好々爺の漫談

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HfGにてダン・グラハムのパフォーマンス『Performer/Audience/Mirror』が行われた.グラハムと言えば,こういったパブリック・アートっぽいものの作者という印象があったので,本当に同一人物なのかと疑いながら見に行ってみた.

場所はHfGのGroßen Studio.HfGのアトリウムの中に作られたBOX状のスペース.舞台上には大きな鏡が吊るされていて,そこに64歳になる少しお腹の出たアーティストが登場する.つまり客席から見ると,鏡には客席に座る自分たちの顔が映るため,本当の観客と虚像の観客の間にパフォーマーが立つことになる.パフォーマンスがはじまるとグラハムは,実際の観客を,または鏡に映った観客を,そして鏡に映った自分自身を言葉で描写しはじめる.簡単に書くとそれだけ.それにより,実像や虚像,言葉による描写などの関係を表現しようとするコンセプチュアルな作品と頭では理解してみる.しかし,実際にはお爺さんが舞台に出て来て,適当に客席の観客をいじっている漫談のようにも見える.おそらく日本語で(しかも関西弁で)やったら絶対にそのように見えるはず.
勉強不足のぼくは知らなかったが,これは伝説のパフォーマンスであり(というほど大げさかどうか知らないが,少なくとも入場制限のために見ることができない人が大勢いたらしい),最初に発表されたのは1975年であるそうだ.確かにその時代に,しかも32歳のアーティストが登場して言葉による描写だけを繰り返すパフォーマンスは,さぞかしコンセプチュアルであったことだろう.しかし,これはアーティストの責任ではないが,それから時日が経ってしまい,今となっては好々爺となったアーティストが登場するパフォーマンスは,当時とは全く異なる印象を与えるのではないだろうか.
いろいろ調べてみると,そのパフォーマンスの構成を記したメモや,75年当時のビデオが販売されていたりしていて,更にここではそのパフォーマンスの全てが音声だけだけれども聞くことができる(ZKMMediathekでもビデオが見られるらしい).声は少し若いが,話し方や内容(と言っても観客によって毎回異なるわけだが)は先日のものと変わらないようだから,どうやら同じ事をやり続けているらしい.
写真は本題とは関係がなく,先日までKubusの下のSubraumに展示してあったSiegrun Appeltの『48KW』.

@karlsruhe, 美術 | Posted by satohshinya at July 7, 2006 17:50 | TrackBack (0)

adios argentina

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たまには開催国らしい話題も.我が家の近くで発見したワーゲンのバン.ドイツの国旗と同じ色に塗られている.そして後ろの窓には「adios argentina」の文字.

先日のアルゼンチン戦をカールスルーエ市街のビアレストランで見た.巨大なスクリーンが設置された広場のある店を中心に,どの店でもテレビの前に人だかりができている.クローゼのゴールが決まった時なんか,街中に怒号が響き渡っていた.その人だかりの後ろには大勢の警官がいて,それぞれの店を巡回している.たかだかビアレストランでサッカーを見るだけで警官に監視されるなんて,一体何事なんだろうかと思っていると,ご存知のように試合の結果はPKでドイツの勝利.最後の方なんかは大騒ぎしたり,手を合わせて祈っていたりして,ドイツ人たちはほとんど試合なんか見てないんじゃないかと思うくらい.そして試合終了と同時に人々はある通りへ向かって歩き出す.そこにはトラムも走っているんだけど,人だかりができてしまうためにトラムも迂回させられることになる.もちろん自動車も警察によって止められている.そして何百人と人が集まって,通りで何やら大合唱.発煙筒も炊かれたりしていて不穏な空気になんだか付き合いきれず,その場を退散.
その後,街中は車のクラクションがあらゆる場所で鳴り続く.勝利に酔いしれたドイツ人たちは,ドイツ国旗を翻しながら車で走り,対向車線から同じようにドイツ国旗を翻す車を見ると,クラクションをお互いに鳴らして喜びを分かち合う.挙げ句の果てに箱乗りして旗を振ったり,サンルーフを開けて身を乗り出したり大騒ぎ.幹線道路には,巨大な国旗を持ったお姉さんが中央分離帯に立ち,車が来ると旗を振る.もちろん通る車はそれを見てクラクションを鳴らす.鳴らさない車の方が少ないほど.老人たちはアパートの窓からその様子を嬉しそうに見ている.こっちでは試合が終わったのが8時過ぎ.クラクションは12時頃まで鳴り続けていた.イタリア戦でも見てろ,と思うがそれどころではないらしい.
そんなこんなで,町中のドイツ国旗は日に日に増加している.幼稚園の子どもたちも頬に国旗を描いている.近所のレストランなんかは,最初は旗が飾ってあっただけだったのに,昨日は大きな窓を覆い隠す巨大な旗が飾ってあった.そしてこのようなワーゲンまで登場する始末.
今日の9時からイタリア戦.また馬鹿騒ぎが起きるのか? この老若男女の喜び方を見ていると,日本のファンなんてまだまだだなと思う.最後に,中田英寿さん,ご苦労さまでした.

@karlsruhe, イベント | Posted by satohshinya at July 4, 2006 12:14 | Comments (2) | TrackBack (0)

ダークキューブ

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HfGのアトリウムが今度は展示空間として使われ,「Kunst Computer Werke」展が始まった.ZKMのホワイエも会場に使われている.

とは言っても,アトリウムには展示壁面がないのだが,メディア・アートの展示を行うことから,多くの作品がプロジェクタを使用するために暗い空間を必要としていた.その結果,仮設のテント地のようなもので部屋を仕切ってみたり,作品そのものを覆い尽くす巨大な部屋を作ってみたり,大掛かりな仕掛けが必要とされていた(展示作品はこちらを参照).

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例えば『Makroskop』という作品は,吊り下げられたスリット状の壁面に実際は映像がプロジェクトされているのだが,アトリウムのトップライトを覆っているものの,途中階の窓から外光が入ってきたりしていて,日中はほとんど作品として成立していない.メディア・アートにおいては,ある種類の作品では暗い展示空間が必須となってしまうのだが,いつもの光に溢れるアトリウムと比べると,どうも陰鬱な空間に見える.
これらのメディア・アートのための展示空間には,ホワイトキューブならぬダークキューブが常識となりつつあるが,果たしてそれしか方法がないのだろうか? 絵画やインスタレーションなどの現代美術が明るい空間を要請するのに対し,現代美術の多勢を占め始めているメディア・アートは暗い空間を要請しており,多くの展示空間はこの2つを満足させることが必要とされる.その結果,単純に展示室の照明を落とすことから,仮設の壁や天井を作ったり,展示用のボックスを作ったりすることになる.何れにしても仮設的,一時的な対応で,それらを展示するベストな展示空間への解答は得られていない.
作品については,Markus Kisonによる『Roermond-Ecke-Schönhauser』がとても興味深いものだった.詳しくはこちらの動画を見てほしいが,パースが付けられた白い模型の上に,webカメラによるリアルタイムの画像が映し出されるというもの(こちらもまた詳細なアーカイブになっている).その他,Holger Förtererの『Fluidum 1』,Andreas Siefertの『Dropshadows』といったインタラクティブな作品がおもしろかった.
その他,展示構成への工夫として,HfGのアトリウムの床が黒であることから,白いカッティング・シートを用いて作品名が床に表示されていた.それ以外にもライン状のグラフィックなどが会場の床全体に描かれていて効果的であった.

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詳細はよくわからなかったが関連展示として新しいインターフェイスが紹介されていた.大きなスクリーンの前に立って指を指し示すだけで,画面上の情報が選択できるという,『マイノリティ・リポート』でトム・クルーズが使っていたようなインターフェイスを実現していた.他にもオープニングの日にはIchiigaiのコンサートも行われた.

@karlsruhe, 美術 | Posted by satohshinya at June 19, 2006 13:54 | Comments (6) | TrackBack (0)

サーカス兼移動動物園

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移動遊園地に引き続き,MeßplatzではCircus Kroneが開催された.巨大なテントが組み立てられ,周囲には出演する人たちとともに動物たちが生活している.そうなると,これを放っておく手はないと考えるらしく,出演のない時間帯は動物生活エリアが移動動物園に変身する.もちろん入場料も取る(笑).

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サーカス自体がまた長かった.15分の休憩を挟んで全部で3時間! たいしたものだ.
ちなみにこのMeßplatz,またもや移動遊園地が登場し,今度は観覧車まで設置されていたらしい.

@karlsruhe, イベント | Posted by satohshinya at June 13, 2006 14:38 | Comments (1) | TrackBack (0)

見られるアトリウム

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HfGのアトリウムを使って,ローリー・アンダーソンのコンサート「The End of the Moon」が行われた.仮設の舞台と客席による大掛かりなもの.

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このコンサートというよりもパフォーマンスと呼ぶべきものは,ローリーがNASA最初のレジデンス・アーティストとして招待されるところからはじまる物語を語り続ける作品で,途中にヴァイオリンによる弾き語りなどが加わる.上部にはLEDの表示板が吊され,ドイツ語が訳し出されていたから,もちろん即興などではなく厳密に決まった物語を語っていたのだろう.しかし,これがとても長かった.1時間半以上は延々と語り続けている.ローリーの語り方は魅力的だが,ぼく自身の英語能力の貧しさとも相まって,さすがに途中で飽きてしまう.
舞台上にはソファとキーボード,スクリーンが置かれ,床にはロウソクが灯されている.配布されたパンフレットによれば,このパフォーマンスを成立させるために非常に難しいことをやっているそうだが,残念ながらその複雑さを十分に理解することができなかった.おそらく,物語とともに音楽も精密に作られているのだが,それにしても長い.もちろん,洗練された良質なパフォーマンスであるという意見には異論がないが,この長さにはバランスの悪さを感じてしまう.それでもドイツの観客は辛抱強く聞いている.音楽家のイシイさんによれば,ドイツに限らず西洋の人たち(アメリカ人であるローリーも含む)は「間」というものに対する感覚が乏しいためか,同じ調子で淡々と長々と続くことに対して抵抗が少ないらしい.
しかし,ここのアトリウムはいろいろな使い方がされていて,まさしく多目的スペースと呼ぶに相応しい.たった一晩のコンサートのためにこんな労力を掛けるのも大したものだが,こういった使い方に応えるタフな空間があることも重要.もちろんコンサート会場としては最悪の音響であるが,照明用のバトンが吊せたり,舞台上手奥に大きな搬入口があったり,イベント会場としては十分に機能する.上部のトップライトを全て覆うのはかなりの労力のようだが(ちなみにZKMは電動ブラインドを装備),力任せに使い倒している感じが好ましい.

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アトリウム内に舞台が作られ,並べられた客席の後部は2階がバルコニー状に巡る下部にまで延びている.その舞台と客席を囲い込むバルコニーには調整ブースが設置されるとともに,ZKMの人たちが無料で鑑賞していた.まさにバルコニー席である.ちなみにこの建物は元々兵器工場であったが,そのときにはアトリウム部分で強制労働が行われ,バルコニーから監視を行っていたらしい.見る見られる関係を持った建物の構成が,そのまま現在でも有効であるようだ.

@karlsruhe, 美術 | Posted by satohshinya at June 13, 2006 10:05 | TrackBack (0)

母国での皇帝

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ミハエル・シューマッハだよね,これ? 皇帝も母国ではこんな広告に登場している.タクマ君だけではなかったね.壁紙とか見るとすごいけど…….

先日のヨーロッパGPは,ドイツでの開催であったからか,レースのダイジェストを夜にテレビで放映していた(ちなみにモナコGPはやらなかった).結果はシューマッハが勝ったのだが,いつもは記者会見席でのインタビュー(それに関わらず全ての日本で放映されるインタビュー)では英語を使うシューマッハが,ドイツのテレビ局のインタビューだからなのかドイツ語を使っていた.ドイツ人だから当たり前なんだけど,なんだか不自然に思えて笑えた.

@karlsruhe, イベント | Posted by satohshinya at June 3, 2006 17:07 | TrackBack (0)

電子音楽いろいろ

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LAC2006のもう1つのコンサートについて.タイトルは「Open Source Sounds」.今回は,前回のようなコンピュータ・ミュージックだけではない試みが多く見られた.

特に興味深かったのがOrm Finnendahlの「Fälschung」.舞台上には弦楽器を手にしたカルテットとともに,コンピュータを前にした作曲家自身が並んでいる.カルテットはそれぞれ異なったデッキ(CD? MD?)を持ち,ヘッドフォンからその再生音を聞きながら演奏を始める.演奏する曲は,西欧人にとって「エキゾチック」に聞こえるらしい東欧の音楽で,それがコンピュータに取り込まれて繰り返され,更にその繰り返しに合わせて演奏が重ねられ,曲自体は断片的になるとともに複雑になっていく(作曲家自身がホームページに,この曲の構成について書いている).最近の坂本龍一のピアノ・ライブや先日のHfGでのポップソングもそうだったが,その場でHDレコーディングしたものを再生し,更にその上に実際の演奏を重ねていく手法は,今では一般的なものなのかもしれない.しかしこの曲では,途中からヘッドフォンのジャックを抜き,更にデッキのスピーカからの再生音も加わり,迫力のある演奏となっていく.
単なるコンピュータ・ミュージックの再生と比べると,演奏者が舞台上にいて,更にそれがライブ感を持って複雑に変化していくことは,より観客を演奏に集中させることができるだろう.もちろん,コンピュータを用いた精密な作曲という現代音楽的なアプローチとは異なるが,コンピュータを用いることによって,肉体による演奏だけでは成立しないパフォーマンスを行っているという意味では,もちろんこれもコンピュータ・ミュージックの一種であるのだろう.しかし,その違いは大きい.そう感じてしまうのはぼく自身に原因があるのかもしれないが,パフォーマンスとしての観客に対するアピールが大きく異なると思う.
もう1曲,Martin KaltenbrunnerとMarcos Alonsoによる「reac Table*」は,円形テーブルの上に装置を置くと音が出るというもので,装置の種類によって音の種類が異なり,装置同士の距離や向きによって音が変化する.2人の演奏者が登場し,ボードゲームのように交代で装置の数を増やしたり動かしたりすることで,その結果の音が曲となるというもの.更に装置を置くとテーブルがさまざまな模様に発光し,音の変化などを視覚的に表現している.つまり,この装置自体が1つのサウンド・インスタレーション作品のようになっていて,それを用いた演奏という趣向である.そのテーブル上のパフォーマンスは撮影され,舞台上のスクリーンに映し出されている.
これもまたコンピュータ・ミュージックなのだろうが,作曲とするという行為からは大きく離れているように思う.確かに1つの楽器を発明しているようなインターフェイスのデザインは興味深いが,演奏自体はほとんど即興的なもののように思え,一方のコンピュータ・ミュージックが厳密な音の演奏を企てることと比べると,大きく異なる.
Ludger Brümmerの「Repetitions」は,4チャンネルであった曲を20チャンネルに作曲し直したもので,もちろんKubusのKlangdomを意識したものであろう.ここでのコンピュータは,40個のスピーカに対して20チャンネルの音源の正確な演奏(再生)を厳密に制御するために働いている.
コンサート終了後,ホワイエに面するMusikbalkon(と言っても内部)で「Linux Sound Night」が行われた.写真はその準備風景.VJ付きのクラブという感じなのだが,これもまた確かにコンピュータ・ミュージック.しかもプログラムには曲解説まで付いている.

@karlsruhe, 音楽 | Posted by satohshinya at June 2, 2006 13:32 | TrackBack (0)