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カルクヤバイ

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つくりすぎた「多摩ニュータウンのサイズ」を是正していく流れの中、近隣住区をもとにした「日常生活の単位」では、住みこなせない現状を考慮し、建て替えが始まろうとする諏訪二丁目にたつ団地を残しながら、「郊外的なスケール」感を維持するために、既存と同じ高さに見えるボリュームを住棟間にアディションすることで、床面積を増やし、生活の密度を獲得する。あたらしい団地に内包される機能は、居住と「居住空間の大きさのなかで達成できる規模の機能」が一体となったものとなる。

「サイズ」実人口19万人(計画31万人)売れ残った土地244ha/2900ha
「単位」日常生活の単位は、1住区=100haと設定され、その中に一カ所だけある近隣センター以外は居住専用団地と決められている。その近隣センターの衰退が著しい。加えて、初期の開発地域では人口が減り始めている。
「スケール」05年に全体の調整役であった都と旧公団が新規開発から撤退。投機的な中高層マンションが乱立し始めている。低密度に建てられた団地が残している、中庭や自然との近接は五層の高さだからだと考えている。
「機能」NPO支援、児童館、商店、SOHO、スタジオ、ケアサービスなど

サッポロslimsのCMで使われている曲がiTunes Music Storeで買えるようになった。
paparuwa
アーティスト Fantastic Plastic Machine
アルバム imaginations

いつも、髪を切ってくれているサロンの佐藤さんのブログ
ぼくの髪の毛はだいぶやばい伸びてるので、そろそろ行くか。

カルクヤバイくらいがちょうどいい。

遺構, 建築, new town | Posted by at February 23, 2006 22:25 | Comments (2)

一般に建築に付される説明には踏まえるべき一定の形式がある

たいていは最初に
「敷地周辺の地理的状況、社会的コンテクスト、歴史的背景」が一瞥され、
次いで「計画されているプログラム」がその一般性と固有性において述べられる。
そして、その両者を満足させる「具体的な提案」が提示され、
それを導き出した「アプローチ」やそれを実現するための「テクニカルな側面」が紹介される。
そして最後に「完成した建築が具体的にどのような場」を実現しているか語られる。

参照:2004年6月5日 西沢大良講演会「カタチとアクティビティ」講演会レポート

clip, 建築 | Posted by at February 7, 2006 13:49

プロジェクトの強度が決定する瞬間

以下は、下書き。痕跡。四枚稿を機会を見てアップします。

多摩ニュータウン縮小計画
ー諏訪2丁目団地の再生を通してー


プロローグ・「背景」
縮小と言っても、まちの魅力を目減りさせることを目的としたものではない。

人口減少時代に突入する岐路にあって、従来的な「人口の増加」と「経済の増進(地価の高騰)」という前提は崩壊した。また、街を構成する建築は、ハードウェアではなく、ソフトの問題によって、たった30年で滅失期間をむかえている。現在まで、適切な空間の大量供給とその統合を可能にしてきた「機能」=「空間」という真理が欺瞞にすり替わってしまったと言えよう。すなわち、まちに投資する理由も、構築するすべをも失っている状況にある。しかし裏を返せば、新しい前提にたって、誘導力のある建築を目指すことが可能な時機と言えはしないか。

参照:社会資本整備審議会住宅宅地分科会 基本制度部会報告案参考資料 資料12 滅失住宅の平均築後経過年数によると、滅失期間は31年。諏訪2丁目団地は入居から35年経過、88年から建替え運動の継続。

第一幕・建築がひらいていく流れ=「ストーリー」
「新しい建築型」が、「多摩ニュータウン」と「住まい手」を「なめらか」につなぐ。

01・「新しい建築型」の必要性
開発主体であった都と公団の撤退により、全体を調整する視点を持たない民による投機的な開発の本格化や、住民主体による建て替え運動がなかなか実を結ばないことから、郊外のスケール感をキープしたまま街を改善していく「共有できる凡例」=「新しい建築型」を必要としているという仮説は有効と考える。

02・「多摩ニュータウン」にとっての障害
31万人サイズの街であるが、実際は19万人にとどまっている。学校の廃校が進み、増加する遊休地。初期投資を回収出来ないうえに、維持管理が膨らむ一方である状況から、適正なサイズに制御することが必要。

03・「住まい手」にとってのバリア
多摩ニュータウンにおける3DK・近隣住区は、未開の地をを開くための単位であったが、家族という関係を象徴したモデルともいえるnLDKという、規範から逸脱した空間の使いこなしを受けいれない3DKや、近隣住区のシンボル的な存在である近隣センターの衰退という現状が、単位の解体を要求している。また、3DKと近隣センターは、多摩ニュータウン全体に通じる単位でもある。

04・「なめらか(Flux)」という概念
切れていた・切れてしまった関係をつないでいくこと

まちを展開していくには、運営主体が必要。従来は、公(施行する/従う)や民(生産者/消費者)というような二項対立的なものでしかなかった。
地域レベルの人口動態や開発主体の傾向の情報を集約し、公開しているのは多摩のNPOである。また、多摩に建つ大学が学術的な視点からのサポートを試みている。隔たりを埋めていく主体が定着しつつあると言える。それらがサポートする問題は日常から制度の調整まで、幅広く期待されている。その層を社会学的には中間集団と呼ぶ。そのような背景が加速し、空間や街への欲求が高まり、住まい手(空間の使い手)による空間のカスタマイズ。その集積といった相乗効果が生まれ、街と住まい手の関係がつながっていく。建築は従来的に、そこにある状況をつないで、新しい関係を生むことを試みてきた側面を持つ、その性質を「多摩ニュータウン」と「住まい手」の距離にまで拡張し、切れてしまっている関係を「なめらか」につなぐことをインテンションとしたデザインを試みる。

参照:ised@glocom - ised議事録 - 1. 設計研第5回: 近藤淳也 なめらかな会社

第二部・問題の解決と誘導を見据えた統合=「デザイン」
「新しい建築型」を構成する要素。

01・郊外の制御
人の集まり具合を高める。街のユーザビリティの低い地域を自然に還す(経済の枠組みを一旦はずす)。

02・ランドスケープの調停
地形を整地し、南北もつなぐ。ポジティブスペース(中庭)を挿入。

03・なめらかな構造
ケとハレの演出。(襞を内包した構造体である壁によって分断された手前空間と奥が、一体的にも、身体を切り替えるようにも、使い手によって見いだしていける空間)

エピローグ・「要望」
完成した建築が具体的にどのような場を実現しているか。

01・コミュニティの再生
「多摩ニュータウン・住まい手(空間の使い手)」それらの隔たりを充填していく中間集団の存在が強化されていく風土の実現。

02・都市の理想
郊外は都市の周縁として立地しているが、急激な人口増加を背景にした乱造を制御するために、都や公団が調整、開発を行ってきた。その資産として、土地が個人に帰着していない環境が自然に生まれている。
ニュータウンは都市の理想を具現化する流れにたち、誕生したが、都市における個別の建て込みが強化されるまちづくりを解放する「大きな建築型」となる可能性を持つ。

建築, new town | Posted by at February 7, 2006 5:40

起こしたい気分

近藤淳也インタビューを順にまとめてみた
全部読んだら、一日物思いにふけてしまいそうな楽しい人だ。ネットが社会を変えてやるっていう雰囲気いいよなぁ。たとえ話で建築がたまにでてくる。ふと、身近なまわりを見渡すと、建築が社会を変えてやるって言うと、ちょっと真っ直ぐすぎるからいや、みたいなところ、やだ。事務所を開くというより、起業するっていうのに、素直に惹かれる。

「いいサービスと収益は両立する」—株式会社ミクシィ始動
なーんかミクシィってやなんだよね。こういうの読むと全然あたらしくないって思うんだけど。なんだ?隙間を充填していく快感で突っ走ってるって感じか?インターフェイスがださいのがやだ。ネットへの適応力の差をフラットにみせることが目的なのか?。ただ、そこがいじれるようになっても使わないけど。

neonは東芝泣かせの「完全垂直」な携帯
むむむ。ひたすらかっこえぇ。この次の手ってあるのかなぁ?

アートディレクター・佐藤可士和 | NHK プロフェッショナル 仕事の流儀
いがいに、まともなことを話していた(笑)。安心感のある言葉が多かった。ただ、新しい地平へっていうところは、意図的か分からなかったけど、おさえている気がした。番組見てて思ったけど、広告と製品が一貫しているって、訴求力が強化できてうらやましい環境だなぁ。深澤さんのneonと完成度を比較するおもしろさはあるけど。一方で、ここまでくると四角しかないのかと普通は思う。infobarの広告は佐藤可士和のものか。いろけのうるさい感じがキャラと一致していて、おもしろいけど、欲しいとは思わない。上げて、落とすみたいな。番組のカメラのアングルが結構な迫力で、あつい番組の制作現場が想像できて、好感。

clip | Posted by at February 3, 2006 10:59

未開の地を開く単位

提案力と実現力のバランスを大事にしたい。
プロジェクトを組み立てるとき。可能性を感じる仮説をたて、あくまでも予測可能な範囲を手探りで進んでいく。今回、郊外を選択したのは、やはり「場所を取り囲む環境がある程度単純化されている状況」によりかかったという点。スタートは間違っていなかった。都市で、ある程度ハンドリング可能なプロジェクトを組み立てるにはあまりにも解きほぐすべき状況が多すぎる。裏を返せば、自分のスキルが足りない。それほど現実は複雑で、自分の予測可能な範囲を大きく逸脱している。OMA的にかっこよく言えば、もしかしたら(状況を逆手にとって新しい地平を敷衍する)波乗りサーファーにはなれるかもしれないけど。自分にとって、そこに達成感があるかが。疑問だった。解釈者にはなれるかもしれないけど、実践者になれるか?ということだ。

で、単位の話。山を切り開くには、勇気が必要だった。山肌が見えるまで削りだし、そこで征服感があったかというと、きっとそうではない。とても不安だったはずだ。現に、今の多摩ニュータウンは木が生えすぎている。反動で植えまくったのだ。不安な中、多くのエネルギーを誘導するために、共有できる話題、キーワードがあった。迷ったらそこに戻る的な。歴史のある側面を振り返れば、都市や建築は、機能によって分化した空間の接続や切断の手段を選択することで、適切な単位(空間)の大量供給とその統合を可能にしてきたと言える。多摩ニュータウンにおける「近隣住区」や「3DK」も、未開の地をを開くための単位、話題になるキーワードだったのだ。しかしその近隣住区のシンボル的な存在である近隣センターが衰退し、コミュニティをアフォードしたかった当時の目論みは崩壊した。続けて、山本理顕に「問題はそのLDKモデルが家族という関係を象徴するモデルになっているということだ。現実の日本の家族はとっくにLDKモデルが象徴するような規範からは離れてしまっているのに、それでも住宅をつくるときにはその規範に拘束される。だから依然として日本ではLDKモデルがつくり続けられている(source)」とまでいわしめた、3DKいわゆるnLDKの呪縛は超えたい。この「近隣住区が生んだ近隣センター」と「nLDKと接点のある3DK」は、いまや形骸化し、この単位の解体を提案してこそ、実現したい街になるのではないかと、ずっと妄想してきた。

明日、タイトルと副題の締め切り。英語のタイトルもつけなきゃならんと言うことで、頭の整理。
・効率化やエコロジカルという建前、楽しい日常生活へ向かう本質
・危機迫るひろく社会に通じる話題/問題を解決する具体的な切り口
・多摩ニュータウンのスケール感をキープしたまま、より都市的な街を目指す手がかり(設計)の一つ
緻密さと大胆さが共存している(はずだ)こんなテンションをタイトルと副題で表現してみよう。

多摩ニュータウン縮小計画
ー諏訪2丁目団地の再生を通してー

Revitalization Tama New Town
- Restructuring the Public Housing in Suwa 2 chome -

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設計の方向性が間違っていないか最後の確認。多摩ニュータウンを開発したエネルギーはすさまじいことがよくわかった。限られたリソースの中で、最大限に誰にもうれしい日常生活を夢に抱き、街を作ってきたこともわかった。そして、(作りすぎた、人口が減ってきたといった)今の状況を誰もが望み誘導したわけでないこともわかった。

あぁ思い出すなぁ、うろうろと歩いていたら駅からかなり遠いところへ行ってしまい、急にトイレに行きたくなって、エヴァのシンジくんばりに(あくまで心の中で)うゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー。と叫びながら、駅に向かって走ったことを。コンビニくらいあったって良いのに。と、まじで思った。厳密に言うと近隣公園と近隣センターに行けば公衆トイレもしくは、店のトイレはあるけど…。

途中経過はなんだかまずかったけど。破綻、炎上しながら前に進むタイプとおもっている。人にやさしいホリエモン。中国に謙虚な小泉さん。あはっ。壊

建築, new town | Posted by at February 2, 2006 23:35 | TrackBack (0)