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透明な秩序

「私を反逆者にした」って一行目に書いてあります。

日記 | Posted by at January 23, 2006 10:32

悩み一喝処理

付和雷同な思考で、何処へも収斂しない人。
達成感もままならないまま、目が泳いでいる人。
建築をツールとしてしか価値を見いだせない自意識過剰な人。
さまざまな顔つきをした人間が廊下をうろうろしています。
きけんです。というかうざいです。大学はスキルを身につけるための場所ではありません。
人間的な座標を定着させていく、指標を多く享受してくれる場所です。
だからいろんなことを言う人間がたくさんいます。
こんなことを書いている僕はいたって冷静です。
なぜか。広範な問題を一括し、解答する方法として、建築は非常に有効だと思っているからです。もちろん、これは僕の問題意識と達成感のバランスの中で生まれた価値観なので、全ての人に直接つながることではありません。創作活動は自問自答の中から、スタンドポイントを発見していきます。だから、悩むことは当然です。しかし、その創意が、社会に露出し、どこに着陸させるかまで考えてこそ、その妄想は達成されると言って過言ではありません。自分の価値観で言うなれば、問題の解決と新しい日常を引き出してこそ、ということです。

修士設計が終盤に入っているので、しばらく引きこもるつもりで、このエントリーは書いています。
ある後輩から留年の憂き目にあっているとメールがあり、返信したメールが自虐的ですてきなものになったので、書き留めておきます。(このメールを書くたねにしたブログのエントリー
「おそらく、最終的にはかたちにして発表するが、かたちを作ることが目的でなくてもいいじゃないか。リサーチも大事と言って、全然評価してくれないじゃないか。かといって調査レポートを超えている自信もない」
こんな回路をうろうろしていて、結果的に何もやっていない。ということになったのではないか?
ある側面からみれば、先生方は、かたちのみで結果を出してきた人たちだから、前段の部分での評価は下手にできない。でも、かたちがあって、リサーチが成り立つという道筋は確かだ。というたったひとつの論点のみが評価軸。そこを把握できないと、会話は、どんどんすれ違う。これは、僕の経験を加味して書いている。確かにかたちだけをみれば、決して満足出来るものではなかったが、獲得感はあった、だからこの先が見込めている。
難波和彦 青本往来記 2004年11月17日(水)には以下のようにも記してある。 
社会的な問題を発見すれば、そこからデザインが出てくるという幻想を持っているように思える。しかし実際は逆である。仮説的な提案がなければ社会的問題は明らかにはならない。問題がデザインを生むのではなく、デザインが問題を発見させるのだ。問題からデザインが生まれたように思えるのは、事後的な説明だからにすぎない。この落差は限りなく大きいといわねばならない。複雑な設計条件であればあるほど、単純でエレガントなデザインで応えるのが建築家の真骨頂であることをまるで分かっていないのだ。

最後に、ぼくの大好きな東浩紀を引用します。(1/22現在 リンク切れ
雑音を断ち切る
若いひとへのアドバイスですよね? それならば、学問はまずものごとを「真剣に受け止める」ことからはじまるのだ、と言いたいですね。「受け流す」ことからは始まらない。最近は、BLOGとかがあるので、普段からいろんな意見を浴びて、若いうちから他人の意見を受け流す技が上達しているし、またそういうのが賢いと思われている。社会学は、そういうときとても便利なツールとして使われている。つまり、「俺はおまえの意見と違うよ」と言っても、「ああそれはそいういうコミュニケーションなんだね」と、するっと受け流してしまう。でもそういうことを言っていると大成しないので、物事には真剣に取り組むべきです。
つまり本を読むときには、若いうちには、「ここに真理が書いてある」と思って読まなければだめだということです。「こういう時代もあったんだな」とか「こういうことでコミュニケーションをとっている学者もいたんだな」とか、そいういうメタな読み方をしていてはダメです。そこには真理が書いてあるとおもって読まないといけない。そういう社会学的な読み方というか、メタレベルな読み方は、30代になってやればいい。『波状言論S改』を自分で作っていて言うのもなんですが、「社会学的な知」が蔓延することの危険性はその辺にある。つまり受け流す技と言うのが、ちょっと拡がりすぎている。何にせよ、「本を読むときは真面目に読む」ということです。まぁ今の世の中だと、そういうのが非常に難しいというのも分かります。例えば、最初からAmazonのブックレビューがあって、良いとか悪いとか言っている奴がいっぱいいて、BLOGでもいろんな書評がいっぱいあって、じゃあ俺の立ち位置ってどこかなって探りながら、新刊を読むという感じになってしまっている。なかなか、「これ正しい本なんだ」と信じては本を読めなくなっている。でもそれは非常に不幸なことなのです。(ここに挙げた20冊は)そういった雑音を断ち切って読んでもらいたい(本)です。(補足:紀伊国屋の「じんぶんや」という企画の棚に平行して配布されたフリーペーパーの一節です。従い、実際はここから20冊の本の紹介が続きます。)

建築, monologue | Posted by at January 22, 2006 16:25 | Comments (2)

広大なネットが持つ伸びしろ

今回のライブドアショックの件は、一段落してから書こうと思っていましたが。秀逸なブログのエントリーが雨後の竹の子のように出てきているので。クリッピング。
LINK:渦状言論|ライブドアとオウム?
LINK:マインドマップの書き方|ライブドア暴落のまとめ

今の堀江さんのやり方は諸手をあげて賛同は出来ないけれども(実際にライブドア株は買っていない)。既存を打ち崩す手段としてはありだと思っていた。今回の件が無難に済めば、きっともっとリスク管理を徹底して、嫌みを言われないようにするだろうなぁ。そうなって欲しいなぁ。
LINK:僕は死なない|小さなリセットを繰り返すみたいな感じなんだけど。

暗い気持ちの時は、ネタにしてワラウ。これニホンジンのサホウネェ。
LINK:ニュー速クオリティ|堀江の一日
LINK:ザラ場の歩き方|損した腹いせに

過去に書いた堀江さん関連のエントリー:荒川修作×磯崎新大江健三郎×原広司弱い身体の集積とその可能性

ライブドアとは関係ないけど、気になったからメモ。
昨日のWBSで猪瀬直樹が「国有地をどんどん民間に流していけば良いんですよ。そうやって既得権を押し下げる」
アナウンサーが「そうすると不動産市場混乱するんじゃないですか?」
いのせ「いいんですよ。汐留みたいにばんばん建てればいいんだよ(ジェスチャー付き)」だって。
専門外のことまで口出すから叩かれるんだよ。ま。そんな簡単にはいかないだろうけど。

さいごにおまけ。
GoogleQooqle
3日で2兆円下落。錬金術は同じだったのか?

clip | Posted by at January 21, 2006 7:18

建築がもつ力を信じている

unite.jpg

マルセイユのユニテは本当に感動した。ひとつの建築の魅力によって街並みが出来ている。
建築がもつ力に圧倒されたのと同時に、この建築が使いこまれ、いまだに愛されていることに感動した。
街並みと言っても、何のことはない、ただ真似して作ったものがたくさんあるだけなんだけど。
どれもユーモアやウィットに富んでいて、かわいらしい。

unite-roof.jpg

現在の建築は、経済によって切り取られた囲いの中でしかない。
社会を変容させる力はもうないのか?
いわゆる作品、自己の再生産の部分でしか、価値を見いだせないのか。

住宅特集2001|11号での空間にみるパーソナリティの座談会の中で手塚貴晴が「建てることで状況を変える、という気持ちがけっこう大きいですね。〜マルセイユのユニテを見に行ったときに感じたんですが 〜 ユニテのコピーが大量に建っている。それが街並みをつくっているんです。ひとつの建築のもつ影響力はすごいと思いました。」と述べている。

一方で、荒川修作は、コルビジェっていうのは、階段をかけあがって、メジャーで測って2mでも10mくらいだね。とかいうのがない。とも述べている。

建築 | Posted by at January 20, 2006 19:47 | TrackBack (0)

あえて

建築の理想を翻訳したような映画と言おう。

公演初日、朝からずっとフジには三谷監督が出ていた。ひとりで作業しているとさみしいという理由で、ラジオみたいに流してるだけだったので内容は覚えていないが、なりふりかまわないアピールやなと。多少下品に感じていて、うけながすつもりだった。
僕は佐藤浩市演じる政治家にかぶせながら見渡すことで達観できた。登場人物それぞれに、ばらついた幸せを感じる大きさが設定してあって、一本の映画の中でそれぞれにベタなしあわせを感じていく。それらの個別のしあわせが集合した状況で、クライマックスを迎える。観る人だれもがうれしいと感じる共有項を設定しつつ、同時に三谷幸喜が感じている社会的な問題という裏設定(簡単に言うと、断絶している個人を横につなげる。個別のしあわせを統合したいというテンション)から発想し、ストーリーを編んでいることも、うかがえる映画だった。ようは、アハハと、うけながすこともできるし、がっつり構えることにも応えてくれる。
建築の理想郷について。三谷監督はどこかの番組で、登場するスイートルームのなかでも、モダンな部屋が一番好きだと言っていた。モダニズムの神髄のひとつに「表現を最低限まで削ぎ落とした上で、すべて(ここで言えば個別のしあわせ)をうけとめる」という美意識がある。暗黙にそういう理想を共有しているのかもしれない。ベタなネタの集積によって出来上がっているので、おそらくもっと多くの小ネタを考えていたのだと思う。でも、観劇側が疲れるぎりぎりの手前で止めた感じがした。ホームページにも載っている「お客さんの笑い声がプラスされて、この映画は完成します。ステキな初日を迎えられてホッとしました。」というのは嘘ではない。
最近、本杉せんせからお言葉を頂きました。「映画監督マキノの教えの中に「芸は軽さをもって至上とする」という言葉がありました。」三谷監督の真骨頂である笑いという軽さを持って統合し至上へ。自分の中で楽しみな人物であるのは確かなようだ。

「表現を最低限まで削ぎ落とした上で、すべてをうけとめる」ことを追求する建築家が登場するエントリーのLINK:simon|MoMAは50%simon|ビッグネスが生んだ建築
LINK:てれびのスキマ|太田光、先輩三谷幸喜への屈折した想い

趣味, film | Posted by at January 18, 2006 21:20 | TrackBack (1)

ななめ読み

asahi.com|無関心の殻外れず 幼女連続殺人・宮崎被告
上告審判決が17日、最高裁第三小法廷で言い渡される。事件から17年余。

too high|朝日夕刊:新・欲望論「『萌え』利用した優越感」
裁判が明日と言うこともあり、話題が再燃しつつある。まだ、紙面を読んでいないが森川嘉一郎の指摘はおそらく正しい。しかも、朝日に掲載されていることも歓迎できる。too highさんのリンク先を見てもらえばわかるが、読売ウィークリー編集部のブログで一悶着あったよう。

Related LINK
satohshinya|おたくの原風景

自分がblogをやるなら新着ニュースサイトみたいなのはちょっと違うなと思っていて、記事のクリップが先行したエントリーは、あまりやってこなかったが、シリーズ化しようかと今、思いついた。タグを設置している時に、今現在、自分の興味とダイレクトにつながっていなくても、エントリーにする意味はありそうだと気づいたから。ネットの悪い部分でもあるが、運営者の意図により、リンク先が消失することがあるので、ページの保存がかかせない。この際、放出していこう。

clip | Posted by at January 16, 2006 4:33 | Comments (6) | TrackBack (1)

Tag Cloud

久しぶりにblogをいじる。何度カテゴライズを変更しても、しっくりいかない経験から、カテゴリの不自由さが気になっていた。前もって話題にのぼりそうな箱(カテゴリ)を用意してから、アイテム(エントリー)を突っ込んでいっても、ヒエラルキー構造でカテゴリーを分類しているので、一つのアイテムが箱をまたいだり、その構造の転覆を目論むようなエントリーを書きたい時もある。つながりそうな情報をつなぎとめるため、テキストを生産している側面もあるので、最近では箱を意識することに意味を感じなくなっていた。

マイナーなメディア「じんぶんや」にある東浩紀の言葉を借りるなら、「例えば、法哲学者のカール・シュミットなんかは、アガンベンが「ホモ・ケサル」などで取り上げたりすると、思想のコーナーに攻め入ったりしてきますが、そうでなければ、彼は右翼のひとだと思われているので、普段は政治思想や政治哲学のコーナーに置いてある。つまり、思想の棚というのはけっこうイデオロギー的なバリケードで護られている。 〜 人文の棚・思想の棚というのは不自然に作られているので、信用してはならない。面白いものは自分で探せ」
ついでに、図書館の本をカテゴライズするという作業において、本の内容によるジャンル分けがされているように思われるけれど、実はそうではない「図書館における本のカテゴライズは、本棚のスペースによって決まっている」なんて話もある。

知の棚は、再構築し続ける。blogがその一助の可能性を持つ。そこで話題なのが「タグ(del.icio.usのタグ一覧flickrのタグ一覧Technoratiのタグ一覧)」。従来の分類は、カテゴリにエントリーを当てはめカテゴライズしていくのに対し、タギング(Tagging)はエントリーにタグを貼付けていく。その「あと付け」のタグは、互いにフラットであり、どう相互関係付けるかが、現在競われている。そのひとつのアイデアとして「TAG CLOUD」を設置した。またこの雲は、人なりがパッと見でわかるのがいい。取り上げることが多ければ文字が大きくなり、話題性が遠のくと色が薄くなる。

今後の予定としては、takamiya studio PORTALに、タグの一覧表の設置かな。各々のAuthor事に違う、文字の揺れをどう対処しようか。あと、カテゴリを無くすかどうかは、もう少し様子をみよう。ヒエラルキーとフラットの関係性は互いに補完し合うものだと思われ。それと、今後データ通信定額に流れると思われるので携帯版かな。サイトを軽量化してくれって言われてるし。OS9 IE環境の文字化け対策としてもいいかな。

Ontology is Overrated: Categories, Links, and Tagsより、現在よく使われている7つのタグのキャラクタ
1何の話題かを示すタグ
2それが何かを示すタグ (本・CD)
3著者・作者を示すタグ (東浩紀・伊東豊雄)
4他のタグの評価付け用タグ(点数 75・100)
5質や特徴を表すタグ(これはひどい・ネタ・かたい)
6自己参照用タグ(セルフブクマ・自分がコメントした記事)
7タスクタグ(課題・後で読む)

参照LINK
小粋空間:Tag Cloudのページをつくる
KoshigoeBLOG:tagについて考える
テクノクラティ:タグをつけよう!特集

blog | Posted by at January 15, 2006 20:15 | TrackBack (1)

マクダーナルズではなくマクドナルド

MacBook Proって。なんて語呂が悪い。
かのマック(マクドナルド)ですら、日本での戦略上、3.3の韻を踏んだっていうのに。(Wikipediaに詳しい
Intelは載せたくなかったけど、株下げたくないし、とりあえず速いの出したかったし、石を変えたのは画期的だけど、とりあえず同じデザインでいっか。そんな感じだな、おい。だいたいロゼッタがあやしい。ホットプレートの疑いも。とりあえず、経験的にも初号機はバスって、みんな思うだろ。こりゃ。まぁいいけどぉ。
って、期待してたけど、割とこじんまり出してきたから、無理な出費を抑えられていっか。

追記:どうやらRosettaは、Classicアプリはサポートしないようだ。UNIXに移行して8年経過しているしな。

参照LINK:CNET Japan|「MacBook Pro」という名前はダメなのか-アップル製ノートPCに対するブログ界の評価

趣味, apple | Posted by at January 13, 2006 1:27 | TrackBack (3)

最近のコンペ

1 小田原の城下町ホール
2 台中メトロポリタンオペラハウス
3 ゲント市文化フォーラム

コンペはコンペ的な思考。まぁ一種の建築即興芸的なところが鍛えられて、今回も勉強になったって感じだった。ようは負けたってだけなんだけど。でも、こういうフィールドでも戦えないとだめだなと思った。建築をつくることによって伝えたい夢っていうのは、コンペのような舞台でこそってのも、あるなって。

2005年6月24日 Toyo Itoのコンペ必勝法 (講演会:コンペに勝つ 伊東豊雄+岡本 賢)のメモ

1 好きな審査員がいなかったら応募しない
2 あれもやりたい、これもやりたいはダメ
3 リアルに表現しすぎると損をする
4 文章は短く、わかりやすく、簡潔に
5 モノローグは好まれない
6 強気で攻めろ
7 2つの距離(5mと0.5m)からのメッセージをはっきり伝える

Related Entry:simon|無目的な空間

建築 | Posted by at January 13, 2006 1:20 | Comments (2) | TrackBack (0)

初夢

大阪に帰ってきている。建つ位置は千里ニュータウンの中ではないが、阪急(民間)によって生まれた沿線の住宅街に、旧住宅公団のつくった団地が唐突に挿入されている。その中でも60年代のものは取り壊しが進み、四階建てから五階建てに一新される。家の窓からも見える。それに伴い、電波障害がおこるという理由で初期投資なし。というセールスでケーブルテレビの営業がやってきて、加入し、PC、TV、電話すべてがデジタル化した。目下、そんなプロセスを抜きに、配信され続けるコンテンツを、体が求めつづけている。正月とはそういう時間を作ってくれるものと考えたほうがいいかもしれない。戦後作られた新興の街にある一軒の家の中で動物的本能のまま、過ごしている。

少し反抗してみる。団地に住んだことはないが、団地はまとまって作られるため、個別の作りこみがせめぎあう住宅街と違い、公園や商店、うっそうとした緑が生むちょっとした死角を保有している。しかし、それらは団地のためというより、常時、街に開放されており、公共のものとして無意識に共有されている。秘密の電話をかけに、団地の電話ボックスを使ったり、コープの配送されてくる食料を受け取りに行ったり、地域の英会話教室があったり、なにかと生活の中の重要な場所を提供している。公団が作ってきた住戸自体には価値を見出せず建て直すようだが、冬至四時間日照に基づき、羊羹のような住棟を配列した結果生まれた場所は、なにげによいので残すようだ。公的な顔をもって保障できる公共空間というのはこういうものなのだろうか?。毛並みは違うが民によっても2chやmixiのような公共空間は生み出されている。ただ、そのような空間は、運営する個人の身の振り方次第ではいつでも搾取可能な状況にある。どのように継承されていくか今後、見ものである。建築的なスケールでの搾取不可能、継承が保障されている状況が顕在化し、祝祭性と日常性を備え実行力のある公共空間というのは、まだまだ神社お寺にしかないといっていい。いまブログをタイピングしている場所、新興地では団地のように集まって住む結果、提供されている場所が、ある人にとっては日常であり、甘い記憶であったりする。ただ、団地が生んだ公共空間が今のままでいいとは思えない。かつ、住戸と街の関係は冷え切っているし、住戸自体も魅力的なものとは言いがたい。どこを改善すれば何がよくなるという話ではないが、もっと良くしたい。ちょっと強引だが、40代の建築家達のようにベタ(日常)な視点から発想を得ることもいいし、60代の建築家のようにメタ(制度)に訴えかけることで得る発想もいい。ただ、そこを往復するような態度が必要なんじゃないか。僕は20代。これは初夢。

この手の妄想で困ったときは歴史家に聞くのが一番。歴史家のひとり言、歴史家が語る現実、歴史家の夢を感じるテキストを抽出。「場所に聞く 世界の中の記憶」 鈴木博之 著より
「建築は空間の芸術だと言われるが、むしろそれは時間の芸術ではないか。」
「われわれはあたかも建築家が自由な発想のもとに建築を構想するかのように考える。しかし人間のあらゆる営為は政治的であり、社会的であり、それゆえ歴史的なのだ。その全体に気づかないかのようにして建築を語るならば、単なる専門バカということになろうか。」
「あらゆる場所に歴史は降り積もり、やがて醗酵して文化になる。場所こそが文化を蓄積させる器なのだ。「場所に聞く」とは、場所の中に封じ込められているあらゆる歴史と文化を再び解き放つ試みなのだ。」

建築, monologue | Posted by at January 3, 2006 6:01 | TrackBack (0)