これからは自己主張の時代

もうゼロ年代が終わろうとしている。時代の潮目を感じるものをいくつか。

若人の広場
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丹下健三設計(S42)

最近、宮台真司が(改めて)面白い。日本の難点を読んだ。明治維新の際、国を統合する〈政治〉も〈市民〉も存在しなかったので、代弁者として天皇を担ぎ出した(強いものにかならずついてきたという日本的慣例に従いながら、新しい船出を宣言した)。 しかし、藩閥や、左か右という傾斜ばかりが際だち、その効きすぎたエッジは戦争というかたちで臨界点を迎えた。日本は、天皇という特異点を持つ。戦後、その立場を理解したアメリカの介入により、国民の象徴と再定義され、アメリカに包摂されながら今まで歩みを進めてきた。しかしながら、自由を体現し続けてきたアメリカの失墜を、911の後処理、金融危機というかたちで具体的にさらけ出すことになってしまった。大日本国国憲法が定義した日本。アメリカが定義した日本。そして今、アメリカの変質により、日本を再定義する必要があるという流れは確実にある。憲法改正(という手法が良いか悪いかは別として)もその一端である。アジアの日本なのか、世界の中立者としてなのか、その定義付け論争は充実化させていかなければならない。ただ明らかなのは、国家建設の本当の目的である〈政治〉と〈市民〉の確立は今も曖昧なままであること。進むべき国家的統治を推進できるよう、新しい〈政治〉と〈市民〉の相関関係を築けるシステム、宮台の表現で言う社会的包摂能力を鍛えるために。柳田国男のように僕は野に下る!と宣言したような本であった。

天皇と金融危機の話は、NHKスペシャルで、それぞれ複数回の特集を組んでいる。明日(5/17)も金融危機の特集。NHK面白すぎます。そういえば民主党党首が交代した。自民も民主もイデオロギーの差異はないが、国家を引っ張るエリート(官僚)を引っ張っていける大胆な政治家の出現を望む…。本の中で引っかかったキーワードいくつか。生活世界に棲む人間が作りだすシステムの網を張り巡らしたモダン。全域化したシステムの添加物となった生活世界の中を生きる人間、すなわちポストモダン。システムを修正しながら生きていくしかない。自分へのコミットメントだけでなく、社会へのコミットメントを。社会へのコミットメントの空気感はココカラハジマル|しゃべることにも書いてあった。(以下引用。「私、特別な感性を持ってます。人とのコミュニケーションは苦手です。私の感性は言葉にした瞬間に崩れてしまいます。でも、絵は上手です。写真は上手です。分かってください」系のナイーブな描き込み・作り込み作品は、嫌いじゃないのですが、でも、もうそういうものを、自己表現だとか、小さなゆるやかなコミュニティだと評価する時代じゃない。)建築も変わらなきゃねぇ。フラットや白もポストモダンの一表現でしかない。

フジのノイタミナ枠で放送中の東のエデンも面白い。攻殻のテレビシリーズの監督、神山健治作品。東というのは日本のこと。平和ぼけした日本の中に潜む危機をテーマにしている。パトレイバーのような雰囲気だ。パトレイバーは機械(レイバー)を作った人間と、実はレイバーに支配されている社会という構図を採用している。ガンダムやエヴァンゲリオンも、システムの象徴として機械を採用している。攻殻機動隊や東のエデンは、システムが透明になった社会の話をしている。神山監督は、攻殻のインタビューで、現代社会との地続き感をアニメの中に表現したいと表明していた。東のエデンもそのテンションが強く出ている。

自己主張の際にかかるコストはブログというかたちにより限りなく0となった。批評家の中には、出版するペースでは時代について行けないので、ブログやネット放送を有料化している人がいる。一方で、Googleによる本の全文検索の動きも見逃せない。時代をつくるきっかけは良質なリファレンスによって発見される。この部分でのコストが0になる時代がおのずとくるのだ。小さな気づきを集積するシステムと言えるものは、ブログやtwitterなどだろう。しかしながら機微を前面に押し出すだけでなく、大きな流れを作り出す知恵、システムの開発がこれから必要とされる。ネットだけでなく、建築も時代をうごかす緩やかなシステムである。緩やかというのは、建築は物であると同時に、長く存在するという自己矛盾を抱えているため、ただ新しいだけでは成立しないという意味。建築をつくる際の反駁精神は、緩やかに社会へ訴えかける程度しか出来ないんだから、現代社会とも中立的で自由に作る度胸が必要。誤解を恐れずに言うなれば、未熟な〈市民〉や〈政治〉を誘導するシステムとして建築が機能するべきなのだ。

建築 | at May 16, 2009 18:11