梅林の家のじつはのところ

そもそも建築家がなにをもって建築家なのかは決まっていない。
ちょっといじわるに一般化してしまえば、
都市への事も、都市でのこと、現代的なテーマ、どれもを素通りして、
ただ、室と室がどうくっついているかといういう話に始まりそれに終わっている。
確かに、新しい。確かに生活が想像できる。
悪質な言い方をすれば、せじまさんはセンスの極みの頂点。とぎすますタイプの建築家。ただ、女性だからだろうか(笑)とぎすましすぎない。様なふりをしているのか、本能なのか。
まぁ、そこは、自明的なところで、議論にはならない。
話のついでに、建築家が建築家としてやる仕事ではないと50年代後半の時点で、言っている磯崎なんかは、やはりきれきれだ。(「現在の小住宅の設計というのは、せいぜいそれくらいの利用価値としての前衛的な歴史的対象としての前衛的な歴史的使命はすでにおわってしまった。設計の対象として問題にすべきものは、もうほとんど残っていない」)僕もどちらかと言えば、この意見に賛同していて、住宅だけをやっていって、自分の理想や追求は物足りない?!目立ちたがり屋で恥ずかしがり屋だから?困った(笑)
せじまさんが、新建築のインタビュー最後のほうで、スタッドシアターのプランを発見した時にそれを、断面的に使いたいと思ったといっていて。勢い任せに言わされたのかなぁとおもったりしながらも、どこが断面的にいっているのかがちょっとわからない(現時点では)。どっちかというと断片的?

そういえばどっから小住宅っていうの?扱えあるパラメータが極端に少ない建築のことをいうのかなぁ。今日、高宮さんにやりたいことありすぎて、一個でいいんだよ。小さいんだからと言われました。

建築 | Posted by simon at September 10, 2004 19:33 | Comments (0) | TrackBack (0)

ちいさな家で考える構造

建築をやっていくからには、常に批評性を意識したい。
無理にでも背負いこむというのが、正確な表現かもしれない。
約26坪の都市住宅の設計課題に取り組もうとしている。
さて、どう接しよう。
今回は、建築家が家具だったり家電だったり本だったり、空間に表出してくる立体に、
なにもポーズをとっていないではないかと指摘している西沢大良にちょっと興味がある。
歴史的には、メディアの影響によって、
最小限の戦後、立ち向かう70年代に匹敵する、コンテンポラリーなキーワードというきらいがあること。
自分の問題として、すまいに対して広ければ広いほどいいのではないかという考えに立ち向かえる切り口が欲しい。言い換えると小さいというサイズに負けない小さな家という意味は ということか。
M1.gif
つくること それを貫く強い形式やルールが欲しい。
乱暴な言い方をすると、20世紀は、社会がもつイデオロギーを批判することで、つくられることが持つ構造を満足できたようなところ、それが羨ましくすら思っている。
instantcommunitysysytem.gif
余談だが、建築を作る時の構造の例として、前期課題において、セキスイハイムM1のような社会的なバックグラウンドをもったカタチを利用することで、安心して要求されているナカミを満足させることに集中出来た。当時のM1は、そのカタチの根拠を主張する必要性が正しく思える歴史的背景にあり、工業的なカタチをしている。しかし、純粋な抽象的な形式として利用することで、ナカミを反映させた結果のカタチ、もしくは、カタチを主張した結果のバーチャルなナカミを超えた図式の中で、恣意性を排除出来る。あのM1で構成しましたと言わないことが追求されたことになる。
さて、今回どういった構造を利用することにするか。
構造を切り離すということも可能なのかもしれないが、それは想像できない。
デシャンのような剽窃の美みたいな構造が今は、好きだ。

portfolio, 建築 | Posted by simon at September 7, 2004 4:36 | Comments (0) | TrackBack (0)

ルイヴィトン

毎日新聞の写真を拝借。
LV.jpg
昨日のスマステに村上隆が出ていて、ふつうのおっさんだった。
ルイヴィトンの特集のようで、青木淳もさらっと。スマステ風のプレゼンで出てきた。
NYや並木通りのルイヴィトンを見ると、かつてのような異様さが無くなってきた気がする。
消費の中でデザインすることは、そういうことなのか。
GAを見る限り、設計の話自体は、芸の域だな。
隆が、二年前のパリでやっていたカルティエ財団の展示を思い出した。
このまま新手のジャパニズムというレッテルを引っ張る?のかな。
僕が知ったときは、すでにビックになっていたので、それという愛着はわかない。

art, 建築 | Posted by simon at September 5, 2004 10:03 | Comments (0) | TrackBack (0)

気に入っている梅林の家

梅林の家について考えたこと。
・ヒエラルキーが住まい手によって移動可能な、選択できる自由さを獲得している。
・小さなということに対して、適切な大きさを鉄板の薄さでつなぐということで、回答している。
ただ、掃除しにくそうな、というイメージからくる枠のようなしつこさ。特にベットが置いてある部屋に対するベットというボリュームが不健康な不適切さを連想する。また、住環境として快適なのか。あつそうさむそう、という点はやはり気になる。冷暖房が全ての部屋についているわけでもないし。
今回の住宅で、一番気に入っているのは、建築を図面で表現する場合の、前衛的な歴史的使命を果たした点。本能的に脱帽ということですね。

建築 | Posted by simon at August 29, 2004 4:22 | Comments (0) | TrackBack (0)

身体のある空間とヴァーチャルな空間のあいだ

この前、二年生後期の課題をネタにして
3人の建築家にインタービューを行った。
はっきり言って、
建築的にどうおもしろいか。という話は無理難題である。
目的は課題集を見る学生たちが、
今後よい空間を共有していく、きっかけを持って欲しいことにつきる。
CIMG0998.JPG
現在、つくっている課題集にも書くつもりだけど、
建築を。まぁ何かを作ろうとしたり、訴えたい時、
扱って行くとおもしろそうなパラメータを、
幾つか同時に展開していく勘を効かせなければいけない。
それは始め非常に断片的で、意識的に操作しないといけない。
僕は僕としての興味ある建築がもつ構造のテンションがある。

結果には、自分の操作を越えて、
感情的なことや時代性、暴力性、執着性などが無意識に付いてくる。
後に、その結果が意識化される事もある。
その無意識な反応のみによって、構築していると見失い、
批評される時、他の文脈に回収され、自分の思考が蓄積されていかない。
今回のインタビューでは、学生が課題を操作するきっかけとして、
自分の経験が、よくもわるくも空間に反映されているという話題が共通して出ていた。
代官山に作る集合住宅の部屋の作りが、公団を彷彿させるものだったり、
明らかに美術館に行ったことがないような、作品と人の距離だったり。
鈍い身体感覚が無意識に出てしまっているテンション(=意識的な操作)のない中で、
作品群を大きく二つに大別した。
「自分の周辺」で想像しやすい距離から始めたものと、
「全体の構成」で精魂尽き果たしたもの。
ちなみに、当時僕は後者のタイプだった。(笑)
結果的に出来たモノが、ある一定方向にしか見えない。というのは、非常に貧しいのだが、
この二方向を同時に意識することで、かなり視野が広がる。
前者は、まさに身体の経験からの空間で、
後者は、経験を越えたヴァーチャルからの空間の一つと言える。
身体のある空間は、何となく正しいことを言っている気がする。
では、ヴァーチャルな空間は嘘なのか?
インタビューの中にも出てくるが、
例えば自分より明らかに裕福な人の家を設計するとなると、
そこにある生活を想像しなくてはならない。

すなわち、パラメータを操作するには、ある一定の両端を意識する必要があるようだ。

建築 | Posted by simon at August 20, 2004 17:23 | Comments (1) | TrackBack (0)

かたい空間

以前から南禅寺の敷地の一部を横断する琵琶湖疎水のアーチが気になっていてやっと見に行けた。
期待してよかった試しは滅多にあるものではないが、これはよかった。
CIMG0855.JPG

セキスイハイムM1に、通じるものを感じる。

建築 | Posted by simon at August 5, 2004 23:32 | Comments (0) | TrackBack (0)

無目的な空間

日田市のコンペを議題にしたゼミの中で、
今村案の小ホールが、無目的な箱として、評価出来るという点で、
まとまりのある説明が出来なかったので、
自分のためにも補足すると、
実際のところどこまで考えて、
”スポーツが出来る小ホール”という、しつらえを用意したかはわかりません。
しかし、従来の劇場という形式を崩す。という姿勢と、
一様な公民館的無目的空間ではなく、
小ホールと言ってしまい、スポーツも出来るという言い方は、よい無目的な空間を目指す表現の一つ(ほんのわずかなきっかけ)だと思いました。
ナスカ案のように、誰にでも魅力的と、たやすく想像ができる、屋上という無目的な空間を作ることもあり。
まぁ、あくまで、僕個人が無目的な空間をどうやったら、魅力的な環境にレイアウト出来るか。と言うことを考えているので、書いてみました。
今のところの、言葉の上での整理では、
無目的な空間の目指すところ、
作る側ではなく、使う人がいかに空間を実践できるか。という、ところに視点があり、
現在のリノベーションブームをきっかけに、
メディアが興味を持ち始めたことを利用して、
外から空間に参画することを売りにした、建築家のたち方を、もっと際だたすことはできないかととも考えられないかなど。
新しく見えることは、建築家の責務だという前提では、
その建築が、否定的に見られるかもしれない。
ただ、やれる余地があると僕は思っている。

劇場建築の割合の目安として、
機能を目的として目的的空間55パーセント
機械室10パーセント
残りの35パーセント。
その余白を、どんだけ魅力だと言っても、獲れそうなコンペの質ではないですがね・・・

建築 | Posted by simon at May 11, 2004 21:26 | Comments (0) | TrackBack (0)

場所という素材性

場所の素材性としての差を二者の間で考えてみる。
国際フォーラムを建てること。と、丸ビルを建てること。
僕は、前者の建築がよいなと最近よく思う。
フォーラムはニカフのドキュメンタリーの時、べったり浸っていたので、僕なりの愛着があるが、それを差し引いても、断然いい。
同じ開発手法が、丸の内を占拠している。
(丸の内に蔓延している総合設計的な周りを空けて、縦に積むという考えは、シンボルな形態で主張したいコルビジェから来ているお話。輝く都市をぶちあげて、アテネ憲章に刷り込む執着心が、インターナショナルに展開していることが実感出来てしまう街でもある。)
敷地の形状と設計者が違う事のみが、価値となっている街であると同時に、丸の内で国際フォーラム的なアクションを展開するには、都合の良いフラットな状況であった事は、想像するだけで快感である。
実際、昼休み時などたくさんの人がお弁当を広げたりするのを見るといいなと思う。

◎をめぐって妄想したこと。

二者の場所の素材性としての差は、
コンテクストを作ろうとしている白金台。
コンテクストの崩壊をうたう大手町。

白金台は、偶然、区の歩道拡張地域にぶつかり、現在前面道路が空白でとまっている。
オープン時に同時に出来上がるタイミング。
かつ、カフェが同じ通り沿いに全く無い。
通りの通称名もこれからつくであろう。(前面道路にぶつかるプラチナ通りとか言うのが有名)
◎が象徴になり得る位置にある。

大手町は、テナントが、出店する時、契約上現状復帰という項目がもりこまれ、
これが、くせもの。
へんてこなガラスサッシがついていて、取っ払って、営業する勇気が皆ないのか、
そろいも揃って、同じ規格のサッシによって、廊下の両側の面が構成されている。
はじめ見たとき笑ってしまった。
三年で取り壊すことが決まっていることもあり、
取っ払うことによって、差異が生まれることを想像することはたやすい。

建築 | Posted by simon at March 4, 2004 1:52 | Comments (0) | TrackBack (0)

新しい建築を目指したい気持ち

個人的な思考性の中で、建築にどう立ち向かっていくのかを個人的な見解で考えた安中シリーズのラスト。

1-direction

・敷地全体に目指す空間の質は「匿名性のルール」を持ったもの。
・行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり 「行為という表現」をフラットに受け入れる「匿名性のルール」をもった質を「うれしい環境」と呼ぶ。
・「うれしい環境」は 誰もいない風景(=ルールが発生していない状態)⇔集団がある風景(=特別なルールをもっている状態/イベントなど)という両極を内包できる 質を持つ。両極の内に収まる曖昧な状態を 日常的な風景と呼び。中間的な層 曖昧な状態 とも言い換えられる。その日常的な風景が「匿名性というルール」を持つ。

・曖昧な空間は 屋外から屋内のグラデーションスケールが定まらない状態。
・曖昧な空間は 森の中を歩く時のように 人々に様々な要素を与えてくれる。自然に知性へ刺激をアフォードする質を持つことにより 同じ世界の中で 見え方を変える事が出来る。
・曖昧な空間は 外部空間を離散的な範疇で規定(レイアウト)する事で (グラデーションスケール)フレームを獲得出来る。よって 曖昧な空間の中で よどむこと サーキュレーションすることを 行為者が 連続的に行なっていく中で 複雑な環境の中に 「匿名性のルール」を見つけ 全てのヒエラルキーを対象とする「行為という表現」を選択し 獲得する。
・曖昧な空間は 「もりのがらす(暫定)」 と呼ぶ。(機能名)

・「もりのがらす」 には 今日の建築家が理解し使用するような意味でのプログラムは全く無く 外部に規定された曖昧な空間という質に含まれている「匿名性のルール」の中で 「行為という表現」を受容する。

・唯一の機能として ヒエラルキーの高い表現を展示できる 屋内空間を 高層化によって獲得する。
・高層化される機能は 半屋内という状態の地上から 離れて行けば行くほど より屋内的な空間へ向かうことを意味する。
・いわゆるビルディングタイプの美術館が 開くということに関連して 機能を選定する。これからの新しい美術館のありかたへ向かう。

・曖昧な空間は 予測不可能な 今後へ 解答を連ねる事が出来る。独立壁を立てれば目的空間を獲得できること。

・建築の強さは 規定される外部によって崩れない。

2- suggestion

・「行為という表現」の場
   →高い順位に芸術があり、展示できる機能を持つ。
   →「即興のコミュニティ」の中にあるコミュニケーションを記録保存し、発信する機能を持つ。
   →「もりのがらす」という機能を持たない部分に全ての表現のヒエラルキーを内包できる余地を持たせる。
・「うれしい環境」という読み替え
   →「匿名性のルール」という質をもっている。

3-extra

「匿名性のルール」について

「ミース」
コンクリート造オフィス1922
煉瓦田園住宅1923
コンクリート田園住宅1924
ドイツパビリオン1928-29
ブル丿チューゲンハット邸1928-30
1924年に建築とその時代における関係を次のように指摘している。
「ギリシャ時代の神殿、ローマ時代の会堂、中世の大会堂は私たちにとって個々の建築の作品としてよりも時代全体の創造物として意義深い。これらの建造物の名前を詮索する者があるだろうか。本来こうした建物は非人格的であり、それぞれの時代を純粋に表現したもので、まぎれもなくその時代のシンボルとして意味がある」

「現代芸術」
芸術が一部の飛び抜けた天才のものであると考えられていた時代、芸術の現場が、造り手と受け手を分離していた時代には、特権的なものであった。
例えばゲームのルール。
複数の人間によって受け入れられることなくして成立しない。実際、トランプのゲームをサッカーのゲームも、作者の名前は分からない。これほどの無名性の中にありながら、これだけ多くの人間達がそれをたのしむことが出来る。
匿名であるからこそ、誰もがたのしめるものである。
そこには社会的な公共物といしての著作権が、きちっと倫理をして組み立てられているということ。
社会に開かれた表現 自己から他者に向けて 共振する芸術のありかたを現代芸術は探っている。
もしかしたら 作り手も受けてもない平坦な 複数の人間が参加できる環境が 創造の現場かもしれない。
そのヒエラルキーのない状態をどう言った方法で解消してゆく事が出来るのかが わからない。
そのための模索が必要である。

「ミカングミ」
場はフィジカルな環境だけでも生まれないし
そこを運用するソフトだけでも
そこにいる人たちのキャラクターだけでも場は生まれない。

まじめに対応してくれたshinyaさんに感謝です。

monologue, 建築 | Posted by simon at July 6, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)