オープンソースという夢

Wikipediaは果たして「オープンソース」なのか CNETJapan

オープンソースの解釈をどうやら間違っていたようだ。「オープン」「ソース」という言葉から連想するような「自由さ」とは違うようだ。ことばが生まれたきっかけは、Linuxの開発者らがマーケット、外向きのプロモーションと対面したときに作った言葉である。
オープンソースとは、知を結集させる行為の結果であり、オープンソースは目的ではなく、知を主張するための手段のようだ。言い換えると、きっかけを演出した自分の範疇を超え、自動生成を繰りかえしていることではなく、密実なコミュニケーションの上に立つ、厳格な管理者(創造者)の元で生成されるプログラムのようだ。肉体がある空間での創造行為と等しい。「新しい身体がある」という期待を込めたオープンではないということだ。なるほど。

ブログを始めたきっかけのフレーズで気に入っている言葉がある。自分が「オープンソースになるという夢」。
ブログをつかうと、新しい自分がどんどん生まれるのではないかと、過大な期待をしていたが、実際はそこまでではなく、もっと安心感のある、比較的整理されつつあることをやっている。自分の中で繋がりそうなこと、ブログはテキストにする作業なので、今まで自分の中で繋がっていなかった言葉を、一つのパラグラフの中に押し込み、夢のある話を引き出すということが、この作業のインテンションになっている。コメントやトラックバックはおまけのようなもので、期待してはいけない。一時期、スパムや炎上によってコメントやトラックバックを封鎖する行為は、ブログを殺しているなんて議論はあったが、今では、そんな話は聞かない。ブログの本質は、簡単にメモを公開できる手段を提供したことではないかと思っている。
その一方で、ブログやSNSによって拡張された身体の発見はあった。みんなもっと繋がりたかったということが分かってきた。切断の歴史から確実に軌道を修正し始めている。

blog | at December 16, 2005 4:44


TrackBacks