クァクァみる

下北沢の「劇」小劇場にて。三日(19:30-)に、かわいいふたりを連れて、三人で見に行った(笑)。三人の第一声は、分からないけどおもしろいだった。だが、書けなかった。自分の気持ちさえ整理出来れば、WEBを使うと自分に必要な情報は出る。それをもとに、自分と会話することが許されるところまで。やっと、きたって感じ。自分のブログ見て「よく。こうもつらつらと書けんなぁ。」というのが、クァクァを見て、のんで帰ってきた後の印象だ。
余談だが、「今は、情報がネット上にないと、存在しないと同じ。」という言葉を思い出した。ネット上に情報が載っていない物事は、興味の格付けが落ちる。これは本当だ。クァクァは貴重な体験だったことは分かるが、ブログがなければ、文字に起こすことは無かっただろうし、検索して出てこなければ、しばらく放置されていたはず。この行為を他に置き換えることは可能でも、この速度。スピードを獲得することは一昔前では不可能だった。しかも、ことの次第では、次への展開がこの言葉にするという行為をかき立てることになっているのだ。
行く前から、これは自分に有利な情報を、持って行かないと負ける。という伏線は大いにあった。それは、shinya:クァクァのエントリーに書いてある、ドラマトゥルクという役割の人物が書いた文章。まず、《ドラマトゥルクというのは、演劇創作において台本、演出家、俳優との橋渡しの役割を果たし、演劇と社会を有機的かつ創造的につなぐ知的職業。》らしい。要は舞台において、その役割を担う人を見れば、そのジャンルにおけるひとつの先端を見ることになる。という期待をもった。そして、その問題の文章。句読点ないじゃん。…。よって、僕はほぼ手ぶらの状態で劇場に突入した。
当然、vol.6にして、始めてベケットライブを見たわけで、前回までのコンテクストを汲む楽しみも、自分のベケット文学の知識をたしなめる事も不可能で、目の前にある、僕にとっての壁を、つたうことしか出来なかった。後ろにかかっている液晶が、少し傾いている事にも意味があるんじゃないかと、もう疑うことに気がいってしまって、始まるまでしんどかった(笑)。
つらつらと続く二人かもしれない行為、境目の分からない泥か闇らしいシーン、妄想か、はいすがる過去かもしれない唯一の光。映像。それらによって断続的に続く不安を突きつけられたまま。ただ。三つの紙束が減っていくことに、息をのむことだけゆるされた。そんな舞台だった。
内容に関しては、Something So Right:ベケット・ライブvol.6 クァクァさんや、Ashleycat's Eternal Second banana.:ベケット・ライブVoil6 「クァクァ」さんのエントリーが分かりやすいです。

また余談。演劇におけるドラマトゥルク。建築でいえば、なんだろうか。建築家という言葉が日本に発生し、定着して一世紀経とうとするが、その役割は無作為に拡大する。一方で、派生した役割は、建築家には、ひざまづく。というのが、今のところの建築界。だけど、社会における建築家の役割は未だ不明瞭だ。
昨日の情熱大陸で、ファッションディレクター・祐真朋樹がでてたが、彼の「スタイリストは、服を選ぶだけ。僕は全部かっこよくやりたいんだ。」みたいなことを言っていたのを、画面は見ていなかったが、耳に挟み、このエントリーを書く気になった。でも、スタイリストより、ドラマトゥルクの方が、ネーミングはいいぞ。

趣味, body | at February 7, 2005 1:38


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Comments

はじめまして。
Somethig So RightにTBいただいたのでご挨拶に来ました。ありがとうございます。

こちらは建築学科のラボなのですね。お芝居と建築は、空間という意味ではお互いの発想のヒントになりそうな気もしますね(素人)。

私もMacユーザーなのでMac関連の記事も参考になりました。私のところもたまにはまた覗いてみてください。それでは。

Posted by BlankPaper at February 12, 2005 12:00 PM

僕も、芝居はド素人です。建築は、素人ぐらい。自己表現する舞台としては共通するものがある気がします。建築の場合、意識して観るということは、なかなか無いものですが。即興性の強い演劇で、観客と空間が一体となる瞬間に身震いすることもあります。

Posted by simon at February 12, 2005 12:18 PM