これも北京現象

ワークショップが終わり、余韻を書き残そうと思い立つ。一番印象に残っているのは、松原さんの「文化が動く瞬間ってんのがあるでしょ」っておっしゃっていたのかな。建築家って直感と作戦のバランスがうまい具合だと、ええなぁって思う。その時の前後の会話は確か…特殊解の中で生まれる建築ばかりを追求するのはどうか。という話をしたときに、そんな答えが返ってきた。こんなこと聞くのもひねくれてるなぁとも思ったが、精一杯だった。中国に来たという理由を整理したい自分がいて、中国に「ある可能性」を見いだした(一番手に見いだしたという作戦をとった)松原さんが目の前にいて、それらの似て非なる状況をあぶり出すには、わかりやすい対立軸があればよい、ならば、日本的状況の異様さに対する反動なのか?と聞いてみてもいいじゃないか。という精神では、ストレートにそう言われて。はっとするもんだ。
個人的な興味として松原さんが、ロシア、瀋陽を経由して北京に来ている経緯。それと、あるシンポジウムで自分にとっての原風景といった話題が上った時、槇さんの若いやつの話も聞いてみようという振りで、松原さんがロシアで見た、無限といっていいほどに複製された団地を目の前にしたときの感動に対して、槇さんの「雪で真っ白だったんじゃない」というつっこみが印象的だった。それもこれもで、今回の接近は印象に残ってしまうものだった。

SOHO中国のロビーからの景色(北面)
SohoChina.jpg

中国になんでいるのか?。いやぁまだわからない。
日本での建築行為は、ある意味完成度の高い都市に対して、正面からそのシステムを疑い、覆すより、表層の差異を発見し、パッチを当てるような行為を執念深く反復することで、最終的に全体が転覆できれば良いという雰囲気に満ちているとしよう。逆説的には、転覆する方法に対しては、具体策を試したりしないとも言える。一方で、都市の状況って、みんなの総意が顕在化された状態でもあるんだろうし、そうだとするならばやっぱり問題はあるだろうと思う。さまざまなレベルで都市へ立ち向かう切り口を建築家達が提示する必要があるなぁと。問題の解決と前進の解釈、それらを統合した状況の中から都市を揺り動かすベクトルよって「選択できる」ような雰囲気になれば、もっと生き生きするのだろうな。すぐにはそうはならない。実戦可能な範囲に落とすとなると、どうなるだろうか。、一人で対応可能な範疇はあまりに小さいので、小さなものが集合する雰囲気作りって興味あるなぁ。その雰囲気って、大きなものなんだけど、小さなものにも対応できるような。すごく贅沢な状況。成熟した都市での思考。

つづく

建築 | at September 5, 2006 3:33