アサダワタルレクチャー@オウケンカフェ

2014年11月26日(水)、2014年度第6回ゼミナール@オウケンカフェとして、日常編集家のアサダワタルによるレクチャーが行われた。以下はそのレクチャーに対するレポートである。

飯田拓真
 日常編集家アサダワタルさんのレクチャーに参加して、とても楽しい時間を過ごすことができた。失礼ながら私は今回までアサダワタルさんのことは知らなかった。話の初めはこの人何やっている人なのだろうかと疑問でいっぱいだった。自己紹介が終わり、活動の話が始まるととても面白い活動だらけで一気にアサダさんに引き込まれた。日常を素材にして場を作る。このコンセプトから、日常を使って楽しんじゃおうと言わんばかりのワークショップ、活動の数々がとても新鮮で大きな衝撃を受けた。
 うちの子買い出し料理教室がいいなと思った。町を楽しみ、知るための活動のようなもので、親子で料理教室に来てもらい、簡単な料理に入れる具材を子供たちに考えてもらい、それらを買い出しに子供とスタッフだけで行くというもの。親御さんは教室に残ってもらい、子供たちの好きなように町を歩きながら買い出しに行く。それをスタッフが撮影して、料理を食べる時に鑑賞する「初めてのお使い」のようなものだ。買い出しは普通の日常であるのに、そこに子供たちの自由な行動が入ると親御さんやスタッフたちからしたら新鮮で面白いのだ。普通の料理教室なら食材は用意されており、買い出しという日常からは切り離された料理の本当に教室というような感じがするが、買い出しという日常とつなげることでこんなにも面白みが増すのかと衝撃を受けた。
 もう1つ、これは自分で遊びでやってみたいと思うものがあった。それは尾行サークルというものだ。3人ひと組で、ある1人に目星をつけて、その人と全く同じ買い物をするというものだ。ルールは何よりもバレてはならないということである。そして8品までとし4,000円を上限としたりする。そしてなにより絶対にバレてはならないのだ。これをレクチャーで聞いたときはなんてこの人は柔軟な考えを持っているのだろうかと思いつつ、それはダメだろうとも思いながら面白おかしく話を聴いてやってみたいと思ってしまった。
 アサダさんの、日常をコミュニティや場にしていく活動の住み開きは建築学科生としても考えさせられるものがあった。コミュニティやそれを誘発させる空間とはなんなのか。これはどんなに考えても完全な答えが出ることはないだろう。だからこそあらためて考えさせられた。アサダさんの日常からワークショップや最小の場の形成を図っていく活動は簡単ではないし、柔軟な発想も必要で、最初のこの人は何をやっている人なのだろうかという思考はなくなり、ただただ面白い人だなと思った。SNSが発達する今の世の中で、本当の意味でのコミュニケーションは取れているのだろうか。違う気がする。アサダさんはこう答えていた。「日常でも、SNSでも使い方通りそのまま使っていてもダメで、そんな使い方しないだろ、というような説明書にはない使い方をすることで、そこにコミュニティや場が生まれるのだと思う」という考えも答えの1つで、この他にもきっと答えはあるはずで、建築を交えた答えを提案していくことはどうすればいいのかを考えていくきっかけとなるレクチャーだった。本当に面白いレクチャーをありがとうございました。

李智善
 アサダワタルさんのレクチャーが始まってどのくらいかは何の話か、ここからどう展開して行くのか分からなかった。もっと正直に言えば、“表現活動”、“日常の再編集”という言葉からの話が、建築とどのような関係があるのかと思いながらレクチャーを聴き始めた。面白い話が続き、ただその話に夢中になって聞いていたら、だんだんアサダワタルさんが言いたいことが分かるようになり、建築との関わりが見えてきた。また自然に日常についての私の考えと比べることになり、ちょっとだけの考え直しによって、もっと楽しい日常を作っていくことができると思った。
 レクチャーの中で日常ということは意識しないと流れてしまうことで、そのような日常の中の素材を集めて配置し、全体を取りまとめることが日常の再編集という話があった。このような活動の目的はものすごい活動をすることでなくても、流れている日常を特別に考えてそれを他の人と一緒に共感しながら楽しもうということである。そこでコミュニケーションの“場”が作られる。この考えを実践する例としてアサダワタルさんが行った活動は、ある映像を流して人が集まる場を作ったり、皆で練習して公演を開いたり、借りてそのまま忘れていたものを展示して見る人の記憶を刺激することによってそこで話の場を作り上げたり、また誰かの日常を尾行したりするなどの細心な活動から大胆な活動まで非常に幅広かった。 このように誰にでもあるようなことから人々と話し合いの場が作られることを見て、学校での私たちの普段の生活も一緒だと思った。時々、日常から離れて……という文句をテレビや本から見るが、私たちが時間の流れとともに流してしまう日常の生活がどのように扱われるかによって、その日その日の気持ちをよくすることができると思った。
 すばらしい形態を作ることではなく、人々の生活を繊細に組織する建築でもこのような考え方が重要であると思った。人たちが集まる場所にはどこでも話し合える場を作ることができ、アサダワタルさんのコミュニティーを作るやり方は建築物を作ることとは関わりが薄いかもしれない。しかし、人々が生活する空間やその環境を作る建築にとって、流れてしまう日常を軽く考える瞬間に、空間に対する繊細さを失うことにつながるかもしれないと思った。
 ある人には楽しいまた面白いことを探してそれをやることに見えるかもしれないが、周りの当然なことを大事に考え、自分なりの活動を行ったり、自分の考えを他の人にアピールしたりするアサダワタルさんから色々考えさせてもらえる時間であった。

相馬衣里
 既定概念を破るにはいつも閃きが伴います。決して簡単なことではありませんし時間が要ることをわたしの人生でも感じてきましたが、アサダワタルさんはその壁を破って自称日常編集家として今現在ご活躍されているそうで、私はどうしても気になることが出てきてしまいました。それは、どうやって自分の好きなことをお金に変えて生きているのだろうか?ということです。彼は若い頃に様々な分野の活動をされていたそうですが、現在のわたしもまた、興味の対象にはすぐに手を出してしまいます。面白いと思ったことには身体を向けずにはいられないのです。今回のレクチャーを聞いてアサダワタルさんは自分にそっくりだと感じました。わたしもアサダワタルさんのように友人に「エリは将来なにがしたいの?」とよく言われます。自分でもさっぱりわかりません。ありがたいことに不器用ではない方なので、何かに取り組むとそこそこのクオリティーは出せるし、自分で学ぶことでこなせてしまいます。しかし一定のレベルから抜け出すことができないことが悩みでもあります。大変だし体力も要るし気持ちが追いつかなくなることもありますし、もちろん失敗も多々ありますが、お金が貰えたり、人を動かしたり、評価されたことを思い出すと、つまらなかったと思ったことは一度もありません。しかし、将来的にその技術やこのままのプランニングで現代社会を生き抜いていけるとは思えません。私はアサダワタルさんのように自分に似ている人がしっかり生きている姿を目の当たりにして「あ、この人……今の私の延長線上でちゃんと生きているんだ〜。このまま行っても大丈夫かもしんないなぁ〜。」と少し安心しました。もちろん彼の生き様、苦労を全てを拝聴したわけではないのですが、少し自信が湧きました。
住み開きの活動については、空き家や空きスペースの再利用方法の提案としては魅力的な活動だと思います。私の地元もそうでしたが、田舎にはこういった問題があふれ返っています。そしてどれも極めて深刻であります。八戸のコミュニティセンターの利用方法についての提案や世田谷の民家の提案はぜひ全国に向けてもっと発信して欲しいなと思いました。秋田県もそうでしたが、田舎や錆びれた街には面白い活動が沢山あるにも関わらす、発信力に乏しい傾向があるなと以前から感じていました。それは現地の人が隠れ家的要素を含めて落ち着いた雰囲気を崩さないように構築していったものだからなのか、ただ単に発信する術を知らないのかは知りませんがとても勿体無いと思います。アサダワタルさんをはじめ、こういった活動に携わる人々にはもっと発信することの大切さを知ってほしいです。作り手だって「こう言ったものがあったらいいのにな」を考えてプランニングして行くと思うのに、作っただけで満足するのではもったいないです。東京に出てきて私は田舎に憧れを抱く人が沢山いることを知りました。田舎の人は逆に「東京から来た」と言うだけで珍しがって大歓迎!大宴会の準備スタートです。絶対に「あったらいいのにな」と感じている人は現地でも全国でも数多くいるはずです。私は高校生時代から数々の町おこし活動を見たり携わったりしては、「どうしてこうなった?」と感じるものや「税金の無駄遣いだろ」という結果に至ってしまうケースを数多く見てきました。その活動の多くは子供やお年寄りに目を向けがちだなと感じていました。しかしアサダワタルさんの住み開きのような活動はわりと若者もターゲットにしていたりします。説明しにくいですが、建前としての「若者をターゲット」ではなく、「現代の本当の若者」という意味です。私はこういった活動がもっと増えたらいいなと思いますし、それを基礎としてどんどん地方に普及していければいいなとも思います。

吉田泰基
 日常を素材にして「場」を起こす。このテーマをもとにアサダワタルさんは、文化や音楽や映像、時には街の人までも素材にして環境づくりをおこなっているという。しかし、単に場を起こすと言っても、それには大きな問題が伴う。予算や公共性、政治、建物、時間などが密接に関わるためプロジェクトとそのものがそれらにより打ち切りになったこともあるという。よって、これらのことに振り回されない、もっと身の丈にあった小さな場のプロデュースを考えたという。それは場の最小単位でもある家に着目した、「住み開き」というアートプロジェクトである。家を代表としたプライベートな生活空間などを、本来の使い方ではなくもっとクリエイティブな手法で、セミパブリックな場として開放し、たくさんの文化やコミュニケーションを融合しようという試みである。例えば、お寺を劇場にしトークイベントやワークショプ、銭湯の休館日に浴室内をホール代わりに多岐にわたるアーティストを招いてインベントを行うなどがあった。単なる場が、表現をきっかけにいろんな分野のいろんなコミュニティを編み直すことができていたのは驚いた。建築のソフトな部分の編集ではあるが、ここまで変わることは、これから建築を考える上でハードの部分と合わせて考えていけたら良いと感じた。私は、はじめそのような行為はデザインや用途、建築などを否定するかのように思われたので、講義の中盤からは、とても興味深く聞くことができた。他に面白いと感じたのは借りパクしたCDでコミュニケーションを誘発することであった。日常の中の何気ないことを場に落とし込むことによって、新たなコミュニティを生み出していた。
 そして、全体を通して場としての記憶も繋げているのではないかと感じた。岡さんの家のように本来その家に眠っている記憶を場として開くことによって繋げていた。住み開きに対して建築だけでなくたくさんの良い可能性がまだまだ秘めているように感じた。
 私も、通過していく何気ない日常の中のちょっとした発見や楽しいことのあらゆる可能性を考えられるように意識して過ごしていきたい。

渡辺莞治
 日常を再編集することで、自分自身や人との繋がり、あるいは社会の本質が見えてくる。人は安定しているものに居心地の良さを感じ、日常を心の拠り所とする。在り来たりな日常を再編集することで、自分自身や社会が作り出した壁を取り除くことができる。流れていく時間と感情を止め、少しの表現する場を組み入れることでコミュニティを形成させる。その中で現実的な話として、公共性という壁から予算や費用といったお金や場の継続に左右されることなく、日常であるからには、自分たちの等身大のスケールで表現することが大切であることが分かった。
 「家」は私的で人のスケールが感じやすい日常空間である。小さいけれど豊かな空間を、少しだけ地域に開くことでコミュニケーションも豊かになっていく。ここで重要なことが、自分のペースで無理なく行っていくことだと気付かされた。それぞれの地域の生活環境の中で「住み開き」が育っていく。また、この「住み開き」のニーズが高齢者に高いことも分かった。空き部屋や高齢者の孤独死などが増えている現代社会の問題を、日常を再編することで解消していく。日常的に生活していても隣人の日常は、まったくと言っていいほど覗くことができない。もちろん、ある程度のプライベートは確保しなければならない。ちょっとだけ開きちょっとだけ場を共有することで、コミュニティの繋がりは大きくなる。人が日常の中で出会うコミュニティは限られているが、若者と大人、高齢者のように幅広い新たなる出会いを生み出す。表現をきっかけとし、ジャンル、コミュニティ関係なく再編集されていく。建築を地域に開くことはハード、ソフトの両面で重要である。情報化、多目的化した社会や震災の影響を見ると地域の繋がりの力を感じさせる。「住み開き」の活動の他に「八戸の棚Remix!」で私の興味が湧いたことが、料理教室の買い出しとして商店やスーパーをまわることで街を楽しみながら再発見できることだ。人の生活を決定づける街は、興味のあることや通勤通学といった職業などに左右され、人それぞれの街の日常がある。その街を再編集することで、今まで気づかなかった街の新しい場との出会いがある。
 また、アサダワタルさんのお話の中で、アール・ブリュットをもとに日常から生まれる表現を大切にしている福島の「はじまりの美術館」の話題が挙がった。この土地は、明治からの時代の継承と酒蔵やダンスホール、縫製工場といった用途の変化があった場を受け継いでいる。私も、この土地を見て、様々な要素が絡み合った場がまだ地域についていけてないように思えた。もちろん、これからがはじまりであるから、これから少しずつ地域と共に成長していくことを期待している。今回も、地域とアートといえど、地域それぞれのスケールがあり、そのスケールに合わせてプロジェクトを組み立てていかなければいけないことを感じた。人のスケールに合った日常を感じやすい「家」から再編集していくことで、現代の社会に効率よくコミュニティを形成していく。私は、これから物事の整理、抽出、混在という再編集のステップを自分自身のスケールで表現していきたい。

ゼミナール | Posted by satohshinya at December 3, 2014 13:08


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