東京10年

もちおの憂鬱に衝撃を受け、よたよたと道の真ん中を…。
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もちおは、ただのエリートに過ぎなかったのか!?。下層レイヤーの生々しいしっぺ返しに、背を向けている姿をさらけ出してどうするつもりなのか。shinyaさんに勧められて思想地図〈vol.3〉を読み始めた。イデオロギー批判からアーキテクチュア批判へシフトしなければ思想空間が消滅してしまうという個人的な苛立ちを、(社会全体のエネルギーが発散していく先を見定めたいという)高いその方へ接続しようとしている。裏方として演じているあずまん。このまま居心地が良くなって、どんどん透明になっていくのだろうか。もちおにも上下レイヤーを横断するような心地よい運動体になっていただきたい。これからの建築家のスタイルも、運動体となるというのが1つかなと思っている。

先月28になった。18年大阪。10年東京(途中北京)。大阪へ帰れば、毎回新しい発見があって楽しい。遠い記憶にぽつぽつと残っている情報と、新しい発見を接続して線や面につなげていく。本棚を整理するような、リセット感がきもちいい。今回は、中之島界隈をぶらぶらと。京阪の駅が出来ていたり、記憶より川幅がゆったりしていたり、何が良いのかわからないが、イベントで人がたくさんいる隈さんの放送局、黒川紀章設計の国際会議場と接続されたホテルでビールを飲んだり。カフェ、家具などの販売、自ら資金調達し企画する展示スペースをもつgrafを覗きつつ。杉本博司展を見るために、国立国際美術館へ行ってきた。建物は、これだったらせめて安藤さんに…という感じだったけれど、それを忘れさせる迫力の展示だった。杉本コレクションの総覧、百花斉放という雰囲気だった。宝塔にアクリルを詰めたり、月の掛け軸をつくったり、微妙なリメイクが杉本らしい。ハイライトは、連続して並ぶ「海景」と、鏡で増幅された「放電場」。表現は抑えめだけれども、小宇宙がそこに。放電場の写真が列柱のように整列し、壁面の鏡によって無限化を試みている。しかし、奥へ歩いていくと、鏡が破壊されていて、その虚構を自ら打ち崩している。放電場の襞と、鏡に映るこなごなになった自分が、頭の中で反復し、ぐらぐらしてきた。最後にデュシャンの大ガラス…。これは、即興か?。最後に映像があり、鏡の突き付けがうまく行かず、やり直そうかという話から始まり、破壊し、笑う杉本。この記事も杉本が書きたくて書き始めたが…。

少し南下すると靱公園がある。これが追い打ちをかけるように良かった。(ここまでくると、すっかり酔っていて、気持ちもアルコールも…。写真が無い…。) テニスをしていたり、レジャーシート敷いていたり、人がたくさんいる。イベントとかでなく、日常的にこうなのだという感じ。特筆すべきなのが、公園に向かっていくつものカフェが開いている点。公設の公園と私有の建物の境界には、所有を顕在化させるように、壁やフェンスがあるものだが、一切無く、風景として一体化していた。店側も過度にテーブルを拡げることなく、公園→開放された一階→その外縁の道を、節度を持ってつなげている。公園の周辺には魅力的な店舗が集まっていて、街の中心的な様相だった。地区に1つといった定量的な規格によって生み出された都市の空地(公園)を中心に、市民空間が立ち上がりつつある。都市計画の設計思想を越えた、自走する公共圏の姿がここに。公園のランドスケープは、(日本の公園によくある)ありふれた西洋的な庭園の模倣でしかないが、その中で人々が生き生きとしている。このズレが今っぽい。都市ともなると、設計思想を越えるまでに、こんなに時間がかかるものなのかと。

写真の補足。東急東横線地下化工事の恩恵で明治通りの真ん中を歩けるようになっているだけです。東横線渋谷駅は、坂倉準三の設計。百貨店や以前あった文化会館も。この辺りは相当変わってしまうだろう。銀座線の高架が唐突に走り、駅に吸い込まれていく雰囲気なども、いずれ無くなってしまうのだろうか。ちなみに、周知の通り新駅は安藤忠雄。東急や西武は前からチェックしたかった。まずは、東急の都市開発の歴史でも読むか。

建築 | at June 6, 2009 12:08