修士設計インデックス

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多摩ニュータウン縮小計画 -諏訪二丁目団地の再生を通して-
Revitalization Tama New Town - Restructuring the Public Housing in Suwa 2 chome -

概要:作りすぎた多摩ニュータウンのサイズを是正していく必要がある。問題が最も顕在化している諏訪二丁目にたつ既存の団地を残しながら、住棟同士をつなぐボリュームを付加することで、床面積と居住人口を増やす。郊外的な様々なスケール感を維持したまま、居住専用の団地から、居住空間の規模の中で達成できる機能が一体となった新しい団地を計画する。この提案が原型となり、駅前から高密度に建て替えていくことで、サイズを縮小できる。

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takamiya studio | ACTIVITY LOG
simon|修士Archives

中国でニュータウンの団地の設計にも携わっています。旧市街地の成長が成熟期に突入し、今後の都市の成長のため、ニュータウンが必要とされています。中国におけるニュータウンのロールモデルは未だ見つかっていないため、成熟した日本が経験してきた思考を、今中国でどのように関われるか真剣に考える機会が今まさにここにあります。

建築, new town, portfolio | Posted by at December 17, 2006 17:30

カルクヤバイ

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つくりすぎた「多摩ニュータウンのサイズ」を是正していく流れの中、近隣住区をもとにした「日常生活の単位」では、住みこなせない現状を考慮し、建て替えが始まろうとする諏訪二丁目にたつ団地を残しながら、「郊外的なスケール」感を維持するために、既存と同じ高さに見えるボリュームを住棟間にアディションすることで、床面積を増やし、生活の密度を獲得する。あたらしい団地に内包される機能は、居住と「居住空間の大きさのなかで達成できる規模の機能」が一体となったものとなる。

「サイズ」実人口19万人(計画31万人)売れ残った土地244ha/2900ha
「単位」日常生活の単位は、1住区=100haと設定され、その中に一カ所だけある近隣センター以外は居住専用団地と決められている。その近隣センターの衰退が著しい。加えて、初期の開発地域では人口が減り始めている。
「スケール」05年に全体の調整役であった都と旧公団が新規開発から撤退。投機的な中高層マンションが乱立し始めている。低密度に建てられた団地が残している、中庭や自然との近接は五層の高さだからだと考えている。
「機能」NPO支援、児童館、商店、SOHO、スタジオ、ケアサービスなど

サッポロslimsのCMで使われている曲がiTunes Music Storeで買えるようになった。
paparuwa
アーティスト Fantastic Plastic Machine
アルバム imaginations

いつも、髪を切ってくれているサロンの佐藤さんのブログ
ぼくの髪の毛はだいぶやばい伸びてるので、そろそろ行くか。

カルクヤバイくらいがちょうどいい。

遺構, 建築, new town | Posted by at February 23, 2006 22:25 | Comments (2)

プロジェクトの強度が決定する瞬間

以下は、下書き。痕跡。四枚稿を機会を見てアップします。

多摩ニュータウン縮小計画
ー諏訪2丁目団地の再生を通してー


プロローグ・「背景」
縮小と言っても、まちの魅力を目減りさせることを目的としたものではない。

人口減少時代に突入する岐路にあって、従来的な「人口の増加」と「経済の増進(地価の高騰)」という前提は崩壊した。また、街を構成する建築は、ハードウェアではなく、ソフトの問題によって、たった30年で滅失期間をむかえている。現在まで、適切な空間の大量供給とその統合を可能にしてきた「機能」=「空間」という真理が欺瞞にすり替わってしまったと言えよう。すなわち、まちに投資する理由も、構築するすべをも失っている状況にある。しかし裏を返せば、新しい前提にたって、誘導力のある建築を目指すことが可能な時機と言えはしないか。

参照:社会資本整備審議会住宅宅地分科会 基本制度部会報告案参考資料 資料12 滅失住宅の平均築後経過年数によると、滅失期間は31年。諏訪2丁目団地は入居から35年経過、88年から建替え運動の継続。

第一幕・建築がひらいていく流れ=「ストーリー」
「新しい建築型」が、「多摩ニュータウン」と「住まい手」を「なめらか」につなぐ。

01・「新しい建築型」の必要性
開発主体であった都と公団の撤退により、全体を調整する視点を持たない民による投機的な開発の本格化や、住民主体による建て替え運動がなかなか実を結ばないことから、郊外のスケール感をキープしたまま街を改善していく「共有できる凡例」=「新しい建築型」を必要としているという仮説は有効と考える。

02・「多摩ニュータウン」にとっての障害
31万人サイズの街であるが、実際は19万人にとどまっている。学校の廃校が進み、増加する遊休地。初期投資を回収出来ないうえに、維持管理が膨らむ一方である状況から、適正なサイズに制御することが必要。

03・「住まい手」にとってのバリア
多摩ニュータウンにおける3DK・近隣住区は、未開の地をを開くための単位であったが、家族という関係を象徴したモデルともいえるnLDKという、規範から逸脱した空間の使いこなしを受けいれない3DKや、近隣住区のシンボル的な存在である近隣センターの衰退という現状が、単位の解体を要求している。また、3DKと近隣センターは、多摩ニュータウン全体に通じる単位でもある。

04・「なめらか(Flux)」という概念
切れていた・切れてしまった関係をつないでいくこと

まちを展開していくには、運営主体が必要。従来は、公(施行する/従う)や民(生産者/消費者)というような二項対立的なものでしかなかった。
地域レベルの人口動態や開発主体の傾向の情報を集約し、公開しているのは多摩のNPOである。また、多摩に建つ大学が学術的な視点からのサポートを試みている。隔たりを埋めていく主体が定着しつつあると言える。それらがサポートする問題は日常から制度の調整まで、幅広く期待されている。その層を社会学的には中間集団と呼ぶ。そのような背景が加速し、空間や街への欲求が高まり、住まい手(空間の使い手)による空間のカスタマイズ。その集積といった相乗効果が生まれ、街と住まい手の関係がつながっていく。建築は従来的に、そこにある状況をつないで、新しい関係を生むことを試みてきた側面を持つ、その性質を「多摩ニュータウン」と「住まい手」の距離にまで拡張し、切れてしまっている関係を「なめらか」につなぐことをインテンションとしたデザインを試みる。

参照:ised@glocom - ised議事録 - 1. 設計研第5回: 近藤淳也 なめらかな会社

第二部・問題の解決と誘導を見据えた統合=「デザイン」
「新しい建築型」を構成する要素。

01・郊外の制御
人の集まり具合を高める。街のユーザビリティの低い地域を自然に還す(経済の枠組みを一旦はずす)。

02・ランドスケープの調停
地形を整地し、南北もつなぐ。ポジティブスペース(中庭)を挿入。

03・なめらかな構造
ケとハレの演出。(襞を内包した構造体である壁によって分断された手前空間と奥が、一体的にも、身体を切り替えるようにも、使い手によって見いだしていける空間)

エピローグ・「要望」
完成した建築が具体的にどのような場を実現しているか。

01・コミュニティの再生
「多摩ニュータウン・住まい手(空間の使い手)」それらの隔たりを充填していく中間集団の存在が強化されていく風土の実現。

02・都市の理想
郊外は都市の周縁として立地しているが、急激な人口増加を背景にした乱造を制御するために、都や公団が調整、開発を行ってきた。その資産として、土地が個人に帰着していない環境が自然に生まれている。
ニュータウンは都市の理想を具現化する流れにたち、誕生したが、都市における個別の建て込みが強化されるまちづくりを解放する「大きな建築型」となる可能性を持つ。

建築, new town | Posted by at February 7, 2006 5:40

未開の地を開く単位

提案力と実現力のバランスを大事にしたい。
プロジェクトを組み立てるとき。可能性を感じる仮説をたて、あくまでも予測可能な範囲を手探りで進んでいく。今回、郊外を選択したのは、やはり「場所を取り囲む環境がある程度単純化されている状況」によりかかったという点。スタートは間違っていなかった。都市で、ある程度ハンドリング可能なプロジェクトを組み立てるにはあまりにも解きほぐすべき状況が多すぎる。裏を返せば、自分のスキルが足りない。それほど現実は複雑で、自分の予測可能な範囲を大きく逸脱している。OMA的にかっこよく言えば、もしかしたら(状況を逆手にとって新しい地平を敷衍する)波乗りサーファーにはなれるかもしれないけど。自分にとって、そこに達成感があるかが。疑問だった。解釈者にはなれるかもしれないけど、実践者になれるか?ということだ。

で、単位の話。山を切り開くには、勇気が必要だった。山肌が見えるまで削りだし、そこで征服感があったかというと、きっとそうではない。とても不安だったはずだ。現に、今の多摩ニュータウンは木が生えすぎている。反動で植えまくったのだ。不安な中、多くのエネルギーを誘導するために、共有できる話題、キーワードがあった。迷ったらそこに戻る的な。歴史のある側面を振り返れば、都市や建築は、機能によって分化した空間の接続や切断の手段を選択することで、適切な単位(空間)の大量供給とその統合を可能にしてきたと言える。多摩ニュータウンにおける「近隣住区」や「3DK」も、未開の地をを開くための単位、話題になるキーワードだったのだ。しかしその近隣住区のシンボル的な存在である近隣センターが衰退し、コミュニティをアフォードしたかった当時の目論みは崩壊した。続けて、山本理顕に「問題はそのLDKモデルが家族という関係を象徴するモデルになっているということだ。現実の日本の家族はとっくにLDKモデルが象徴するような規範からは離れてしまっているのに、それでも住宅をつくるときにはその規範に拘束される。だから依然として日本ではLDKモデルがつくり続けられている(source)」とまでいわしめた、3DKいわゆるnLDKの呪縛は超えたい。この「近隣住区が生んだ近隣センター」と「nLDKと接点のある3DK」は、いまや形骸化し、この単位の解体を提案してこそ、実現したい街になるのではないかと、ずっと妄想してきた。

明日、タイトルと副題の締め切り。英語のタイトルもつけなきゃならんと言うことで、頭の整理。
・効率化やエコロジカルという建前、楽しい日常生活へ向かう本質
・危機迫るひろく社会に通じる話題/問題を解決する具体的な切り口
・多摩ニュータウンのスケール感をキープしたまま、より都市的な街を目指す手がかり(設計)の一つ
緻密さと大胆さが共存している(はずだ)こんなテンションをタイトルと副題で表現してみよう。

多摩ニュータウン縮小計画
ー諏訪2丁目団地の再生を通してー

Revitalization Tama New Town
- Restructuring the Public Housing in Suwa 2 chome -

mtg-nt.jpg

設計の方向性が間違っていないか最後の確認。多摩ニュータウンを開発したエネルギーはすさまじいことがよくわかった。限られたリソースの中で、最大限に誰にもうれしい日常生活を夢に抱き、街を作ってきたこともわかった。そして、(作りすぎた、人口が減ってきたといった)今の状況を誰もが望み誘導したわけでないこともわかった。

あぁ思い出すなぁ、うろうろと歩いていたら駅からかなり遠いところへ行ってしまい、急にトイレに行きたくなって、エヴァのシンジくんばりに(あくまで心の中で)うゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁー。と叫びながら、駅に向かって走ったことを。コンビニくらいあったって良いのに。と、まじで思った。厳密に言うと近隣公園と近隣センターに行けば公衆トイレもしくは、店のトイレはあるけど…。

途中経過はなんだかまずかったけど。破綻、炎上しながら前に進むタイプとおもっている。人にやさしいホリエモン。中国に謙虚な小泉さん。あはっ。壊

建築, new town | Posted by at February 2, 2006 23:35 | TrackBack (0)

なぜ人口は減り始めたのか?

始めて男性の人口が減る
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いままで当然増加していた街から、人が引き始める反動となった原因を知りたい。まずは原因と結果の関係を、手段と目的の関係に置き換えることで問題解決の方法をさぐってみるもの。多摩NTは国策という使命のもと生まれたと言って過言ではない。その重みは社会学、建築学、都市計画学、民間のシンクタンク。それらの分析や言及の量からだけでも十分に察することができる。しかし、どれも人口減少の理由に挙げているのは、ステレオタイプのご託と言わざる得ない。狭隘・老朽化。モータリゼーションによる近隣センターの衰退。高齢者施設の不在。加齢に対応していないバリア。どれも多摩NTの特異性に触れず、どこの街でも起こっていそうな問題ばかりである。

おそらく、個別に対応しても、NTの構造を奮わせるせるようなことには成らないだろうという勘を働かせ。ハワードの近隣住区論を読みかえて構成した街の構造が破綻している。という仮説をたててみる。住区論にもとづき構成された近代的な街並みは始め人気が高く、うまくいっていた。変容をもたらしたのは、自家用車の普及と言えるのではないだろうか。当初は、ホワイトカラーの人々が終電間際に襲来し、闇タクでなんとか家にたどりついたというような時代の中で、NT作りは始まっている。自然との近接というコンセプトのもと容積率は50%まで抑えられ、団地と団地の間の緑地は子供の遊び場になっていた。次第に、足の不便を改善したい欲求が高まり、高度経済に支えられた所得の増加という社会の波にのって、一家に一台という時代が到来し、団地と団地の間はすべて駐車場へ変容し、駅まで自家用車で送り迎えするのが当たり前になっていった。ここからは、想像通り、車に目をつけたターミナル型の大型店舗の成功によって、近隣センターの衰退が始まり、車が扱えないと生活が充足できない街へ成り行きで変容し、住区論の夢はくずれた。この例はネガティブな変容ではあるが、そういう簡単なきっかけにのって街の構造を同時にかえていくというのがいいな。

車が扱えないと生活が充足できない街というのは、街に適応できる生活者の選択肢をせばめている。改善する余地がある。車を使わなくても生活が出来る。すなわち、歩いて生活出来るようになるには、効率的な「密度」によって解決できないだろうか。この仮説を解いていく具体的なパーツをまずは探す。現在、狭隘と老朽化にともない具体的な動きとなっている永山駅前の諏訪二丁目団地の建て替え計画が挙げられる。そこで「一団地規制を解体し、容積率を150%まであげ、土地を余剰させコストを捻出する」ということが決まっている。これから想定可能なのは駅前に三倍の人が住めるようになること。狭隘と老朽化に伴う建て替えによって、同じ土地に密度を獲得することができる。NTは、同時に造られていることから、同じ問題を地域全体で抱えており、建て替えの促進につながる。駅前の6.4haに三倍の人が住めるようになれば、現在の地域面積は三分の一で事足りることになる。建て替えというきっかけによって、街に効率的な密度をもたらし、同時に街の骨格をかえていくことは可能ではないだろうか。

一旦街を縮小し、同時に近隣住区論によりそった街の骨格を解体する。こういうテンションでいきたい。

new town | Posted by at August 1, 2005 11:02 | TrackBack (0)

都市的な快楽を顕在化した建築

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ニュータウンに漂う均質な空気の、反動となるようなプログラムを抱え込んだ施設。

多摩に何を期待しているのか。
どこから引き金をひいても、問題が複雑すぎて、自分の思惑だけでは、単調な情報整理を突き抜けにくいという、課題をこなすなかでの経験から、今回は問題を整理しやすい場所によりかかりたいと思った。
そこで、ニュータウンと呼ばれるような都市計画学的に優等生である、構造が単純化されている街で、分かりやすく分析したいという、きっかけに乗ることにした。
20世紀の右肩上がりの成長から発生した、国家や企業と個人の間にある隔たりをうめていくこと(うめたことで、主体がひっくりかえってもいいという夢)が、現代的で包括的なテーマになるはず。
人口や経済の縮小や、エコロジーなど、今までの創意が否定されかねない大きな問題の中で、夢のある快楽に浸ることが悦びであることは変わらない。
僕の興味は、特定した場所を持たないネットワーク型コミュニティ(NPOやサークル、町内会、ボランティア、時には家族)。国家と個人の隔たりを顕在化させることにあるようだ。
多摩NTでは、都や公団(現 UR都市機構)と、もはや35年経ち新住民を超えた住人との間の存在がプロジェクトの主体になりそうだ。

場所:多摩市永山
用途:商業施設
竣工:92年12月
設計:八代市立博物館と同じ

new town | Posted by at July 15, 2005 9:57 | Comments (2) | TrackBack (0)

多摩ニュータウンで何が可能か

場所
南西を向いて撮影

個人的な事情ではあるが、修士設計の対象を多摩NTとしている。税金による穴埋め問題からもわかるように、人口と経済の増大という前提が崩れ、つじつま合わせがうまくないのは確かなようだ。初期の開発地域における人口の減少、小学校の閉鎖、写真のような近隣センターの衰退。といった話題がNTに暗い影を落としている。当然、地価上昇による利益が見込めない昨今、事業主体である都や公団は、既に新規事業を停止している。今日的な問題として、人口の減少と少子高齢化が叫ばれ、人口と経済の縮小という前提での新たな近代化を歩まなくてはならない。さてどうする。打つ手はないのか。

上記の写真は、日常の中の狂気たりえているだろうか。右に傾いて見える鉄塔。すぱっと切り取られたようにみえる左奥の団地。形態は違えど、均等配置に見える奥の三つの団地。異様に際だって見える化粧品の看板。妙に小さく見える人。種明かしをする。合成はしていない。わずかに右回転しているだけ。写っている近隣センターというのは、用意された一番小さい単位の商店街。一番大きいのが多摩センター。100haと広範に展開する住区の中で、徒歩で日常生活の充足をはかる目的でつくられた。写真の手前の諏訪住区と奥の永山住区をブリッジでつなぎ、谷を走る道路をまたいでいる。地形を利用して、歩車分離が図られている。ヒルベルザイマーの垂直都市のようだ。

丘陵地を削りだして出来た多摩NTは、幹線道路や鉄道が走る谷間を軸とした、21の住区をリニアに並べた形式となっている。都心に近い西部の住区から開発が行われ、71年に入居を始めている。初期設定ではベッドタウン(BedroomTown)として計画されたものの、現在まで段階的に開発した結果、時代の潮流を受け、計画を変更しながら行っている経緯がある。

バリエーション豊かな形態から、均質化への抵抗(もしくは努力)がみれる。
北を向いて撮影北東を見上げて撮影
北東を見下げて撮影
これらの団地は、開発の旗手となった永山住区のものだ。写真にうつるものは、EV塔がついていたり、10層以上であったり、ハイツと呼ばれる家型のものであったりする。住区の中では新しいタイプである。

new town | Posted by at June 13, 2005 2:39 | TrackBack (0)