ヨコハマトリエンナーレ2014見学会

2014年10月4日(土)、2014年度第2回ゼミナールとして、「ヨコハマトリエンナーレ2014」の見学会が行われた。以下はその見学会に対するレポートである。

瀧澤政孝
 今回訪れた横浜トリエンナーレは、横浜美術館と新港ピアの2箇所のメイン会場の他に、その周辺の町中にも作品が展示されていた。横浜の町が大きな美術館となっているのだ。町中の作品はどれも町並みにとけ込みながらも独特の存在感を発揮しているように見え、印象的であった。町中に展示されている作品は幾何学的で抽象的であったり、ヴィム・デルボアの「低層トレーラー」のような機械的であったように、都市にとけ込む要素を持つものが多く展示されていて、展示空間である都市と作品の関係が考えられた上での選択ではないかと感じた。作品が空間の一部として成り立ちながらもそれぞれの存在感や個性を示している今回のような展示空間を体験することができ、とても勉強になった。
 また美術館は展示空間をつくり込みすぎないことが大切であることを知った。あまりつくり込んでしまうと展示空間が限定的になり、作品に合わせた自由な展示が行えなくなってしまい、使いにくい展示空間になってしまうとのことであった。ある程度フレキシブルな空間である方が様々な作品をより効果的な方法で展示することが可能となる。今回のような映像や写真をはじめとする様々な表現形式の作品が一ヶ所に集まる企画展では特に重要なことである、と感じた。これは他の建築にも言えることであると思う。建物を設計する段階でつくり込み、各室で機能や人の行動を完全に分けるよりも、あえてシンプルな空間をつくることで様々な状況に対応することができ、それによって新たな活動が生まれる可能性もあるのだ。
 そして、もっとも印象に残ったのが横浜美術館内のTemporary Foundationである。円形の空間を壁が二分して、それぞれでテニスコートと裁判所の法廷が再現されていた。テニスコートの方は壁が鏡になっていて円形の空間内にテニスコートだけがあるように感じられる。テニスコートは空間の半分しかないのだが、まるでコート一面がそこに存在するように見えるのである。薄い壁によって同じ空間でも全く違う空間体験をすることができるのがとてもおもしろかった。そしてこれは建築にも応用できるのではないかと思った。敷地がとても狭い場所であっても、鏡の設置によって空間を実際よりも広く見せたり、ないはずの奥行きを視覚的に生み出すことができるので、より多様な空間を生み出すことができるのではないかと考える。
 今回のゼミで展示空間を考える際には作品の個性やそれを実際に展示する過程、その空間を体験する人が何を感じるのかを理解しておく必要があることを学んだ。今はまだこのことを知っただけであるので、これからは作品や空間体験をについてゼミを通して学び、展示空間を考えられるようになっていきたいと思う。また今回はあまり見れなかったが、照明計画などの光の扱い方も学んでいきたいと思う。

吉田泰基
 トリエンナーレと呼ばれる美術展覧会を訪れるのは初めてである。トリエンナーレのそもそもの意味が3年に1回開催される美術展覧会と聞き、もっと壮大で分かりやすいアートを想像していた。初めは期待通り、ゴシック建築の繊細な窓をモチーフにしたヴィム・デルボアの低床トレーラーが壮大さを予感させるかのように展示されていた。また、エントランスにも、マイケル・ランディの巨大なアート・ビンというゴミ箱が展示されていた。ゴミ箱を「忘却の容れ物」と解釈し、そのゴミ箱を美術館の中心に置くことによって、私たちの大事な忘れ物がよく見えてくる。ここまでは、私的妄想と合わせて理解ができる。
 しかし、その期待はあっさり裏切られた。第1話から入り、最初の部屋には、ガジミール・マレーヴィチのシュプレマティスムの小品が何の説明もなく展示されてある。だが、はたしてアートにそれほど馴染みのない人がいきなりこれを見て、それが何なのか、何がいいたいのかわかるだろうか。その後も、ミニマル・アートのほとんど白紙の如き絵画がやはり何の説明もなく展示されている。ここで、ようやく現代アートの難解さに気付かされる。以降、難解すぎるアートと向き合いながら進み、釜ヶ崎大学エリアに入る。ここは、雑然と作品が展示されているが、今までとのギャップなのか、暖かみを感じる分かりやすいアートであった。3話、4話、5話は、1話と比べると比較的背景なども想像しやすく、リラックスして鑑賞することができた。そして、今回一番心に残っているが第6話である。いつの間にか監獄のような趣向が出てきたり、赤く塗られた法廷など、説明や理屈抜きに訴えてくる作品が多かった。素人の私には、このような監獄や法廷などのインスタレーションに身を置いて感じ取る、楽しくも知的なアートが分かりやすい。新港ピアの方の第11話の「忘却の海に漂う」は、一番まじまじと時間を掛けて見ていたように思う。特に、原爆の被害者などの一個人を対象にしたスナップ写真。普段は、メディアなどを通して漠然とした被害の数値や概要を見てきたが、ここでは生活感を感じさせる物が多く、一個人の存在をリアルに感じることができた。正直、鳥肌が立ちっぱなしであった。
 全てを回り終えて、今回のヨコハマトリエンナーレのキーワードである「忘却」について、まだぼんやりとだが、森村さんが表現したかったことが見えてきた。「忘却」というキーワードは、大したインパクトのあるわけでもなく、未来志向でもないが不思議な世界を演出してくれた。これをきっかけに、小さな物が大きく見えるようになった気がする。

相馬衣里
 約2年前、上京したての私が初めて行った美術館も横浜美術館でした。前回は奈良美智の展示で、キャッチーな作品が大方でしたが、今回の横浜トリエンナーレは、人間に関する倫理的な題材をモチーフにした作品が多く、鑑賞していて少し気分が重くなりました。展示によってこんなにも建物の印象、空気、雰囲気がガラッと変わるものなのかとすごく印象的に残っています。
 それでは、今回私の印象に残っている作品についてお話したいと思います。まずは、横浜美術館に出展されている毛利悠子さんです。私は見学会の数日前に、今3331 Arts Chiyodaにて行われている「DOMMUNE UNIVERSITY OF THE ARTS」の展示を見に行ったばかりだったため、そこでも同じくインスタレーションの作品を展示していた毛利さんの作品が印象に残っています。どちらも日用品から家電、楽器などをモーターで規則的に稼働させる作品で、その佇まいは両作品とも似ていたのですが、その場に立った瞬間に感じるものは全く違っていて驚かされました。DOMMUNEの方は明るい雰囲気と未来に向けたエネルギーを感じられる作品でしたがこちらは真逆で、背徳的で情緒的で脆く湿ったようなものを感じました。例えるならば陰と陽です。もしかすると、彼女は同時期にこの二つの作品の製作にかかっていたのかもしれません。どのようなことを考えながら製作に取り組んでいたのかとても気になって眠れませんでした。それから、アンディー・ウォーホルの撮る写真の作品が意外と良いことに驚きました。私は、絵画の人だと思っていたので、彼の写真作品にお目にかかれて光栄でしたし、その作品がまた私の好きなタイプの写真だったため、彼の活動に今まで興味がありませんでしたが惹かれました。写真に関して言うと、来月から東京国立美術館で展示会を控えている奈良原一高の王国の一部も観覧することができて良かったです。構図も素敵ですが、皮肉がたっぷりこめられたような作品に、私は「頭がいい人の写真は格好付けていてダサいのに可愛さがあるなあ」と思いながら感慨に耽ました。
 普段このヨコハマトリエンナーレのように、人間やメディア媒体に関する風刺であったり、シニカルな作品が多い展覧会はその雰囲気が苦手で自主的には赴かなかったのですが、今回はやはり市民に向けた展示ということもあり、楽しく観覧できました。しかしながら、今期私の中で一世風靡をもたらしたDIC川村美術館で絶賛開催中の五木田智央展を超える作品に出会えなかったのは残念でした。私はよく音楽のライブを見に行くのですが、良いライブを見た後は必ず早く家に帰ってギター弾こう!という気持ちになります。この法則に乗っ取ると、様々なアーティストの本気に触れて、私の中でもなにか沸き立つものがあったので、このメラメラが消えないうちに私も何かに昇華しようと思えたため、この展示は良い展示だったということになります。無駄にしないようにわたしの人生に取り組んでいきたいと思います。

渡辺莞治
 「世界の中心には忘却の海がある」とつけられたタイトルは、難しい内容であって漠然としている。その不思議な世界の中に私たちのリアルさが放り込まれている。私たちが忘れていたものや目を背けていたものを思い出すためにも、マイケル・ランディの「アートビン」という巨大なゴミ箱が美術館に置かれていたかのようにも思える。今まで見てきたアート作品で、廃材を使った作品はあったが、このように作品を捨てるという行為から生まれる参加型の作品は初めて見た。今回見たのは、あくまで作品の途中経過であり、また後日見たら違った印象になるのかと思うと、わくわくする。ものがありふれている現代社会に生きる私たちを真っ新な状態にする、今作品の「忘却」 に相応しい序章である。人は無意識のうちに取捨選択して生きているが、意識的に忘れる・思い出すことが今作品に触れ行える。
 沈黙とささやきをテーマとした中で、ジョン・ケージの「4分33秒」という作品があった。休符で構成された楽曲は、ざわめきや吐息、風の音などが聞こえる。この不確定な音たちは演奏ごとに変わっていくために、作品はその場その場で変化し、いわば、かたちを持たない作品である。このような音に耳を傾けるもので、マリー・シェーファーが提唱した「サウンドスケープ」という思想がある。この思想は、日常生活や暮らし、環境などに耳を傾けるもので、音から情報を読み取るというものである。私たち自身に能動的に委ねられた作品によって、今までは目を向けなかった物事に気づき新しい発見が生まれる。
 とくに私の印象に残った作品は、作者を非人称にすることで作品全体からはみ出している「非人称の漂流」である。作品自体からも脱却する試みの斬新さは、他の展示にはない違和感があった。この違和感がよりリアルな現実へと、私たちの気持ちをスイッチさせる。手放す、捨てる、あるいは忘れる。捨てることで新しく得たものは、いずれまた捨てられるかもしれない。ここに、社会の変容性を感じた。建築も芸術もこれまでに新しい試みが行われ、数々のアヴァンギャルドな作品が生まれてきたが、現代アートのような実験的アプローチによって、今日の私たちはリアルに気づかされる。
 現代アートの国際展である、ヨコハマトリエンナーレ。横浜美術館、新港ピアをはじめ様々な会場で連携し、作品が展示されている。同時多発的な、このアート会場の連携は、アート作品に触れるだけではなく、街歩きをする楽しさもある。普段、横浜にいる人たちにとってもいつもと違った街の風景が演出される。一般的に難解な現代アートを街の中に落とし込むことで、人は能動的な時間を過ごす。会場が美術館やエントランスだけでなく、 カフェや書店の中など様々な場所に展示されていて、街と混ざり合う面白さとより街の中にアートを配置している印象を受けた。会場間の無料バスも便利であり、まわりやすかったが、同時に作品と展示会場の誘導する難しさを感じた。この見学会で、街と作品との向き合い方や展示構成・配置などについて勉強することができた。このような大きいスケールの展示に触れ合い貴重な体験であった。

末次華奈
 どうして人は忘却するのでしょうか。目を背けたいような見たく無いものや、見えないもの、記憶からこぼれ落ちたものたちが思いも寄らず、実は世界の中心に広大な海として静かに存在している。そんな忘却めぐりが今回のヨコハマトリエンナーレのテーマです。
 このような芸術祭に初めて参加したので、目に留まるもの全てが新しく新鮮で非常に面白いと思いました。始めにエントランスホールで私たちが見たのは、ショーケースにも見える巨大なゴミ箱でした。マイケル・ランディの「アートビン」です。芸術のためのゴミ箱を創造的失敗のモニュメントと彼は言っています。ゴミ箱の中身は成功のために生まれた失敗たちですが、人からは忘却され捨てられてしまいます。ゴミ箱を生活の中心に置いてみると、こうした大切な失敗に改めて目を向けることができ、これからの成功や輝かしいものに繋がるのではないでしょうか。こちらの作品を見て、今回のテーマを実感することができました。
 忘却されたものは沈黙しています。沈黙しているものは、声に出して語られた言葉よりもずっと深く、真実を語るのだと気付かされました。木村浩さんの「言葉」は絵画作品でありながら私たちに言葉を使って語りかけてきます。「このことについては、黙っていることにする。」ゾッとしました。嫌なところに触れられたような、触れられたくない過去を知られているような。誰に向けて描かれたものなのかはっきりしませんが、見た者の心を揺さぶる強いメッセージを感じました。
 芸術家達は、このように人々が知らないふりをしていたり、うっかり見落としてしまった忘却されたものに敏感に反応し、作品を通して問いかけます。第6話「おそるべき子供たちの独り芝居」という表題に、お前たちは大人になって見えていたものが見えなくなってしまったんだと叩きつけられ悔しくなりました。芸術家たちのひとり遊びに多くのことを気付かされ、ただひたすら欲望するだけの子供時代に嫉妬してしまいます。坂上チユキさんの微細な作品には強い意志を感じました。「師走の毛虫」「くるくる回りすぎて首が雑巾絞りになった水鳥」「鳥の接吻」描く対象は子供のようで純粋な響きを帯びていますが、あまりにも緻密で複雑な描写に驚きました。大人になりきれなかった子供たちのひとり遊びは、確かな技術を伴うおそるべき子供たちの遊びだといえます。
 曇った眼で様々なものを忘却してしまった私たちは、こうした芸術家たちが発する微かな囁きを生き方や考え方を捉えなおすヒントとして大切にしなければなりません。横浜というまちは決して人が少ないというわけではありませんが、アートによって人々がつながり、まちづくりが行われ、ここから世界に発信していくという力を感じました。私のような芸術にあまり知識のない人でも、何かを得られるものだと思います。

柳スルキ
 ヨコハマトリエンナーレとは、何を目的としているのだろうか。おそらく、アートでまちづくりを測ろうということなのだろうが、把握しきれい部分がある。ガイドブックには、『ヨコハマトリエンナーレは、現代アートの最先端を提示しつつ、多くの市民や団体などと連携をとることで、アートを通じてまちにひろがり、世界とつながることで、横浜のまちづくり、そして日本全体の芸術文化の発展に寄与することを目指しています。』とある。現代アートは、知識や国の文化や背景などの事前知識などの必要がなくとも、多くの人にとって平等のように思える。現代アートの形はさまざまあるので、とっつきやすいのかもしれない。これらの点で国内はじめ世界の現代アートが言語を介せずとも受け入れられるからこそ、このようなイベントがまちづくりとして適しているのかもしれない。しかし、海外研修旅行でもさまざまなアートにふれたが、私にとって現代アートは私たちに訴えかけるよりも前にそれ自体で完結しているような感覚にさせる。
 今回のヨコハマトリエンナーレでは、アートのとりいれ方に疑問をもった。実際回れたところが横浜美術館と新港ピアと象の鼻テラスだけだったのもあると思うが。そもそも、横浜は観光地でもあり、国際線の船まで出ているので人は少なくないはずだ。横浜美術館を回ったときは触れる作品が少なく、誤って触れてしまうとすかさず係の人が注意にかかる。これは当たり前のことだが、係の人と少しばかりもめる人もみうけた。これは当事者だけでなくその空間にいる人全体のストレスになっていた。残念ながら、アートで人がつながるような感覚はなかった。新港ピアでは盲目の方が連れの人と腕を組みながら回っていた。五体満足で身体的に何も不自由のない自分にとってはとても新鮮で、どのようにアートを体験するのかが気になる点だ。せっかく、いろいろな人を受け入れ、つなげていく場所ならば、主催側から専門の知識を持った人が案内をしてもいいはずだと思った。その後に向かった象の鼻テラスでは、ちょうど森永さんの聴く服やライゾマティクスとソウル・ファミリーの触覚デバイスの用いた共同プロジェクトが展示してあった。これは、事前に雑誌で確認していたので、大変興味深かった。ここでは、ワークショップが行われているようで目的に合致しているように思えた。しかし、常時は端の方に展示が追いやられていて、多くの人は展示よりも休憩しにくるという感覚のようであった。
 まちづくりにアートを持っていくことに反対するというわけではない。2年の夏と冬に瀬戸内国際芸術祭に行ったことがある。このときは、アートが人を、まちを活性化させることに対しての臨場感を感じた。もともと禿山状態だった島に緑とアートをとりいれると、どんなに暑かろうが長蛇の列をもって人が尽きなかったのだ。これは、瀬戸内海の島の状態に適しているアートのとりいれ方だったからだと思う。
 現代アートでも、海外研修中に行ったティンゲリー美術館のようにスイッチ式で体験のできる展示ならもっとおもしろく幅が広がるのではないかと思った。今回は現代アート特有の自己完結な感覚が強いように思えた。自分自身もアートとまちの関係についてより考えていきたいと思えた1日だった。会期中に回っていないところにも足を運ぼうと思う。

武井菜美保
 紙の燃える温度とその世界に在る忘却の海、というのが今回の題であった。これに対するイメージは、いらない雑誌を燃やすような火ではなくて、もっと暴力的で戦争に用いられるような炎だ。しかし燃え始めの部分は既に炭化しきっていて、黒々と広がっていく。燃える前と後では、同じ場所であったはずでも別世界である。
 序章2の巨大なゴミ箱の中身は真っ白な箱に飾られているときと、くちゃくちゃになってゴミ箱の中にいるときとでは、同じものであるはずなのに見え方や感じ方が全く異なる。むしろゴミ箱にあるときのほうが印象的であるような気もする。そんなゴミ箱が忘却だけを語る容れ物だなんて嘘である。
 序章で語られたことは1~4話からも読み取れるように思う。その中の釜ヶ崎芸術大学に関する話を聞けたのは、今回の展示の流れを読み取るのに大きな助けになった。釜ヶ崎に暮らす彼らは、その日の暮らしのためにただただ働くことに集中し、その日をどうにか生き抜いていく。夜思い返すのはただひたすらにまっさらな情景で、疲れていて眠る。そういったまっさらなところに居た人々が、その情景に物足りなくなって、芸術を用いて色をつけていく。そうして個々の扉が開き、やがては釜ヶ崎からも出て、横浜までにも色が広がってきた。そういう芸術の色により見出された希望のようなものが、あの色とりどりの空間から強く感じられた。
 しかし第3話では、先ほどの絵に描いたような充実が何か暴力的なものによって燃えてしまう。人々は無くしたり、亡くなったりする。また皆が扉を閉ざしてしまう。しかし誰もが「一からスタートしてみたい」と思ったことがあるであろう。これが、つまりはスタートにもなりうる。忘却の海は、新しい創造を可能としている。こうして人々は忘却の海に解放された。
 第6章の「恐るべき子供たちの独り芝居」という題からは、ジャン・コクトーの恐るべき子供たちを彷彿とさせられた。海で漂流する人々は、この小説の姉弟と同じように巧妙に自分だけの世界をつくりだす。でもその世界のつくりかたはあまりにも異様で、その世界はあまりにも狭いので、端から見たら異様だ。しかしそういった世界をもってるということと、その世界の狭いがゆえの完成度に魅了される。しかしこの展示はもっと先をも語ろうとしている。
 10、11章は、それまでよりも受け取りやすかったり、明るかったり、その世界観に私を巻き込もうとしていた。ただそれは、無理やりにではなく、皆一緒に手を繋ごうというような半強制的な似非平和集団でもなく、私達に語りかけながらも入るか入らないかの選択肢は確実に自らの手の内にあるといった感覚である。それとともに、またここが忘却の海になることもありうることも理解しつつも、それをスタートととらえる感性をもっていて、励もうというような明るさがあった。これはもしかすると芸術家や、なにか創るようなことに携わる人に向けたメッセージなのだろうか。
 トリエンナーレの展示は私の自己解釈であるにしろ物語の流れが見えた。全く別々のアーティストの作品を並べることで空間は確実につながっていた。こういった方法で空間を操作できるというのはとても大きくて私には重たいけれども勉強になった。またその後みた「東アジアの夢」の展示ではポップコーンの香りや石油の匂い、目玉や骨など一つ一つの作品が力強く、個々で成立していて刺激的だった。これはきっと物語としての大きな流れがないからだ。トリエンナーレでは個々の印象よりも全体の流れのほうが印象的であった。
 別の展示と比較することで気づくことができる。今度は別の展示をしているときに横浜美術館に行って今回の印象と比べて見ようと思う。

江澤暢一
 私にとって現代アートとはよく分からないものだ。
 美術品の価値を理解できているわけではないし、よく分からないというのは見ていて「つまらない」「退屈」ということではない。漠然と「きれい」「こちらの方がいい」などといった感想は人並みに持っていると思う。しかしその作品について考えたとき、その作品が何を表し、作者が何を表現したかったのか? そのようなことまで感じとれたことはほとんどないと思う。今年の夏に海外研修旅行でさまざまな美術品を見てきたが、キャンバスを白く塗った作品など、どういう作品なのか理解できないものもあった。
 今回見学を行ったヨコハマトリエンナーレも漠然とした感想を持つ程度で終わってしまうような気がしていた。しかし、実際はそんなことばかりではなかった。今回の展示は各国のアーティストの作品をストーリー上に乗せて、ある一定の区域ごとに1話・2話……と設定されており、1つずつにテーマが設けられていた。ただ眺めるだけで終わってしまっていたかもしれない作品も、これがあったからこそ私は自分なりにその他の作品と比べるなどして楽しむことができた気がする。第1話にあったJohn CAGEの「4分33秒」という作品もそのひとつだと感じている。いつもなら遠目で見るだけの作品だったかもしれないが、「沈黙とささやきに耳をかたむける」という全体のテーマがあったからこそ考えることができたと思う。展示の中で最も印象に残ったものがGregor SCHNEIDERの作品である。作品が目の前にある扉かとも最初は思ったが、扉の中に入ると中に広がる空間と湿度に驚きを覚えた。先に進むとすぐにブロック塀に囲まれた沼地にたどり着いた。そこにはひとつ照明が用意され、泥が照らされているだけの展示だったが、光に照らされた空間は非常に美しく、思わずいたる所で何回もシャッターを切った。興味を持ったので帰ってから調べてみたが、開催当初は実際に沼地に入ることもできたようで、作品に触れて体験することができること自体がインスタレーションの醍醐味なのだろうと感じる一方、その体験をできなかったことが悔しいと思った。もう1つは新港ピアでみた土田ヒロミさんの写真作品である。本来、時間の一瞬を切り取る写真で時代を超えた2枚の写真の対比だけでも印象深いが、被写体の広島の人々の写真はカメラ目線だけれども笑っているだけでなく、ひとりひとり複雑でさまざまな表情を見せていた。そんな作品が印象的であった。
 今回、展示されていた現代アートも適切な解釈がどれほどできたのかはわからないし、正しい解釈はほぼできていないだろう。そういった意味では、よく分からないといった状況に変化はない。しかし、私はトリエンナーレを通して「どんな作品なのか?」考えることが現代アートの楽しみ方のひとつなのだと思った。また、そういった機会がひとつの街を巻き込むような規模で、トリエンナーレのような企画が日本中さまざまな場所で見られるようになればいいなと思った。今回はゼミナールというきっかけであったが、今後はきっかけがなくとも自ら足を運ぼうと思う。

ゼミナール | Posted by satohshinya at October 29, 2014 0:41


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