表現の違い=価値基準の違い

マーケティングや建築の提案書、デザインやファッション雑誌などの情報媒体の表現で、仏蘭西や英吉利などの欧州と日本との間に明らかな違いを感じる。

欧州では、美しい大判のイメージや図表がダイナミックに媒体を埋め尽くす。言葉による解説は見出しや数行程度の説明文に留まっている。 一方、日本もしくは亜細亜では、多くの小さなイメージや図表が所狭しと並べられ、引出線などと共に多くの説明書きが並ぶ。大型書店で日系出版社と欧州出版社の女性誌を見比べるとこの違いが一目瞭然だろう。

欧州の人はイメージや雰囲気を伝える視覚的情報を欲し、評価し、「もの・こと」を選択する手がかりとする。そのイメージが表現している雰囲気や空気感が全てであり、そこに全ての情報が詰まっている。イメージで伝達される以上の詳細情報は必要としない。いや、ここで伝達されない情報は存在しないといえるのかもしれない。それは正に「世界観の伝達」と言えるだろう。

日本の人は定量的な情報を欲し、評価し、選択材料とする。イメージや図版は詳細情報を追っていくための「目次」のようなものであって、そこで情報を濃密に伝達する必要性を感じていない。例えば日系ファッション誌の中で、モデルは横に添えられる値段や機能、性能などの情報を整理整頓するためにだけに振舞っている。主役はあくまでも文字情報であり、イメージ(この場合は写真)がソコソコでも、横に情報が追加されれば伝達される。ここでやり取りされるのは世界観などではない。正に「定量的な情報」である。

このような情報伝達手段の違いは「もの・こと」に対する評価の仕方の違いであり、両者の「もの・こと」のあり方にしっかりとこびりついている。

情報伝達とは一見関係のない河川整備をセーヌ川と墨田川であえて語ってみたい。
セーヌの川岸には手摺が無く、歩行者道は今にも水面に沈んでしまいそうな高さにある。それは明らかに危険である一方で、「親水性の重要性」や「自由で魅力的な空間の意味」を価値観としていることが情報として見えている。一方、墨田川沿いはどうだろう。高いコンクリートの堤防によって私たちの生活からは引き離され、最近出来始めた親水公園もしっかりとした手すりが付いている。そこには「親水性より水事故の防止」「~メートル水位が上がっても決壊しない」などの○×で判断できる定量的な価値観が伝わってきて「川と共にある都市」という世界観は全くない。

欧州をはじめ西欧諸国は彼らの「世界観」=「価値基準」を輸出し、これを貨幣のように世界中に流通させ続けてきた。この流通が彼らの「西欧世界」を目指す人々を増やし、西欧化させてきた。その中で彼らのイメージ至上主義的表現方法も強化されていったのだろうと思う。

一方で、現在日本の「定量的な情報」の表現はあまり優れているとは言えない。しかし、日本の伝統的な抽象画と文字が併記された色濃い表現と見せかけは似ていなくもない。でもその両者の決定的な違いは、絵と文字の抽象さが計算されつくしているか否かだろう。伝統的な表現は個々の「情報の受け手」に解釈の自由を与え、同時に受けての知識を求めた。

色々な意味で「西欧絶対世界」が崩れ、次の何かが探されている。そんな今だからこそ、現代日本人の表現方法を伝統的手法と合わせて再考し、これを同時に「価値基準」の解体と再構築につなげることが出来ればと思う。 それが、日本から世界に「もの・こと」を発信していくことになると信じているから。

「とはいっても、時間のかかる作業」だと改めて痛感する。 

Architecture Space / 建築, Paris / パリ, Urbanism_City / 都市, | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 1 27, 2009 13:34


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