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Y邸  神奈川県横浜市 2006

敷地内に1.6メートルの段差があり、採光面となる南側に崖が聳える環境の中で最大限に床面積を確保した、総勢9名の大家族による2世帯住宅である。道路側と崖側にそれぞれ2階建てのボリュームを想定し、それらを噛み合わせて大屋根を掛けている。土留めの基礎立ち上がりが腰壁となり、世帯間の境界となるフロストガラスの連窓ができることで、段差によって生じたズレを吸収し、持ち上げられたボリュームの下が谷のような吹き抜となる。個を主体としているが、適所で繋がりを持ち、閉じた関係性よりも、扉を開けると空気が循環する1つの屋根で覆われたオープンな生活が意図された。

設計 one + one  構造 dos/山田誠一郎
敷地面積 176.89㎡  延床面積 138.96㎡  木造  地上2階


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H邸  長野県北佐久郡軽井沢町 2006

将来的に移住も視野に入れた週末住宅。雪や湿気の影響を考慮して少し浮かせた住居棟と、主人の休日工房スペースとなる地面に食い込んだ別棟、それらに挟まれた外部デッキという構成である。将来計画される薪小屋を含め、ボリュームを点在させることで、徐々に植樹される木立の中に静かに佇む姿を意図した。住居棟は、正方形の平面形状により外部と等価に接するワンルームだが、南に角度を振ることで周辺環境との距離感を曖昧にしつつ、面の対峙を避けている。暖炉や鋼板で被った柱や階段などの要素が混在しながらも、くすみや日焼けなどの経年変化によって場の空気に馴染む素材の選定を行うことで、周囲の自然に静かに溶け込むことを目指した。

設計 one + one+清水淳建築設計事務所  構造 柴村構造設計事務所/柴村豊士
敷地面積 799.76㎡  延床面積 105.67㎡  木造  地上2階


小笠原伯爵邸  東京都新宿区 2002

1927年に竣工した邸宅の民間資金活用事業(PFI)による修復工事。大きく原状回復と再生に伴う改装とに領域が分けられ、歴史的建造物としての「質」を保存するとともに、状態の悪い部材であってもその構成部材を保存活用するという「物」の保存を行うことが主題となった。そのため、現場における修復作業の中でも、つくられたものから当時のつくり手の意図や手間を探り、職人とともに再生するプロセスを重要視している。

設計 one + one  構造 梅沢建築構造研究所


凛east+  東京都中央区 2008

落ち着いた趣きを感じさせる銀座木挽町に位置する炭火焙煎珈琲店である。L字で16坪ほどのスペースに、喫茶、ケーキ工房、焙煎室を配置している。街と等価な風景を、建物本体に貫入しているトンネル状の内部空間としてつくり出し、街路に面して表出させる。内部には、木漏れ日のように光が落ち、木の葉が舞い、足下に堆積する。舞い落ちる木の葉のモチーフに紛れ、エアコンの吹出口、ロスナイの給気口、照明を適所に散在させることにより、意匠的な統合を図っている。素材選定は距離によって見え方が異なるものとし、肌の違いが微妙に影響し合い、彩度を抑えた統一感のある風景に彩りを与えている。

設計 one+one++plants
延床面積 53.31㎡  地上1階

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 28, 2009 17:30 | TrackBacks (0)

木内厚子 展示作品

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O邸コンペ案  神奈川県藤沢市 2007

住宅コンペの応募案。広い敷地、周辺とのゆったりした距離、のどかな風景に対し、この環境を活かした伸びやかな住宅を、室内空間の延長となる半屋外空間の充実=いろんなテラス(前テラス、屋上テラス、階段テラス)をつくることで実現させている。それらのテラスを立体的に配置することで、内部空間と庭や周辺を含めた外部空間が立体的に密接な関係を結ぶ。

設計 Studio8 
敷地面積 434.09㎡  延床面積 131.67㎡  木造  地上1階


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アリツギ(左)

木工の伝統技術である仕口・継手には、先人達の智恵と技術のすばらしさがある。それらにインスピレーションを受け、その技術の1つである四方蟻継ぎ手の形を用い、アクリルと異素材である木を組み合わせてできたランプ。木同士だと見えなくなってしまう継手内部の形が、アクリルと木によりはっきり視覚化される。

デザイン 木内厚子

アクリルラウンドボウル(右)

重合法によってできる自由な着色、2つの色の重なりでできる色、厚みの違いによるグラデーションの面白さなど、素材の魅力を伝えるアクリル製のボウル。

デザイン 木内厚子  販売元 livingplus by acr-ya.com


久留和海岸の住宅  神奈川県横須賀市 2004

久留和海岸を望み、谷を挟んで緑豊かな山の環境にも恵まれた、造成された傾斜地である敷地は、接道する駐車スペースから地盤面へ4.5メートルほど下がる高低差を持つ。そのため、2 階からアプローチを取り、デッキやLDKからは山と海の自然豊かな環境を楽しむことができる。施主が観葉植物の鉢を多く持つことから、住宅の内部に土を入れたプランターを計画し、トップライト、吹き抜け、階段、プランターを中央に集約することで、明るく、観葉植物が豊かさをつくり出す場となっている。構法的にはツーバイ材を外壁と屋根に用い、内部は1階では壁、2階では天井面に現しで見せている。

設計 Studio8  構造 佐藤淳構造設計事務所
敷地面積 170.00㎡  延床面積 96.9㎡  木造  地上2階


南伊豆のセカンドハウス  静岡県下田市 2006

敷地は30年ほど前に分譲された南伊豆の南欧風別荘地にあり、赤や黄の洋瓦と白い外壁の家々に囲まれ、緩い傾斜地の先には相模灘を望むことができる。敷地の東傾斜に合わせて床レベルを変えながら、居室を細長く並べ、一部上階があるものの平屋のような住宅となっている。居室間には間仕切りがほとんどなく、レベル差と段差を活かした造作家具によって、その場所の使い方を決めていく。床レベルを変えていること、上階寝室の床の回りが吹き抜けになっていることにより、平面的なものでは感じられない視界の広がりや、間接的に回る光を感じることができる。

設計 Studio8  構造 佐藤淳構造設計事務所
敷地面積 325.99㎡  延床面積 110.05㎡  木造  地上2階

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 28, 2009 17:21 | TrackBacks (0)

大野博史 展示作品

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NEアパートメント  東京都杉並区 2008

全住戸の1階にビルトインガレージが用意されたバイク愛好家のための長屋。旗竿敷地にアプローチ用の車路を計画し、周囲にメゾネット形式の8住戸が放射状に配置されている。構造は放射状に配置された7枚の界壁と各階スラブによる鉄筋コンクリート構造として計画。界壁内に壁柱、壁梁を配した面内方向のみの耐震壁付ラーメン構造となっており、直行方向に梁はなく、スラブが水平力を伝達している。界壁は基礎からのキャンティレバーであるが、放射状に配置されることによってお互いを支え合っている。放射状の壁配置は原点を中心とした回転に弱いが、各壁がカーブし、角度を変えることで剛性を高め、回転に抵抗している。7枚の界壁のみで建物全体の構造が成立するため、外壁を非構造として扱う乾式工法を採用した。

設計 ナカエ・アーキテクツ 高木昭良建築設計事務所 オーノJAPAN
敷地面積 201.89㎡  延床面積 289.02㎡  RC造  地上3階


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南葉山の別荘2  神奈川県横須賀市 2008

小高い丘に続いた道の途中にある三角州状の敷地に計画された2棟の別荘。南に広がる海を望む敷地であることから眺望とプライバシーが要求され、壁と抜けをどのようにつくるかが課題となった。また、敷地の分筆がそのまま建物形状を規定するため、敷地境界と建物の配置・形状を検討した結果、筒状の空間がねじれたり分節されたりしながら連続する空間が生まれた。それらを包むような鉄筋コンクリートによるラーメン構造を計画している。単純なボックスカルバートによるラーメン構造では壁・床が厚くなってしまうが、ここではねじれ空間に合わせて壁を傾けることで、面内剛性を考慮したラーメン構造とすることで壁厚を抑えている。

設計 ナカエ・アーキテクツ+高木昭良建築設計事務所+オーノJAPAN
A棟  敷地面積 98.80㎡  延床面積 101.18㎡  RC造  地上3階
B棟  敷地面積 107.29㎡  延床面積 101.67㎡  RC造  地上3階


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キッチンのない家  東京都豊島区 2008

敷地は前面道路が狭く、周辺を比較的高い建物に囲まれており、ちょっとした渓谷のようである。そこで、暗い底部を離れ、2階、3階、屋根階が中心となる小住宅が提案された。「軽い屋根が架かったような家」とするため、1階を壁式構造、2、3階を鉄骨造として計画。高さ方向の混構造では揺れのバランスに注意する必要があるため、開口形状を調整することによる鉄骨ブレース構造としている。一方、鉄骨柱脚接合部は、軽快に載せられた屋根となるように露出形柱脚としている。柱と一体化したベースプレートにネジを切ってアンカーボルトを捩じ込み、コンクリートに設けたスリーブ孔にセットし、グラウトを注入することで一体化を図っている。

設計 飯塚拓生アトリエ  構造 オーノJAPAN
敷地面積 53.78㎡  延床面積 80.09㎡  壁式構造+鉄骨造  地上3階

4展示作品 | Posted by satohshinya at 3 28, 2009 16:51 | TrackBacks (0)

関本竜太 インタビュー

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――なぜ建築をはじめようと思ったのですか?
関本竜太 最初に建築をやりたいと思ったのは、高校入学時に家を新築したときです。中学3年のときに、建築士さんが抱えてきた青焼きの図面を見て、「これがやりたい!」と強く思ったのを覚えています。そこから僕は、ある意味では迷いがないです。普通科の高校に入学し、学年が2、3年になるとみんな「進路どうする?」という話をしていたんですけれど、僕はもう高校に入ったときには「建築をやりたい」と思っていました。

――なぜ日大を選んだのですか?
関本 建築学科がある大学をいろいろ調べていく中で、「私大で建築なら早稲田か日大」という記述を目にしました。たまたま高校の指定校推薦枠に理工学部が1枠だけあったんですが、受験勉強をしなくて済むということもあって迷わず応募しました。実はそこにもう1人友人が応募していたのですが、あとで聞くと建築学科の有名なある教授の息子さんでした。あえて名前は伏せますが(笑)、彼が受かっていたらまた別の人生を歩んでいたかもしれませんね。

――大学に入った頃はどのような学生でしたか?
関本 入学してから卒業するまで一貫して言えることは、とにかく「設計製図が大好き!」という学生でした。毎週の製図の授業が本当に楽しみで、課題が出題されると寝るのも惜しんでいろいろな案を考えました。その反動からか、課題を提出してしまうと燃え尽きてしまって、とても寂しくなったのを覚えています。また自分の好きなことしかやらない学生でしたから、構造の単位はよく落としましたね(笑)。設計だけはトップの成績を取り続けていましたが、それ以外の成績は最悪で、追試を受けてギリギリで卒業させていただいたほどです。

――今でも記憶に残っている課題はありますか?
関本 3年生の小石川に図書館を設計する課題と、長者ヶ崎のセミナーハウスの課題はよく覚えています。中でも特に図書館は思い入れがあって好きな課題でしたね。敷地は公園の中だったのですが、僕はあえて図書館をほとんど地中に埋めてしまい、中庭に一周ぐるりと木を植えたんです。真ん中には日時計のようなモニュメントを立てて「季節の時計」というコンセプトを考えました。プレゼ(ンテーション)も和紙に鉛筆のドローイングという具合に、アナログにこだわりました。当時、池袋のセゾン美術館で「安藤忠雄展」をやっていたのですが、アンビルド作品の巨大なドローイングや模型に圧倒され、そのエネルギーや迫力に大変な衝撃を覚えました。図書館を含め、当時の課題はその安藤さんの影響が大きかったと思います。

――4年生のときに研究室をどのように選びましたか?
関本 小谷(喬之助)研究室に入りました。設計の授業では、僕は本杉先生の指導に一番肌が合ってしっくりくるものを感じていましたので、先生が当時助教授として所属していた小谷研の門を叩きました。
――どのような研究室でしたか?
関本 すごく両極端という感じでした。動機がはっきりしていて意欲のある人と、そうでない人との落差が大きくありました。当時の計画系には若色(峰郎)研や関澤(勝一)研があり、設計志望の学生はどちらかに入るというのが一般的で、小谷研に入ろうという人はあまりいませんでした。当時の小谷研は一言で言うと個人主義で、みんなで集まってどこかに行くというような動きもほとんどなく、そこも若色研や関澤研と大きく違うところでした。僕にとってはそれはむしろありがたいというか、やっぱり肌が合って居心地がよかったのだと思います。先輩も本当に個性的で、強烈な人たちがたくさんいましたね。

――卒業設計はどのようなことをやったのですか?
関本 駅のようなものをやりたくて、最初は品川駅をテーマにしたメディアステーションのようなものを考えていました。ただ自分の中で背伸びをしすぎたというか、消化しきれなかった部分もあり、夏休み明けの中間評価はひどいものでした。それが悔しくて、そこから一念発起し、敷地をすべて白紙に戻して一からやり直しました。最終的には品川からほど近い港南地区に敷地を移し、物流や交通のジャンクションとミュージアムが合わさったような複合施設を考えました。お恥ずかしい話ですが、今思い返してもあまり出来のよいものだとは思っていません。内容的には最後まで未消化の部分も残りましたが、自分なりに悔いの残らないものにしたいという思いもあり、家にひとりで籠もって延々とプレゼを練り上げていました。結果から言うと桜建賞をいただくことができたのですが、発表の際に小谷先生がさりげなく援護射撃をしてくださったのを覚えています。

――就職活動はどのように行いましたか?
関本 アトリエ設計事務所に行こうと最初から決めていたのですが、どこに就職しようかすごく迷っていました。それで、4年生の設計科目である「設計演習Ⅱ」に非常勤講師で来ていた棚橋(廣夫)先生に相談したんです。棚橋先生からは「アトリエに行きたいのはわかるけれど、最初は組織設計からはじめた方がいい」とも言われ、坂倉事務所(坂倉建築研究所)を紹介していただきました。ただ、その年は新卒は採らないという話で、成り行き上そのまま棚橋先生の主宰するエーディネットワークという設計事務所で働かせていただくことになりました。
――どのくらい働きましたか?
関本 5年半くらいですね。
――どのような影響を受けましたか?
関本 影響はものすごく受けました。今でも僕の中核を成している設計思想であったり、考え方であったり、やっぱり一番最初に就職した事務所の影響というのは大きいと思います。僕が就職したときは先輩のスタッフも数名ほどいたのですが、それぞれ事情があって退社され、気が付くとスタッフは僕だけになっていました。最初に担当したのは、先輩が実施図面を引いたオーナー住宅兼賃貸マンションの現場監理で、なにしろ何もわからない上に、ちょっとしたことを聞ける先輩もいなかったので、本当に苦労しました。現場の人たちが何を言っているのか全然わからず、現場に行くのが恐怖だったこともあります。ただナメられたくないという気持ちも強かったので、わからなくてもわかった振りをするというか(笑)、事務所に帰ってから必死で勉強していました。今にしてよかったと思うことは、スタッフ経由ではなく、棚橋先生から直接いろいろなことを教えていただけたことです。しかも、中途半端な教え方をしない人でしたので、ひとたび質問を投げると終電近くまで「講義」が続きます。今思うとこのときの経験は、僕にとって何物にも代え難い財産になっています。当時は理解できませんでしたが、今になってわかることもたくさんあります。

――フィンランドに行ったきっかけは何だったのですが?
関本 アトリエのスタッフなら誰もが考えることだと思うんですが、次のステップをどうしようかとずいぶん悩んでいました。そんな折りに新婚旅行として北欧に行けたことが僕にとっての転機になりました。デンマーク、スウェーデン、フィンランドと旅行をしたのですが、そのときに訪れたフィンランドが特に強い印象として心に残りました。とても素朴な国なんですけれど、人々がとても親切で日本の田舎町に来たような温かみを感じました。決定的だったのは、ユハ・レイヴィスカという建築家が設計した『ミュールマキ教会』という教会建築で、ここを訪れたときの感動は今でも忘れられません。帰国するとフィンランドで仕事をしたいと思うようになっていました。それをきっかけに仕事を辞め、それからはフィンランドから帰国してきた建築家や知人などを人伝に紹介してもらい、話を聞きに行く日々が続きました。中でも日大OBにはとりわけフィンランドに縁が深い方が多く、いろいろな方に助けていただきました。
そこから単身フィンランドに渡り、現地での就職活動も経験しました。手当たり次第に電話を掛けて会いに行くというやり方です。なかなか相手にしてもらえませんでしたが、ミッコ・ヘイッキネンをはじめとしたフィンランドの大物建築家などにもお会いすることができ、最後には憧れのユハ・レイヴィスカの事務所にも行くことができました。結果として就職は叶わなかったのですが、最終的には留学という方法でフィンランドでの滞在許可を得ることができました。私もまさか自分が留学することになるとは思っていませんでしたが、強い意志を持って、手段を選ばなければ最後にはなんとかなるものですね。仕事を辞めて1年後にはヘルシンキにいました。

――大学の様子はどうでしたか?
関本 フィンランドは学部と大学院の垣根がないんですが、僕が入学したプログラムは、日本でいう大学院に相当します。大学はフィンランド語による基礎教養からはじまって、その後はすべて英語によるスタジオ制になります。先生も英語で話すし、学生も英語で答える。そのため海外からの留学生に門を広く開いていて、スタジオの半分以上が外国人で占められていたこともあります。向こうのプログラムは非常に実践的で、何よりもリアリティを重視します。日本でやっていた設計課題は、どちらかというとコンセプト教育というか、実際に建たないという前提の下でやっていましたが、建たなければ意味がないという教育には大変カルチャーショックを受けました。中には学生の課題ですけれど、本当に建ててしまったものもあります。

――その後、フィンランドの設計事務所で働いたのですね?
関本 そうですね。フィンランドではどうしても設計事務所での仕事を経験したいと思っていましたので、非常勤の講師を捕まえてはよく自分を売り込んでいました。日本人ならみんなそうだと思いますが、僕は他のフィンランド人や外国人よりも手先が器用で模型には自信があったので、最初の事務所にはまずはモデラーとして雇ってもらいました。コンペの模型でしたが、スタッフの思いつきと同調させながら、同時並行で模型をつくってゆく作業は刺激的でしたね。他にもフィンランドならではののんびりした仕事ぶりや、大学に通いながら仕事をしている人もいたりと、日本の設計事務所とはずいぶん違って。本当におもしろかったです。一方では、毎日が緊張の連続で、習慣の違いに戸惑うこともありました。
――学校が終わってから、どれくらい滞在しましたか?
関本 半年くらいですね。カリキュラム自体は2001年の5月に終わり、アトリエでの勤務経験を経て、日本に帰ってきたのが2001年12月のクリスマス前のことでした。

――その後独立をされたんですね?
関本 はい。フィンランドでの生活は快適でしたし、大変貴重な経験もしましたが、一方で感覚の違いというか、自分はフィンランド人ではなく日本人であると思い知らされることも多くありました。また一方で、自分が日本でやってきたことは無駄ではなかったというか、自信になったこともありました。海外は皆さんが思っているほどすごいところではないし、日本の方が優れているところもたくさんあります。そのことに気付いて帰国したといった方が正確かもしれません。帰国後はフィンランドで得た経験と自信を胸に独立しようと決めていました。

――帰ってきて最初の頃の仕事はどのようなものでしたか?
関本 一番最初に設計の依頼を受けたのが、『カフェ・モイ』という6坪くらいの小さなカフェの内装でした。その依頼は実は独立後ではなく、オーナーさんとは留学中にインターネットを通じて知り合い、帰国したら一緒にカフェをつくりましょうという話をしていたのが実現したものです。『カフェ・モイ』は2002年の7月にオープンし、その後5年間の荻窪での営業を経て去年の暮れに吉祥寺に移転しました。もちろんそちらの内装も私が手がけています。当時はマイナーなお店でしたが、今や人気店にもなり、今でも大変思い入れの深い仕事です。

――今はどのような仕事をされていますか?
関本 比率で言えば9割が個人住宅で、残りの1割は店舗設計や改装、たまにイベントの会場構成なども手掛けています。イベントはほとんどがフィンランド絡みで、フィンランド大使館などのお手伝いをさせていただくこともあります。個人住宅に関しては、学生の時から住宅の仕事に関わりたいと考えていましたし、ライフワークとして今後も続けてゆきたいと思っています。

――今後はどういったものをやっていきたいですか?
関本 これもやはり個人住宅に関わることですが、その中に置かれる家具や照明の分野にまで踏み込んでいきたいと考えています。言ってみればプロダクトデザインですが、こちらは現在既にメーカーと協働して素材を含め開発を進めているところです。まだ試作の段階ですが、来年までには発売の目処をつけたいと考えています。あとは建築家住宅とは別に、これまでにない住宅のシリーズを開発したいというのも抱いている夢のひとつです。いわゆるハウスメーカーの家ではなく、かといって隅々までこだわったような建築家住宅とも違う、住みやすくて誰でも手が届くような価格帯の温かみのある家です。こちらも地元工務店と組んで現在既に具体的に話が進んでいます。こちらは今年秋頃の発表を目指しています。

――4月から日本大学の非常勤講師になられましたが、いかがでしょうか?
関本 想像していた以上に楽しいですね(笑)。私が大学を卒業したのは14年前ですから、今の学生さんは何を考え、どんな姿勢で建築と向き合うのか内心不安もありました。ところが学生さんというのは今も昔も変わらないですね。みんな目がキラキラしている(笑)。設計志望の学生に手を挙げさせたら、8割くらいの手が挙がったことも大きな励みになりました。今は1年生を教えていて、図学からのスタートですが、鉛筆の持ち方からはじまって、線の描き方、透視図法となるわけですが、頼りない線を描いていた学生が、ある日の指導を境に目を見張るような線を描いてくることがあります。そんなときはやりがいを感じますし、自ずと指導にも熱が入ります。私は学生時代、設計の授業が一番の楽しみで大学に通っていました。やっぱりそれは今でも変わらないですね。毎週一回の授業は僕にとって今でも密かな楽しみであり、仕事の息抜きにもなっています(笑)。学生も同じ気持ちで臨んでいてくれたら嬉しいのですが。

――最後に後輩にメッセージをお願いします。
関本 やっぱり「初心を貫け」ということですね。設計がやりたいと思って大学に入ったのであれば簡単に諦めてほしくありません。「好きこそものの上手なれ」と言いますが、建築が好きであれば吸収力は自ずと変わってきます。だから好きであり続ける努力は怠ってはいけないと思うんです。もちろん、構造がやりたいと思えば構造で、環境なら環境の分野で、それぞれ自分が選んだ進路に対して真剣に取り組んでもらいたい。初心を忘れずにやってもらいたいと思います。
(2008年5月15日 リオタデザインにて インタビュアー:佐藤慎也、担当:鈴木亮介、佐脇三乃里、佐久間高志)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 7 3, 2008 14:49 | TrackBacks (0)

U41@NU 40歳以下の日大出身建築家展

日本大学では複数の学部、学科より多くの建築系卒業生を輩出しています。その中から、現在建築家や構造デザイナーとして活動する卒業生たちに焦点を当てた展覧会を開催します。しかも、既に名声を得ている有名建築家ではなく、これからの活躍が期待される40歳以下の建築家たち12組13人に注目し、彼らの代表作を写真や模型によって紹介します。

大野博史(オーノJAPAN)
木内厚子(Studio8)
國武陽一郎(one + one)
黒川泰孝 馬場兼伸(メジロスタジオ)
齋藤由和(ア デザイン)
関本竜太(リオタデザイン)
多田脩二(多田脩二構造設計事務所)
仲條雪(ジャムズ)
鍋島千恵(TNA)
福田創(福田創デザイン事務所)
松崎正寿(atelier A5)
山中新太郎(山中新太郎建築設計事務所)

2008年6月17日(火)—28日(土)
日本大学理工学部駿河台キャンパス 1号館CSTギャラリー
開館時間:12:00—18:00
休館日:日曜日
入場料:無料

展覧会関連企画  シンポジウム
出演者:鍋島千恵 馬場兼伸 山中新太郎
司会:田所辰之助(日本大学短期大学部建設学科)
日時:2008年6月26日(木)17:30—20:00
会場:日本大学理工学部駿河台キャンパス 1号館CSTホール
参加費:無料

主催:日本大学桜門建築会
後援:日本大学理工学部建築学科
   日本大学理工学部海洋建築工学科
   日本大学生産工学部建築工学科
   日本大学工学部建築学科
   日本大学藝術学部デザイン学科
   日本大学短期大学部建設学科

企画:佐藤慎也(日本大学理工学部建築学科)
   大川三雄(日本大学理工学部建築学科)
   田所辰之助(日本大学短期大学部建設学科)
協力:畔柳昭雄(日本大学理工学部海洋建築工学科)
   広田直行(日本大学生産工学部建築工学科)
   浦部智義(日本大学工学部建築学科)
   熊谷廣己(日本大学藝術学部デザイン学科)
制作:佐藤慎也+日本大学理工学部建築学科佐藤慎也研究室
   大澤綾子 大野寿文 数田宗房 佐久間高志 佐脇三乃里
   鈴木亮介 原友里恵 藤井さゆり 松本江美子

お問合せ:日本大学理工学部建築学科佐藤慎也研究室
     〒101-8308 東京都千代田区神田駿河台1-8-14
     tel: 03-3259-0701
     e-mail: satoh@arch.cst.nihon-u.ac.jp

1展覧会概要 | Posted by satohshinya at 6 17, 2008 0:00 | TrackBacks (0)

齋藤由和 インタビュー

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――建築家になろうと思ったきっかけは何ですか?
齋藤由和 浪人時代、図書館で勉強していたときに、たまたま鹿島出版会の「〈現代の建築家〉シリーズ」に出会ったんです。それまで何の目的もなく、ただ物理とか数学を勉強してきたのですが、純粋な理学ではなくて、それを応用させた工学にこういったものがあるのかと具体的に見えた瞬間だったんですよ。それで、おもしろいと思ったのと同時に、おこがましくも「このジャンルは戦える」と思ったんです(笑)。自分でも何かやれそうだとなんとなく思って。それまで建築には何の興味もなかったんですけれど、そこから建築学科を目指して勉強しようと思ったのが一番はじめですね大学に入学すると、1年生のときから建築がやりたくてやりたくて仕方がなかったんですよ。図書館の書庫にあった「新建築」のバックナンバーを、3ヶ月くらいかけて創刊号から全部読みました。
――すごいですね。
齋藤 その当時は「新建築」がよいのかどうかというのもわからなかったんですけれど、時間は掛かりましたが、読まなきゃいけない本をメモしながら、ゼロから見ていきました。メモした本は、磯崎(新)さんのものとジャック・デリダなどの哲学書が多かったのですが、端から読んでいって、近・現代辺りは何となく見渡せた気がしました。大学では、やはり設計製図の授業がおもしろく、発表の場があったので、とにかく発表できるようにがんばりました。たまたまレモン画翠に行ったときに卒業設計展を見ることがあって、「何やらいろんな大学でおもしろいことをやっているぞ。こういうのを出せたらおもしろいな」と思い、他大の建築学科の友達もいたので、早稲田大学などの設計製図の講評会があれば見せてもらったりしていました。その中には、優秀な生徒を1人の建築家として認めるような意見があって、学生の優秀案を批判したゲストの建築家に対し、「あなたのつくっているものより断然おもしろい」と平気で言ってしまう歯に衣着せぬ批評があったり、とても刺激的でした。

――どのような課題をやりましたか?
齋藤 住宅、集合住宅、二世帯住宅、商業ビルとか、学部で与えられる課題を1つずつやっていくんですけれど、やはり勉強している最中にやるので、誰かっぽいんですよ。多くの建築家に影響されていました。自分の中で一番大きかったのは卒業制作ですね。1年生から先輩の卒業制作の手伝いをしていたんですが、たくさん図面や模型をつくって、量で勝負という印象でした。しかし、自分がやるときは、それはやりたくないと思っていました。量やプレゼンで勝負というのは絶対にしたくないと思っていました。しかも、三面図で勝負をしたかったんです。着彩もほとんどしないで、ただの平面図、立面図、断面図でおもしろいと思えなければ嘘だと思って、それだけで戦える建築を目指しました。(3年生までの)自分の過去のものを見渡したら、デザインが腐っているんです。それを見て、恥ずかしいと思いました。「3年も経ってないのに腐っているようでは仕方がないだろう。20年、30年も腐らないデザインとは何なのか?」と考えました。ちょうどジル・ドゥルーズの『差異と反復』に出会い、反復と思うことをすべて捨てて、卒業制作ができました。1つの自信というか、「こういうことでいいんだな」というのを掴んだ瞬間だったんですよね。
――どのようなものをつくったんですか?
齋藤 今も越える作品をつくることができなくて嫌になっているんですけれど、10層の商業ビルです。周りに廊下があって、引き戸でラップされているような、周りをグルグル歩けるビルです。1フロアに100枚建具を使っていて、10層で1,000枚使っています。例えば、外から入ろうとすると扉を開けるじゃないですか。あるいは中の人が、「夏には気持ちがいいから全開にしよう」とか、「寒いから閉めよう」とか、「換気のために少し隙間を開けよう」だとか、そういった中と外のプログラムが建具の開閉のパラメータに変わって現れます。そのようにプログラムと社会的な環境が開閉の具合によって一次変換され、それが建物全体のデザインになるというものです。呼吸するように閉めたり開けたりする動きによって、状況や中のプログラムが現前化されるわけです。30年、50年、100年経っても、窓や扉あるいは入口はあるだろうと考えました。そこで、「(全体を)建具だけでつくるか」と極論していきました。それを僕は、「コンテクスト読み込み型建築」と呼びました。自分では、よくあきらめたいい建物と思っています。作品は、生産工学部のホームページから見ることができるはずです。

――4年生のときに所属した研究室はどこですか?
齋藤 宮脇(檀)先生の研究室でした。そこは「居住空間デザインコース」の研究室で、そのコースは女子学生の就職難を助けるために設立され、1年生から一貫した教育を行う女子しか入れない特別なコースなんですよ。「そこを何とか」と言って、かなり例外的に入れてもらいました。
――本当に女子しか入れないんですか?
齋藤 はい、女子しかいません。僕と同級生の2人だけが本当に例外でした。宮脇先生は非常勤教授なので、直属の曽根(陽子)先生にはかなりご迷惑をお掛けしました。迷惑息子にとっての第二の母です。僕は宮脇先生と話すために、先生の『宮脇檀の住宅設計テキスト』に掲載された図面を全部トレースしました。モダンリビングをわかったつもりで、少しでも現代的な(モダンリビングを批判するような)案を持っていくと、「おまえわかってないな」と言いながら、こっちが3分説明すると、30分くらいの指導をしていただき、本当に熱意のある先生でした。今思えば、学生の間にモダンをしっかり教わったことは財産となっています。クリスマスの前に代官山のアトリエにゼミ生全員を呼んでくれて、パスタを生地からつくってもてなしてくれたんですよ。散々ご馳走になったときに、「何とか日大を口説いて、例外的にお前たち(男子)2人も4年で採れるようになった」と言ってもらえて、涙を流しました。いつも格好いいんですよ(笑)。
――3年生のときから研究室に入ったのですか?
齋藤 3年生のときにはゼミに入りました。ゼミは誰でも入れて、3年生の前期と後期で研究室を1つずつ選ぶことができ、2つの研究室を体験できます。
――宮脇さんが亡くなる少し前ですか?
齋藤 ちょうど卒業制作をやっているときに、いつも元気な先生が珍しく辛い顔をしていたことを思い出します。しばらくして咽頭癌と知って、ショックでした。それでも、卒業制作をファクスで見ていただきました。卒業して、西沢(大良)さんの事務所に入り、担当した1件目の『大田のハウス』ができました。僕は宮脇さんに「おまえに住宅なんてできない」とずっと言われていたので、どうしてもJT(「新建築・住宅特集」)を持って見せに行きたかったんです。新建築社さんで、JTの掲載打合中に、後輩から「宮脇先生が亡くなった」という連絡が入り、愕然としました。その翌日から僕は西沢事務所の夏休みで、その晩に研究室に集まって、朝まで泣いてました。そして、宮脇先生の訃報記事と『大田のハウス』が同じ号に掲載されています。僕にとって、忘れられない号となりました。

――西沢さんの事務所を選んだのはどのような経緯ですか?
齋藤 まだ「住宅特集」にも最初の作品(『立川のハウス』)が発表されていない頃でしたが、「SDレビュー」に案(『小平のハウス』)が載っていて、西沢さんの図面を見て、雑誌の小さな図面に、初めてスケール(物差)を当てたんです。その寸法の感覚に驚嘆したんですね。その当時、どんな人の図面を見ても、雑誌の小さな図面にスケールを当てたことなんてなかったんですよ。西沢さんの図面は、あまりにも不思議すぎるため、スケールを当てないとわからないんですよ。スケールを当てて興奮しながら、この人は本物だと思って。しかも、三面図で戦っている、三面図だけで十分おもしろい、それを見ながら10分間、「よくできているな」と思いました。今まで、10分間、ずっと見ることができた図面なんてないですよ。やっぱり、この人はすごいと思いました。こういう内容のあるものが本物だと思って、噛み締めることができるような三面図が描きたいと思いましたね。
それで、卒業設計展を他の大学とやったときに、西沢さんや若手の人たちにクリティックへ来ていただきました。卒業制作を西沢さんに見てもらったら、「お前はわかってる」と言ってもらえたんです。卒業制作の展覧会で来てもらっているのに、「今までは学生だと思っていたけれど、今から1人の建築家として話そう」と言ってくれました。「構造で表現してはダメだ、本当に建具だけでやらないとダメだ」と本気で言ってくれました。まだ、あきらめるところがあったんだと感心しました。講評会後の飲んでいる席で、「(事務所に)入れてくれ、あなたしかいない」と口説いたんです。「他におもしろい人がいないんだ」としつこく言いました。そうしたら、「今は仕事がないから勘弁してくれ。とりあえず忙しい事務所を紹介する」と言われ、小嶋(一浩)さんを紹介していただきました。シーラカンスさんで3ヶ月くらいアルバイトさせていただき、西沢さんから「仕事が来たから手伝って」と言われ、2ヶ月くらいお試し期間があり、それから所員にしていただきました。
僕がはじめのスタッフだったんですが、毎日が衝撃的でした。『立川のハウス』が竣工したときに僕が入り、それ以降の『大田のハウス』、『熊谷のハウス』、『諏訪のハウス』『2つの会場(ICC「移動する聖地」展会場構成)』、『鶴見のハウス』を担当しました。

――西沢さんの事務所ではどんなことを学びましたか?
齋藤 一言では語り尽くせないですね。まず、はじめに驚いたのは、例えば「同じ10平米の正方形と長方形の部屋を比べてどっちが広いか?」という、本当に客観視できることを具体的に比べ、よい方を採っていくというような、基本的だけどとても重要なスタディから始まったことです。もっと基本的なことでは、図面の描き方もそうだし、計画自体もそうなんですけれど、グラフィック(デザイン)を徹底的に訓練します。文字の太さとか大きさとかレイアウト、その図の示す意図や意味など……。西沢事務所の雑誌掲載図面をよくよく見ていただくと、その計画ばかりでなく、図面の描き方なども信じられない部分を調整しています。お陰で、今では印刷物の仕事もしています(笑)。それ以上は守秘義務ですかね(笑)。グラフィカルなことは、建築ではないことでもいろんなことに関係していますよね。最低限、そういうことくらいは、せっかくデザインを教えているんだから、大学がしっかり教えた方がいいんじゃないかと思います。社会の質が向上しますよ。
――西沢さんはどのような建築家でしたか?
齋藤 「どのような建築家か?」というのは難しい質問ですが、ある側面で西沢さんらしいと思えることは、数学的だということです。実際、数学がかなり得意だそうです。条件や環境を全部並べて解いていき、複雑な連立方程式を解くようにこれしかない1つの答えを出します。だから、説得力があります。少し飛躍させますが、その延長に「ビルディング」があると思います。「ビルディング」という論稿(「住宅特集」1997年4月号)で、建築家のイマジネーションが障害になると言っています。事務所では、想像しないための方法として、とにかく描いてみる。そして、実際見える要素を比べ、よいものを選択していきます。例えば、「空間」というと扱いにくいので、「W×D×H」とすれば寸法として扱えるようになります。そして、数学的にどんなWDHの組み合わせがあるかを検討する感じです。非常に数学的だと思います。(上記はわかりやすい例えであって、西沢さんの考え方については、多くの論考を参照してください。)
――今、西沢さんは大学院(理工学研究科建築学専攻)の非常勤に来ています。
齋藤 学生は、いろいろと学べるんじゃないですかね。僕も学生のときに、ああいう人が先生だったら違ったんじゃないかなと思いますね。いい建築家が、必ずしもいい教育者と限らないと思いますが、宮脇さんも西沢さんも教育者としても素晴らしいと思います。宮脇研究室も西沢大良事務所も一度は断られ、あなたしかいないと気持ちを伝えて、受け入れていただきました。女子を口説くのを含めても、こんなに一目惚れしたのは、後にも先にもこの2回だけです。若くないとできません。好きな人が見つかったら、アタックすべきと思います。
それから、卒業制作は学生にとってすごく重要だと思っていますね。建築だけじゃなくて、映画でも絵画でも食べ物でも音楽でも、本当に好きなものを並べたりして、自分を見つめるところからはじめるべきだと思うんです。何かひとつでも自分が見えたら、その後の支えになると思います。僕はそのときの自分の考え方がずっと付いてきています。もちろん発展はしていますけれど、根っこはそこにあると思っています。
(2008年4月23日 ア デザインにて インタビュアー:佐藤慎也、担当:原友里恵、藤井さゆり)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 6 2, 2008 17:01 | TrackBacks (0)

松崎正寿 インタビュー

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――なぜ建築をやろうと思ったんですか?
松崎正寿 祖父が大工だったんです。祖父の家に屋根裏部屋があって、そこが作業場になっていて、小さい頃によく遊びました。中学生の頃には、祖父の手伝いで改修の作業をしたことがあって、ちょっとおもしろいなと感じました。それで、大学へ入るときに建築学科がおもしろいんじゃないかと思い、入学したのがきっかけですね。
――どうして日本大学に?
松崎 僕は(日本大学の)付属高校なんで、それで入りました。まあ、なんとなくという感じですね。本当は、最初日藝(日本大学藝術学部)に行きたかったんです。有名だからいいかなと思って。ただ、途中で藝術学部よりも建築学科の方がおもしろいかもしれないと思い、そんな理由で、高校2年で文系・理系に分かれるときに理系を選んだ記憶があります。

――大学時代はどのような学生でしたか?
松崎 設計の授業がやっぱり一番おもしろくって、1年の頃から、課題の提出が一番楽しかったという記憶がありますね。
――どのような課題をやっていたのですか?
松崎 3年のときに高宮(眞介)さんに授業で教えてもらったことがあって、そのときは図書館とセミナーハウスという課題だったんですけれど、それが一番印象に残っていますね。提案したものにいろいろと言われて、さらにおもしろいと感じました。
――どのような提案だったんですか?
松崎 図書館の敷地は文京区の本郷で、そこは路地が広がって町ができていて、敷地内にも路地をつくるという提案をしたんです。書棚がいっぱい並んでいて、そこにできる隙間が路地になるんじゃないかという提案をしました。セミナーハウスは狭山湖近くの提案で、片側にきれいな丘というか小さな山があって、それに似た形を手前につくり、1本の道で繋げる提案をしました。それはなかなか好評でしたね(笑)。

――4年生のとき、どのように研究室を選びましたか?
松崎 3年のときにいろいろ教わって勉強になったので、高宮さんの研究室に行きたいと思っていましたから、迷わず決めました。
――どんな研究室でしたか?
松崎 それは言えないですよ(笑)。まあ、でも、怖い研究室です(笑)。先生自体が、あまり表情には出さないんですけれど、すごく熱い先生でした。建築に対しては、本当に情熱的なものを持っていましたね。そういう研究室かなあ。

――卒業設計はどのような内容でしたか?
松崎 新宿南口の駅前で、今はもう人工地盤(新宿サザンテラス)ができているんですけれど、当時そういった計画があるというのをどこからかキャッチして、そこに面白い人工地盤が架けられないかという提案でした。建物というより、「新しい町」ができるんじゃないかと。出来としてはちょっと気になるところもあるんですけれど、まあ、提案としてはなかなかよかったんじゃないかな(笑)。

――大学院ではどのような活動をしていましたか?
松崎 大学院では、1年に1回、実施コンペを高宮さんの下でやるのが決まっていたので、それをみんなで泊まりながら、徹夜しながら、模型をつくったりとか、図面を描いたりとか、いろいろやりました。日大付属高校のマスタープランの手伝いもしました。コンペはすごく勉強になって、高宮さんも混ざって学生たちと同じように1案ずつ出して、いろいろ話し合って……。ちょっと新鮮でしたね。実施コンペだったので、実際に建てるという前提でつくっていくので、学生の課題のときの印象とは違い、+αを求めるようなところがあると感じましたね。当時、高宮さんが提案してくる案は「どうかなー?」と個人的には思ってたんですけれど(笑)、今になってやっと、ちょっと意味がわかってきたかもしれませんね。

――修士設計はどのような内容でしたか?
松崎 修士設計は、千葉県の行徳の近くなんですけれど、海沿いに干潟(三番瀬)が残っていて、当時、それを埋め立てて下水処理場をつくるという計画がありました。それに対し、自然の能力で下水の処理ができるような場所を提案しました。それに付随して、環境学習ができる施設などを併せ持った提案をしました。その提案もなかなかよかったと思います(笑)。学生の頃というのは、結果を出すのに時間があるので、考え込んじゃう時間が結構あって、今だったらもうちょっと違う提案もできたと思ってるんですけれど。

――就職活動はいかがでしたか?
松崎 活動はそんなにしていないんですけれども……。日大OBの方がゼネコン(大成建設)に入っていて、就職の時に声を掛けていただいたということですね。それでゼネコンに入りました。逆に、アトリエは考えていませんでした。まずは、どのように(建物が)つくられているのかを知りたいと思いました。
――どのような仕事をされていましたか?
松崎 主に学校が多かったんですけれど、下北沢の高校とか自動車教習所をつくっていましたね。あとは、オフィスとかマンションもやっていました。
――一番勉強になったことはどんなことですか?
松崎 学生と違うと特に感じたことは、法律的なこととか、お金に見合ったものをキッチリ求められることです。コンセプトとか、「こういう空間がいい」と言っても、そんなには受け入れられないということがやはりありましたし……。法規や予算をクリアした上で提案しなければいけないんだな、ということを学んだと思います。

――どのような経緯で独立したんですか?
松崎 5年間ゼネコンで働きました。新入社員として入ったときに、半年くらい研修するんですけれど、その時に清水(貞博:atelier A5のパートナー)さんに出会いました。一緒にコンペとかをしていて、あとは友達の住宅(『N.house』)を一緒にやらせてもらいました。それからまた、それを見てお客さんが来るようになり、だんだん依頼が来るようになりました。そのときは会社と同時並行で、会社が終わった後に集合して活動していました。そして、「独立しようか」ということで……。

――最初の頃はどのような仕事をされていましたか?
松崎 個人住宅がほとんどでしたね。その頃は、昼間は会社で働いていて、夜はA5という生活を続けていましたね。
――最近はどのような活動をされていますか?
松崎 いろいろと雑誌に出るようになって、お客さんからのオファーがけっこう来るようになってきています。住宅がほとんどなんですけれども、オフィスビルとか集合住宅も最近はやりはじめていますね。計画も含めて13件くらい動いています。
――今後はどのような予定ですか?
松崎 来月(5月)、展覧会でロシアに行くので、それをきっかけに海外での仕事もやっていきたいと思っています。

――最後に、後輩に向けて一言お願いします。
松崎 建物のことを考えるだとか、形をつくっていくだとか、学生のときに一番やることだと思うんですけれども、ディテールのことだとか、建物はもっといろいろ細かいことを考えなければなりません。しかし、一番大切なことは、どういう提案ができるかということなんです。それを大切に勉強してくれればいいかな、と思います。それから、一番勉強になるのは、うちの事務所にバイトに来るということですね(笑)。
(2008年4月23日 atelier A5にて インタビュアー:佐藤慎也、担当:松本江美子)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 6 2, 2008 16:20 | TrackBacks (0)

木内厚子 インタビュー

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――大学に入学するとき、どのような理由で建築を選ばれたのですか?
木内厚子 私は当時、大学へは行く気はなかったんです。なりたかったのは料理人だったんですよ。だけど親に反対されて、とりあえず大学には行けって。それで、小さい頃からものをつくることが大好きで、料理はあまり今はつくらないんですけれど、昔はお菓子とかをよくつくって友達に持って行って喜んでもらったり、母親が洋裁、祖母が和裁をやっていたので自分の洋服をつくったりしていました。とにかくものをつくることが大好きで、その延長で料理人になりたいな、と思っていて……。それを反対されて、何かものをつくる仕事で、せっかく大学へ行くのだから覚えるのに時間がかかる仕事がいいと考えて、建築系に行こうと思いました。
――建築系といっても、美術系と理系があったと思うんですが。
木内 そのへんはあまり深く考えてなくて……。何ででしょうね? でも、本当にあまり深く考えてなくて、後から考えると建築系の大学もいろいろあるし、先生もいろんな人がいるので、ちゃんと考えればよかったなってすごく後悔したのですが、最終的に日大の海洋建築しか受からなかったんですよ。他もいろいろ受けたんですけれど、もともと大学に行く気がなかったので浪人なんてあり得えないと思い、とにかくそこに行こうと思いました。
――日大を選んだのは、いくつか受けた中で受かったところだったということですか?
木内 そこしかなかったというのはあります(笑)。

――大学に入ってからはどうでしたか?
木内 入ってからは1年生の頃から、もともとものをつくることが好きだったので、やりはじめたら楽しいな、という感じでした。そして、教えに来ている先生の事務所へアルバイトに行ったりしました。
――それは何年生くらいのときですか?
木内 1年生のときから行ってました。友達同士で、「あの先生のところでコンペをやってるから手伝いに行かない?」と誘い合ったりして、何人かの先生の事務所に行かせてもらいました。
――どのような先生のところへ行ったんですか?
木内 住宅を中心にやっている先生もいれば、大きい施設や公共のコンペをやっている先生もいました。多分、今だとそんなにアルバイト代は出ないのかもしれないのですが、その頃はちょうどバブルの絶頂期だったためか、アルバイト代もきちんともらえました。建築以外のアルバイトをするより、好きなことをして、且つ、いろんなことを覚えられてお金がもらえるなんて、なんてラッキーなんだろうと思った記憶があります。

――その頃、どんな課題をやっていましたか?
木内 うーん、今年から教える立場になって思ったのですが、イマジネーションを湧かせるような課題や、1年の時から発表時のパフォーマンスも評価されるようになった点は変化を感じます。私の学生のときは線や絵の練習とか図面の写しなどが多く、最初はやはりつまらないな、という印象がありました。それと、海洋建築特有なんですが、必ず川のそばとか海のそばとか、建築覚えるのに水の近くじゃなくても覚えられるのに、という思いはありました(笑)。まあ、学科が学科なんで……。
――いくつか課題があったと思いますが、どんな課題を覚えていますか?
木内 一番記憶に残っているのは、船橋校舎の船橋日大前駅の手前の敷地にミュージアムをつくりなさいという課題です。大学の建物ではなくて、大学と駅の間が敷地で、美術館をそこに建設するという課題でした。三角形の敷地でしたが、その課題が一番記憶に残っていて、今でもそれは実現したいと思います(笑)。
――何年生の課題ですか?
木内 2年の終わりか3年のはじめだったと思います。そのときは先生に褒めてもらえて、「評価されるのは気持ちいいな」って感じた記憶があります。

――海洋建築は3年の後期から研究室に着手しますが、研究室はどのように選びましたか?
木内 当時の海洋建築には設計系の研究室が2つしかなくて、船橋校舎の図書館が好きで、それを設計された小林美夫先生の研究室を選びました。
――研究室には何人くらい学生がいたんですか?
木内 1学年10人、大学院生もいました。海洋建築にも衛生的に問題があるのではと思われる大学院生室があり(笑)、男子のゼミ生は泊まりこんで、大学院生を手伝いに行ったりしていました。だけど、男子部室のようだったせいか、私はあまり手伝いに行かなかったですね(笑)。

――4年の卒業設計ではどのような作品をつくりましたか?
木内 移動型の水上劇場です。だけど、それはボロクソな評価でした(笑)。
――具体的に場所を設定したんですか?
木内 決めたんですけれど、今はあまり思い出せません……(笑)。多分、設定があまりよくなくて、構造的にも成立しないみたいな評価で……。今考えると確かに成立しないなって(笑)。結構無理なことをしていて、評価は悪かったですね。それまで水に抵抗してきたものの、最後はやっぱり水だろうという感じで、それでは浮かせちゃえって思って……。それで、それまで勉強していなかったこともあって、あまりフローティングとかわかってなくて(笑)。

――その後、大学院は東京藝術大学大学院に進まれましたが、どうしてですか? その頃には建築を続けようという気持ちはあったんですか?
木内 その頃はやる気満々でしたね。ある意味建築のおもしろさにハマっていました。そんなにわかってはいなかったのでしょうが、とにかくやりたいっていう時期でした。アルバイト先で何人かの藝大OBの人と出会って考えはじめましたね。
――大学院は藝大しか考えていなかったのですか?
木内 はい、そうですね。
――藝大での指導の先生はどなたでしたか?
木内 先生は藤木(忠善)先生です。
――藝大はどんなところでしたか?
木内 日大は学生の人数も多いので競争が激しく、同年代でバリバリやっている人が多かったんですよ。それで、とてもではないけれど自分はついていけない感じがありました。それに比べて、藝大は人数が少なく、研究室は1学年に3人と、建築を学ぶ環境として自分のペースに合っているかなと思いました。

――大学院ではどんな活動をしたのですか?
木内 研究室の仲間で国立図書館(「国立国会図書館関西館」)とかのコンペをやったり、個々でコンペをやったり、先生の別荘(『マウンテンボックス』)がちょうど実施設計のときだったので、それを手伝ったり、研究室中心の生活でした。
――そのときにはじめて実施設計をやったんですか?
木内 そうですね。でも、やったと言うより、言われるがままにという感じですけれど。実施図面を描いたり、模型をつくったりとか。
――修士設計はどんなことをやったんですか?
木内 その頃は「住まう」ということにすごく興味があったので、集合住宅をやりました。いろんな人が集まって、一軒という単位ではなくて、その単位を崩したような集まり方はないか、ということをテーマとしました。また、高齢化や単身化ということも考えながら、いろんな世代の、そしていろんな環境の人間が住まえることを考えました。でも、設定の仕方が難しかったです。どこでも人は住めますからね(笑)。

――就職についてはどのように考えていましたか?
木内 就職については、とにかく気になる建築家のところに行こうと思っていました。それから、藤木先生に「設計事務所に行くのなら、中間管理職がいる設計事務所はやめろ。間に入る人の能力で教わることが変わるから」と言われてました。そこで、気になる建築家だった妹島(和世)さんのところに行こうと決めていたんですけれど、その年はもう遅くて……。1ヶ月くらい働いたんですけれど、仕事の状況でもう1人採るのはちょっと難しいということでした。そこで、(佐藤)光彦さんに拾ってもらったみたいな感じです。その頃、光彦さんと妹島さんが一緒に仕事をされていて、光彦さんが妹島事務所に出入りされていました。それで、もし妹島さんが採らないなら、という感じで……。光彦さんは、独立して1、2年目の頃ですね。
――佐藤さんのところに行こうと決めた理由は何ですか?
木内 とにかく働きたかったんです。学生のときはいろんなところでアルバイトをして、もちろん模型をつくったり、図面もいろいろ描かせてもらったけれど、とにかく責任を持って本当の建築をつくりたいという気持ちがものすごく強くて……。それから、佐藤光彦さんも建築家としてはとても魅力がありました。また、私は割と縁を大事にしたいと考える方なので、声を掛けてもらったのであれば、そちらの方がいいだろうと思いました。

――佐藤さんの事務所ではどんな仕事をしていましたか?
木内 そのとき、所員は私しかいなかったので、教わりながら、あれやれこれやれと言われながら、図面もあれ描けこれ描けと言われるままに……。当時は住宅の仕事が2軒同時に動いていました。梅が丘(『梅ヶ丘の住宅)と大島(『大島の住宅』)です。
――その2軒は初期の段階から携わっていたんですか?
木内 そうですね。一見同じような模型をたくさんつくらされました。箱みたいなものがそこら中に散らばってる感じでしたね(笑)。
――佐藤さんのところではどのようなことを学びましたか?
木内 私は、そのあと事務所を移っているのでそう感じるのかもしれないですが、いろんな建築家がいることを2つの事務所を経てわかりました。佐藤さんは、自分のアイディアをものすごく暖める人で、確信がない限り、口に出して言いません。ただ、出てきたときには、すごいなあといつも感じていました。
――どのくらい佐藤さんの事務所にいたのですか?
木内 ちょうど1年ですね。
――その後に飯田善彦さんの事務所に移りましたが、何かきっかけがあったんですか?
木内 光彦さんの事務所で2軒の住宅が終わり、その後に1つの住宅の設計がはじまったところでしたが、私がいてやっていけるのかなと思って(笑)。それで佐藤さんに相談して、就職活動して、飯田さんの事務所に移りました。

――次に飯田さんの事務所を選んだ理由は?
木内 学生時代に、谷口(吉生)さんの現場事務所で模型をつくっていたことがあり、その現場というのは葛西臨海公園の「レストハウス」の現場事務所だったのですが、そこでお世話になった方に紹介してもらいました。それで、面接に行き「じゃあ、来るか」って(笑)。ちょうど、飯田さんが学会賞をもらった作品(『川上村林業総合センター』)が、できた頃だったと思います。
――飯田さんの事務所でも住宅を担当したのですか?
木内 住宅も担当しましたが、入ってすぐに都市公団の再開発の商業施設の計画をしました。また、船橋日大前駅の向こう側にある都市公団のニュータウンの一部の計画提案などもしました。とにかく、いろんなことをさせていただきました。また、コンペがあれば忙しさに関係なく出す事務所なんで、1人2件とかコンペを担当していたりと、すごい生活でした。
――飯田さんのところではどんなことを学びましたか?
木内 飯田さんのところで学んだことは、何事もあきらめないということです。もちろん、デザイン的なこともそうですけれど、人を説得するということ、人は気持ちが変わるということを学びました(笑)。

――その後、飯田さんの事務所をやめて独立しますが、そのきっかけは何ですか?
木内 長野が故郷なんですけれど、そこで姉夫婦の家を設計しないかという話があったんで、それを期に独立しちゃおうかなって、また安易に……(笑)。今から考えると、もうちょっといろんなことを教わっておけばよかったなと思います。
――飯田さんの事務所に在籍したのも1年くらいですか?
木内 飯田さんのところは3年くらいです。
――ということは、卒業して4年で独立ですね?
木内 そうですね。早いですね。1人でやってみてわかりましたが、デザインとか設計だけができればいいというのではなくて、人との付き合いやコミュニケーションの取り方、仕事の取り方、そういうことを学ばずして出てきてしまったので、ちょっと後悔はしています。
――独立後の仕事はいかがでしたか?
木内 決められないことがわかりました(笑)。それまでは、条件を整理して、どういう選択肢があるかを所長に見せればよくて、自分としてはこれを選ぶという意思は伝えるけれども、やっぱり最終の決断をしないということがすごく逃げてるんだな、決められないんだなと思いました。
――選択肢を用意するところまではできるけれど、決めるのが難しいということですね?
木内 決めることが重要で、所長はえらいなって(笑)。決めることが大変ですね。

――その後、主にどのような仕事をやってこられましたか?
木内 仕事は住宅がほとんどです。たまに店舗の内装とか、ちょっとした提案とかやりましたが、主に住宅です。大きいものにもすごく興味はあり、大勢の人が使う建物もつくってみたいという気持ちもあります。でも、今のところはまだまだ住宅に興味があります。スタッフとして働いていた頃はフラットルーフの建物が多かったその影響なのか(笑)、最近は屋根について興味があります。もちろん外観だけでなく、それに伴なう内部空間にもです。それとともに住まうということ、周辺の環境のこと、自然環境のことを住宅に置き換えていくときに、デザイン的なこともそうですけれど、あり方としてよいのかどうかということを、つくればつくるほど深く考えるようになりました。また心地よさというものについてもです。
――今までやった作品で気に入ったものは何ですか?
木内 終わると、どの家もいろいろな思いがあって、どうしても自分だけでデザインしているのではない、いろんな要素があります。それを使う施主さんとコミュニケーションを取りながらやっていくので、だんだん変形もしていくし、はじめに考えていたことができればよかったなとか、コミュニケーションを取って変わったことがよかったなとか、どの家にもいろいろな思いがありますね。

――最近はプロダクトデザインもやっているんですよね?
木内 はい。プロダクトは、「ファクトリープロジェクト」というグループで基本的には活動しています。今、日本の産業を支えてきた中小の工場とか伝統工芸が、人件費の安い他国へ受注が流出したり、技術者の高齢化も進んだり、技術が受け継がれずに失われつつあって、10年後には、多分、5、6割は失われるんじゃないかという現状にあります。そういう状況の中、そういった技術をデザインの力でなんとか手助けできないかというのを8人ほどが集まってやっています。
――他の人たちも建築家ですか?
木内 建築家です。最近アクリルラウンドボウルが商品化されて売り出されました。今は、屋久杉のテーブルを試作中で、漆器なども今後やる予定です。話があればグループで動くという状況ですね。建築も多くの素材を使うので、いろんな素材の性質や特質を知ったりということはよい訓練になっていますね。
――建築とプロダクトの考え方で異なる点はありますか?
木内 もちろん、製品としてつくって売り出してくれる、住宅でいうところの施主はいるんですけれど、プロダクトは割と純粋にデザインできるという印象はあります。難しいのは、価格の付け方だなって最近思います。こだわればこだわるほど値段は高くなるので、それを世の中に出したときに売れる値段なのかが問題になります。売り出すことを前提にすると、芸術ではないので、価格であったりとか、1回につくる数量であったりとか、そういう点がまったく違うと思います。こだわったデザインをすると、価格として跳ね上がってくる。綺麗なんだけれども製品化はできないというのもあったりします。それから、建築との違いは、1人のお金を出してくれる人を説得できればいいけれども、ある程度量産するとなると、かなり大勢の人の納得がなければつくることができないというのもありますね。

――今年度から非常勤講師として海洋建築で教えています。数回の授業を終えたところですが、いかがですか?
木内 気持ち的にはまだ学生というか……(笑)。1年生を教えていて、彼らは18、19歳ですが、自分も大学を出たときと気持ちは一緒のつもりだったんですけれど、周りの学生をよく見るとやっぱり自分は歳とったなって(笑)。教えることは、自分にとってもいろいろと考えるいい機会になると思うので、すごく楽しみにしています。

――後輩たちにメッセージをお願いします。
木内 うーん、そうですね。建築は何にでも関係があるじゃないですか、空間がある限りは。本当にいろんなことに興味を持って、そこにはきっと空間が存在するはずなので、無駄だと思うことでも一所懸命やって、自分の力にしていけばいいんじゃないかなと思います。自分も今でもそうしたいと思っているんですけれど。何か機会を与えられたんであれば、やってみればいいんじゃないかなと思います。もちろん、自分から機会を取りに行くことも……。そんなところです。
(2008年4月15日 Studio 8にて インタビュアー:佐藤慎也、担当:大野寿文、数田宗房、松本江美子)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 5 21, 2008 14:55 | TrackBacks (0)

黒川泰孝+馬場兼伸 インタビュー

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馬場兼伸(左) 黒川泰孝(右)

――なぜ建築をはじめようと思ったのですか?
馬場兼伸 自覚的に「建築をやろう」とある日決めた感じではないんです。高校の理系・文系の組分けのときに、文系よりは理系が好きかなという感じで。でも、実際には美術系の大学に興味があったので、理系に籍を置きながら美術系の分野にも幅が広がりそうな学科という不純な動機で建築学科を選んで受験しました。
――建築の仕事を選ぶというよりは受験で建築を選んだということですね?
馬場 そうですね。でも、小さいときからものづくりが好きで、エジソンなど発明する人にも憧れていたんです。まあ、建築にもいろんな仕事の進め方があると思うんですけど、新しいことにチャレンジしていくようなアトリエの形式でやっているので、子どもの頃に思っていた発明家みたいなことをやっているのかなと思いますね。
黒川泰孝 職業の話で言うと、祖父が職人だったこともあり、小さい頃から職人への憧れがあって、中学生か高校生くらいのときに宮大工の人に興味を持ちました。装飾とかの細かい部分を自分でつくっていて、それがさらに人が使う大きいものになっていく。まあ、それは棟梁だけなんですけど、自分の考えたものが立ち上がっていくというのがおもしろいなと思っていました。建築は何を学ぶとか、どんな仕事かとかあまり考えていなかったんですが、大学は建築学科なのかなって思ったんです。
馬場 でも、宮大工とかに興味があったなら職人さんの道でしょう? なんで大学で学問として学ぼうと思ったの?
黒川 職人でいくならば確かに修行していく道を選ぶと思うんだけど、結局、想像していたようなことはできないのかなと。そうであるならば、考えるところというか、スタートに近い部分に自分がいる方が理想に近いのかなと思って。そうするとやっぱり職人さんになるよりは大学で学んでからの方がいいと思ったんです。でも、もともとつくること自体も好きだったので、今、机の上だけで仕事をしていたりしても、やっぱり手を動かしていないと自分の中で落ち着かないなと思います。
――大学を選ぶときになぜ日本大学にしたのですか?
馬場 建築学科を受験して、一応2つか3つは受かってその中から選びました。だけど、大学の中で何をやられているかというのはわからなかった。特に僕は北海道の高校生だったので、東京の事情とか、どのような研究室が有名だとかはわからなかったんです。だから結局は立地ですね。3、4年でお茶の水だぞ、と。比べてもよくわからなかったので、それぐらいですかね。
黒川 僕は(日大の)付属高校だったというのが大きなところですね。でも、建築を学ぶ場としては、いくつか(学部・学科が)ありますよね。その中でも理工学部を選んだ理由は、立地というのもかなり大きくて、やるのであれば東京都の真ん中でと思いました。人数が多いので、いろいろな人がいるのだろうなというのも魅力でした。

――大学時代はどんな学生でしたか?
馬場 ダメでしたね(笑)。入学して、1年生の頃は本当に人が多くて……。黒川はむしろ魅力だって言いましたけど、僕は逆に多すぎて、怖くて怖くて学校に行けないくらいの感じでした。嵐の中にいるような。2年生くらいのときからやっと人に慣れて、まともに授業に出られるようになりました。建築の勉強は結構手を動かすので、はじめの頃からおもしろいなと思っていました。今はやっているのかわからないですけど、点線をひたすら引かされたり……。こういう学科に来ただけあって、という感覚がうれしかったですね。
――どんな課題をやっていましたか? また、自分の中で今でもよかったなと思うものはありますか?
馬場 2年生のときかな? 菊坂での集合住宅ですね。あとは葛西臨海公園が敷地でやったのがあって、3年の後期かな? その頃からだんだんと建築がおもしろいなと思いはじめたことを覚えていますね。やっと自分がつくったもので先生と喋れるということがおもしろかったですね。
――どのような先生たちに教わっていましたか?
馬場 僕が一番印象に残っているのは、3年生のときですね。久米設計の吉田(博)先生に習ったんです。すごく褒めてくれるんですよ。基本、褒めてくれる人で。そういう先生がはじめてだったので、すごく伸びたと思います。
――黒川さんはどういった学生でしたか? また、どんな課題をやっていましたか?
黒川 日本のいろいろな場所に行こうと思っていて、大学生なので結構休みも多かったので……。休みのたびに北とか南とかなんとなく行くところを決めて、単車か電車で別に何も決めずに行ったりしていました。それによって日本のいろいろなところへ行ったのが、大学生の時間のあるときだからこそできたことでしたね。それは結構大きかったです。日大に入ってよかったのは、高宮(眞介)さんがいたこともなんですけど、2年生か3年生ぐらいのときには曽我部(昌史)さんとか、若い先生方が設計の非常勤講師として来てくださっていて、かなりの時間をかけて話を聞いてくださったり……。僕は違うクラスだったんですけど、横から入っていって、いろいろと刺激を受けました。
――その頃はどのような設計をしていたんですか?
黒川 仮設のパビリオンみたいなものをつくりました。10分の1の実際に動く模型を、つくり方から、材料とか、質感とか、それがどのように人に使われるのかとか……。その頃は材質から重さとか全部気にしてそのようなものができていくみたいなことを、(指導教員が)アストリッド(・クライン)だったので、みっちりと考えさせられました。

――4年になって研究室を選ぶときにはどのように研究室を決めたんですか?
馬場 僕はその辺のシステムというものを把握していなくて、結構先生方に迷惑をかけちゃったんですけど……。そのとき研究室が決まらなくて焦って走り回ったのを覚えていますね。それでまあ、若色(峰郎)さんが、「しょうがないな」じゃないですけど……。結構がんばって大きい模型とかをつくって持っていって見てもらったりしていたので、「まあ、やればできるんじゃないか」みたいなことを思ってくれたらしく、かなりドタバタだったんですけど若色研に入ることができました。どの研究室がどのようなところかをいろいろとリサーチしてという感じではなかったです。
――若色研究室はどうでしたか?
馬場 先輩たちが偉大だなと思いました。本当に偉大な先輩たちが多くて。あとは、やっぱり目的意識の高い同期が集まっていたので、すごく刺激を受けましたね。焦りましたね。でも、あそこで入れなかったら、多分、今はないと思うんでラッキーだったなと思います。
――黒川さんは?
黒川 魅力的な先輩がたくさんいたので、割とちょくちょく遊んでいただいていた先輩方が高宮研にいたので、手伝ったりいろいろしているうちになんとなく……。
――どのような研究室でしたか?
馬場 僕は若色先生というより、渡辺(富雄)先生を知っていたんですよ。何かの課題で結構こっぴどくやられてひとりで教室に残っていたときにフラッとあの人が現れて……。大変失礼なんですけど、掃除の人だと思って(笑)。それで掃除の人がなんか見てるんです。こっちをじろじろと。そうしたら的確なアドバイスをしてくれて、さらにはホワイトボードにパースまでさらさらと描いてくれて……。うゎー、なんだこの掃除の人は只者じゃないな、と(笑)。それが渡辺先生でした。渡辺先生がいるから暖かい研究室なんだろうなと思いましたね。
――高宮研究室はどうでしたか?
黒川 同期でも、上の方の人たちでも、ゴリゴリの建築バカみたいな感じの人もいたんですけど、いろんなところに興味がある人がいて、同期なんかでも本当に建築一本でやっている人なんていない感じでしたし、いい刺激でしたね。大学の先生は研究者というイメージがなんとなくあったんですけど、高宮先生は外でもバリバリ建築を建てていましたし、先生って呼ばれるのが嫌だって言うくらいに、本当に建築家なんだなと思いました。実際に近くにいて話とか聞いていても、喋る言葉とかも、ものをつくる人の言葉なんだなと思いましたね。他の大学の先生とは違うんだなと思いました。それが、近くにいられてラッキーな、実際はあんまり喋ってもらえないんですけど、でもだからこそ極力近くにいたいなと思ったんです。

――卒業設計はどのようなものでしたか?
馬場 僕はかなりぶち上げたんです。渋谷の清掃工場の計画がちょうど決定した頃で、その敷地に清掃工場はつくるんですけど、もっとこうしたらいいんじゃないかという提案をしたんです。地球のことをまじめに考えるなら、ゴミで儲からなきゃダメだというのがコンセプトで、清掃工場というよりはゴミのマーケットを考えました。同時にゴミで農業もやろうという、てんこ盛りの案で全然まとまってないんですけど、そんな感じで……。あの計画でいけば、あそこは森になってたはず(笑)。
黒川 僕はその清掃工場まで渋谷から伸びていっている近隣の川なんですけど、渋谷川の三面護岸があって、高架が隣に走っていて、逆側にビルが1枚建っていて、すぐに歩道があって、道路が走っている。このように都市の中でいろいろな要素が並んでいるところで計画しました。東京は川がかなり数多く流れているんですけれど、大体は全面護岸されていて、その護岸も規格サイズでなされているので、その規格サイズのところに何かをはめ込む1つのモジュールを考えました。そして、その隣にある高架の下にも高架というモジュールを考えました。都市と都市が点々とするのではなく、線で繋いでいけるようなアイテムというか、そのようなものを提案しようと思いました。
――結果はどうでしたか?
黒川 いまいちやりきれなかったですね。

――2人とも大学院に進んだわけなんですけれど、大学院に行こうと決めたのはなぜですか?
馬場 僕は全然足りてなかったというか、本当に建築をおもしろいと思って手をつけはじめたのが4年生ぐらいからで、全然周りの人に追いついていないし、このまま卒業しても何もできないと思ったので、なんとしても行きたかったんですよ。また例によって行くためのシステムを理解していなくて、また失礼なことをしてしまったんですけど。でも、試験に受かれば行けるということはわかっていたので、試験の勉強だけはまじめにやりましたね。とにかく勉強が足りなさすぎるので、時間がほしかったという感じでした。
黒川 僕が学部の頃は先輩の設計を手伝ったりとか、自分の設計もそうですけど、研究室の人数が多かったので設計活動は個人プレーだったんです。ただ、大学院に入っている先輩とかを見ていると、高宮さんとの関わりが結構あって、僕はもっともっと高宮さんの教えを受けたいなと思って、大学院に行ってもう少し深く考えられればいいなと思い、大学院に行かせてくださいと高宮さんにお願いしました。
――それぞれ自分の研究室の大学院に進んで、そのあたりから今の関係がはじまると思いますが、大学院ではどんな活動をされてましたか?
馬場 大学院時代は設計事務所にバイトに行くようになって、課題はヘビーな感じでしたね。なので、その辺からかなり建築漬けの毎日という感じになっていきました。
――具体的にはどんなところでアルバイトしていたんですか?
馬場 まあ、お金もほしいんで、組織設計事務所が多かったですね。日本設計とか山下設計とか、大林組とか行っていましたね。たまにC+Aとかも行ってました。コンペ要員とかそんな感じで。
――黒川さんは?
黒川 大学院に入ってからは研究室にいる時間がかなり多かったですね。ほとんど家には帰ってなかったですね。研究室で一緒に共同でやらせてもらったコンペが実際に建つことになったので。
――何のコンペですか?
黒川 福島の「うつくしま未来博エコファミリーハウス」というコンペでした。その設計と企画に関わる時間が多かったですね。あとは研究室でやっているコンペとかをやりました。その頃、ちょうどM2のときに建築文化の論稿を書くワークショップがあって、そのときにメジロスタジオのメンバーと知り合ったんです。

――修士設計はどんなことをしましたか?
馬場 とにかくプレッシャーがすごかったですね。あらゆる角度から正義でなくてはいけないので。1つだけやろうと思っていたことは、更地にでっかい新築を建てるということです。再生プロジェクトをやる人が多かったんですが、こんな機会は無いので、僕はでっかいところにでっかいものをつくろうと決めました。それから、体育施設の研究をしている研究室だったので、保健体育ででっかいものをやろうと思って。それで都内で計画があるけど止まっている土地を探して、そこに体育館をつくることにしました。社会背景的には、今も問題になっていますけど、病気の人がどんどん増えていて国の財政を圧迫しているので、みんなで健康になろうということを考えました。スポーツのための体育館ではなくて、健康のため、それを楽しむための体育館はどういったものだろうと考えました。なるべく味方は多い方がいいので、保健体育の専門の大学の隣を敷地に選びました。そして、そこの学生の学習の場にもしました。
黒川 僕はまず、修士設計は実際それが建つわけではないので、どうせ1年間かけるなら修士設計をつくることを目的にするのではなくて、その過程を目的とする方が自分のモチベーションが維持されるかなと思いました。そうであれば、高宮先生に濃く教えてもらえる唯一の授業なので、高宮先生にしっかりアドバイスをいただけるジャンルがいいだろうと思い、美術館の再生をすることにしました。それから、1年かけて何か調査をするというときに、僕は文献調査が苦手だとわかっていたので、実際に人に会ったり、実際にその場所に行って自分が体験したりした方が自分としては説得力を出せるのかなと思って、人と関われることがいいと思いました。それで、福祉系の仕事を調べていたら、障害のある人にとって芸術が、そのままリハビリにもなるし、仕事にもなるし、さらにはコミュニケーションの手段にもなるという話を知ったんです。そこで、この2つをまとめることができないだろうかと思い、障害者の芸術活動を支援する美術館を、前川國男設計の東京都美術館の再生として設計しました。1年間福祉施設に行ったり、人と会ったり、泊まり込みで仕事をしたりして、そんな修士設計でしたね。なので、1年間は割とみっちりと修士の課題に取り組めました。

――当時の就職についての考えと、メジロスタジオ設立を教えてください。
馬場 修士の2年生のときに、小泉(雅生)先生と佐藤光彦先生と今村(雅樹)先生の3人が自分たちのスタジオの学生を集めてワークショップをやろうと言い出して、それで他大の人と一緒にワークショップをやりました。都立大からは古澤(大輔)たちが来て、都市に関する論考をまとめるという課題をやりました。「建築文化」という雑誌がまだあって、その後ろの4ページを学生に開放して、同じテーマで月替わりにいろいろな大学の学生が論考を書き、その次の月に先生が批評するというものでした。すごくお堅いテーマだったし、やはり多大の人とは考えが違ってとても難航したんですが、やり遂げた充実感があって、そのときお互いに何か残っていたんですね、多分。建築のプロジェクトをやったわけじゃなかったんですけど、結構うまいこといったので。それぞれ修士に突入して、就職活動なんかも僕はしました。思うようには決まらなかったというのがあるのと、やはりどこかでまだ勉強したいというのもあって、正直どうしようかなというときに、たまたま古澤と連絡を取り合う機会があって、とりあえず黒川も先が決まっていないと言っていたので声をかけて、集まって話をしているうちに、お決まりの親戚がらみの仕事があるかもしれないというのと、「SDレビュー」というのが毎年6月の末にあるんですけど、そういうのもあるし、どうせ決まっていないなら一緒にやってみようよと盛り上がったんです。ワークショップのときに、建築についてではないけれどお互いの思いをぶつけてそれを詰め込んだ4ページをつくるという経験をしていたので、なんとなくこのメンバーだったらおもしろそうかなというのがあって、それではじめたんだと思います。
黒川 最初、就職活動してましたが、失敗してしまいました。僕は個人でやっている方のところに弟子入りしたいなと思っていて、お話はあったんですけど……。
馬場 何で行かなかったの?
黒川 やはり先生はイメージがあるから、自分でやることと所員に任せることとの切り分けが思っていたよりもかなりざっくり切り分けられていて、いまいち魅力を……。
馬場 贅沢。
黒川 ほんと贅沢。

――どこかに就職することなく、自分たちでメジロスタジオをはじめて、特に最初の頃はどうでしたか?
馬場 そりゃもう、ドタバタです。今は丸くなりましたけどね。みんな尖がっていて、自分にすごく自信があるし、結構ハイテンションでお互いの意見をぶつけていたので。プラス、クライアントが入ってきますよね。リアルなプロジェクトって実際やったことがないわけで、何が何だかわからないじゃないですけど、ここの考えもまとまらないし、施主との付き合い方もわからないし。そもそも建築ってどう建てるんだって。
――不安はありましたか?
馬場 一切なかったですね。ゼロでした。最初の2年目くらいまでは。
黒川 そうだね。そういった不安はなかったですね。
馬場:3年目になってガクッときましたけど。ここでの3人での仕事の進め方は未だに模索中なんですけど、建築プロジェクトのリアルな進め方を、小泉先生が自邸(『アシタノイエ』)のプロジェクトを通して、かなり手取り足取り教えてくれたんですよ。家庭教師のようにここ(メジロスタジオ)に通ってくださって。それがあって、その辺の不安はなくなってきました。小泉さんはいつも、「建築楽しいだろ、楽しいだろ」と言っていて、「あ、楽しい」って思いました。しかも、結構できるような気がしてきました。なので、そっちの方の不安は先生のおかげでスッとなくなってきたんです。就職難の時期だったんですけど、3年目くらいで周りのみんなはそれぞれ道を見つけ出して目を輝かせていたんですね。それをふと見たとき、僕らの2年間を経た3年目と、彼らの現状と今後の行く末を想像して、ゾワッと怖くなったんです。要は支えてくれるものが全くない、プロジェクトが途切れたら収入がゼロじゃないですか。そういう現実に改めて気付いて。責任の重さにも、どんどん仕事重ねていくうちに感じてきて。
黒川 最初何の不安もなかったっていうのは、何も知らなかったからで。でも、いろいろやってくるといろいろわかってきて……。

――今は何年目ですか?
黒川 去年(2007年)の9月で丸5年だったので、今は6年目です。
――はじめの頃と今とで一番大きく変わったことは何ですか?
馬場 よくも悪くも3人の距離の取り方を覚えましたね。当然、設計のスキルだとか、そういったものはよくなったと思います。事務所内部のやり方に関してはお互い賢くなったというか、お互いどこをどう引き出せばよいのか少しずつわかってきて、スマートにはなりましたね。
――今はどのような体制で仕事を進めていますか?
黒川 スタッフは2人です。
馬場 最初に仕事の依頼がきたらどうするか会議に掛けて、大体受けるんですけど、それで人を割り振ります。必ず3人のうちの1人がメインをやって、スタッフが1人付く。
黒川 途中でチェンジもあります。
――最近はどのようなプロジェクトを進めていますか。
馬場 最近はですね、個人のお客さんの戸建ての住宅はコンスタントにやっています。それから、8~10戸規模の集合住宅のプロジェクトが1つあって。あとは、相変わらずリノベーション系のプロジェクトは常に2つ3つありますね。それプラス、ひょんなことからここ1年くらい前から中国で集合住宅の内装のプロジェクトをしていて、初の海外プロジェクトが動き出しています。先月現場が動き出したところで。
黒川 最近、施主さんが多様化してきています。最初は個人の施主さんばかりだったのが、集合住宅などは地元の不動産屋だとか小さなデベロッパーだとか。あとは企業ですね。
馬場 少し珍しいのは、某メーカーの商品企画部と一緒に研究や企画の仕事をしています。住建の超総合メーカーなのですが、建材を売り込むための空間のアイデアがほしいということなんですね。マンションを題材にしてみたり、戸建ての住宅のベッドルームを題材にしてみたりで、我々に何ができるのかいつも悩みながらですけどここ3年程ずっと続いていています。いつか建築に結びことを願っています。

――メジロスタジオをこれからどうしていきたいですか?
馬場 よくも悪くも3つの矢でやっているので、お客さんの種類が豊富なのもそういったことからきてると思うんですね。1つのすごく強い作家性を出して構えているわけではないので、入ってくるものはすごく多様でおもしろい。その状態を維持したい、もっと広げていきたいとは思うのですが、あまり八方美人すぎても。要は仕事をただこなしているだけでも本末転倒というか、やりたいこととは違うので、多様な状態を維持したままどこまで濃くできるか、多様なままどこまで尖がったものにできるかということは、挑戦しがいがあると思います。
黒川 今、メジロスタジオという1つの固有名詞があって、だいたいどこにいても「メジロさん」と呼ばれることが多いです。ある規模の大きなところからの依頼については、個人でやっている僕らくらいの年代の人に名指しで依頼するというのは、向こうも頼みづらいと思うのですが、ある程度組織として1つあるので、頼んでもらいやすいのかなと思いますね。前に「モダンリビング」からの依頼がきたときに、本当にものすごく露骨に頼まれた感じだったんです。「メジロさんなら何かしてくれるんじゃないか」って、それだけで我々に声がかかってきたことがあって、「とりあえず枠があるから何かやって」と言って、パワーブックを渡されたことがありました。
馬場 困るよね。
黒川 でも、彼らのところに何か入れれば何か返ってくるだろうって。企業なんかもシンクタンクの方が僕らをそういうふうに買ってくださって、そこに繋ぎ込んでくれました。変換ボックスじゃないですけど、そういう、何か相手をわくわくさせるような魅力は維持させていきたいと思っています。出していくものは、3人だからフラットでなんとなく均されてしまうものではなくて、少し尖がりつつ、いきたいと思います。

――最後に後輩である在校生に一言お願いします。
黒川 卒業してから実際に何かしようとしたときに、学生の頃のたくさんの知り合いの中で、彼に頼めばこれができる、何か返ってくる、というのを知っていると、社会に出てから自分の味方が増えるというか、枠が増えると思います。外から入ってきたものに対して自分から出すときに、容量が増えるんです。狭い友達ではなく、日大なら人数も多いですし、他の学科・学部にも限りないチャンスがあるはずです。友達のレンジをどんどん広げていくことが、将来自分の可能性を広げることになると思うので、友達を……。
馬場 友達を大切に?
黒川 はい。
馬場 もう少し建築寄りなことを言うと、建築の1番面白いところって、形をつくることも楽しいんですけど、形によって人の動きが変わったり、場合によってはお金の動きが変わったり、風の動きが変わったり、要は環境に影響を与えるし、人の習性に影響を与えたりするし、記憶に与えたりするし、そういった、ものをつくったことによって二次的に起こることがおもしろいと思います。人が使うものなので、そういった視点を忘れないでいると、別に建築でなくても、社会を動かしてみるとおもしろいとどこかで思っていると、モチベーションが続くような気がします。
(2008年4月16日 メジロスタジオにて インタビュアー:佐藤慎也、担当:藤井さゆり、原友里恵)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 5 1, 2008 22:43 | TrackBacks (0)

大野博史

1974年生まれ。2000年日本大学大学院理工学研究科建築学専攻博士前期課程修了。池田昌弘建築研究所を経て、2005年オーノJAPAN設立。

インタビュー展示作品

主な作品『B house』2005(設計:atelier A5)、『PHOENIX BUILDING』2005(設計:ベラ・ジュン+藤村龍至)、『門仲デュオ』2006(設計:中永勇司)、『回廊の家』2007(設計:手塚貴晴+手塚由比)、『NEアパートメント』2008(設計:中永勇司+高木昭良)

オーノJAPAN ホームページ

ohno_neapartment.jpg
『NEアパートメント』2008 中永勇司+高木昭良+大野博史

2出展者 | Posted by satohshinya at 4 20, 2008 0:00 | TrackBacks (0)

木内厚子

1971年生まれ。1994年日本大学理工学部海洋建築工学科卒業。1997年東京藝術大学大学院美術研究科建築専攻修士課程修了。佐藤光彦建築設計事務所、飯田善彦建築工房を経て、2002年Studio8設立。2008年より日本大学理工学部海洋建築工学科非常勤講師。

インタビュー展示作品

主な作品『久留和海岸の住宅』2004、『南伊豆のセカンドハウス』2006

Studio8 ホームページ

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『久留和海岸の住宅』2004(撮影:石黒守)

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國武陽一郎

1970年生まれ。1996年日本大学大学院理工学研究科建築学専攻博士前期課程修了。長谷川逸子・建築計画工房、山岡嘉弥デザイン事務所を経て、1999年one + oneを山田岳と共同設立。

インタビュー展示作品

主な作品『N邸』2005(設計:國武陽一郎+山田岳+清水淳)

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『軽井沢別荘』

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『銀座珈琲 凛east+』2008 桑原大輔+國武陽一郎+山田岳

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黒川泰孝

1977年生まれ。2001年日本大学大学院理工学研究科建築学専攻博士前期課程修了。2002年メジロスタジオを古澤大輔、馬場兼伸と共同設立。

インタビュー展示作品

主な作品『高松町ガレージ』2004、『アシタノイエ』2004(設計:小泉雅生+メジロスタジオ)、『LIQUID COURT HOUSE』2004、『白州山荘』2004

メジロスタジオ ホームページ

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『高松町ガレージ』2004 メジロスタジオ(撮影:TAKAMURADAISUKE)

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『LIQUID COURT HOUSE』2004 メジロスタジオ(撮影:TAKAMURADAISUKE)

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『白州山荘』2004 メジロスタジオ(撮影:TAKAMURADAISUKE)

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馬場兼伸

1976年生まれ。2001年日本大学大学院理工学研究科建築学専攻博士前期課程修了。2002年メジロスタジオを古澤大輔、黒川泰孝と共同設立。

インタビュー展示作品

主な作品『高松町ガレージ』2004、『アシタノイエ』2004(設計:小泉雅生+メジロスタジオ)、『LIQUID COURT HOUSE』2004、『白州山荘』2004

メジロスタジオ ホームページ

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『高松町ガレージ』2004 メジロスタジオ(撮影:TAKAMURADAISUKE)

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『LIQUID COURT HOUSE』2004 メジロスタジオ(撮影:TAKAMURADAISUKE)

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『白州山荘』2004 メジロスタジオ(撮影:TAKAMURADAISUKE)

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齋藤由和

1974年生まれ。1997年日本大学生産工学部建築工学科卒業。西沢大良建築設計事務所を経て、2003年ア デザイン設立。

インタビュー展示作品

主な作品『岩城島の家』2004(設計:齋藤由和+林清隆)

ア デザイン ホームページ

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『岩城島の家』2004 齋藤由和+林清隆

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『武蔵小杉の集合住宅』2007

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『Point730』

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関本竜太

1971年生まれ。1994年日本大学理工学部建築学科卒業。エーディーネットワーク建築研究所、フィンランド・ヘルシンキ工科大学留学、ラブラ設計事務所、グリクセン・ヴォルマラ設計事務所を経て、2002年リオタデザイン設立。2008年より日本大学理工学部建築学科非常勤講師。

インタビュー展示作品

主な作品『HAKKO』2004、『ひかりハウス』2006、『OPENFLAT』2007、『minihouse』2008

リオタデザイン ホームページ

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『HAKKO』2004

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『ひかりハウス』2006

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『OPENFLAT』2007

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『minihouse』2008

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多田脩二

1969年生まれ。1995年日本大学大学院理工学研究科建築学専攻博士前期課程修了。佐々木睦朗構造計画研究所を経て、2002年多田脩二構造設計事務所設立。

インタビュー展示作品

主な作品『中国木材 名古屋事業所』2003(設計:福島加津也+冨永祥子)

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『森の家』2005 三浦慎 構造:多田脩二

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『e-house』2006 福島加津也+冨永祥子 構造:多田脩二

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『三ツ池の家』2007 仲亀清進 構造:多田脩二

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『西麻布の集合住宅』2008 川辺直哉 構造:多田脩二

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仲條雪

1970年生まれ。1994年日本大学理工学部建築学科卒業。木下道郎/ワークショップを経て、2002年ジャムズを横関和也と共同設立。

インタビュー展示作品

主な作品『ふたつの木箱』2003、『仲條邸』2008

ジャムズ ホームページ

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『仲條邸』2008 ジャムズ(撮影:齋部功)

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鍋島千恵

1975年生まれ。1998年日本大学生産工学部建築工学科卒業。手塚建築研究所を経て、2005年TNAを武井誠と共同設立。

インタビュー展示作品

主な作品『キバリの家』2005、『カラコンの家』2005、『輪の家』2006、『壇の家』2006、『モザイクの家』2007

TNA ホームページ

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『輪の家』2006 TNA(撮影:阿野太一)

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福田創

1968年生まれ。1993年日本大学理工学部建築学科卒業。アーキブレーン建築研究所を経て、2001年福田創デザイン事務所設立。

インタビュー展示作品

主な作品『界壁の家』2003(設計:前田光一+福田創)、『大口の家』2005、『葉山の家』2007、『市川の家』2008

福田創デザイン事務所 ホームページ

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『大口の家』2005(内観撮影:新良太)

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『葉山の家』2007(撮影:新良太)

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『市川の家』2008

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松崎正寿

1975年生まれ。2000年日本大学大学院理工学研究科建築学専攻博士前期課程修了。大成建設本社設計本部を経て、2002年atelier A5を清水貞博、清水裕子と共同設立。

インタビュー展示作品

主な作品『B house』2005(設計:atelier A5+大野博史)、『KA house』2006

atelier A5 ホームページ

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『KA house』2006 atelier A5

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山中新太郎

1968年生まれ。1992年日本大学理工学部建築学科卒業。2001年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。2000年山中新太郎建築設計事務所設立。2007年より日本大学理工学部建築学科助教。

インタビュー展示作品

主な作品『シリンダーハウス』1995、『神武寺の家』2000(設計:山中新太郎+西松繁郎+野伏武彦)、『幸手ハウス』2006

山中新太郎建築設計事務所 ホームページ

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『幸手ハウス』2006

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『宇土市立宇土小学校プロポーザル入選案』2008 ヨコミゾマコト+山中新太郎+小野田泰明

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