北澤潤レクチャー@オウケンカフェ

2014年9月24日(水)、2014年度第1回ゼミナール@オウケンカフェとして、現代美術家の北澤潤によるレクチャーが行われた。以下はそのレクチャーに対するレポートである。

下村燿子
 現代美術家ときいて、今まで見てきた現代アートを想像した。誰かに説明してもらって、作品の意図が理解できたり、単に見ることで何かを感じたり、想像を掻き立てられるもの。北澤さんが紹介したのは、“作品”ではなく、自身の活動や、それによって生じた空間・人々の新しい関わりについてだった。はじめは、これは現代アートであるのか?と思った。
 私が面白いと思ったプロジェクトは2つあって、ひとつは「リビングルーム」。商店街の空き店舗にカーペットを敷き、近くの団地に住む人からいらない家具を譲ってもらい、そこに居間をつくる。そこにある家具は、欲しいものがあれば自分の家から持ってきた家具と交換して、もらうことができる。子供たちがリビングルームで過ごし、近所の人は家具を交換しにやって来る。ピアノがやってきた時はコンサートをし、調理器具がやってきた時はレストランをし、映写機がやってきた時はホームシアターをし……。リビングルームはその時々そこにあるもので、空間の役割が変わり、リビングルームにいる人々は、空間によって役割が変わる。どんどん変わっていく空間と、物を交換しにくる人のようす、変わっていく人の役割。できごと自体は異常なのに、リビングルームのなかで皆がしていることは日常のこと、それがとても面白いと思った。
 もうひとつは「マイタウンマーケット」。被災地の仮設住宅で、手作りのゴザをつくり、その上にまちをつくる。ゴザひとつに対してまちをつくる建物(銀行、図書館、美術館、プラネタリウム……)がひとつ。子供たちがつくりたいと思ったまちを考え、大人たちに手伝ってもらいながら、マイタウンマーケットが開催される日に向けて準備をする。一見、文化祭のようでもあるが、子供一人がひとつの建物を担当する。やりたい建物が自由につくれて、大げさに言えば、夢を叶えられる。こんな建物をつくって、自分が館長さん!という夢。子供の、創造したい欲を掻き立てて、実現できるプロジェクトだ。普段は住むだけの仮設住宅街に、まちができて、皆がそこで遊ぶようすはとても楽しそうで、スライドでみた写真の子供たちは、生き生きとして、マイタウンマーケットを開催する側として活躍し、大人びて見えた。
 どちらのプロジェクトも、つくられているのは“もうひとつの日常”で、そのなかでつくられる、普段から逸脱した人々のコミュニティを、“コミュニタス”と呼ぶと北澤さんは説明した。“もうひとつの日常”のなかで、“もうひとりの自分”になれるそうだ。そもそも、北澤さんが“もうひとつの日常”をつくりはじめたのは、ある作品をつくる時に、その作品をつくろうと思った自分は何がつくったのか?という疑問があったから。作品をつくる過程をつくったのは“日常”であり、そこで北澤さんは、日常をもうひとつ意図的につくり、そこで過ごしたそうだ。“もうひとつの日常”で過ごすことは、何かを創造したいと思う“もうひとりの自分”になること。それがとても不思議で、小さい頃からこういった体験ができた子供たちが、羨ましくも感じた。
 北澤さんのプロジェクトのなかで過ごした人々は、「創造すること」を思い出す。北澤さんのつくった空間のなかで、過ごし、たくさんの創造をする。それは、リビングルームの変わり続ける空間であったり、マイタウンマーケットのまちなみであったり、そこで新しくできた人々の繋がりであったり。目に見えないものが多いけれど、あえて言うなら北澤さんの作品とは、プロジェクトそのものではなく(北澤さんはプロジェクトを作品と言わなかったが)、人々の新しい繋がりや、子供たちがつくったものや、“もうひとつの日常”で過ごした思い出、だと思った。
 今回のオウケンカフェで、また新しい種類のアートの話を聞いて勉強になった。自分の知らない世界の話を聞くと、次の日から少しまわりが違って見える。これからも色々な人の話を聞きたいと思った。

渡辺莞治
 作品ではなく、きっかけづくりを試行し提案しながら活動している現代美術家の北澤潤さん。「芸術の現場を社会に」これは、社会に分かりやすいように芸術のプログラムを配置することと、地域の人たちが積極的に参加することで形成されている。「リビングルーム」では、関わっている人やものを常に変化させていくことで、多機能であり多目的な空間をつくっている。場所は変わらないのに、物々交換というルールのみで時間と共に空間の機能や質が変化していく。これは、既存の建築に手を加えて機能を変えていくリノベーションのようだが、意図していることはそれだけではない。北澤潤さんは、何気なく過ごす日常に問いかけを投げかけることで、人が持つ好奇心や欲求に揺さぶりをかけている。専門的知識を持ったアーティストではなくても、人は誰もがパフォーマーになれる。それは、「何かをやってみたい」という第二次的欲求を形にすることから始まる。イギリスの演出家のピーター・ブルックは、「何もない空間にひとりの人間が横切り、 それを別の誰かが見ている。演劇行為が成立するためには、これだけで十分なのである」と述べている。ジャンルに縛られない空間だからこそ、地域の人たちのイマジネーションが掻き立てられて、プログラムを知っている人も知らない人も誰でも気軽に参加することができる。そこには、たまたま通りかかって参加した人もいるかもしれない。美術館や劇場内で行われる作品は、鑑賞目当ての目的を持った人たちが集客される。しかし、街そのものを巻き込むパフォーマンスは、芸術に触れるという目的をもたない人たちも芸術と出会うことができる。これこそ、 「芸術の現場を社会に持ち込む」という彼の意図することではないのか。
 街に揺さぶりと問いかけを起こした人物に劇作家である寺山修司がいる。彼は、「街は、いますぐ劇場になりたがっている。さあ、台本を捨てよ、街へ」と述べている。市街劇「ノック」は、地域住民の玄関のドアを突然ノックすることで物語が始まる。 演劇という世界に巻き込まれた地域住民は、何も知らずに観客になったり、時にはパフォーマーになることができる。彼は、団欒となったリビングや居心地の良い地域に安心しきった人たちに揺さぶりをかけ、もうひとつの日常をつくらせている。これは、街の日常を非日常的な演劇に落とし込み、曖昧な時間と空間にしている。
 もうひとつの日常を生み出すアートは、新しいコミュニティをつくり出す。現在のアートプロジェクトにおいて、アーティスト自体の存在価値が変化しているのではないのか。私は、アートも建築もコミュニティ形成の一つのツールであると考えている。北澤潤さんも、芸術と生活の境界線である「限界芸術」について触れていたが、アールブリュットやアウトサイダーアートのような芸術という枠にとらわれないアートを尊重する社会が今後必要になってくるではないのか。今日、地域性が問われている中で、アートや建築といったツールを通して地域から発信されるものを私たちは読み取らなければならない。私は、もっと「建築と地域」「アートと地域」「建築とアート」について探りたくなった。

末次華奈
 現代美術家の北澤潤さんに貴重なお話をして頂きました。北澤さんの芸術は作品のない特殊なもので、芸術家といったら良いのか、何なのか悩みました。
 北澤さんは発端として、日常に違和感を感じたとおっしゃいました。日々自分を形成していく日常に対し、常に受け身である自らから脱出するため、日常をどう主体的に更新するのか考えた末、もう一つの架空の日常の創造ということに辿り着いたそうです。これが非日常というわけです。この思想から浮島やリビングルームなどのプロジェクトへの具体化が北澤さんの表現の部分なのだと気が付きました。北澤さんは作品をつくっているわけではありませんが、確かに現代アートを手掛けるアーティストであると納得しました。
 私は特にサンセルフホテルに興味を持ちました。ホテルマンを団地の人たちが務め、団地の空き住戸が客室に変身します。客室にはホテルマンの優しい工夫が凝らしてあり、年齢に関係なく人をおもてなしする気持ちがこもっています。そして宿泊者は自ら太陽の光を集め、生活に必要な電気を発電します。非常にユニークです。そして一日の終わりにはホテルマンと宿泊者が協力して団地を照らす太陽をつくります。最後には関わっていた全ての人たちが夜の太陽に照らされて、一つの空間を共有することでアートプロジェクトの一体感を得ることが出来るのではないでしょうか。北澤さんのアートプロジェクトには二つの立場から参加することが出来ます。サンセルフホテルの場合は、ホテルマンと宿泊者です。どちらもアートプロジェクトのお客様であり、主催者でもあるのです。北澤さん自身はプロジェクトの立案のみで、微かな助言をするだけです。あくまで、地域の人たちのプロジェクトということにこだわりがあるようです。
 どのプロジェクトも大変前向きなものです。北澤さんが提案した新しいプロジェクトに地域の人たちが反応して集まり、地域の人たちによる地域の人たちのためのものに変化していきます。この現象は一見自然で、温かいものに見えますが、現代の人々の行動と一致しないような気がしてなかなか受け入れられませんでした。好奇心だけで人を集めることが可能なのでしょうか。ネガティブな方向からしか物事を見られない自分が嫌になりましたが、これらのプロジェクトに現実味を感じられませんでした。参加して見なければわからないものなのかもしれません。しかし、この点にこそ北澤さんの技術と徹底した工夫が施されており、これがこのプロジェクトのタネです。
 これは誰しもが抱える変わらない日常への不満を打破するプロジェクトであり、非日常に存在する自分を思うとワクワクしました。

竹田実紅
 私にとって現代芸術とは少し変わったもの、不思議なものと感じ、美術館などで作品を見ても、善し悪しがいまいちわからないものであった。今回のオウケンカフェでは、現代美術家のお話を聞けるということだったので久しぶりに参加した。「もう一つの日常を生み出すアートプロジェクトについて」と題し、北澤潤さんが今まで行ってきたプロジェクトの紹介をしてくださった。商店街の空き店舗を居間にするプロジェクト、仮設住宅をマイタウンマーケットにするプロジェクト、アパートの一室をホテルにするプロジェクト。どれも興味の持てるものだった。それは、北澤さんが現代美術のフィールドで活躍するアーティストではあるが、活動内容は建築家が行ってきたことと似ているからかもしれない。しかし、内容は難しくレクチャーが終わった後は何か自分の中に大きな衝撃、刺激を受けたような実感はあるもののそれが何なのか、どう感じたのかを自分の言葉で説明することが出来なくもどかしさすら感じた。「なにかをつくる」その時の思考は家族や友達、日常で体験したことなどが影響している、つまり日常によってつくらされているのかもしれないという考えは、今までの私にはなくはっとさせられた。その日常をゆるく揺さぶるためにもう一つの日常をつくっているのだという。レクチャーを聞いていると北澤さんの考えがスーっと入ってくるが、ふと考えるとやはりまだ理解できない。でもなんか面白そうで楽しそう。これも北澤さんのテクニックなのだろうか。一番心に残っているのは「きっかけをつくるのがアーティストの仕事」という言葉だ。市民が係わるきっかけをつくる、手法や技術で好奇心やワクワクをひっかけ引っ張り出すのがアーティストだという。問いかけをし、見えない設計をする。紹介してくださったプロジェクトはどれも今では市民の方が主導となり、活動しているということだった。あくまでもきっかけをつくるだけ、なのだろう。これは建築家としても同じだと思う。独りよがりな建築、自分の作品なのだ、とするのではなく、市民の人に建築やその空間によって好奇心やワクワクを引き出す、何か考える、行動するきっかけを与えられるような建築をつくれたらと思った。今いる日常が当たり前だと感じ、疑問も持たずに生活していたが、ふと視点を変えたら見えてくるものがあるのかもしれない。これからは、オウケンカフェだけでなく様々なイベントやプロジェクトに参加していきたい。

大川碧望
 現代美術家の北澤潤さんは物をつくるのではなく空間をつくることで現代美術を表現していた。活動内容は、国内外の自治体や公共団体などと協力し、その地域住民の日常を取り込むプロジェクトである。今回の講演を聞いて考えたことは、現代美術家とはなんなのかということである。美術家ではなく現代美術家と呼ばれるのはなぜか。現代につくっているから現代美術家と呼ばれるわけではないと感じる。今回の講演を聞き、現代美術家は今の社会だからこそできることをやっていると感じた。
 今回北澤さんが紹介したプロジェクトは「マイタウンマーケット」、「リビングルーム」、「SUN SELF HOTEL」である。「マイタウンマーケット」では、仮設住宅の中に新たな領地をござや囲いでつくっていき、自分たちのつくったお金や店舗、役割で一日過ごしていく。主体は子供であり、大人は子供たちのやりたいことを手伝っていく。「リビングルーム」では、空き店舗にいらないものを集め居間をつくり、物々交換というルールをもうけることで毎日変化する空間をつくっていく。「SUN SELF HOTEL」では、空き部屋を太陽光発電で電機を集め、地域住民のもてなしによってホテルをつくっていく。どのプロジェクトにも共通していることは、「刹那的であること」、「もうひとつの何かを感じること」だと感じた。刹那的であることは、見逃したくない衝動を感じさせその場所にとどまること、やる気向上を促すと考える。また、今回の講演で何度も登場した「もうひとつの日常」はいつもと違うもうひとりの自分、いつもと違うもうひとつの場所では、非日常を味わうことで日常に戻っても次の自分になることができる。北澤さんのアートプロジェクトでは「もうひとつの日常」をつくり出すことで「もうひとりの自分」を感じ本来の創造性を思い出すこと掲げている。
 北澤さんのプロジェクトでは、現代の祭りを地域のものでなく観光にしてしまっていること。通過儀礼がなくなってしまっていること。現代の社会になくなっている「人間の創造性」を呼びおこし変えていくという一種の社会に対する問いかけとなっていると感じた。現代美術家が美術家と呼ばれないのは絵画や彫刻、銅像などわかりやすい「物」をつくっていないからということもあるが、現代社会の現状や問題を取り込み、アートというツールを使い社会へと問いかけるからではないかと感じた。これは、建築家にも必要なことだと考える。
 私がアートプロジェクトを考えるときに一番考えてしまうのは人や空間よりも箱になってしまうのではないかと思う。今回のアートプロジェクトはその空間よりもツールをどのように設定するかがよく考えられていると感じた。建築家という言葉にとらわれることなく、その場所で人が過ごすことで変わっていく日常を意識したいと思った。私たちが提供できるのはツールだけであり、その空間を限定することはできても支配することはできないと感じた。その空間を限定する方法を表現することが必要だと考える。今回の講演では違う視点で建築を考え直すことができた。建築家は、日常と非日常を考えることが多いと考える。日々の日常で問題を発見し建築を考え、自分の限定方法を探りたいと思う。

菊池毅
 このたびのオウケンカフェでは現代美術家の北澤潤さんに貴重なお話をお聞きする機会に恵まれた。
 北澤さんの活動は行政、教育機関、医療機関、企業、商店街、町内会、NPOなどさまざまな人たちを巻き込み展開されている。その内容というのはこのレクチャーのなかでお話をして頂いたなかからおさらいをしてみると、リビングルーム、マイタウンマーケット、サンセルフホテルといったものだ。これらについてもう少し詳しく以下に触れてみたい。
 まずはリビングルームから。これは商店街のとある空き店舗にカーペットを敷き、地域住民のための誰でも過ごせる居間空間をつくってしまったものだ。そしてこの居間を構成するものは居間に集まった人々と彼らによって持ち込まれた物たち。どこにでもあるかのような居間の空間は構成する人と物が絶えず変化・更新をし続け、どこにも無い居間の状況をかたちづくる。
 マイタウンマーケットでは、震災の為かつて暮らしを営んでいた場所に留まることが叶わなくなった人たちが住む仮設住宅に手づくりの町の姿を立ち現させる。仮設住宅の集会所からはじまるこの手づくりの町は、そこに住む人の思い思いをつなぎ合わせて映画館、図書館、カフェ、銭湯、バス停などのさまざまな姿をつくり上げ、これから再建されるであろう町について思考するきっかけをつくっている。
 サンセルフホテルにおいては団地の空き部屋から人と人、人と自然の新しい関係性の在り方を問いかける。太陽という存在を介在させて、サンセルフホテルに泊まりに来た宿泊客とホテルマンは協働作業で客室の空間をつくり出す。
 これらのプロジェクトを通して、このたびのお話を伺って思うのは北澤さんの肩書きを形容することばはアーティストでは足りないように思う。そもそもアートというものに疎い私には、はじめてこれらの出来事を目の前で示されたときには正直なところ何が起きているのかわからなかった。自分のアートの認識を修正しなければ成らないことが起きている。カントが定義した美ともゲオルグ・ガダマーが認識する芸術にも当てはまらないことではないだろうか。ただ確かなのは彼が手掛けるアートプロジェクトによってさまざまな人が非日常の空間、光景に参加させられ知らず知らずのうち何かしらの役を演じそれに耽いっている。
 ダダイズムのマルセル・デュシャンは美術とは何かを問い、アンディ・ウォーホルが芸術を大衆化させたように北澤さんのアートプロジェクトは自分のなかのアートの認識を変えようとしている。北澤さんのこれからの活躍に期待させられるお話の機会であった。

ゼミナール | Posted by satohshinya at October 29, 2014 0:15


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