積極的二次利用の時代

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中国のデベロッパーによるマンションのセールスセンター(参照元)。中国的二次利用の現在とも言えるが、市場原理によって淘汰を超えた時どうなるのだろうか? 複製の反復という劣化コピーの中から、力強いものが立ち上がる予感。飲み込まれない中国が来るかもしれない。そうだとするとぞっとする。だからシャッターを切った。

「攻殻機動隊S.A.C.」の続編「SSS」の発売Preview)が近づいてきた。今回も監督は神山健治。彼は、日本における桃源郷が、江戸時代、冷戦下のバブル二度あったと整理している。それを潜在的に求めているという設定で攻殻を描いているという彼の言葉を思い出した。個人的な予感では、次の桃源郷は簡単にまとめてしまえば、本質的なITの隆盛を迎えた時に、立ち現れると思っている。そういう時代に生きていると認識している。その時とは、すでに存在しているGoogleに代表されるシリコンバレーが牽引するITによる「知(資源)の再統合」という大きな熱風が一段落する頃。それを取り囲む言説(例えば)を追えば、おのずとそう感じるし、また分野を超えて刺激を受ける。まもなく、始動するGEET STATE制作日誌)も、その熱風の余波として見逃せない。彼らは、未来学エンターテイメントと呼び、人文・社会学的見地からと、情報技術的見地からの未来予測、それらの設定を生かしたSF的手法による物語構成によって未来を大胆に予測しようとしている。三人のさまざまな思惑が交差する中で立ち上ろうとしている都市像にわくわくする。余談だが、彼らのまなざしが他の表現へ飛び火する予測がつく(特に東浩紀は動ポモに記してあるような二次利用を期待している気がする)。また彼の苛立ち(活字エンターテイメントに蹴りを入れろ)からも感じられるように、発展的飛び火を演出してやったる!くらいの雰囲気がGEET STATEにはある。

ここからは、僕の仕事のスケールに落としてみる。中国はあまりに楽観的な設定に向かって、ひたすら建築、都市を生産していると、やはり思う。なぜなら、かつての日本と現在を知っているからだ。例えば、僕の修士の対象だった多摩ニュータウンも31万人規模の街でありながら、19万しか住んでいないのである。少し、思い出してみる。まず、つくりすぎた部分を段階的に山へ帰せばいいと考えた。それから、都市的な規模は一度に更新されるわけないので、問題が最も顕在化しているエリアを対象にしたロールモデルを提案すれば、今後の参照元となると考えた。今後の社会状況をみながら、街の運営主体がモデルを参照しつつ最適化していけばいいと考えていた。ちなみに、この修士設計のみそは、ニュータウンを全部を山に返せ。というストーリーではないところ。例えば、日本の産業をささえる人口がどんどん減っているので、就労人口を補う難民居住区として再利用されるかもしれない。つくりながら考えるモデル=パッチのようなものを街に打ち込んでおけばいいとうい姿勢が共有できる雰囲気作り、提案されたモデルを競って具体化できるシステム、システムを実行する新しい街の運営主体(今までは行政)が必要だとわかった修士だった。
中国の話にもどすと都市的な状況によって生まれた癌をもて遊ぶレムですら、中国の現状に対して警告している。実際の仕事も、あり得ないと思ってしまう成長設定に基づいた計画をたよりに都市、建築を設計している機会が多い。ネガティブリアクションに対するリスク対応を建築的に提案できないのかと、頭を抱えてしまうこともあるが、この際、シンプルなルールで実験的なことを試したいし、それを実現に持ち込める雰囲気はある。偶然、今の中国の社会状況によって「モデルを競って具体化できるシステム」が敷かれている。淘汰を超え、複製の反復によって引き起こされる劣化の中から、力強いものが立ち上がる。

建築, 趣味 | at September 19, 2006 2:55

Comments

二次利用。ポジティブに書けば、引用、コラージュ、リミックス、サンプリング、オマージュ。ネガティブに書けば、パクリ。二次創作なんていうのもある。結局これらはポストモダンに繋がる。一次(オリジナル)が偉くて、二次利用(コピー)がダメだなんて、そんな単純な価値観は通用しなくなっているということかな。
しかし、「万科城」はすごいね。

Posted by satohshinya at September 25, 2006 7:00 AM

そうそう。これを書いた後、ポストモダンを理解しなくちゃいけないなって思った。建築家が競ってやっていた行為(意味)が社会に敷衍したとでも、でっちあげることが出来るならば、それはそれでおもしろいなぁ。

Posted by simon at September 25, 2006 10:56 AM