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TOKYO FILMeX 2004

 11月27日に東京フィルメックス2004へ行って来ました。
 一昨年は『CUT』編集者さんからの招待で『カクト』、『アカルイミライ』を観て、去年は都合がつかなかったので1本も観れず、今年はCS放送のムービープラスさんからの招待でイランの映画『Stray Dogs』とイスラエル/フランスの映画『Promised Land』を観てきました。今年のフィルメックスは民族問題とか、地域社会の問題にスポットを当てた作品が多かったような気がします。日本の作品が少なくて残念。

 まず『Stray Dogs(原題)』
 Stray Dogsというのは文字どおり「迷子の犬たち」という意味なんですが、この作品に犬は1匹しか出てこないんですね(たくさん出てくるシーンもあるけど)。その1匹のマルチーズを幼い兄妹が救うところから物語が始まるんですが、ようするにその兄妹も両親がそれぞれ刑務所に入ってて、夜寝る場所の確保すらままならないStray Dogsなわけで。かなりわかりやすい、かつベタすぎる物語なんだけど、兄妹のどこか愛らしい、子供特有のポジティヴな妄想みたいのがうまく描かれていて、悲壮感が少々薄れていたのが良かったです。生活は切迫してるんだけど、どこかのほほんとしてる兄妹に、まわりの大人たちも知らず知らず丸め込まれる様子とかが鮮やかだった。

 というのもこの兄妹の表情がすごくイイんですね。優しくて頼りになるんだけど、たまにドジを踏むお兄ちゃんと、いつもムスッと勝気な表情でお兄ちゃんのあとをついていく妹(マルチーズを常に抱っこしたりおんぶしてたりして大変そう。歩かせればいいのに、子供ってこういうところあるんだよなあ……と思うところも演出の力だと思う)。そして超マイペースなマルチーズ。
 描かれている世界はかなり深刻で、実際にいまのカブールはこういった子供たちがたくさんいるんだろうなと気分が重くなるけど、この兄妹の逞しく生きていく姿でなんとか持ちこたえました。

 次に『Promised Land』
 これはもう重すぎてたまんなかったです。序盤から酷すぎる。ピラミッド見学ツアーに行くはずだった東欧の女の子のグループが、騙されて人身売買ネットワークの組織に売られてしまう。「ピラミッド見学ツアーなのに、なんか様子がおかしいわよね」なんて言ってたら、あっという間に見知らぬ地へ連れて行かれ、モノとしてオークションにかけられて方々へ売られていく彼女たち。自分たちが国境を越えてイスラエルに渡ってきたことも知らず、人間からモノへ、身も心も変わっていくことを静かに受け入れるしか生きていく道がないということを悟るのに、そんなに時間はかからないんだなというのが衝撃でした。

 手持ちカメラや自然照明が多様されていたせいで、ドキュメンタリー性がぐっと高まり、本当に恐かった。『モンスター』のときも書いたけど、これは女性が観るほうがキツイと思います。どうしても生物のつくりとして“受身”にしかなり得ない女性にとっては辛すぎる。というか、この作品にかぎっては、ものすごい不快感がありました。
 でもこれは半分ドキュメンタリーなので、実際にこういう手口の人身売買ネットワークがあるということにまた驚かされます。うかうか海外旅行できないじゃん! みたいな。娼婦として売られてきた女の子たちにお化粧をする役のハンナ・シグラが出てくるシーンだけは、少しだけ救いがあったような気がする。

 けど、本当にショッキングで不快極まりない作品でした。とはいえ、これは観たほうがいいと思う。配給会社が決まってないので日本で公開するかどうか分からないらしいですけど。監督のインタビューはこちら


 ちなみに明日から1週間ほどハワイに行ってきます。兄の挙式で。兄も彼女もバリバリの日本人ですけど。

ちーねま | Posted by at 11 29, 2004 17:57 | TrackBack (0)

室伏鴻「始原児」

 昨日は麻布die pratzeで室伏鴻ユニットの『Experimental Body』Vol.2「始原児」を観てきました。ご存知のとおり、室伏鴻氏は土方巽に師事していた方ですね。
 今回は室伏鴻氏が振付、構成、演出を手がけ、若手の男性のダンサー3名(目黒大路、鈴木ユキオ、林貞之)がメインで踊り、途中で室伏鴻がソロで踊るというもの。

 パンフレットに書いてあった今回の公演の文章が非常に良かったので全文掲載。


「始原児」

 舞という字は美しい。歩いていると看板に「舞」と書かれていたりして振り向けばバーのネオンだったり、扉を開ければ舞なんて彼・彼女がいたりしたが……舞さんと舞い上がれば必ず墜落や転落があるからカラダにいくつ裏表があっても不足、で、出口と入口のあたりで踏み迷って舞−踏になった……踏み外してダンスだ。
間のハイフンにはなにかあるのか?なーんにもない。ただハイフン、舞い上がらずとも宙吊りのカラダの孤独に見舞われる<間>があるというわけだ。暁には墜落があり、着水がある。

 ……神話的なイメージを反復したいわけではない。昨日置き忘れた記憶をいくら探ぐってもモノは出てこない。思い出そうとして悪戦する現在があるだけだ。わたしたちの、種族の根源のようなところにまでバンジー・ジャンプできたら、できるかもしれない、踊りでそれが出来るかもしれない、って言ってるひとがいたけど、無−起源の無限の飛翔、場所なき場所の孤独の反復があるだけだ。

 忘れた乙女の歩行を憶い出す、童貞の歩行が炸裂する。忘却が捩れ、喉も砕けて声が出ない。「出来あがらない」ための、これからがステージ。函とロープを用意した。そしてジョン・レノンも。

室伏鴻


 素晴らしかったです。ものすごい興奮しました。

 まず幕が開けて、真っ暗なステージにスポットライトが3つ点り、天井からロープで逆さ吊りされてる、黒い下着だけを身につけた3名の男性ダンサーをそれぞれが照らし出してるところでグッとくる。その肉体たるや、驚きますね。ダンサーの筋肉のつき方は本当に素晴らしい。宙吊りから舞踏に入るときの、筋肉のひそやかな、かつ脈々とした流れが、スポットの照明であらわになっててもうその時点から大興奮。
 途中、再び真っ暗になって、3人のダンサーの床を這う音と息遣いしか聞こえないところがあるんですが、それでもその音を伝って、動きが鮮明にイメージされるのは面白いなあと思いました。にしても、土方巽系列の舞踏って、筋力とバランス感が秀でてる気がします(他はあんまり知らないけど)。腕をひとつ動かすにも、ものすごい時間をかけて少しずつ筋肉の収縮を移動させていくというか、そういう踊り方なので、裸体とスポット照明がいちばん効果的。だと思う。

 室伏鴻のソロは時間が短くてちょっと残念だったけど、ものすごく力強いうえに気品溢れてて、それでいてエロで、かなり集中して観る。筋肉の少しの動きも洩らさないように、そのカラダの隅々までなめまわすように観る(笑)。『土方巽 夏の嵐』で観た土方巽の舞踏は、古い映像だったうえにカラダに布とか巻いていたので、ちょっとぼやけたイメージしかなかったんだけど、実際の筋肉のカンジはどうだったんだろ。室伏鴻のカラダは完成されすぎてる気もするかなあと。もう少し貧弱なカラダだったらもっと切実になるような気がしました。でも彼のステージは切実さを求めるものではないと思うので、ひたすら美しいってことでいいのかも。

 全体を通した印象は……「生命体」でした。わりと深いところまで生命体について問われたカンジで。かといって、1時間半強の公演をぶっ通しで真顔で観るってわけでもなく、笑いもあったりして、最後はすごいハッピーな気持ちになる演出もあり(途中はなんだかものすごい不安になったりしたけど。恐怖感とかで)、暗黒舞踏みたいな怪しさはないモダンなステージでした(ちなみに室伏鴻はほぼ前張りみたいなふんどしみたいな下着に、全身銀粉を塗ったくっていました)。

 ともあれ、室伏鴻はクセになりそう。ちなみに外国人のお客さんが多かったです。


 えーと、関係ないけど今日は三島由紀夫の命日です。

行ってきました♪ | Posted by at 11 25, 2004 17:32 | Comments (3) | TrackBack (0)

『モンスター』

 昨日、渋谷シネマライズで『モンスター』を観てきました。フロリダに実在した連続殺人犯、アイリーン・ウォーノスのドキュメンタリー映画で、主演のシャーリーズ・セロンがこの映画のために13キロの増量をしたのとブサイクメイクで話題を呼び、アカデミー賞主演女優賞とゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞した作品ですね。

 いやー、すごかった。そして重かった(特に女性が観るほうがキツイと思う。どうしても生物のつくりとして“受身”にしかなり得ない女性にとってはかなりキツイ)。

 なんといってもシャーリーズ・セロンの徹底した役作りっぷりが圧巻。シャーリーズ・セロンだっていうことを知らないでこの映画を観たら、絶対にわからない変身ぶりです。容姿もさることながら、佇まいとか、英語の訛りとか、もう本当にスゴイ。口をあんぐり開けてしまうくらいに。相方のクリスティーナ・リッチも相変わらず凄まじい演技力で、目つきなんて本気でレズビアンでしたよ。このふたりの渾身の演技(とはいえ、演じすぎてないところがまたスゴイ。事実を丁寧にトレースしてるんだろうなという印象)が、この作品がドキュメンタリーであるという事実を、映画が始まった瞬間から終わる瞬間まで強烈に提示してくるので、もうなんか本当に重くて重くて、その圧迫感で吐きそうになりました。

 不遇な家庭に生まれ、生きていくためには娼婦として道に立たなくてはいけなかったアイリーンが、自分を愛してくれる存在に出会い、自分にエクスキューズを無理矢理つけて殺人を犯してしまう事実。女を買うような男は殺してもいいという自分に対してのエクスキューズは最後の最後で彼女を押し潰し、本当は人を殺めることは絶対にしてはいけないとわかっていたんだけれどと恋人に許しを請う姿は、もうなんていうか、私のなかでの道徳観やら善悪の概念やらを根本から揺さぶってきて、映画が終わった時点で少しパニック状態に陥りました。
 で、昨日からずっとそのことについて考えていて、結局その善悪とか道徳とか倫理とかについての結論は出てないんですが(むしろ考えれば考えるほど精神が掻き乱されてパニクる)、文明を持つほどに進化してしまった人間には教育が必要なんだなということは痛感しました。

 アイリーンみたいな境遇の女性が生きていくためには本当に売春しかなかったんだろうか。なぜ売春しか手段がないのか。これは単に教育を受けていないために最低限の教養がなかったというだけだと思う。実際に映画の中でもアイリーンがカタギになろうと就職活動を試みるも、教養がまったくない彼女にはできる仕事がないんですね。
 識字率が80%にも満たないアメリカ(ちなみに日本はほぼ100%、キューバは97%)の社会構造が生んでる現実は本当に悲惨で、実際にアイリーンみたいな女性はたくさんいると思う。先日のアメリカ合衆国大統領選挙の開票結果でもあきらかなように、貧困の差と同じくらい知的レベルの格差が生じていて、そのために人権までもが侵されているわけですねアメリカは(よその国にかまってるヒマはないと思うんですけどね)。
 で、最近の日本で起こっている事件をみると、どうしても似たような印象があって。なんていうか、あまりにも安易な殺人とか幼児虐待が多すぎて、そしてその事件が起こった近辺の人間のインタビューとかを見ると、どうしても無知というか知的レベルの低さを感じずにはいられないんですね。なんとなく日本も物質社会に起こり得る知的レベルの格差が出てきてるんじゃないかと。目に見えないスラム化みたいな。それが非常に心配です。

 ……えーと、話がまたカオス状態になってきそうなんでまとめると……国民には“読み・書き・計算・タイピング”は最低限義務付けること! そして男子にはマスターベーションの仕方も教える! (と、買春が減るかなあ〜と思ったんですケド)

ちーねま | Posted by at 11 18, 2004 18:03 | TrackBack (0)