高過庵

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ちょっくら見に行ってきました。最近、書く余裕がないけど、書きたいネタはある。
藤森さんの建築は建築家が表現しないことをわざとしているようだけれども、(歴史家として)建築家が見たい桃源郷は理解していて、わざと避けようとしているのではなく、自ずから沸く欲求が、かわいらしく見えて何も言えないといった感じ。プリミティブすぎて真似できないところからもオリジナリティは十分垣間見える。テクノロジーをはねのける毛深さはどこへ向かうのか、それとも予定調和な劇場的なものなのか。僕には分かわらない。ようはどこでジャンプしているのだろうか。

建築 | Posted by simon at November 10, 2005 1:40 | Comments (0) | TrackBack (0)

SA

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House SAに行ってきました。いくら図面を見ても、疑問がでるもので。模型にするとなおさらだ。当日の私のコンディションは最悪で、二徹夜の作業(しかも、あのメディアテークの模型をつくった模型事務所での作業で、緊張と弛緩の連続の環境だった)後で、半分昏睡状態だった。行く途中も、なぜスパイラル(階段状の空間)なんだと、出口の見えない夢の中、神山健治・東浩紀の対談の中にある、最近の押井さんは年齢のせいか、獲得できないフィジカルな欲求ばかりば目立つ。という、一説との往復しか出来なくなっていた。
TOTO通信今秋号の「原・現代住宅再見 41(PDF)」で取り上げられている。物品の詩学なる藤森流のタイトルがついているが、まさにそういう空間だった。物品への欲求といえば、西沢大良の、空間を所有している物品と同系色に仕上げるという、空間への興味と通じているものがある気がした。坂本研だし。ただ、坂本さんが住宅と物品をテーマに設計をしたかは定かではない。朦朧な記憶をたどると、オブジェクトの配列の緻密さを、一緒に見ていた人々もすごいと言っていたが、それを解決することには無自覚だったような印象を持っている。物品への興味のたとえに藤森さんはオタクをあげているが、確かに物品に埋もれるような空間で、寝そべれるスペースがほとんど無い。寝るときに使うと言っていたスパイラルの最後にある畳と、途中にあるアフリカ民族の木彫りのベットの上でくらいしか寝そべることができない。オタクの原型を発見したのかもしれないな。風貌とイメージも一致している…。

そのあと、ぎりぎりの体調のまま、以前から約束していた、杉本 博司「時間の終わり」を見てきた。個人的な伏線があって、ブリゲンツ美術館で始めて作品を見、印象に残っていたので絶対行きたかったのだ。tkmyさんは、ブリゲンツは建築としてはおもしろいが美術館としては最悪と言っていたが、僕は杉本 博司の作品があまりにもフィットしていて最高にいい美術館だと思っていた。
建築シリーズがやっぱり好き。建築家の無自覚な欲求を顕すようなテンションでフレーミングされた建築たち。WTCなんて強烈だ。だれも見向きもしないくらいマンハッタンに埋没していた建築を撮影する嗅覚はさすが。911後、さらに意味が上書きされた気がする。消されて記憶に残る建築。無自覚な欲求=建築という墓。
全体としては作品数も多く満足したが、ハイサイドから柔らかい自然光が降り注ぐブリゲンツとは印象がまるで違った。写真は自然光に限る。護王神社の模型があって、直島の瀬戸内を見立てて、東京湾が見えるとなっていたが、朦朧としていたわたしはあほぉなことにのぞき忘れてきた。もう一回行きたい。

建築 | Posted by simon at October 12, 2005 4:51 | Comments (0) | TrackBack (0)

forbidden place

場所
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横浜市の都市デザイン室長の講義を聞く。実践的な話の中から一つだけ気になったことが。「都市計画的に健全とされているものしか良いとは言えない」というフレーズが印象に残っている。まち全体をそのテンションで徹底すると、ニュータウンという言葉に喚起される街並みが想像される。しかし、誰もが郊外の街にはどこか物足りなさを感じている。優良な計画学と実生活から得られる価値観の落差には、直接つないで説明できないほどの深い溝がある。

アノニマスな禁断かなにか。特異な条件下で発生した郊外団地を舞台としたコンテンツ(小説 映画 ドラマ)は数多い。金妻平成狸合戦ぽんぽこなど切りがない。最近では月9で放送されていたエンジンにも多摩NTのカットが入っていた。また、郊外団地を舞台とした映画が論文のテーマにもなっている。イメージと実態の落差に惹かれ群がる人々。

郊外団地をテーマにした議論や論文によく取り上げられる小説がある。直木賞作家でNTに住む重松清が書いた定年ゴジラだ。ある対談で冷静に都心回帰は郊外逃避であると言い放ちつつ、あとがきにはNTが少し好きになったと書くところ、自己矛盾を抱えていて面白い。

禁断な関係(場所
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群がるとおちつく?(場所
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建築 | Posted by simon at July 27, 2005 4:01 | Comments (0) | TrackBack (0)

リサイクル

転用1(場所
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転用2
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テトラポッドは、脚の頂点を結ぶと正四面体になる。
自重を無視すれば、正十二面体の立体で、組上げることが出来る。
構造のアルゴリズムとしては、最適化のたぐい。
*実は、テトラポッドは、株式会社テトラの登録商標。ウォークマンみたいなもん。

ギャラ間のレクチャーで最適化とリダンダンシーのプログラムを聞いている時に、ふと思った。
水戸芸のテトラ(四面体=三角形で構成した立体)で組上げた塔は、構造のアルゴリズム上、最適化されているが、リダンダンシーがない。(もっとも緊張した状態での構成のため、一本折れたりすると、崩れる)
例えば、車が理論上最適な三輪で普及出来なかったのは、急カーブの時、荷物の重量が想定外であると、力のながれをほかに逃がすことが出来ず、倒れやすいから。四輪ならば、倒れる方向に車輪がついているので、耐えられる許容が大きくなる(リダンダンシーがある)。
当たり前の話だが、三輪は理論上最適なものではあるが、流通できない弱さがあったということ。

建築における一つの潮流に、「合理性へ向かう目標を外す。といったことが挙げられるだろう。」と、前出のレクチュアで言っていた。
CGを作成しているときに、なーんかわくわくしなかった理由が分かった気がする。テトラポッドで構成した立体は、最適化された構成(リダンダンシーがない)のため。新しい予感がしなかったのかぁ。

アントチェアにも三脚がある。倒れやすそうだが、正しい姿勢であれば問題ない。モダニズムでは、正しい姿勢での椅子の着席が最適とされていた。んー、リダンダンシーがない。(笑)

関連リンク:simon|DERIVEに魅せられる

建築 | Posted by simon at July 2, 2005 23:28 | Comments (0) | TrackBack (0)

万博

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ロボットと戯れる人間と、自然はいいなぁといったような、全体的に楽観的なムード。なんの目的に万博をやったかは、行っただけでは分からなかった。隊列を組む自動走行のバスや、感覚的に操作出来るモビリティなど、テクノロジーだけを見ればおもしろいものもあったが、とにかく建築がつまらない。
そんななかTOYOTAパビリオンが突出しているように見えた。21世紀的な技術的テーマと、個人的な創意のバランスがとれていて好印象。小さなパーツ(軽鉄)を組み合わせて大きな空間を得る悦びと、解体できる明快さが結果的に何を生むか。そのへんをもっとアピールしても、いいかなとは思ったけど。
まぁ。万国博覧会というフレームで何を生もうとしているか考えないと、ただの観光アピールの場になっていた。

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建築 | Posted by simon at June 6, 2005 1:25 | Comments (0) | TrackBack (0)

荒川修作×磯崎新

ABCのトークイベントに行ってきた。文字に出来るところだけ書いてみる。荒川さんがゾンビのように感情をこめて話を始めた。局所的に美術や建築をもちいたアメリカに500年しいたげられてきたラディンがやったのは当たり前と。はなから暴走気味。続けて、磯崎さんが自分の主張として書いたなら建築する身体を半分書き直せと言う。アーティストを放棄し建築家になろうとしていると指摘。一方、荒川さんは、堀江(ライブドア社長)さんは「私は死なない」という視点で、倫理や社会を断絶し、経済に切り込んでいったと評価。かみ合っているようなかみ合っていないような展開に翻弄される。荒川さんが、記憶を形成するというのは、外に対する免疫であることを発見したと言う。彼が言う有機学の思考にたった発言。彼曰く有機学というのは、(たぶん荒川さんのつくった場所で)そこに行きたいと思い、はいつくばって行くと、途中でいがいと心地がよくなってそこで居座るということらしい。デシャンに人差し指でこづかれて、君は有機体に入っていてのはだめだと言われたと。当時さっぱりわからなかったと回想。

・磯崎さん。幾何学を信用している。始めるにあたって、生物にかかわるものを排除して、エンジニアリング(幾何学)の領域を選択した。有機的な形態なのは、風潮でそれに従っているだけと。
・バブル崩壊後ロンドンでvison of japanという展示をやった。日本人からひどく非難された。
・荒川さん。記憶って言うのは、筋肉の使い方でわかる。
・コルビジェっていうのは、階段をかけあがって、メジャーで測って2mでも10mくらいだね。とかいうのがない。
・水が抱きしめてくる風呂ってあるんだよ。おそらく進行中の集合住宅のこと。
・建築をデザインしない。アンチデザイナーである。有機学のような自分に対応する理論を組み立てるためにやった。
など、文章化できないような話が飛び交う。

建築 | Posted by simon at May 29, 2005 20:21 | Comments (5) | TrackBack (0)

原美術館ARC

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富弘美術館にも行ってきた。良くも悪くもあたまを抱えさせてくれる建築だ。コンペ的な思考にたてば、勝つと言う目的において、円形のプランを採用したことに問題はないだろう。何より勝者となり建築を作っているのだから。ただ、美術館として本当に良いかどうかはよく分からなかった。
確かに、建築の話としてはおもしろい。しかし、建築家の能力はそれだけではないはずだ。プロジェクトの規模に対して、ある程度の予算があり、その中で美しいまとまりを描かなければならない。完成に至る経過を詳しくは知らないが、建物とその周辺が断絶していた。アスファルトのアプローチ。湖面まで降りる動線。ツーリズムを優先させた車寄せ。それと建築。それらが、縦割りで工事区分が分担されているような印象すらあった。それが、建築家が発言した結果であれば、少し悲劇的な建築かもしれない。
空間のバリエーションは、断面のヒエラルキーがなく、円の大きさのみで違いを出している。そのため、素材をいろいろ使っているが、少しうるさかったかもしれない。加えて、円が詰まりすぎている気もした。円と円がぶつかった余りの空間などを利用して、外部が感じられる空間などが、もうすこし混じり合っても面白かった気がする。それを解決するためには、箱の大きさを広げれば良いのだけれども。無理だったのかなぁ。ただ、円が迫ってくる空間は、負けている感じが強く、居心地は悪そうなので、見えているだけでいい。
プランは、道路側がサービスで、湖に向かってオープンな機能へグラデーションする従順なもの。壁から壁を抜けて、予期せぬ風景が重なっている種類が、全方位へ展開できるように散らすことはできなかったのだろうか。
文句を言っているのではない。いろいろ考えさせられたのだ。円を徹底するという方法論の中で、他の手はなかったのか、ずっと考えながら、ぐるぐると歩いていた。
円形の壁づたえに、人がオートメーション化されているように、並んで動いているのには、少し驚いた。笑
原美術館ARCが、すばらしかったので、そういう気持ちになったのかもしれない。

建築 | Posted by simon at May 16, 2005 10:32 | Comments (11) | TrackBack (0)

MoMAは50%

オペラシティで開催されている「谷口吉生のミュージアム」に関連した講演会に行ってきました。以前のエントリーで、高宮さんが見たMoMAを書いたのですが。今回は、槇さんと谷口さんが見たMoMA。槇さんの直感で、辞退するつもりだった谷口さんを、ぎりぎりでとどまらせたなんて、逸話を聞いていたので、この二人の話は是非聞きたかった。人の話を聞きに行くのは、99%が事実の反芻で、1%の狂気を期待していくわけですが、今回は谷口さんが「50%しか満足していない」と言ったのが、それでした。笑
お二人の真っ正面に座り、モダニズムを壮観した気分に浸りながら、入り時間になる。矢萩喜從郎さんが、まず谷口建築を解説。シンケルやミースに通じる理性的な態度や、門構え、にじり口、座といった日本的な解釈、絶対水平や鏡面性が特徴の深さのない水面。ご自分で撮影されたと思われる写真を交えて、自分の解釈を、誤解をおそれず話されていました。一番、印象的だったのは、ブルーモーメントに輝く豊田市美術館をファインダー越しに見たとき、「理性と日本的な感性の溶解」に見て取れ、大変美しかったと。スライドとセットだったので、感動。
次に、槇さんの視点での評価。展覧会を見て分かるように、多くのメディアから讃辞を贈られている点は、40%は建築家がよかったから。残りは、MoMAだったから。なぜか。グッケンハイムとは違って。と言っていいほど、アメリカ人にとってMoMAは特別であると。自身がNYで働き始めて、まずMoMAの会員になったほどであり、移民文化のアメリカの先進的なコミュニティは教会しかなかった。次にデパートやボールパークができ、それから美術や演劇がついてきた。その中でも象徴的なものがMoMAであると。彼ら自身の幸福感であり、先進的なサンクチュアリとまで。このコメントからも、アメリカの身体感覚が根付いていた槇さんがMoMAのプライド、戦略からいっても、勝ち取る可能性を感じていたのだと。槇さんとしては今回の計画は、何よりアーバンデザインがすぐれていて、18世紀から現在にいたるまでの建築が集積している場所で成立させている今回の計画を高く評価されてました。
それを聞いていた谷口さんが開口一番、僕は話がうまくないと前置きをし。既存の保存、改築の復元、新築が複合した難しい計画だったと。そういう提案をしたのが自身ではあるのですが。内部にある作品との拮抗を望まないMoMA。MoMAが所蔵する作品は世界中どこでも見れるから、NYが館内からどう見えるのかというのを慎重に考えた。知ってはいたが、この謙虚で紳士的なコメント。んー背筋も伸びてる。また、あの特徴的な門構えは、中と外との連続性を意識した窓の枠でもあると。アベニューからのひきがないので、内部空間を豊かにしたかったと。建築を学んだのは都市の理想を語られた60年代。しかし、日本の都市の猥雑な風景を見て、どちらかというと閉じることに興味があったのかも知れない。矢萩さんが日本的な解釈のことを述べられていたので、日本的な事は意識していない。どちらかというと避けていると。一方で、非対称 線的 うすあかり コンポジション。モダニズムと共通するものを、そういった日本的な空間構成に感じると。
それを聞いていた槇さんは、内部空間に興味のあったroom to roomの磯崎さんや回遊性の谷口さんと比べれば、もうすこし楽観的だったと。門やにじり口もしない。ヒルサイドでもわかるように、隅入りを好むと。谷口さんとの違いをコメントされてました。
最後に、質疑応答。「どこで筆を止めるのか」谷口さんは、どんどん単純化していく。ぎりぎりまで純粋化して(作為が)残るか残らないかのぎりぎりのところで止めるとコメント。「敷地から何を得るのか」槇さんが、ア プリオリな欲求を確認するために敷地を利用することもあると。

建築 | Posted by simon at May 12, 2005 19:10 | Comments (1) | TrackBack (2)