中島佑太レクチャー

2011年12月12日(月)、第5回ゼミナールとして、アーティストの中島佑太によるレクチャーが行われた。以下はそのレクチャーに対するレポートである。

平野雄一郎
 コミュニティアーティストとして活躍している中島佑太さんの講義を聞いた。コミュニティをデザインしようと色々な事に挑戦している人であった。このような事をしている人の話を聞くのは初めてだったのでどのような事を聞かせてくれるのか楽しみだった。今回は最初のプロジェクトがとても印象に残ったので、それについて思ったこと感じた事を書こうと思う。
 そのプロジェクトは茨城県取手市のアートプロジェクトで、ローカルラジオを通して地域の活性化を促そうとするものだった。団地内の近くの小さな商店街は現在かなりシャッター通り化していて活気がなくなっている。そこでつぶれてしまったクリーニング屋を改装して小さなスタジオを作り、そこでローカルラジオを発信してコミュニティの発信地としようとするものだった。ラジオにはいくつか種類があって、FMラジオのように全国に発信するものと、コミュニティ放送と言って市町村までの範囲で放送するもの、ミニFMと言って無許可•無認定で誰でも好きにどこでも放送する事が出来るものに分かれる。ここにはミニFMの規模のローカルラジオを展開した。これは他の2つと違って放送できる範囲はしごく限られている。団地内だけや商店街の端から端まで程度である。けれども、もともとこのプロジェクトのコンセプトが、誰でも来られていつでも話せるラジオというものであったので、地域限定のコミュニティにはうってつけであった。知り合いにしか放送されないのでプライベートな事やたわいもないことが放送できるようになっている。中島さんはこれを作る上で井戸端会議を想像したと言っていた。井戸端会議は普通の生活をする上でとても身近なものであり、これは家族間の情報の交換や今日一日にあった出来事を報告しあったりするものだと思っていて、今井戸端会議というものがなくなりつつあるのは実際に井戸そのものがなくなったからだと推測していた。しかし、井戸端会議というフレーズやイメージはなくても食卓上で風景は引き継がれているのではないかと自分は思う。風景が引き継がれるのは、落ち着けたり素でいられると思う人が多いからではないか。自分も一日の終わりとしているのにはとても落ち着くところだと思っている。中島さんはここに注目してこのコンセプトを掲げたのだと思うし、実際にやってみた結果、リアルな声や団地内のコミュニケーションが盛んになったとおっしゃっていた。また、コミュニケーションをデザインするときにリスナーがいるのといないのとではかなり違うものになるとおっしゃっていた。例えば、ラジオは話し手と聞き手がいて初めて成り立つもので、どちらかがいないとラジオではなく自己満足となってしまう部分がある。話し手聞き手がそろっていればそれでデザインしたことになるかと言われるとそうでもない。
 これらの話を聞いていてコミュニケーションをデザインする事はとても難しい事だなと感じた。確かに見えないものを言葉で表す事は面白いと思う。しかしこのラジオプロジェクトも地域の社会問題など小さな問題が浮き彫りになるという欠点と隣り合わせになりながら行っていた。一つ間違えれば全く面白くなってしまうし、その地域を批判するものにもなりかねないと感じた。この微妙なさじ加減は、全体を見渡せる視野を持って自分がその地域に住んでいるという心持ちを持つ事が不可欠なのではないかと思った。

西本亜里紗
 井戸がなくなったから井戸端会議がなくなり隣の家や地域との交流がなくなった。ということは、井戸をつくってここからなにかを発信すれば現代版の井戸端会議(コミュニケーションツール)が出来るのではないか!という発想が、抽象的ではなくそのもので表現するという点で自分の感覚にも共通している部分があったのでとても共感できた。もっとも、私なんぞとは比べものにならないくらいの発想であるが、プロでもこのように感じながら表現しているのかと思うと少し嬉しくなった。
 従来の井戸端会議は人伝に広げていくものであったが、コミュニケーションが希薄になってしまった現代に井戸だけを作ってもあまり意味がない。ただ話すだけの場ではなく、話している事を電波に乗せることで、そこにいる人以外の多くの人にも広げ、コミュニケーションをとろうとしたのはとても面白いと思った。また、地域という狭い範囲で放送することで、井戸で話している人達はリスナーのイメージが持てる!というのが魅力的だった。また、そのリスナーを意識することでいつもよりもより深い、内輪同士ではないコミュニケーションが生まれる。
 アートプロジェクトは形に残らないものであると言っていたが、電波に乗せて届けてきた思いは人々の心に残っているだろうし、また目に見える形として歌や合唱団を残せたのはとてつもなく大きな成果であると感じた。
 韓国でのポジャンマチャ計画は、言葉だけがコミュニケーション手段ではないと実証できた例であると感じた。そして子どもの存在というのはどこの国に行っても大変大きいものであると改めて思った。まだ先入観がなく好奇心が旺盛な分、どんな人とでも分け隔てなく付き合ってくれる点で、子どもは大人よりもコミュニケーション能力にものすごく長けていると感じている。
 この計画も半分は子どもたちの協力のもとに実現したのではないかと感じている。子どもたちの弁解や看板のおかげて材料探しもスムーズにできるようになり、街の人々も協力してくれるようになったのだ。ただ、もちろんそれだけでは全てうまくいかなかっただろう。いつ誰が来ても手伝うことができるように作業をわかりやすく、簡単にすることで、より多くの人々とコミュニケーションを作業していくなかでできていたのではないか。
 他国でのプロジェクトであったことから、その国の歴史や風習がとても重要な事だとわかった。今回の計画での材料集めでは、そこで生活する人たちが使うゴミまで奪ってはいけないし、日本では当たり前のことが外国からしてみれ必ずしもそうでないことであるかもしれないのだと学んだ。郷には入れば郷に従えとまさに言葉通りであった。
 多種多様な形態があるコミュニケーションという方法であるからこそ、多様なアートが生まれる。コミュニケーションという目に見えない手段を使って形に表現するのはとても難しいことだと感じたが、形に残る以上に人の心に残る作品が出来るのだろうと思った。

田崎敦士
 「取手アートプロジェクト・88MHzゆめ団地」や「韓国 アートインレジデンス(移民労働者街)」ではいずれも、中島さんのコミュニケーションアートによって地域住民を基本とした新規コミュニティーが生まれていました。また、アーティストやプロジェクトが干渉することで、元からその地域に築かれていた関係性は、少し変質しているように思いました(あくまで地域コミュニティーの枠からは外れないで)。普段「見かけたことがある程度の隣人」と関係をもつきっかけを作るHUB的な役割を、アーティストやプロジェクトが担っていました。
 ここで、アーティストやプロジェクトが地域から出て行った・なくなった後も、そのようにできた新規コミュニティーが持続していくのか疑問に思いました。
 プロジェクトに参加してくる地域住民たちは、アーティストが作り出すクリエイティブなものに魅力を感じてやってきている。そう考えるなら、アーティストやプロジェクトが地域から出ていった・なくなった時、必然的に新規コミュニティーは自然消滅していくと思います。せっかくできた新規コミュニティーが持続せず、単発的なものに終わってしまうのは、どこか勿体ない気がします。アーティストやプロジェクトがHUB的な役割に留まってしまうと、このような問題は解決されないのだと思います。
・新規コミュニティーを持続可能にするためには
 1つの方法として考えられるのが、アーティストがその地域に永続的に関わっていくこと。継続的にクリエイティブなものが生まれ、それに魅かれた地域住民たちが集まってくるといった構図が描けます。 
 また別の方法として考えられるのが、地域住民たちで新しい組織を作り上げ、プロジェクトを運営させ継続させていくこと。地域住民が組織を作りそれを代々受け継いでいけば、そのコミュニティーが消滅する可能性はすくなくなります。
 しかしこれらの方法はいずれも問題があり、アーティストが自分の人生をその地域に捧げなければならないことや、地域住民たちでできた言わば素人組織が、他の地域住民たちを惹きつけるようなものを生み続けられるか、といったことです。
 コミュニティーデザイナーの山崎亮氏は、プロジェクトの計画段階から地域住民を参加させ、その後の運営方法などの勉強会を開き、数年してから完全に住民にまかせるというスタンスをとっています。この方法が成功しているかはまだデータが足りませんが、私は少し可能性を感じました。
 今後、新規コミュニティーを持続可能なものにしていく方法が、様々な実験的プロジェクトによって見いだされていければ良いと思いますし、自分も何か考えていきたいと思いました。

長澤彩乃
 第5回佐藤慎也ゼミナールでは、アーティストの中島佑太さんを迎えたレクチャーが行われた。中島さんは、1985年群馬県前橋市生まれ、2008年 東京藝術大学を卒業。小学校時代から続けてきた野球の経験をもとに、スポーツにおけるコミュニケーションに着目しながら、他者との会話から引き出される物語をきっかけにした継続的な出来事をデザインするプロジェクトを各地で展開しているコミュニケーションアーティストである。最近は、サイドストーリー(アートプロジェクトの傍らを流れるアーティストと地域コミュニティーとの関わりの物語)が持つ、アートプロジェクトのメインストーリーを価値化する可能性に興味を持っているという。サイドストーリーがメインストーリーを支える、メインストーリーがサイドストーリーを価値付ける、という関係にある物語を記録・収集し、アーティストと地域コミュニティーの関わりがもたらすものが作り出す新しい領域のことを考えている。今回のレクチャーでは、そんな中島さんが自信の活動について、いくつかをピックアップして紹介してくれた。
 まず、2008年に参加した取手アートプロジェクト。取手アートプロジェクト(TAP=Toride Art Project)とは、1999年より市民と取手市、東京藝術大学の三者が共同でおこなっているアートプロジェクトである。
 若いアーティストたちの創作発表活動を支援し、市民と広く芸術とふれあう機会を提供することで、取手が文化都市として発展していくことをめざしている。中島さんが参加した2008年よりTAPは、主要事業として全国から作品プランをあるテーマのもとに募集する「公募展」と、取手在住作家の活動紹介である「オープンスタジオ」を隔年で開催してきた。活動内容としては、団地の店舗跡地にラジオ局をつくりミニFMに町の人の声をそのままのせて放送するという企画を行った。井戸端会議の名の下に、井戸を模したオブジェを囲んでのコミュニティーは地域の発展にもってこいのものであると思う。井戸を囲んでハーモニカを演奏したり歌ったり踊ったりすることや、団地値上げ反対運動などという時にシビアなテーマも放送することで、地域の人々がリスナーとしても、放送をする側としても楽しめる新しいコミュニティーである。私の家の近所は住宅街でありながら、近所付き合いは年々希薄になっているように感じるので、このような活動は羨ましく思った。
 この他に、言葉も通じぬ韓国で、ゴミを集めながらポジャンマチャと呼ばれる屋台を作っていった話もあった。中島さんのコミュニケーションアーティストとしての制作活動のモットーとして、いつ、誰がきても手伝ってもらえるということがある。これを中島さんは、制作活動場所のなく、言葉の通じない地でも通用させていてコミュニケーションを重んじる姿勢を感じた。
 今回のゼミナールで、アーティストという少し曖昧な職業の人の生き様というか、かっこよさに強く感銘を受けた。今後私も、自分の活動にポリシーの持てるような大人になりたいと思う。

アーティストの中島祐太さんの話を聞いて
西野拓人
 群馬県の前橋市を活動の拠点とし、自身が行っていた野球の経験から「一人では出来ないことをしていく」というスタンスでアートプロジェクトを行っている、アーティストの中島祐太さんの話を聞き感じたことを次にまとめる。
 まず、最初に中島さんが話された取手アートプロジェクト「FMゆめ団地」について述べる。「FMゆめ団地」は、2008年に取手アートプロジェクトで中島さんが参加したアートプロジェクトの1つである。無認可でも放送できるミニFMを用いて、団地に誰でも参加可能なラジオ局を作るというプロジェクトで、団地の一室に井戸があり井戸を囲みラジオを放送するというものであった。ラジオ局の写真を見せられた時、私は何故ラジオ局の真ん中に井戸があるのかと不思議に思った。中島さんの話で井戸は井戸端会議を連想し設置したものであると聞き、最初はそれだけの理由かと思いつまらないなと感じた。しかし、その後、中島さんの話を聞きこの井戸はとても重要な意味を持っているものではないかと考えが変わった。中島さんの考えで、「郊外はコミュニティが元々希薄な場所であり、郊外の希薄なコミュニティは井戸端会議で主に行われていた。しかし、80年代になり上水道の発達などから集合住宅には屋上タンクが設置され、団地などには井戸がなくなり井戸端会議がなくなってコミュニティが依然より希薄になった」と聞き、このラジオ局はこの井戸によって井戸端会議を復活させ、団地という1つの街として完結した空間にコミュニティを作ろうとしているのではないかと思い、この井戸には郊外で行われていたコミュニティの歴史が詰まっていると考え、とても意味がある重要なものだと思った。また、アートプロジェクトは記憶には残るが形に残らないという話から、取手に合唱団を作ったと聞き、私はまだアートプロジェクトが一体どういうものかよくわかっていないが、アートプロジェクトだけに関わらず何かを形に残すということは重要なことだと感じた。中島さんが行った「FMゆめ団地」のアートプロジェクトと新たに合唱団を作ったというのは、新たな地域のコミュニティを行う場を作ったということで意味があるものだと考える。
 次に、「Joyful Pojang-macha Project」について述べる。「Joyful Pojang-macha Project」とは、中島さんが2009年から2010年にかけて韓国の郊外型アーティストインレジデンスに参加し現地で滞在製作したプロジェクトである。中島さんがプロジェクトでゴミを使い屋台を作っていく中で、町の人のゴミを奪ってはいけないと話されていた。私は、この話を聞いたときプロジェクトを行う地域で何かを行うとき、その地域の人たちが普段している生活の日常を壊してはいけないといことは、大切なことなのではないかと思った。なぜなら、アートプロジェクトを行い地域の活性化に貢献しようとしても、もともとあった地域の人たちの生活の基盤を壊してしまったら何のためのアートプロジェクトかわからなくなってしまうからである。私は、中島さんの話を聞きアートプロジェクトは地域の人の歴史やら今の生活がどうなっているのかなど知ることが重要な意味があるころだと感じた

かたちに残らないを活動について
田中達也
 中島佑太さんの講義をきいて、特に印象に残ったのは88メガヘルツFMゆめ団地における活動と、韓国でのコミュニケーション活動、被災地に対するボランティア活動である。これらの活動を聞いて、アーティストに対する自分の考え方が変わったように思う。美的要素を追求して自らの作品を表現するアーティストが多く知られているなか、中島佑太さんは自ら地域と深く接することで、そこにある生のコミュニケーションや文化を感じ、それを生かすような活動をしている。そこにもともとある要素を繋いでまとめているような印象を受けた。建築においても同じように考えなければならないところがあると思った。
 インパクトと独特の世界観を感じた活動は88メガヘルツFMゆめ団地である。郊外にある団地の一画を舞台としてFMラジオ局を開設するものであり、団地内であることと周辺の住民が参加する方式により、その場所に特別な人間関係が生まれているのが写真からでも伝わってきた。井戸を囲みながら雑談する形式をとっているのもおもしろい。昔の井戸端会議を倣った形式であり、コミュニケーションの発生要因のひとつであったという考えによる。団地に住んでいるという距離感をもつ住民が、井戸を囲んで雑談をすることになったときに、どのような人間関係が生まれるかは興味深いと思った。家族がFM放送されていることを意識しながら井戸を囲んで家族会議するとき、全員敬語で話すようになったという。これはその場所にコミュニケーションの変化をもたらす何かがあるということは明らかである。空間を提案する建築家にとっても関心を抱く活動であると思う。
 一方韓国での活動では、移民労働者街における地域特性に対して積極的に働きかけているのを感じた。88メガヘルツFMゆめ団地とは異なり、場所や機会の提供ではなく自らが直接働きかけている。活動時間が限られていて言葉が通じない環境のなかでの活動であり、そこでどのようにコミュニケーションをとるかを模索し、地域の活動からそれを見出している。これは私たち建築学科の学生も見習うべき行動力だと思う。地域を客観的に調査することで終わらずに、自分がその中を体験することでみえてくるものがあって、そこから新しい提案が生まれるかもしれないからである。具体的には街中にあるゴミを採集して屋台としている。その完成した屋台が重要ではなく、それに至るまでの過程と結果的に生じたコミュニケーションなどが大切であることは間違いない。
 被災地に対する支援においても同じことがいえる。救援物資が入っているダンボールがあまりにも無表情であることに着目し、そこにやわらかいパステルカラーの絵を描いている。ダンボール自体はおそらく用が済んだら捨てられてしまうが、被災者の心が和めばその意味は大きい。
 中島佑太さんの講義をきいて、今まで私は形として残るものに執着しすぎていたように思う。設計課題などはできあがる建物とその空間、つかわれ方などが評価されるが、実務では完成までの過程も含めて評価されるのが当たり前である。今回の講義で今の段階からそのような現実的な視点にたつことの必要性を感じることができた。

沖田直也
 今回のレクチャーでは中島佑太さんの活動についての話であった。アーティストと言っても色々と種類があるわけだが、中島さんは「コミュニケーション・アート」を取り扱う人である。
 一つ目に取手アートプロジェクトにおいて、ミニラジオ局「FMゆめ団地」を立ち上げたことである。団地内の空き店舗を利用して行ったのであるが、コンセプトは「井戸端会議をラジオにのせる」であり、井戸を模したものを作って井戸端会議を行ってもらい、それをラジオに流すというものである。中島さんいわく、昔は井戸があって主婦が水を汲みに行くときにほかの家の主婦と鉢合わせになって井戸端会議になっていたが、蛇口から水が出る時代になると水を汲みに行く必要がなくなり、井戸端会議がなくなることによって(近所の)コミュニティーが希薄になってしまったというのではないかとのことである。
 二つ目は韓国で行われたアーティストレジデンスである。これはアーティストが制作作業に専念できるようなイベントである。ここでは韓国の屋台「ポジャンマチャ」を作ることであり、期間内(約一か月)に作ること以外は何をしてもいいというのである。中島さんはベニヤ板や木材などのゴミを拾って作ろうとしたが、ハングルが分からなかったようなのでコミュニケーションにはとても苦労したとのことである。それでも「敷居を下げて誰でも入れるようにする」という言葉の下、簡単に作れる構造にした上で、他のアーティストや現地の子どもと協力して制作し、ようやく完成にこぎつけたとのことである。
 三つ目は現在計画中の前橋市立美術館「アートスクール」である。コンセプトは「アーティストがアーティストとして働く美術館」であり、館員として働く傍らで、制作作業・発表をしていくということである。
 最後にこのレクチャー全体の感想であるが、作られた作品をアートとしてとらわれがちであるが、作品を制作していく中で生まれる会話もアートになるということについてはこの話を聞いて理解できたと思う。建築においても作品そのものが評価されることが多いが、制作する過程におけるエスキースも大事であり、もっと評価されるべきであると思った。また、自分はよくデザインフェスタギャラリー原宿に行くが、最近は作品を観ることより作品をつくったアーティストとの会話のほうが楽しみになってきている。これも一つのアートではないのだろうか。さらに、建築家は建てることに固執しがちであるが、別に建てる必要はないと思う。そもそも建築家は芸術家から派生したものであり、(ここで言う)アーティストと同じものであるからである。ただ建築家は作った実績が分かりやすい形で残るものであり、それがほかの人に利用されるものであるというアーティストとは違うところがある。これからの建築家は建築を建てるだけでなく、コミュニティーも形成するということも考えるべきなのだと思う。

穂積利宏  
 今回のレクチャーはコミュニティアーティスト中島佑太さんであった。前橋市を拠点に地域アートプロジェクトに携わることが多い中島さんは基本的にワークショップという、形には残らない形式で活動されている。
 最初の「FMゆめ団地」、これは1999年から取手市と取手市民、東京芸術大学の三者が共同でおこなっているアートプロジェクト「取手アートプロジェクト」の一つである。テーマは井戸端会議。1970年代、井戸の存在が徐々に無くなり、井戸端会議がなくなった。その結果、隣人同士の会話が減り、関係も希薄化してしまった。そこで、この流れを逆行させてみようという発想からこのプロジェクトが始まった。コンセプトは、「来てしゃべるラジオ」。クリーニング屋を改装して単純に井戸をつくってそこをラジオ局にするというものであった。ここでは、戦争体験、家族会議、合唱などの様々なアクティビティが行われた。同じ団地内でしか聞こえないミニFMの性質上、発信力が弱いという欠点はあるが、リスナーのイメージを持てるというメリットがあった。そのため家族会議では家族で話しているはずが、ここにはいない誰かに向けた言葉、丁寧語に置き換えてしゃべられた。また、ギターの音にのせて踊る女性がラジオ局にいるときは見物人が来ないといった、団地内の小さな社会問題を浮き彫りにするという結果にもつながった。
 次に2009年韓国で行われたプロジェクト、「JOYFUL pojangmacha project」についてであった。場所はソウルから電車で1時間ほどのところにあり、アジアのほぼ全域からの移民労働者が集まっている。中島さんはそこで「ゴミを拾って屋台(ポジャンマチャ)をつくる」ことにチャレンジした。韓国は決まったゴミ捨て場はなく、自然発生的に出来あがる。また、日本と「ゴミ」に対する感覚が異なり、捨てる人がいれば拾う人もいる。拾ってきてそのまま使ったり、修理して売るといったサイクルが出来ている。そのため、中島さんは本来ゴミを拾っている人の分を出来るだけ奪わないようにバランスをとった。また韓国語はほとんど使わなかったり、手伝ってくれる子供と遊んだりと、中島さんが作品ではなく、その過程を大事にしていることが伺える。それは中島さんの「地元民と作品の構想の共有する」という考えからきているようであった。
 次は前橋市立美術館についてであった。中島さんの故郷である前橋市には、県庁所在地として唯一、公共の美術館がなかった。そこで、アートコーディネーターの藤井博さんなどとこのプロジェクトに参加された。地方の芸術家はなかなかお金がない。週5、6日でバイトしながら制作し、都会の高額のギャラリーを借りて展示会をするというのが普通に見られる。そこで、地元のアーティストが仕事をしながら美術館を運営していくという形が考えられた。例としては、美術館のカフェでバイトをする。または企画展の設営などである。地方の芸大で勉強している友人を持つ私から見て、とても画期的で未来のある形に思われる。
 最後は「文化保護縫合プロジェクト」についてであった。今年の3月、日本を襲った大震災。今も避難所生活をされている方が多い。そのような被災者の方たちには自分のものというものがほとんどない。避難所にはまだまだ暗く重い空気が流れている。そんな空気、気持ちを少しでもやわらげようというものが「ハコビ」であった。たくさん被災地に届く救援物資の段ボール。その中身は暖かい気持ちでいっぱいのはずなのに、外見はどうもさみしい。そこで、アーティストによって、塩釜に届く救援物資の段ボールにパステルカラーで色をつけたのである。さらに被災して、いつまた津波が来るか分からない状況から展示物を守るという意味で、多くはビルドフルーガスのものであるが、そういった展示物を前橋に送り、さらに前橋で展示会を行ったのである。そのような活動が、前橋と塩釜の中長期的な地域間交流を促すきっかけとなった。
 今回の中島さんのレクチャーを通して、建築を勉強する身として再確認できたのは、「一人よがりにならない」ということである。カッコよくプレゼンするためにやたら難しい言葉を多用したり、設計作品の最初から最後まで自分の感覚でやることの虚しさ、愚かさである。そして、自分のやりたいものがどこにあるかがブレないようにすることである。良い建築、作品を造って、そこを利用する人が気持ちよく過ごせることが建築に携わる者としての使命であることを改めて痛感した。

ゼミナール | Posted by satohshinya at December 20, 2011 1:11


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