コンペティションをめぐる憂鬱

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完敗の結果で八代の夜にうち放された四人は、がべ氏を連行して七時間近く監禁。前回のツアーに比べると違った意味でテンションの高い、内容の拡散した話題がのどを通る焼酎を熱くした。乾さんがどうぶつのようにかわいくステージ上で跳ねている自由さに心奪われつつ、近代建築が取りこぼしてきた、何かをキープしているという言葉でわかるように、伊東氏の戦略的な一撃は、鮮やかすぎて僕には到底理解できない。彼曰く、スタイルではなく、デザインする作法に、近代を越える何かがあるのではと言いたいらしい。建築的な思考の支配がないものを指し、それがあるものと比較して、大切にする必要があると言ってしまった。デザインコンペじゃないでしょ今回は。とまで。まぁ、壇上にも上っていない僕には、なんの権利もない歯がゆさしか残らないが、もさもさしたビジュアルの一石も投じない彼らには、僕は何かを裏切られた気がしてならなかった。反骨のバネよりも、支配的な観念から見下ろしたいと、未だに思っている人には、とてつもなくつらい空間だったのは確かだった。(笑) 一転、翌日は、気分を変えて、組み体操をしたり、アイドルのおっかけをしたり、はらまわりのエネルギー消費のためにランニングしたり、それなりに満喫。集合住宅は視線くらい抜けている方がよさそうだ。しもんの作品と対峙してある工事中のユートピアが語りかけてきた。

LINK:砥用町林業総合センター

建築 | Posted by at October 26, 2004 16:05 | Comments (14) | TrackBack (1)

扇動者のつもり

熊本県いぐさ・い製品の流通状況によると、いぐさ生産農家が出荷する75%は自ら畳表の加工をしているようだ。原草販売は、残りの25%。さ○もとくんが気にしていた、県外移出は、25%中のたった13%。付加価値販売が主流なのは、想像がつく。あさみは、子供の名前をいぐさにするらしい。て○か夫妻のぶな、みたいな感じか。建築家は、こうじゃなきゃねみたいな話をがちゃがちゃ昨日していて、結構気分がよかった。ネタの中心は、コンペの下のパースがわかりにくという指摘を受けて、無理矢理納得してもらうプレーに走ったのだけど、見る目があるなと感心。続けて建築はなんで、はこものって言われるんだとう話にうつり、どっかでスティックしたものを思いだした。[建築ってどうして四角いのばっかりなんでしょうね,という質問があり。隙間なく空間を充填することが可能な立体のうち,いちばん簡単なのが直方体だから,とまず答え,なぜそれが「簡単」なのかと言えば,人間というか脊椎動物のシンメトリーな身体にとって,前後左右上下ってのは根源的な六方向であって,それぞれに面が対応する直方体はとても自然に認知できる形だからじゃないか。]あと、テンセグリックとテンセグリティの違い(ちなみにどっちかが自立的で他方が他律的。自碇という言葉があることを知る)。ワークショップって怪しいとか。建築家は政治を背負う位の方が楽しいとか。無茶な話で盛り上がる。何が正しいと整理するより、ぶつけて分解して、反応を楽しむ行為が、楽しい。

コミュニケーション力 斎藤孝著より
すべてのトラブルは、具体的なアイデアによってのみ乗り越えることができる。
アイデアを批判するには、よりよいアイデアというのが本筋。

建築, 日記 | Posted by at October 22, 2004 14:36 | TrackBack (0)

街の幕引き

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昨日まで営業していたお店が突然店を閉めている事実を目のまえにして 街が消えるストーリーを考えることは長い時間の中でリアリティのある事だと感じた。 アーケードはお店が並んでいることを前提に備えつけられたもので雨をよけて買い物をできるというメリットしかない。護岸のような土木的思考の構築物だ それ自体に関与する余地はない。商店自体は街に点在していて、目について空きを抱えたアーケード街にとって、維持することを考えると足かせにすら見える。群れになっていることで、にぎわうという幻想は、もはやはがされている。沈殿してしまっている街の気質を、サーキュレーションする発想が求められている。建築が本来的に備えているストラテジーと、アートが持つ事件性の間で切り口を探す。写真はおおまえがさ○もとくんに頼まれた写真をとりに走り回っていた場所。

遺構, 建築 | Posted by at October 13, 2004 20:44 | TrackBack (0)

DERIVEに魅せられる

テトラポットの展開図。釜山ビエンナーレの中村政人さんの展示を手伝った時、スタディとして提出したドローイングに手を加えた物。
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コンピュータのシュミレーションのように詳細かつ正確に検討される軌跡。僕も好きな恣意性の排除された空間。物事を記述する手法のひとつとしてあるDERIVE(軌跡)の始まりは、モダニズム全盛時に、シチュアシオニスト・インターナショナルに代表されるような女学生が動いた軌跡やドゥボールの裸の都市のような、歩行者の感情の起伏やストリートの特徴のディテールの集積など、合理主義の取りこぼしの復権、ケヴィンリンチの都市のイメージにも通じる主観的な都市像を客観化した手法だ。その魅力的なドローイングたちが、今にいたるまで派生物を生んでいる。中村さんとも、今回の釜山での展示とは文脈が違うが、これはこれで美しいよねという会話をしていて。僕的な小さなきづき(回想)でした。

建築, 趣味, art, portfolio | Posted by at October 3, 2004 23:58 | Comments (3) | TrackBack (0)

上野毛の家

デザインワークショップ。一週間かんづめで住宅の設計をやりました。

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適切な空間という不的確さを貫く強い形式を欲した。
アクティビティのイメージが主張することへの不満。など批判的なことがもりもり。
ただ、共有できるよい風景(イメージ)を発見出来なかったので、そこまでやりきれていない。
あるアイデアに向かって、詰め切ると次の展開が、続き間のようにでてくる感覚にスタディの徹底という事を学んだ。

建築, portfolio | Posted by at September 13, 2004 21:50 | Comments (2) | TrackBack (0)

梅林の家のじつはのところ

そもそも建築家がなにをもって建築家なのかは決まっていない。
ちょっといじわるに一般化してしまえば、
都市への事も、都市でのこと、現代的なテーマ、どれもを素通りして、
ただ、室と室がどうくっついているかといういう話に始まりそれに終わっている。
確かに、新しい。確かに生活が想像できる。
悪質な言い方をすれば、せじまさんはセンスの極みの頂点。とぎすますタイプの建築家。ただ、女性だからだろうか(笑)とぎすましすぎない。様なふりをしているのか、本能なのか。
まぁ、そこは、自明的なところで、議論にはならない。
話のついでに、建築家が建築家としてやる仕事ではないと50年代後半の時点で、言っている磯崎なんかは、やはりきれきれだ。(「現在の小住宅の設計というのは、せいぜいそれくらいの利用価値としての前衛的な歴史的対象としての前衛的な歴史的使命はすでにおわってしまった。設計の対象として問題にすべきものは、もうほとんど残っていない」)僕もどちらかと言えば、この意見に賛同していて、住宅だけをやっていって、自分の理想や追求は物足りない?!目立ちたがり屋で恥ずかしがり屋だから?困った(笑)
せじまさんが、新建築のインタビュー最後のほうで、スタッドシアターのプランを発見した時にそれを、断面的に使いたいと思ったといっていて。勢い任せに言わされたのかなぁとおもったりしながらも、どこが断面的にいっているのかがちょっとわからない(現時点では)。どっちかというと断片的?

そういえばどっから小住宅っていうの?扱えあるパラメータが極端に少ない建築のことをいうのかなぁ。今日、高宮さんにやりたいことありすぎて、一個でいいんだよ。小さいんだからと言われました。

建築 | Posted by at September 10, 2004 19:33 | TrackBack (0)

ルイヴィトン

毎日新聞の写真を拝借。
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昨日のスマステに村上隆が出ていて、ふつうのおっさんだった。
ルイヴィトンの特集のようで、青木淳もさらっと。スマステ風のプレゼンで出てきた。
NYや並木通りのルイヴィトンを見ると、かつてのような異様さが無くなってきた気がする。
消費の中でデザインすることは、そういうことなのか。
GAを見る限り、設計の話自体は、芸の域だな。
隆が、二年前のパリでやっていたカルティエ財団の展示を思い出した。
このまま新手のジャパニズムというレッテルを引っ張る?のかな。
僕が知ったときは、すでにビックになっていたので、それという愛着はわかない。

建築, art | Posted by at September 5, 2004 10:03 | TrackBack (0)

気に入っている梅林の家

梅林の家について考えたこと。
・ヒエラルキーが住まい手によって移動可能な、選択できる自由さを獲得している。
・小さなということに対して、適切な大きさを鉄板の薄さでつなぐということで、回答している。
ただ、掃除しにくそうな、というイメージからくる枠のようなしつこさ。特にベットが置いてある部屋に対するベットというボリュームが不健康な不適切さを連想する。また、住環境として快適なのか。あつそうさむそう、という点はやはり気になる。冷暖房が全ての部屋についているわけでもないし。
今回の住宅で、一番気に入っているのは、建築を図面で表現する場合の、前衛的な歴史的使命を果たした点。本能的に脱帽ということですね。

建築 | Posted by at August 29, 2004 4:22 | TrackBack (0)

身体のある空間とヴァーチャルな空間のあいだ

この前、二年生後期の課題をネタにして
3人の建築家にインタービューを行った。
はっきり言って、
建築的にどうおもしろいか。という話は無理難題である。
目的は課題集を見る学生たちが、
今後よい空間を共有していく、きっかけを持って欲しいことにつきる。

CIMG0998.JPG

現在、つくっている課題集にも書くつもりだけど、
建築を。まぁ何かを作ろうとしたり、訴えたい時、
扱って行くとおもしろそうなパラメータを、
幾つか同時に展開していく勘を効かせなければいけない。
それは始め非常に断片的で、意識的に操作しないといけない。
僕は僕としての興味ある建築がもつ構造のテンションがある。

結果には、自分の操作を越えて、
感情的なことや時代性、暴力性、執着性などが無意識に付いてくる。
後に、その結果が意識化される事もある。
その無意識な反応のみによって、構築していると見失い、
批評される時、他の文脈に回収され、自分の思考が蓄積されていかない。
今回のインタビューでは、学生が課題を操作するきっかけとして、
自分の経験が、よくもわるくも空間に反映されているという話題が共通して出ていた。
代官山に作る集合住宅の部屋の作りが、公団を彷彿させるものだったり、
明らかに美術館に行ったことがないような、作品と人の距離だったり。
鈍い身体感覚が無意識に出てしまっているテンション(=意識的な操作)のない中で、
作品群を大きく二つに大別した。
「自分の周辺」で想像しやすい距離から始めたものと、
「全体の構成」で精魂尽き果たしたもの。
ちなみに、当時僕は後者のタイプだった。(笑)
結果的に出来たモノが、ある一定方向にしか見えない。というのは、非常に貧しいのだが、
この二方向を同時に意識することで、かなり視野が広がる。
前者は、まさに身体の経験からの空間で、
後者は、経験を越えたヴァーチャルからの空間の一つと言える。
身体のある空間は、何となく正しいことを言っている気がする。
では、ヴァーチャルな空間は嘘なのか?
インタビューの中にも出てくるが、
例えば自分より明らかに裕福な人の家を設計するとなると、
そこにある生活を想像しなくてはならない。

すなわち、パラメータを操作するには、ある一定の両端を意識する必要があるようだ。

建築 | Posted by at August 20, 2004 17:23 | Comments (1) | TrackBack (0)

無目的な空間

日田市のコンペを議題にしたゼミの中で、
今村案の小ホールが、無目的な箱として、評価出来るという点で、
まとまりのある説明が出来なかったので、
自分のためにも補足すると、
実際のところどこまで考えて、
”スポーツが出来る小ホール”という、しつらえを用意したかはわかりません。
しかし、従来の劇場という形式を崩す。という姿勢と、
一様な公民館的無目的空間ではなく、
小ホールと言ってしまい、スポーツも出来るという言い方は、よい無目的な空間を目指す表現の一つ(ほんのわずかなきっかけ)だと思いました。
ナスカ案のように、誰にでも魅力的と、たやすく想像ができる、屋上という無目的な空間を作ることもあり。
まぁ、あくまで、僕個人が無目的な空間をどうやったら、魅力的な環境にレイアウト出来るか。と言うことを考えているので、書いてみました。
今のところの、言葉の上での整理では、
無目的な空間の目指すところ、
作る側ではなく、使う人がいかに空間を実践できるか。という、ところに視点があり、
現在のリノベーションブームをきっかけに、
メディアが興味を持ち始めたことを利用して、
外から空間に参画することを売りにした、建築家のたち方を、もっと際だたすことはできないかととも考えられないかなど。
新しく見えることは、建築家の責務だという前提では、
その建築が、否定的に見られるかもしれない。
ただ、やれる余地があると僕は思っている。

劇場建築の割合の目安として、
機能を目的として目的的空間55パーセント
機械室10パーセント
残りの35パーセント。
その余白を、どんだけ魅力だと言っても、獲れそうなコンペの質ではないですがね・・・

建築 | Posted by at May 11, 2004 21:26 | TrackBack (0)

場所という素材性

場所の素材性としての差を二者の間で考えてみる。
国際フォーラムを建てること。と、丸ビルを建てること。
僕は、前者の建築がよいなと最近よく思う。
フォーラムはニカフのドキュメンタリーの時、べったり浸っていたので、僕なりの愛着があるが、それを差し引いても、断然いい。
同じ開発手法が、丸の内を占拠している。
(丸の内に蔓延している総合設計的な周りを空けて、縦に積むという考えは、シンボルな形態で主張したいコルビジェから来ているお話。輝く都市をぶちあげて、アテネ憲章に刷り込む執着心が、インターナショナルに展開していることが実感出来てしまう街でもある。)
敷地の形状と設計者が違う事のみが、価値となっている街であると同時に、丸の内で国際フォーラム的なアクションを展開するには、都合の良いフラットな状況であった事は、想像するだけで快感である。
実際、昼休み時などたくさんの人がお弁当を広げたりするのを見るといいなと思う。

◎をめぐって妄想したこと。

二者の場所の素材性としての差は、
コンテクストを作ろうとしている白金台。
コンテクストの崩壊をうたう大手町。

白金台は、偶然、区の歩道拡張地域にぶつかり、現在前面道路が空白でとまっている。
オープン時に同時に出来上がるタイミング。
かつ、カフェが同じ通り沿いに全く無い。
通りの通称名もこれからつくであろう。(前面道路にぶつかるプラチナ通りとか言うのが有名)
◎が象徴になり得る位置にある。

大手町は、テナントが、出店する時、契約上現状復帰という項目がもりこまれ、
これが、くせもの。
へんてこなガラスサッシがついていて、取っ払って、営業する勇気が皆ないのか、
そろいも揃って、同じ規格のサッシによって、廊下の両側の面が構成されている。
はじめ見たとき笑ってしまった。
三年で取り壊すことが決まっていることもあり、
取っ払うことによって、差異が生まれることを想像することはたやすい。

建築 | Posted by at March 4, 2004 1:52 | TrackBack (0)

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