Tag Cloud

久しぶりにblogをいじる。何度カテゴライズを変更しても、しっくりいかない経験から、カテゴリの不自由さが気になっていた。前もって話題にのぼりそうな箱(カテゴリ)を用意してから、アイテム(エントリー)を突っ込んでいっても、ヒエラルキー構造でカテゴリーを分類しているので、一つのアイテムが箱をまたいだり、その構造の転覆を目論むようなエントリーを書きたい時もある。つながりそうな情報をつなぎとめるため、テキストを生産している側面もあるので、最近では箱を意識することに意味を感じなくなっていた。

マイナーなメディア「じんぶんや」にある東浩紀の言葉を借りるなら、「例えば、法哲学者のカール・シュミットなんかは、アガンベンが「ホモ・ケサル」などで取り上げたりすると、思想のコーナーに攻め入ったりしてきますが、そうでなければ、彼は右翼のひとだと思われているので、普段は政治思想や政治哲学のコーナーに置いてある。つまり、思想の棚というのはけっこうイデオロギー的なバリケードで護られている。 〜 人文の棚・思想の棚というのは不自然に作られているので、信用してはならない。面白いものは自分で探せ」
ついでに、図書館の本をカテゴライズするという作業において、本の内容によるジャンル分けがされているように思われるけれど、実はそうではない「図書館における本のカテゴライズは、本棚のスペースによって決まっている」なんて話もある。

知の棚は、再構築し続ける。blogがその一助の可能性を持つ。そこで話題なのが「タグ(del.icio.usのタグ一覧flickrのタグ一覧Technoratiのタグ一覧)」。従来の分類は、カテゴリにエントリーを当てはめカテゴライズしていくのに対し、タギング(Tagging)はエントリーにタグを貼付けていく。その「あと付け」のタグは、互いにフラットであり、どう相互関係付けるかが、現在競われている。そのひとつのアイデアとして「TAG CLOUD」を設置した。またこの雲は、人なりがパッと見でわかるのがいい。取り上げることが多ければ文字が大きくなり、話題性が遠のくと色が薄くなる。

今後の予定としては、takamiya studio PORTALに、タグの一覧表の設置かな。各々のAuthor事に違う、文字の揺れをどう対処しようか。あと、カテゴリを無くすかどうかは、もう少し様子をみよう。ヒエラルキーとフラットの関係性は互いに補完し合うものだと思われ。それと、今後データ通信定額に流れると思われるので携帯版かな。サイトを軽量化してくれって言われてるし。OS9 IE環境の文字化け対策としてもいいかな。

Ontology is Overrated: Categories, Links, and Tagsより、現在よく使われている7つのタグのキャラクタ
1何の話題かを示すタグ
2それが何かを示すタグ (本・CD)
3著者・作者を示すタグ (東浩紀・伊東豊雄)
4他のタグの評価付け用タグ(点数 75・100)
5質や特徴を表すタグ(これはひどい・ネタ・かたい)
6自己参照用タグ(セルフブクマ・自分がコメントした記事)
7タスクタグ(課題・後で読む)

参照LINK
小粋空間:Tag Cloudのページをつくる
KoshigoeBLOG:tagについて考える
テクノクラティ:タグをつけよう!特集

blog | Posted by simon at January 15, 2006 20:15 | Comments (0) | TrackBack (0)

オープンソースという夢

Wikipediaは果たして「オープンソース」なのか CNETJapan

オープンソースの解釈をどうやら間違っていたようだ。「オープン」「ソース」という言葉から連想するような「自由さ」とは違うようだ。ことばが生まれたきっかけは、Linuxの開発者らがマーケット、外向きのプロモーションと対面したときに作った言葉である。
オープンソースとは、知を結集させる行為の結果であり、オープンソースは目的ではなく、知を主張するための手段のようだ。言い換えると、きっかけを演出した自分の範疇を超え、自動生成を繰りかえしていることではなく、密実なコミュニケーションの上に立つ、厳格な管理者(創造者)の元で生成されるプログラムのようだ。肉体がある空間での創造行為と等しい。「新しい身体がある」という期待を込めたオープンではないということだ。なるほど。

ブログを始めたきっかけのフレーズで気に入っている言葉がある。自分が「オープンソースになるという夢」。
ブログをつかうと、新しい自分がどんどん生まれるのではないかと、過大な期待をしていたが、実際はそこまでではなく、もっと安心感のある、比較的整理されつつあることをやっている。自分の中で繋がりそうなこと、ブログはテキストにする作業なので、今まで自分の中で繋がっていなかった言葉を、一つのパラグラフの中に押し込み、夢のある話を引き出すということが、この作業のインテンションになっている。コメントやトラックバックはおまけのようなもので、期待してはいけない。一時期、スパムや炎上によってコメントやトラックバックを封鎖する行為は、ブログを殺しているなんて議論はあったが、今では、そんな話は聞かない。ブログの本質は、簡単にメモを公開できる手段を提供したことではないかと思っている。
その一方で、ブログやSNSによって拡張された身体の発見はあった。みんなもっと繋がりたかったということが分かってきた。切断の歴史から確実に軌道を修正し始めている。

blog | Posted by simon at December 16, 2005 4:44 | Comments (0) | TrackBack (0)

弱い身体の集積とその可能性

例の偽装問題。スタンドアローン(社会と切断した状況)から、いきなり(現実)社会に引っ張り出された様な態度を取っている。おまけに死にたいとまで。どういった背景から、ふきこぼれた事件なのかは分からないが、もはやテロと言っていい。「一個人」が、ネットを媒介にし、既存の図体を転覆させる可能性を持っているというテンションが、身体感覚の中で起きる次元まで。もう、そこに来た。誰かが具体的に指図したのでもなく、いつのまにか成立した方程式に従い、「たった一人」の単純な作業の繰り返しによって、計り知れない規模の不安へ増進させた。
パトレイバーの押井シリーズに描写されている、平和ぼけした日本人が、町中を走る装甲車や戦車に「何かの演習か?」と、何も疑わない脊髄反応しか示さない身体感覚が、今回の事件の深層と一致している気がする。金箱さんが言うように「建築は建築主の財産であるとともに社会資本としての役割を持ち〜」という理念は知っていただろうが、正論やおおきい物語は通じない次元、別に建築だから起きた事件ではない。今回は、悪意に到達する以前で、防ぐことが出来たが、同じようなタイプの事件がチャンネルを変えて、出現する可能性はあると思う。
先ほども書いたが、彼は死にたいと口にしているようだ。ショックだ。大枠はうまくいっているようだが、局面の破綻をつなぎとめることができない社会。そこまで追いつめられている。株価の高騰に浮かれているようでは、かさばらない身体へスライドしているとはまだ言えない。
ネットの持つ身体感覚が悪いとも読み取れる文言を書いたので、ネットにある可能性を記述したい。私は死なない僕は死なない。これらは社会との接続状況を表現していると言ってもよい。どちらも今年出版された本のタイトルやトピックになっている。(後者はもうネットで公開している。)何が、言いたいか。どういう形式でも、回線でも、いいから社会と接続する状況があるべき。今回の事件のように、切り離されるとオリジナルの回路を自動生成してしまうからだ。今までは、社会をもじった会社や学校、町内といった集団との接続が信じられるとされてきたが、誰の目にもうまくないところがあるのは事実で、コミュニティは細分化し、家族の中にまで分断線がやってきている。個の充実を謳い文句とした、80年代以降の教育を受けた僕らには当然の流れであり、し向けられた結果とさえ思える。
ネットの可能性に急ごう。ブログ開設数は400万近く。最近、SNSの代表格でもあるmixiの加入者が200万人を超え、一日一万人のペースで増加している。切断された横の繋がり(いわゆるコミュニティ)が、データの裏付けを超え、実感を伴い、再生しつつあることはうれしい状況だ。右肩上がりなのは、その無意識なテンションに賛同しているからだろう。そのテンションも意図的に企画されたものではない、そういうのが今の風潮。しかし、これから到達する地平が見えないというのはよくない。というか、さらに利用者が増えるのであれば、準備、言説を用意する必要があるだろう。isedなどがやっている活動の目的はそれにあたる。
ネットに滞在すれば気づくが、礼儀や作法というのがやはりある。始めて訪れるブログにコメントをおとす時、「はじめまして」と添える行為が、それだ。ブログ以前の2chでも、あの体裁の中での作法があるし、それ以前の個人サイトや、メーリングリストの時代からある身体。加えて、ネットに自分のキャラクタが滞在すること=ハンドルネームや実名で、誰の介入もなく言葉を連ねる。それに反応するように、リンク、トラックバックされる。これら作法や対話は、形をかえたコミュニティの原型であろう。ネットに接続するきっかけを、ブログやSNSが拡張し、コミュニティの再生成に繋がっている状況は、ある集団、ある社会との接続手段をつくっていることへ。場所がそこにできる。
強い身体を持つ人間であれば、僕は死なないと、本をだすことができるだろうが、弱いメディア(媒介者)が生まれているこの状況は、おおきい物語で紡ぎきれない生成し続ける社会という輪郭、その先端を強化していることに成っている。と、言いたい。

参照LINK
ARTIFACT@ハテナ系ー「強い人」と「弱い人」
強度不足を指摘されたマンションの住民の方の書くブログ

blog | Posted by simon at December 11, 2005 5:57 | Comments (4) | TrackBack (0)

こっそりMovable Type 3.2

プラグインの高度化、spam対策標準搭載に。mt.cfgがmt-config.cgiに変更。mt-upgrade.cgiがなくなった。アップデートはcgiとstaticファイルのディレクトリの上書きだけ。cgiディレクトリのプラグインは、差分だけつっこんだ。さっそくstylecatcherを導入、スタイルシートを変えていこうかなぁ。なんとなく字が小さい気もするし。

・safariで管理者画面を見ると崩れて表示されることがあるので、一度キャッシュを空(option+comnd+e)にしてください。
・エントリー保存時、エラー表示が出ますが、今のところ無視で。他にもちらほらバグがあるなぁ。

blog | Posted by simon at October 1, 2005 6:37 | Comments (5) | TrackBack (0)

無自覚

安っちーTシャツを着たりだとか、ワンフレーズで実現不可能っぽいことを言いまくって、最初は周囲から変人扱い、嘲笑されながらも、知らない間に有名になっているというのはなぜか?まじめにこつこつやる→話題づくりにつぐ話題づくりで自ら炎上して、拡大する→結果、パラダイムがシフト。(ガ島通信 「自爆炎上型モデルを優位にさせる時代背景」より)
直感的な思いつき「モデル」なのでロジックはないと書いてあるが、おそらく炎上(相手を激高させたり侮辱したりすることを目的に発信する電子メールのメッセージ、ニュースグループの投稿記事、掲示板の書き込みなどのこと。:ised@glocomー炎上より)に着想のスタンドポイントがあるに思われる。無自覚でもネット社会には共有されつつあるし。
炎上のほうは、意図的に陥れる悪意が起点になっていてが、自爆炎上というのは自らの創意を突き進む上でのある行為が起点になり、結果的に炎上的な広がりを得ている。ただのブラフなのか、ダークサイドのとばっちりなのかと言った差異か。

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Manを見た。28日発売のユリイカの予習もかねて。神山健治×東浩紀対談とかあるみたいだし。それと今日、SAC2ndの最終回なので、見逃した回も見た(笑)。いやぁ噛めば噛むほどディテールの馬鹿さにはまる。いい仕事。神山氏の表現のモチベーションになっている現社会との地続感に陶酔。彼が言うには、日本は江戸時代と冷戦下のバブルにユートピアを見たと指摘。それを無自覚に望んでいるとし、ダークサイドの演出によって、ネットと実社会の見境もなく、様々な炎上がおきる。

blog | Posted by simon at September 27, 2005 2:23 | Comments (0) | TrackBack (0)

建築学生も期待するweb2.0

まつり(選挙)盛り上がりましたねぇ。地縁血縁の牙城をがんがん崩していく爽快感は、なんなんでしょ。ホリエモンは結果には結びつきませんでしたが、万が一の保険となる組織票や比例重複を潔く切り捨て裸一貫で乗り込んだ姿勢はさすがです。
爽快感のひとつに、いよいよネットが社会と融合していくという期待感がますます高まったからなのかもしれない。ネット世論がどのくらい影響を及ぼしたかは今のところわからないが、選挙戦を戦うには、「握手とネット」を、オルタナティブに活用していく方が、伝わる裾野が広がる実感がえられる機会となった。僕なんて、握手はいらないけど、ネットでしっかり監視したいタチ。演説なんて訝しくて聞いていられない。一度にあんな多くのひとがうなずくなんて宗教的で気持ち悪いと普通は思うと信じている(笑)。
もうひとつの爽快感は、やっぱり上部組織と下部組織の間に何があるのかという興味ゆえ。話を迂回させながら書くと。地縁や血縁のコミュニティとは全く接触機会がなかったこともあり、後進的な人間関係とういイメージを持っている。従って、上部組織に属しているのかというと、やはり違和感を感じる。建築的に言えば路地コミュニティとか、下町的風景とかいうのが下部組織が顕在化した風景。六本木や汐留、品川といった大規模開発。すなわち高層ビルが乱立した近代的とされる風景が上部組織を顕在化させた風景と言えるのではないだろうか。後進的というのは。建築的な興味の範囲で言えば、歴史的な象徴性にすがる手法が繁栄を極めているところにある。住宅で言えば、ハウスメーカが使う、○○風というような、全体の価値観を決める判断基準としてまかり通っていることに言える。それを実現する要素が、出窓や吹き抜け、ウッドデッキなんてものになる。これはお客様思考のマーケティングが成した技なので、それを超え創造する価値を見いだせない経済の強さゆえでもある。レムAMOを立ち上げたのも、共通するところがある。PingMagによると「民間企業のイニシアチブに従って仕事をするのはつらい。自分のやっていることをコントロールしたい。やりたいことを限定しない。」という野望を達成するためと言い切っている。続けて、近代的とされるとうのは、ガラス張りのスカイスクレイパー、無柱空間と言ったユニバーサルスペースや足下に広がるオープンスペースと言った、近代建築のボキャブラリーの反復に嫌気がさしているからだ。ただ、当時のアイデアを実現できる時代がやっと到来したという見方もあるし、高層化を超える価値観やアイデアは難しいのでは、という予感がある。磯崎新が言う、高くすることに価値を見いだせない時代がはやく来ないかと待つばかりである。だいぶ脱線したが、「下町と高層ビルの間」にどんな魅力的なものがあるだろうか?ということが言いたい。民主党のようにポテンシャルは持っているかもしれないが、伝わってこないだけなのだろうか。僕の直感だが、間の存在として風景的な強度となっているものは、意外と(ニュータウンの)団地なんではないかと思ってて、修士設計のテーマに選んでいるところがある。
最近、山の手派なのか下町派なのかというキャラクタに分けて話すことが多い。僕は山の手派として楽しんでいる。下町は動けないけど、山の手は青山、白金台、麻布→世田谷、杉並、目黒→多摩NT、港北NTと移動しながら価値を探っているんだと、暴挙に走る(笑)
最後に、構造的な思考が可能な技術決定論者でもあるが、コミュニタリアンでもあるので、一応ニュートラルなんだと、キャラをごまかしつつ。社会がネットと融合するはなしに戻す。最近、ITで話題の敢えて挙げたい概念がある。web2.0だ。Web1.5さんによるとインターネットが社会的なネットワークとして動作すると言う様な意味合い。と言っている。まだまだ曖昧で、これから実現可能なアイデアによって肉付けされていくのだが、覚えておきたい。なんたって下部と上部組織との融合にはネットが重要なカギを握っているらしいからサ。

参考に、五月に総務省から発表があったブログ・SNSの現状分析及び将来予測(PDF)

blog | Posted by simon at September 12, 2005 4:59 | Comments (0) | TrackBack (1)

いまごろファンサービス

あれやこれやと。
パロディバージョンで。

1.今までで結構ネタになった国内旅行先
 八代
2.今までで身の危険を感じた海外旅行先
 ゲイ(NY)(分かる人にしか、わかりません。失礼)
3.これから逝ってみたい国内旅行先
 東北
4.ねこがこれからいく海外旅行先
 アフリカ 
5.次にバトンを渡しますか?
 昔のエントリーを蒸し返したかったらしい。笑

blog | Posted by simon at September 10, 2005 0:00 | Comments (0) | TrackBack (1)

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