ツイッターやってます

最近はここ→http://twitter.com/niheisimonにいます。

ネットは面白い。心からそう思えたのは、ツイッターが初めてだ。ツイッターの何が面白いのか。オープンかつ、祭り的連帯感の内在につきるだろう。このオープンな雰囲気が、ユーザーが膨大になっても維持出来るのであれば、新しい時代が来たと言って良いだろう。
政治家や役所が紋切り型に透明透明といっているが、やはりすっぽんぽんには出来ないのだ。学校の屋上へ向かう階段室や、放送室のような監視が行き届きにくい居場所が必要なのだ(そこで何をしていたかは今は重要ではないw)。
スケスケな場所から逃れられるスポットを情報技術が演出する「祭り」によって代替できるとは、前々から言われていたが、2ちゃんもmixiもどうも内輪的ノリが強化されるアーキテクチュアで、ギートステイトにでてくる、逃走する老人の気持ちがよく分かるところで留まっていた。
ツイッターは、端末を選ばない(アイフォンにかかわらず、どの携帯からもアクセス出来るアプリやサイト(movatwitter)がある)ので未だの人はやってみても損は無いだろう。まずは、適当にフォローを追加(津田氏曰くまずは100人)して、ツイッター(tweet list)を眺めていると忙しくなることに気づく。脳潜入をくらっているような動揺さえある。本格的に介入してから2ヶ月くらい経過した今、やっと生活スタイルが確立出来てきた。日常に入り込んでくる時点で、大きい存在だ。今日気づいたのだが、電話しながら、メールかきつつ、TLを横目に、手元にメモをとるといったことが意外と出来る!ので、攻殻機動隊とかにあるような情報量多すぎるだろっ!という疑念は晴れつつある。
ということで、ブログは、何かがまとまった時に使うことにする。なのでコメントもトラックバックもいらないかなと思いはじめている。スパムは人力で削除しているし、(今のところは)ツイッター上でコミニケーションした方が、安全で、かつオープンで楽しい横やりに度々遭遇出来る。つまるところ、ブログもコミニケーションに期待しているところがあったが、それは叶わぬものだった。(スパム対策への期待しかなかったので、コメントトラバを閉鎖するならばMTのバージョンアップもしなくて良いだろう。ブログ上にツイッターの表示ができるようにでもするかな。)
そんなツイッターは、グーグルの立場も揺さぶっている。ツイッターの出現で、ただのインフラに留まることでさらに立場強化していくのか、そうではなく飲み込むのか?その点に注目したい。インフラといえば、土木/建築の差異が、グーグル/ツイッターの差異と近い気がしている。(土木と建築の分化はどこから始まっているのか知りたいというつぶやきがあったなそういえば)

blog, 建築 | Posted by at December 2, 2009 3:29

多様性の中の日常

LANBJN.jpg
蘭(北京)by Philippe Starck 

最近、100ドルパソコン(初期モデルは188ドル)の量産が始まった。ネット格差を是正したい理想を掲げている。そこで世界60億のうち10億人しかネットにアクセスできていないというデータが示されていた。そもそもネット格差というのは何だろうか。ネットについての今のところの整理としては「ネットは仮想空間ではない、人を接続するツールだ」というのが個人的には腑に落ちている。ネットはまだまだ使う人の入れ込み具合で価値のあるものかそうでないかが分かれるような使い勝手である。社会的には全面的にネットの有用性を認知されていない。まだまだ走り出した時期であるために、善にも悪にも簡単に振り分けられてしまう危険性がある。だから、社会学的な認識レベルでも経済レベルでも日常にどのように着地させていくのかという明るい試みが顕在化し始めている時期である。そのひとつが100ドルパソコンと言えるのかもしれない。ネットは多様性を集積させ何かを顕在化させる新しいツールとなるのだろうか。グーグルだったか、政治の決定は全人民がネットにアクセスできる状況になれば、集計さえとれば精度の高い結論が得られるなんて仮説を挙げていた気がする。

建築の話ですが、最近考えるキーワードのひとつに、「全体を構成するシステムの中でいかに多様であることを受容していくのか」ということを考えている。おもしろいなと思っている。べつに新しいフレーズではないのですが、今それを考えるとどうなるのか。今後それをずっと考えていくとどのようにおもしろくなるのか。写真にある北京にあったスタルク設計の蘭はちょっとやられたのです。今年見た中ではNo1です。完成した内装だけを見る限りでは一体何を考えてやったか見えてきません。個人の狂気が最大限に拡大し生まれた偶然という、奇跡のような空間だと思います。きっと今の日本では実現できない、中国バブルを体感できるとも言える。この何もかもが混在した空間が巨大であるということも面白いと思った。それがスタルクにしかできないものなのか、何か普遍性があるもので、僕らにもリミックスの余地があるのか。一番やられたなぁと思ったのは日本人のデザインは同じような型の中で微妙な差を味わうところがあるが、スタルク主義というような個人の世界に引き込むようなデザインというのはあまり見たことがない。

帰国してから東浩紀周りの出版の多さに追いつけていないのだが、席巻する「つながりの社会性」人文系が語るネットは分かりやすくてお勧めである。久しぶりにシンポジウムでも聞きに行こうか。

blog | Posted by at November 18, 2007 13:55

夏のあと

建外SOHOの北側に接する道路が開通

SohoBeiLu.jpg

この夏のワークショップの続きを書き始めました。出しきれなかった思い入れのあるネタ、その後の北京などをゆっくり加えていこうと思います。せっかくいる北京の紹介とかに全く力を入れていない自分のブログのオルタナティブとして、しばらくは運営していこうかと思っています。

blog, 建築 | Posted by at October 5, 2006 16:14

ネットにおける定点を見つけて追跡する方法

くどいタイトルをつけましたが、ようはネットの記事(ブログからメールまで)をどのように読んでいるのかという話です。

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ミ○シィ*を最近、復活させました。もともと、ミ○シィ熱が疎ましいと思っていました。最近では株式上場もしちゃって、今の売り上げの20倍くらいの時価総額になってる。市場経済と戦う姿勢もよく見えない。しかしながら一方で、よく連絡をとりたい人たちはだいたいミ○シィをやっていて、エントリーの更新記録とメールが同じ画面で確認できて便利だから使うという話を聞きました。招待性という独特の親密感が誘引する、保証されていない安心感という麻薬も日本人にちょうどいいのかも。という腑に落ちない整理で、しばらく放置していました。ただし、ネットに対して強い期待をしている人たち以外を多く取り込んできたという部分では評価できるでしょう。とは言っても僕個人としては、システム全体を把握させない、カスタマイズさせない、とりあえずお客様にやさしい雰囲気をだしている腰の低さ。それらに未来を感じることはできません。例えば、システムの話で言うと、知り合いを自分のリストへ加えたいとき、先方が受け入れるか拒否するかが選択出来るようになっています。しかし、拒否という選択肢に進んだというインフォメーションは自分のところには届きません。利用者にやさしいのです。しかし、そのシステムは公開されていないので、自分がそのやりとりを知ることは出来ません。ちょっとした気持ち悪い関係を隠蔽しながら独特の雰囲気をつくっているの(かも)です。

復活させた理由は2つあります。加入者も700万人近くになり、もはや無視できない規模になりつつあり、その流れの中、上場というきっかけをどのように利用するのかを内部からも見てみたいと思ったのです。市場経済にどのように挑戦していくのだろうか、はたまたどのように崩壊していくのか。傍観者の権利を利用したいと思います。2つ目は、身体的な速度にフィットするという「便利さ」をチェックしたかったのです。確かに、少し前まではネットで気になる記事をクリップしたり、更新のチェックが出来るような軽やかなシステムが無かったように思います。

結論から言うと、ミ○シィは北京では話にならないくらい遅いです。僕の環境ではlivedoor Readerがよいです。動作が速い。直感の効くインターフェイス。これが大事。そして、ショートカットの軽快さが身体になじみます。とりあえず、「pしてo」をやってみればわかります。他には、テクノクラティ お気に入り、今のところ速度が遅く、ショートカットがありません。Google Readerは、最近サービスを再リリースしていますが、今のところショートカットのきめの細かさでライブドア勝ち。

これだけでは、ミ○シィの便利さを超えることは出来ません。続けて、融通の利くメールサービス。(同じ画面で編集するという話に近づけるため、FireFoxを使うことが望ましいです)最近、だれでもアカウントを作れるようになったGmailが良いですね。メリットは3つあります。やはり容量が大きいこと。すでに、一人あたり2.8Gbを超え、依然増え続けています。今までのメールを転送して、倉庫的に使うことも可能な大きさです。2つ目は、ウィルス、迷惑メールのチェック機能が、優れていること。PCにインストールされているメールソフトではユーザーが手動管理することになりますが、ブラウザでメールを見書きするので30万台のホストコンピュータを持つgoogleの技術によって管理されていることとなり、手間が省けます。使っていても、迷惑メールと振り分ける正確さには驚くばかりです。ほかのドメイン(携帯、会社など)のメールをGmailに自動転送しておけば、迷惑メールが自動除去された状況で、閲覧することが可能となります。3つ目は、送信するメールの [差出人:] アドレスをカスタマイズするです。先ほど、述べたように自分が持っているドメインのメールがすべてGmailに来るのはいいのですが、返信がすべてGmailだと何かと困ります。メールの内容によって、他のドメインを名乗ることが出来るということですね。それにしても、グーグルの巨人さに驚くばかりですね。僕は既にスケジュールメール写真管理地図、PCで行う作業のほとんどをグーグルが創造しているサービスに頼っています。

さぁまとめ。情報との接触に期待しているからネットにも接続するわけで、その期待が確信に変わったときとは、自分にとっての定点(ブログだったり)が発見できたからであろう。その定点によって自分の意識が顕在化するというのは、よくわかる話。その定点との付き合いは、ネットのような煩雑で全体が見えないような場所では、身のこなしの軽いツールが携帯できてこそ深くいける。定点のある文化とスマートなツール、そのあたりがうまく整備されてきた感覚がある。
もともと、ネットに対してグレーなイメージを抱いていた自分が、熱っぽくなれるきっかけをつくったのはブログでしたね。このブログを始めて、ネットのことを真剣に議論している人たちの話に耳を傾け始め、今ではこの速度感、高揚していくプロセスに入りたいほど心酔している。僕のいる今の中国にも同じような熱っぽさを感じていて、重ねながらいろいろ想像しています。荒々しい勃興の中から巨大な力が生まれる、新しい原理が発見される。そういう予感は生々しく記録しておきたいものです。写真は、北京に存在する全体を把握することが不可能とも思える巨大な建材市場で見た空。

*トラックバックスパムがたくさん来たので、ミ○シィに書き換えました

blog | Posted by at October 3, 2006 9:55 | Comments (2)

タグの効用

タグの性質はエントリーの概要を示すことにあります。示すという意味ではカテゴリーも同じですが、情報を整理するスタンスが違います。
カテゴリーは、従来的な整理の手段といえます。Movable Typeのマニュアルに、「エントリーが追跡できるので、運用管理に役立ちます。たとえば、特定のカテゴリーに属するエントリーを一覧表示したり、エントリーをカテゴリー別に分類してアーカイブしたりできます」とあることからも、情報を整理する棚を設定し、そこにコンテンツを詰め込んでいくといった、体系的(ヒエラルキー的)な意味合いが強いものとなっています。重量を持つ情報を扱う、図書館やブックストアの本棚の整理に近いとも言えます。
一方で、タグは重量を持たない情報のために発想された、整理のための手段(の一つ)と言えます。この手段の着想点は、必要とする情報、拡張してくれる情報への「たどり着きやすさ」にあると思います。
大きな効用としては、検索技術の進化に伴い、閲覧数の多さや更新の頻度など、ある強度をもった情報に到達しやすくなったと言えます。しかし、あくまでも単純化された方程式に基づいた結果にすぎないとも指摘できます。タグは執筆者の意志によって強調された単語となるので、タグをたよりにした適切な情報への「たどり着きやすさ」へ近づくと想像できます。
僕が感じる個人レベルの効用としては、(エントリーのタイトルが持つ質に近い)意志を持ったキーワード、すなわちタグを使うことで、エントリーの概要を顕在化できることにあると思います。関連していなかったキーワードが同居していたりすると、あれっ?! 楽しいと思うのです。これは、後付けのタグだからなせるわざと言えます。また、フラットな関係性でしかないタグ同士をどう関連づけるのか・人によって違う文字の揺れをどうマネジメントしていくのか・タグをたよりにした検索によってどのような実感が得られるようなものにするのか。など大きな余地が残されているので、今後に期待したいところです。
さいごに。到達のしやすさの実現によって閲覧者が増えると、うれしいリアクションが増えたりすることがあるかも。このツールがもたらす恩恵はまだまだありそうと予感しております。この予感は、初めて見たときのかっこよいと感じた第一印象から変わっていません。

参照:jkondoの日記 - 興味の対価 うれしい実感の顕在化を真剣に考えている。

blog | Posted by at March 21, 2006 23:40

Tag Cloud

久しぶりにblogをいじる。何度カテゴライズを変更しても、しっくりいかない経験から、カテゴリの不自由さが気になっていた。前もって話題にのぼりそうな箱(カテゴリ)を用意してから、アイテム(エントリー)を突っ込んでいっても、ヒエラルキー構造でカテゴリーを分類しているので、一つのアイテムが箱をまたいだり、その構造の転覆を目論むようなエントリーを書きたい時もある。つながりそうな情報をつなぎとめるため、テキストを生産している側面もあるので、最近では箱を意識することに意味を感じなくなっていた。

マイナーなメディア「じんぶんや」にある東浩紀の言葉を借りるなら、「例えば、法哲学者のカール・シュミットなんかは、アガンベンが「ホモ・ケサル」などで取り上げたりすると、思想のコーナーに攻め入ったりしてきますが、そうでなければ、彼は右翼のひとだと思われているので、普段は政治思想や政治哲学のコーナーに置いてある。つまり、思想の棚というのはけっこうイデオロギー的なバリケードで護られている。 〜 人文の棚・思想の棚というのは不自然に作られているので、信用してはならない。面白いものは自分で探せ」
ついでに、図書館の本をカテゴライズするという作業において、本の内容によるジャンル分けがされているように思われるけれど、実はそうではない「図書館における本のカテゴライズは、本棚のスペースによって決まっている」なんて話もある。

知の棚は、再構築し続ける。blogがその一助の可能性を持つ。そこで話題なのが「タグ(del.icio.usのタグ一覧flickrのタグ一覧Technoratiのタグ一覧)」。従来の分類は、カテゴリにエントリーを当てはめカテゴライズしていくのに対し、タギング(Tagging)はエントリーにタグを貼付けていく。その「あと付け」のタグは、互いにフラットであり、どう相互関係付けるかが、現在競われている。そのひとつのアイデアとして「TAG CLOUD」を設置した。またこの雲は、人なりがパッと見でわかるのがいい。取り上げることが多ければ文字が大きくなり、話題性が遠のくと色が薄くなる。

今後の予定としては、takamiya studio PORTALに、タグの一覧表の設置かな。各々のAuthor事に違う、文字の揺れをどう対処しようか。あと、カテゴリを無くすかどうかは、もう少し様子をみよう。ヒエラルキーとフラットの関係性は互いに補完し合うものだと思われ。それと、今後データ通信定額に流れると思われるので携帯版かな。サイトを軽量化してくれって言われてるし。OS9 IE環境の文字化け対策としてもいいかな。

Ontology is Overrated: Categories, Links, and Tagsより、現在よく使われている7つのタグのキャラクタ
1何の話題かを示すタグ
2それが何かを示すタグ (本・CD)
3著者・作者を示すタグ (東浩紀・伊東豊雄)
4他のタグの評価付け用タグ(点数 75・100)
5質や特徴を表すタグ(これはひどい・ネタ・かたい)
6自己参照用タグ(セルフブクマ・自分がコメントした記事)
7タスクタグ(課題・後で読む)

参照LINK
小粋空間:Tag Cloudのページをつくる
KoshigoeBLOG:tagについて考える
テクノクラティ:タグをつけよう!特集

blog | Posted by at January 15, 2006 20:15 | TrackBack (1)

オープンソースという夢

Wikipediaは果たして「オープンソース」なのか CNETJapan

オープンソースの解釈をどうやら間違っていたようだ。「オープン」「ソース」という言葉から連想するような「自由さ」とは違うようだ。ことばが生まれたきっかけは、Linuxの開発者らがマーケット、外向きのプロモーションと対面したときに作った言葉である。
オープンソースとは、知を結集させる行為の結果であり、オープンソースは目的ではなく、知を主張するための手段のようだ。言い換えると、きっかけを演出した自分の範疇を超え、自動生成を繰りかえしていることではなく、密実なコミュニケーションの上に立つ、厳格な管理者(創造者)の元で生成されるプログラムのようだ。肉体がある空間での創造行為と等しい。「新しい身体がある」という期待を込めたオープンではないということだ。なるほど。

ブログを始めたきっかけのフレーズで気に入っている言葉がある。自分が「オープンソースになるという夢」。
ブログをつかうと、新しい自分がどんどん生まれるのではないかと、過大な期待をしていたが、実際はそこまでではなく、もっと安心感のある、比較的整理されつつあることをやっている。自分の中で繋がりそうなこと、ブログはテキストにする作業なので、今まで自分の中で繋がっていなかった言葉を、一つのパラグラフの中に押し込み、夢のある話を引き出すということが、この作業のインテンションになっている。コメントやトラックバックはおまけのようなもので、期待してはいけない。一時期、スパムや炎上によってコメントやトラックバックを封鎖する行為は、ブログを殺しているなんて議論はあったが、今では、そんな話は聞かない。ブログの本質は、簡単にメモを公開できる手段を提供したことではないかと思っている。
その一方で、ブログやSNSによって拡張された身体の発見はあった。みんなもっと繋がりたかったということが分かってきた。切断の歴史から確実に軌道を修正し始めている。

blog | Posted by at December 16, 2005 4:44 | TrackBack (0)

弱い身体の集積とその可能性

例の偽装問題。スタンドアローン(社会と切断した状況)から、いきなり(現実)社会に引っ張り出された様な態度を取っている。おまけに死にたいとまで。どういった背景から、ふきこぼれた事件なのかは分からないが、もはやテロと言っていい。「一個人」が、ネットを媒介にし、既存の図体を転覆させる可能性を持っているというテンションが、身体感覚の中で起きる次元まで。もう、そこに来た。誰かが具体的に指図したのでもなく、いつのまにか成立した方程式に従い、「たった一人」の単純な作業の繰り返しによって、計り知れない規模の不安へ増進させた。
パトレイバーの押井シリーズに描写されている、平和ぼけした日本人が、町中を走る装甲車や戦車に「何かの演習か?」と、何も疑わない脊髄反応しか示さない身体感覚が、今回の事件の深層と一致している気がする。金箱さんが言うように「建築は建築主の財産であるとともに社会資本としての役割を持ち〜」という理念は知っていただろうが、正論やおおきい物語は通じない次元、別に建築だから起きた事件ではない。今回は、悪意に到達する以前で、防ぐことが出来たが、同じようなタイプの事件がチャンネルを変えて、出現する可能性はあると思う。
先ほども書いたが、彼は死にたいと口にしているようだ。ショックだ。大枠はうまくいっているようだが、局面の破綻をつなぎとめることができない社会。そこまで追いつめられている。株価の高騰に浮かれているようでは、かさばらない身体へスライドしているとはまだ言えない。
ネットの持つ身体感覚が悪いとも読み取れる文言を書いたので、ネットにある可能性を記述したい。私は死なない僕は死なない。これらは社会との接続状況を表現していると言ってもよい。どちらも今年出版された本のタイトルやトピックになっている。(後者はもうネットで公開している。)何が、言いたいか。どういう形式でも、回線でも、いいから社会と接続する状況があるべき。今回の事件のように、切り離されるとオリジナルの回路を自動生成してしまうからだ。今までは、社会をもじった会社や学校、町内といった集団との接続が信じられるとされてきたが、誰の目にもうまくないところがあるのは事実で、コミュニティは細分化し、家族の中にまで分断線がやってきている。個の充実を謳い文句とした、80年代以降の教育を受けた僕らには当然の流れであり、し向けられた結果とさえ思える。
ネットの可能性に急ごう。ブログ開設数は400万近く。最近、SNSの代表格でもあるmixiの加入者が200万人を超え、一日一万人のペースで増加している。切断された横の繋がり(いわゆるコミュニティ)が、データの裏付けを超え、実感を伴い、再生しつつあることはうれしい状況だ。右肩上がりなのは、その無意識なテンションに賛同しているからだろう。そのテンションも意図的に企画されたものではない、そういうのが今の風潮。しかし、これから到達する地平が見えないというのはよくない。というか、さらに利用者が増えるのであれば、準備、言説を用意する必要があるだろう。isedなどがやっている活動の目的はそれにあたる。
ネットに滞在すれば気づくが、礼儀や作法というのがやはりある。始めて訪れるブログにコメントをおとす時、「はじめまして」と添える行為が、それだ。ブログ以前の2chでも、あの体裁の中での作法があるし、それ以前の個人サイトや、メーリングリストの時代からある身体。加えて、ネットに自分のキャラクタが滞在すること=ハンドルネームや実名で、誰の介入もなく言葉を連ねる。それに反応するように、リンク、トラックバックされる。これら作法や対話は、形をかえたコミュニティの原型であろう。ネットに接続するきっかけを、ブログやSNSが拡張し、コミュニティの再生成に繋がっている状況は、ある集団、ある社会との接続手段をつくっていることへ。場所がそこにできる。
強い身体を持つ人間であれば、僕は死なないと、本をだすことができるだろうが、弱いメディア(媒介者)が生まれているこの状況は、おおきい物語で紡ぎきれない生成し続ける社会という輪郭、その先端を強化していることに成っている。と、言いたい。

参照LINK
ARTIFACT@ハテナ系ー「強い人」と「弱い人」
強度不足を指摘されたマンションの住民の方の書くブログ

blog | Posted by at December 11, 2005 5:57 | Comments (4) | TrackBack (0)

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