近代美術におけるキュレーションによる妙

「痕跡 戦後美術における身体と思考」(東京国立近代美術館)を見た.ほとんど期待せずに見に行ったのだが,なかなかの好企画.「痕跡としての美術」をテーマに国内外60人による120点が,表面,行為,身体,物質,破壊,転写,時間,思考の8つのセクションに分けて展示されている.展示の最初に断り書きがあるとおり,そのセクションの分類は厳密なものではなく,どのセクションに分類されてもおかしくないもの.それに伴い展示構成も,順路らしきものがあるようだが,こちらもやはり明解には分割されていない.近美の企画展示室はあまり好きではなかったが,やはりテーマに沿ってしっかりとキュレーションされた展示は見応えがある.しかも1点ごとに解説が付されている力の入れようで(カタログにも掲載されている),閉館1時間前から見始めたのだが,もう少し時間が必要なほどの濃い内容であった.もちろん50年代から70年代後半の作品によって構成されているため,いわゆる(コンテンポラリーアートではないという意味で)近代美術(絵画)がほとんどで,インスタレーションのように空間を作品化したものではなく,この天井高の低い展示室でも十分に対応できている.むしろ仮設壁によるルーズな分割は,久しぶりに良質な近代美術館の企画展示室を見たように思う.ホワイトキューブが全盛となる前は,どの美術館もこんな感じだった.
更によかったのは,作品の半数以上が日本の公立美術館より集めていること.海外のコレクションをそのまま持ち込む展示は多いが,これだけ丁寧に作品を集め,あまり実物を見たことのない作品も多く展示されており,その意味でも,これらの時代の美術を知るにはよい企画.

美術 | Posted by satohshinya at February 18, 2005 23:44 | TrackBack (0)

相対的

「MUMI クリテリオム61 嵯峨篤」を見た.確かに展示室の壁を磨き上げた今回の作品には,一種異様な迫力がある.しかし,少し残念なところもあった.
今回は展示室の壁面そのものを磨いた『cube on white』とともに,SCAIでの展示作品が大型化された『MUMI』6点が展示されている.『MUMI』は,MDFにウレタン塗装とアクリルラッカーを磨いたもので,ちょっと何でできているのかわからない美しい作品だ(そして,何が描かれているかもわかりにくい).つまり,ここでの表面磨きの順番は,一般の展示室壁面を併せて考えると,
 MUMI > cube on white > 一般の展示室
となる.しかし,今回のクリテリオムの展示室には,
 MUMI > cube on white
の2つの関係しか存在していない.本来であれば,
 cube on white > 一般の展示室
という関係が,大変に大きな差の「>」であることがポイントになる.しかし,その比較対象物である普通の壁が,同時に視角に入ることがなく,しかも近接していないため,この『cube on white』という作品がどのくらい異常であるかがうまく理解できない.もう1度外に出て,廊下の壁面と比較することで,ようやくその異常さに気が付く.それどころか,より完璧な『MUMI』が展示されていることにより,
 MUMI > cube on white
の「>」が大きな差と感じられるため,
 cube on white > 一般の展示室
の「>」がそれほど大きな差ではないように思えてしまう.それが少し残念だった.更に残念なことに,写真ではほとんどその作品が理解できない.本当にバカバカしいほどの労力による,鬼気迫るインスタレーションである.

水戸芸術館現代美術センター学芸員である森司氏のblogでは,『cube on white』のその後や,続くアーキグラム展の展示壁面の施工(嵯峨氏監修)の様子も見ることができる.更にこのblogは,今日(1月19日)の「朝日新聞」夕刊にまで紹介されていた.

美術 | Posted by satohshinya at January 19, 2005 23:47 | Comments (2) | TrackBack (0)

アートそのものが疑われてる

先を越された感があるが,横浜トリエンナーレ2005のディレクター交代問題.このタイトルは,磯崎新氏が,辞任発表4日前に行われたシンポジウムの席上で発言したものとのこと.このシンポジウムは,web上でもさまざまに取り上げられているが,その後の経過も含めて,やはりここに注目.
しかしここでは,「朝日新聞」12月16日の夕刊の大西若人氏による記事が,シンポジウムの状況を整理してくれていることから,大幅な引用となってしまうが紹介する.
磯崎氏の当初のプランは,《「従来の国別展示でも,キュレーターの指名制でもなく,最もまともに美術展を支えている組織」を前面に出す新システムで,国際展の枠組みを再構築する試み》を目指したもの.これに対し,南条史生氏が《「若い作家を選んで,国際舞台に出す」という国際展の機能が果たされない,と指摘.磯崎氏が「そのキュレーターの思い上がりが困りもの」と切り返すと,南条氏も「アーティストのためにやるのではないのか」と反発する場面も》あったり,北川フラム氏は《「そもそも建物の中でやるのが間違っている.横浜市が市民のためにやるなら,町づくりの実績を表に出す『都市展』しか意味がない」と語った》り,岡部あおみ氏が《「小都市でも国際展が開かれるのは,特徴を持つことでグローバリゼーションへのアンチとなるから」と話したが,磯崎氏は「ローカリズムを主張する国際展が多数あるのが,もうグローバリズムの枠内」と異論を呈した》りしたようだ.結局,《ショック療法的な磯崎案だが,「アートは国境を越えるだけでなく,国という単位に依存しない点で,21世紀に大きな力を持つはず.それには,ただ見せるだけの展覧会ではいけない」との指摘は,傾聴に値する》とのこと.磯崎氏がディレクターを務めることから,大変に期待をしていたのだが,これもまた氏がお得意とするアンビルトになったようだ.
新しい国際展の1つの例として,9月に開催された「光州ビエンナーレ2004」での試みが挙げられる.「artscape」の村田真氏のレビューより.《今回のユニークな試みは「観客参加」だ.これは農民や学生,主婦など一般人や美術以外の専門家,社会活動家らの「観客」を事務局が選び,アーティストとコラボレーションしてもらおうという企画.》この企画自体は大変に興味深い.しかし,《これはうまくいけばアーティストにとっても「観客」にとってもメリットがありそうだが,「お見合い」に失敗したりケンカ分かれする可能性もあり,効果はあまり期待できない.大半の作品は「観客参加」によってどこがどう変わったのか,または変わらなかったのかまったくわからないのだ.》結果はともかく,このような試みは更に続いてほしい.まあ,こんな国際展ですら,財団や観客とのコラボレーションが要請されているということか.

美術 | Posted by satohshinya at December 18, 2004 10:21 | TrackBack (3)

コラボレーションという名のエクスキューズ

「アジアン・フィールド」を見た.アントニー・ゴームリー氏による,旧都立高校の体育館を会場とした巨大なインスタレーション作品.教室で使われていたと思しき椅子と机が並べられていて,それが体育館を別の場所に見せてしまう働きを持ってしまい,少し余計な気がした,素焼きの微妙な色の違いを完璧にコントロールした,アーティストによる配置だけで十分な気がする.入口に展示されている,粘土像とその作者の写真もおもしろい.
受付に置いてあった「毎日新聞」(だったと思う)の本展を紹介する記事に,中原佑介氏の文章が用いられていた.《コラボレーションという考え方には,創造する人間があり,その人間によってつくりだされた作品を鑑賞する人間がいるという二極構造の通念を壊す要素が存在していると私は思います.》「芸術の復権の予兆」『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2003』(現代企画室)
もちろん,『アジアン・フィールド』は(中国における)壮大なコラボレーションによる作品である.しかし,一方で,コラボレーションが単なるエクスキューズでしかない作品が増えてきていることもまた事実ではないだろうか?

ここまで書いた後に,「テレビ美術館」でアントニー・ゴームリー氏のインタビューが放送されたのを見た.中国での制作風景,日本での展示風景のドキュメントが同時に流された.中国では,地下駐車場や穀物倉庫が展示に使われていた様子.やはり日本の机のように余計なものはなく,ただ大きな空間に並べられているだけ.この方がいい.simonも書いているように,視点が限られていない方がよいのではとも思ったが,やはりこの角度のこの間口(もう少し下がってみられればよかったけど.壁が近すぎる)で見るのが正解だろうと思い直していた.案の定,展示風景を見ると,手前の密度に対して奥の密度はかなり粗い(笑).そりゃそうだ.あそこからしか見えないからこそ,20万体という数が成立している.もちろん,粘土像自体の視線の問題もある.色についてゴームリー氏は,並べる際に「色が共鳴するように」と指示を与えたらしい.そして,完成したものに対して「海」という表現を使っていた.
どこかのエントリに《最終日》云々という記述があったが,本当の最終日は今日(28日)まで.一見の価値はある.撤去のボランティアも募集している.28日〜30日まで.

美術 | Posted by satohshinya at November 28, 2004 1:06 | Comments (3) | TrackBack (0)

鉄板

end.jpg

『キョロロ』写真コンテスト参加.
何れも錆びた鉄板に見える手塚貴晴+手塚由比+池田昌弘3氏の『「森の学校」キョロロ』と遠藤利克氏の『足下の水(200m3)』.誰が考えたのか,これが並んで設置されている.一方は建築作品で,見えている鉄板は外壁であるとともに構造体である(らしい).一方は美術作品で,見えている鉄板の下には容積200m3の水がある(らしい).鉄板が構造体であったり,鉄板の下に水が入っていたりすることがどうやら重要なようだが,見ただけではわからない.もしかすると,構造体になんかなっていなかったり,水なんか入っていないかったりするかもしれない.いや,そうでなければ,構造体であったり水が入っていたりする鉄板が,構造体でもなく水も入っていない鉄板とどのように違うのか? それが問題.

kwmt.jpg

オマケに川俣正氏の作品『松之山プロジェクト』.『キョロロ』がある場所に作品を展開していたのだが,追い出されるように駐車場内を占拠して再展開.気持ちはよくわかる.

建築, 美術 | Posted by satohshinya at November 17, 2004 5:33 | Comments (8) | TrackBack (2)

更なるこの美術館が用意する組み合わせ

「COLORS:ファッションと色彩 VIKTOR&ROLF&KCI」「小沢剛:同時に答えろYESとNO!」(森美術館)の2つを見た.相変わらずの森美術館による2つの展示と展望台の抱き合わせ販売だが,今回は更にCOLORSを見ないと小沢が見ることができないシステムに発展.
小沢は期待通りの大個展.趣味に合わない人も多いかもしれないが,1つずつ丹念に見ていくと巧妙な仕掛けが理解できるはず.意外だったのがCOLORS.これがおもしろかった.展示品もともかく,シンプルでありながらもかなり質の高い(お金の掛かった)全体のインスタレーションは見物.これがまた小沢のチープさとあまりにも対照的で笑える.その意味では,今回の2つのセットは観光客たちがどちらか(きっと大人はCOLORS,子どもは小沢)に反応するであろうということでは大成功.一見の価値あり(あまりにも入場料が高いけど).しかし,さすがに今回は展望台には見向きもせずに帰ってきた.
それから,出口への質(たち)の悪いみやげもの屋のような動線には閉口.あれはどうにかなりませんか,森美術館?

美術 | Posted by satohshinya at November 16, 2004 5:59 | Comments (1) | TrackBack (1)

小学校と現代美術

磯崎新さんが『バス・ミュージアム』の発表とともに,「現代美術館のこと」というインタビューに答えている.《今となっては,第一世代の空間の中であろうと,第二世代の中でも関係ない.倉庫の中でもルイ王朝スタイルの部屋でもいい.場所の特定はしなくていいというくらいに現代美術のアーティストは拡張している.……ぼくとしては,この建物は本来の意図が実現していないんだけど,現代美術館にとっては関係のないことかもしれません.》(「GA JAPAN」55号) 単純化すると,「第二世代」は近代美術のための空間,「第一世代」はそれ以前,「第三世代」は現代美術となる.
たまたま近所の図書館へ行く道に迷ってしまったために,旧坂本小学校でやっている「Voice of Site」展に出くわした.これは,シカゴ美術館附属美術大学,スクール・オブ・ビジュアル・アーツ(ニューヨーク),東京藝術大学という3芸術大学の学生,卒業生,教員のインスタレーション作品による現代美術展だ.藝大大学美術館陳列館,gallery J2,旧坂本小学校の3会場を使って開催中.展覧会の存在は知っていたが,たまたま横を通らなければ見に行くつもりはなかった.
都内の廃校となった小学校を利用した現代美術展は,旧赤坂小学校の「日本オランダ現代美術交流展」(1996),旧原町小学校の「セゾンアートプログラム・アートイング東京2001」(2001)などを見たことがある.その他にも,「越後妻有アートトリエンナーレ」(2001,03)でも多くの小学校が使われていたし,アーカス・プロジェクトのように小学校自体をアーティスト・イン・レジデンスの恒久施設にしてしまったものもある.磯崎さんの言うように,現代美術が拡張しているとも言えるけれども,廃校となった小学校は,まるで現代美術のための1つのビルディング・タイプをつくっているかのようでもある.
実は坂本小学校の展示も,会期の早い午前中に行ったためか準備中の作品が多く,ほとんど見ることができてなかった.陳列館などもまだ未見であるので,時間があれば見てみたいと思う.今まで見た中では,坂本小学校の理科室に展示されている,大竹敦人の『光闇の器』が必見.ただし,天気のよい日に行くこと.

「art-Link 上野-谷中 2004」とともにお楽しみください.

美術 | Posted by satohshinya at October 1, 2004 7:58 | TrackBack (1)

東京の現代美術館にて

「近代美術」はModern Artの,「現代美術」はContemporary Artの翻訳であるわけだが,その定義は様々である.近代美術が,印象派以降の美術を指す場合があったり,キュビズムや未来派以降の美術を指す場合があったりする一方で,現代美術が,キュビズムや未来派以降の美術を指す場合があったり,第二次世界大戦以降の美術を指す場合があったりする(詳しくは,Wikipediaの「近代美術と現代美術」を参照).その意味では,現代美術館の展示範囲が様々であってもかまわない.日本の公立美術館で現代美術館という名前が付くのは,1989年に広島市現代美術館(設計:黒川紀章)が開館して以降,水戸芸術館(1990,設計:磯崎新)の現代美術ギャラリー,丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(1991,設計:谷口吉生),奈義町現代美術館(1994,設計:磯崎新),東京都現代美術館(1995,設計:柳澤孝彦),熊本市現代美術館(2002)というくらいのものである.その東京都現代美術館で2つの展示を見た.
「近代フランス絵画 印象派を中心として 花と緑の物語展」と「ピカソ展 躰[からだ]とエロス」である.前者は,タイトルが示すように花と緑をテーマに,モネやセザンヌなどの印象派を中心に展示したものであり,後者は,パリのピカソ美術館のコレクションから,1925〜37年に制作された作品を中心に展示したものである.それぞれ展示自体は,テーマに沿ったキチンとしたものであり,充実した内容である.特に「ピカソ展」の方は,ピカソ美術館との共同開催だけあって,ややマニアックなピカソの一断面で構成されたものだが,本格的な展示である.
しかし,どうして現代美術館でこのような展示が行われるようになってしまったのだろう? 現代美術は人が入らないから,印象派やピカソを展示すれば観客動員が増えるということなんだろう.常設展示にしても,美術館の新規作品購入予算がゼロであるから,将来性はまったくない.現在の館長は,日本テレビの会長である氏家齊一郎氏で,年に一度はアニメの展示を行う方針とも聞く.まだジブリの展示であれば現代を扱ったものとして微笑めなくもなかったが,ピカソはともかく,どの定義を見ても印象派は現代美術とは呼べない.もちろん,従来の美術館に比べて,東京都現代美術館の天井の高いホワイトキューブの空間は,近代美術に対しても良好な展示環境をつくり出す.現代美術館と名付けているわけだから,広義の現代美術の定義に照らし合わせて,キュビズム以降の作品を展示するのは大いに結構だが,せめて印象派以前の作品は扱わない分別が必要だろう.「ピカソ展」を開くにしても,展示室外にミュージアムショップがあるにも関わらず,更に展示室内にピカソ・グッズを販売するスペースを特設するような,商魂逞しいことはやめてほしい.デパートだって展示室内でグッズなんて売らないんじゃない?
とにかく,「ピカソ展」自体は一見の価値があるが,この美術館の態度は最悪である.

美術 | Posted by satohshinya at September 21, 2004 7:49 | Comments (1) | TrackBack (1)

日本画によるインスタレーション

「横山大観「海山十題」展」(東京藝術大学大学美術館)を見た.黒田清輝に引き続き,横山大観はよく知っているし,おそらく作品もいくつか見ているが,全く興味のない作家だった.更に,六角鬼丈さん設計の展示空間が好きではないこともあって,ほとんど期待をしないで見に行った.ところが,これがすばらしい展示だった.
大戦に向かう国家に貢献するために,大観は海の絵10点と山の絵10点を描き,現在のお金で20億円の売り上げを得て,4機の戦闘機を軍に寄贈したとのこと.その背景の善悪はともかくとして,完成直後でも山と海が10点ずつ別会場で展示されたのみだったものが,一同に20点が集められている.
つまり,同一のコンセプトで描かれた作品が,当時の大観が意図した配列を再現されているとともに,1点ずつ展示ケースが作られている熱の入りようで,展示空間が1つの作品として十分成立している.ここでもまた,確かな展示がすばらしい作品空間を生み出す好例となっている.日本画もバカにできない.

美術 | Posted by satohshinya at August 24, 2004 6:41 | TrackBack (0)