齋藤由和 インタビュー

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――建築家になろうと思ったきっかけは何ですか?
齋藤由和 浪人時代、図書館で勉強していたときに、たまたま鹿島出版会の「〈現代の建築家〉シリーズ」に出会ったんです。それまで何の目的もなく、ただ物理とか数学を勉強してきたのですが、純粋な理学ではなくて、それを応用させた工学にこういったものがあるのかと具体的に見えた瞬間だったんですよ。それで、おもしろいと思ったのと同時に、おこがましくも「このジャンルは戦える」と思ったんです(笑)。自分でも何かやれそうだとなんとなく思って。それまで建築には何の興味もなかったんですけれど、そこから建築学科を目指して勉強しようと思ったのが一番はじめですね大学に入学すると、1年生のときから建築がやりたくてやりたくて仕方がなかったんですよ。図書館の書庫にあった「新建築」のバックナンバーを、3ヶ月くらいかけて創刊号から全部読みました。
――すごいですね。
齋藤 その当時は「新建築」がよいのかどうかというのもわからなかったんですけれど、時間は掛かりましたが、読まなきゃいけない本をメモしながら、ゼロから見ていきました。メモした本は、磯崎(新)さんのものとジャック・デリダなどの哲学書が多かったのですが、端から読んでいって、近・現代辺りは何となく見渡せた気がしました。大学では、やはり設計製図の授業がおもしろく、発表の場があったので、とにかく発表できるようにがんばりました。たまたまレモン画翠に行ったときに卒業設計展を見ることがあって、「何やらいろんな大学でおもしろいことをやっているぞ。こういうのを出せたらおもしろいな」と思い、他大の建築学科の友達もいたので、早稲田大学などの設計製図の講評会があれば見せてもらったりしていました。その中には、優秀な生徒を1人の建築家として認めるような意見があって、学生の優秀案を批判したゲストの建築家に対し、「あなたのつくっているものより断然おもしろい」と平気で言ってしまう歯に衣着せぬ批評があったり、とても刺激的でした。

――どのような課題をやりましたか?
齋藤 住宅、集合住宅、二世帯住宅、商業ビルとか、学部で与えられる課題を1つずつやっていくんですけれど、やはり勉強している最中にやるので、誰かっぽいんですよ。多くの建築家に影響されていました。自分の中で一番大きかったのは卒業制作ですね。1年生から先輩の卒業制作の手伝いをしていたんですが、たくさん図面や模型をつくって、量で勝負という印象でした。しかし、自分がやるときは、それはやりたくないと思っていました。量やプレゼンで勝負というのは絶対にしたくないと思っていました。しかも、三面図で勝負をしたかったんです。着彩もほとんどしないで、ただの平面図、立面図、断面図でおもしろいと思えなければ嘘だと思って、それだけで戦える建築を目指しました。(3年生までの)自分の過去のものを見渡したら、デザインが腐っているんです。それを見て、恥ずかしいと思いました。「3年も経ってないのに腐っているようでは仕方がないだろう。20年、30年も腐らないデザインとは何なのか?」と考えました。ちょうどジル・ドゥルーズの『差異と反復』に出会い、反復と思うことをすべて捨てて、卒業制作ができました。1つの自信というか、「こういうことでいいんだな」というのを掴んだ瞬間だったんですよね。
――どのようなものをつくったんですか?
齋藤 今も越える作品をつくることができなくて嫌になっているんですけれど、10層の商業ビルです。周りに廊下があって、引き戸でラップされているような、周りをグルグル歩けるビルです。1フロアに100枚建具を使っていて、10層で1,000枚使っています。例えば、外から入ろうとすると扉を開けるじゃないですか。あるいは中の人が、「夏には気持ちがいいから全開にしよう」とか、「寒いから閉めよう」とか、「換気のために少し隙間を開けよう」だとか、そういった中と外のプログラムが建具の開閉のパラメータに変わって現れます。そのようにプログラムと社会的な環境が開閉の具合によって一次変換され、それが建物全体のデザインになるというものです。呼吸するように閉めたり開けたりする動きによって、状況や中のプログラムが現前化されるわけです。30年、50年、100年経っても、窓や扉あるいは入口はあるだろうと考えました。そこで、「(全体を)建具だけでつくるか」と極論していきました。それを僕は、「コンテクスト読み込み型建築」と呼びました。自分では、よくあきらめたいい建物と思っています。作品は、生産工学部のホームページから見ることができるはずです。

――4年生のときに所属した研究室はどこですか?
齋藤 宮脇(檀)先生の研究室でした。そこは「居住空間デザインコース」の研究室で、そのコースは女子学生の就職難を助けるために設立され、1年生から一貫した教育を行う女子しか入れない特別なコースなんですよ。「そこを何とか」と言って、かなり例外的に入れてもらいました。
――本当に女子しか入れないんですか?
齋藤 はい、女子しかいません。僕と同級生の2人だけが本当に例外でした。宮脇先生は非常勤教授なので、直属の曽根(陽子)先生にはかなりご迷惑をお掛けしました。迷惑息子にとっての第二の母です。僕は宮脇先生と話すために、先生の『宮脇檀の住宅設計テキスト』に掲載された図面を全部トレースしました。モダンリビングをわかったつもりで、少しでも現代的な(モダンリビングを批判するような)案を持っていくと、「おまえわかってないな」と言いながら、こっちが3分説明すると、30分くらいの指導をしていただき、本当に熱意のある先生でした。今思えば、学生の間にモダンをしっかり教わったことは財産となっています。クリスマスの前に代官山のアトリエにゼミ生全員を呼んでくれて、パスタを生地からつくってもてなしてくれたんですよ。散々ご馳走になったときに、「何とか日大を口説いて、例外的にお前たち(男子)2人も4年で採れるようになった」と言ってもらえて、涙を流しました。いつも格好いいんですよ(笑)。
――3年生のときから研究室に入ったのですか?
齋藤 3年生のときにはゼミに入りました。ゼミは誰でも入れて、3年生の前期と後期で研究室を1つずつ選ぶことができ、2つの研究室を体験できます。
――宮脇さんが亡くなる少し前ですか?
齋藤 ちょうど卒業制作をやっているときに、いつも元気な先生が珍しく辛い顔をしていたことを思い出します。しばらくして咽頭癌と知って、ショックでした。それでも、卒業制作をファクスで見ていただきました。卒業して、西沢(大良)さんの事務所に入り、担当した1件目の『大田のハウス』ができました。僕は宮脇さんに「おまえに住宅なんてできない」とずっと言われていたので、どうしてもJT(「新建築・住宅特集」)を持って見せに行きたかったんです。新建築社さんで、JTの掲載打合中に、後輩から「宮脇先生が亡くなった」という連絡が入り、愕然としました。その翌日から僕は西沢事務所の夏休みで、その晩に研究室に集まって、朝まで泣いてました。そして、宮脇先生の訃報記事と『大田のハウス』が同じ号に掲載されています。僕にとって、忘れられない号となりました。

――西沢さんの事務所を選んだのはどのような経緯ですか?
齋藤 まだ「住宅特集」にも最初の作品(『立川のハウス』)が発表されていない頃でしたが、「SDレビュー」に案(『小平のハウス』)が載っていて、西沢さんの図面を見て、雑誌の小さな図面に、初めてスケール(物差)を当てたんです。その寸法の感覚に驚嘆したんですね。その当時、どんな人の図面を見ても、雑誌の小さな図面にスケールを当てたことなんてなかったんですよ。西沢さんの図面は、あまりにも不思議すぎるため、スケールを当てないとわからないんですよ。スケールを当てて興奮しながら、この人は本物だと思って。しかも、三面図で戦っている、三面図だけで十分おもしろい、それを見ながら10分間、「よくできているな」と思いました。今まで、10分間、ずっと見ることができた図面なんてないですよ。やっぱり、この人はすごいと思いました。こういう内容のあるものが本物だと思って、噛み締めることができるような三面図が描きたいと思いましたね。
それで、卒業設計展を他の大学とやったときに、西沢さんや若手の人たちにクリティックへ来ていただきました。卒業制作を西沢さんに見てもらったら、「お前はわかってる」と言ってもらえたんです。卒業制作の展覧会で来てもらっているのに、「今までは学生だと思っていたけれど、今から1人の建築家として話そう」と言ってくれました。「構造で表現してはダメだ、本当に建具だけでやらないとダメだ」と本気で言ってくれました。まだ、あきらめるところがあったんだと感心しました。講評会後の飲んでいる席で、「(事務所に)入れてくれ、あなたしかいない」と口説いたんです。「他におもしろい人がいないんだ」としつこく言いました。そうしたら、「今は仕事がないから勘弁してくれ。とりあえず忙しい事務所を紹介する」と言われ、小嶋(一浩)さんを紹介していただきました。シーラカンスさんで3ヶ月くらいアルバイトさせていただき、西沢さんから「仕事が来たから手伝って」と言われ、2ヶ月くらいお試し期間があり、それから所員にしていただきました。
僕がはじめのスタッフだったんですが、毎日が衝撃的でした。『立川のハウス』が竣工したときに僕が入り、それ以降の『大田のハウス』、『熊谷のハウス』、『諏訪のハウス』『2つの会場(ICC「移動する聖地」展会場構成)』、『鶴見のハウス』を担当しました。

――西沢さんの事務所ではどんなことを学びましたか?
齋藤 一言では語り尽くせないですね。まず、はじめに驚いたのは、例えば「同じ10平米の正方形と長方形の部屋を比べてどっちが広いか?」という、本当に客観視できることを具体的に比べ、よい方を採っていくというような、基本的だけどとても重要なスタディから始まったことです。もっと基本的なことでは、図面の描き方もそうだし、計画自体もそうなんですけれど、グラフィック(デザイン)を徹底的に訓練します。文字の太さとか大きさとかレイアウト、その図の示す意図や意味など……。西沢事務所の雑誌掲載図面をよくよく見ていただくと、その計画ばかりでなく、図面の描き方なども信じられない部分を調整しています。お陰で、今では印刷物の仕事もしています(笑)。それ以上は守秘義務ですかね(笑)。グラフィカルなことは、建築ではないことでもいろんなことに関係していますよね。最低限、そういうことくらいは、せっかくデザインを教えているんだから、大学がしっかり教えた方がいいんじゃないかと思います。社会の質が向上しますよ。
――西沢さんはどのような建築家でしたか?
齋藤 「どのような建築家か?」というのは難しい質問ですが、ある側面で西沢さんらしいと思えることは、数学的だということです。実際、数学がかなり得意だそうです。条件や環境を全部並べて解いていき、複雑な連立方程式を解くようにこれしかない1つの答えを出します。だから、説得力があります。少し飛躍させますが、その延長に「ビルディング」があると思います。「ビルディング」という論稿(「住宅特集」1997年4月号)で、建築家のイマジネーションが障害になると言っています。事務所では、想像しないための方法として、とにかく描いてみる。そして、実際見える要素を比べ、よいものを選択していきます。例えば、「空間」というと扱いにくいので、「W×D×H」とすれば寸法として扱えるようになります。そして、数学的にどんなWDHの組み合わせがあるかを検討する感じです。非常に数学的だと思います。(上記はわかりやすい例えであって、西沢さんの考え方については、多くの論考を参照してください。)
――今、西沢さんは大学院(理工学研究科建築学専攻)の非常勤に来ています。
齋藤 学生は、いろいろと学べるんじゃないですかね。僕も学生のときに、ああいう人が先生だったら違ったんじゃないかなと思いますね。いい建築家が、必ずしもいい教育者と限らないと思いますが、宮脇さんも西沢さんも教育者としても素晴らしいと思います。宮脇研究室も西沢大良事務所も一度は断られ、あなたしかいないと気持ちを伝えて、受け入れていただきました。女子を口説くのを含めても、こんなに一目惚れしたのは、後にも先にもこの2回だけです。若くないとできません。好きな人が見つかったら、アタックすべきと思います。
それから、卒業制作は学生にとってすごく重要だと思っていますね。建築だけじゃなくて、映画でも絵画でも食べ物でも音楽でも、本当に好きなものを並べたりして、自分を見つめるところからはじめるべきだと思うんです。何かひとつでも自分が見えたら、その後の支えになると思います。僕はそのときの自分の考え方がずっと付いてきています。もちろん発展はしていますけれど、根っこはそこにあると思っています。
(2008年4月23日 ア デザインにて インタビュアー:佐藤慎也、担当:原友里恵、藤井さゆり)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 6 2, 2008 17:01


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