キム・ドンウォン『送還日記』

 先月中旬に、これもずっと観たかった『送還日記』を観ました。渋谷シネアミューズにて(観客は20人もいませんでした……)。これはもう公開前……っていうか、1年くらい前から森達也さん綿井健陽さんがオススメしまくっていたもので、おふたりは2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で観て衝撃を受けまくった、という作品。

 実際に自分で足を運んで観るのがいちばん早いと思うので色々と書きませんが、これはひとりでも多くの人に観てほしい作品。全然理解が出来ないこともたくさんあるけれど、あらゆる立場、運命、生活に翻弄された人々ひとりひとりのドキュメントが凝縮されている。北のスパイの非転向長期囚、南出身でアカの活動家として収容された非転向長期囚、北のスパイで収容所の拷問に耐えられなくて転向した人、柔和な人、頑固者、陽気にふるまう人……同じ“長期囚”で括られていても、それぞれが少しずつ違った感情で祖国統一のために運動していた。

 まあでも圧倒的に頑固者が多いですよね。私は塩見孝也氏のマルクス・レーニン主義弾丸トークに慣れているので、みんな塩見さんに見えました(笑)。これだけ大勢で議論し出すと、まわりの人はうっとおしくて面倒だろうなあとは思いますが、彼らはそれに人生かけちゃったわけで。そのことにまず圧倒される。

 あと、このキム・ドンウォンという監督はとっても正直だなあと思いました。思いっきり自分も物語の渦に巻き込まれてるというのを自覚し(むしろ自ら飛び込んでいった)、それを自分の口から明言もし、翻弄されたり感動したりしてた。それはドキュメンタリー映画として非常に危うい歩みなんだけど、その監督の姿こそが、緊張感あふれる全編を通して唯一ホッとするような、ちょっぴり温かいものがあって好印象。そこがこの作品の救いにもなってるような気がします。まあ複雑な部分もあるにしろ。

 映画パンフレットにも書かれているんですが、森達也さんが山ドキで『A』を上映した後、キム監督が寄ってきて、オウム信者に対して公安が転び公防(ようするに不当逮捕)をかけた瞬間をビデオに撮っていながら、なぜそれを証拠として警察に提出するのをためらったんだ、と聞いてきたそうです。森さんは『A』を撮るときに、できるだけ中立な立場(主観/客観うんぬんは置いておいて)にいようと決心していて、証拠としてVTRを提出するとオウム側に寄ってしまうことになり、作品として成り立たないと判断してためらっていたんですね(結局出したけど)。

 そこがキム監督と圧倒的に違うところで。しかもキム監督がそういう質問をした理由が、この作品を観ると完全に理解できました。なるべく中立であろうとした『A』の森さん、中立であろうとしたけど完全に巻き込まれて引っ掻き回してしまった『スティーヴィー』の監督、そして最初から自分の思い丸出しで飛び込んでいった『送還日記』のキム監督。どれがいちばん“ドキュメント”かと言うと、この『送還日記』じゃないかなあと私は思いました。

 と、長くなりましたがとにかく『送還日記』は必見。『スティーヴィー』といい『送還日記』といい、今年はいいドキュメンタリーが映画館で観れて嬉しいです。つーか、山ドキ行けばいいのか。今年こそ行きたいけど無理かなあ……。

ちーねま | Posted by at 4 5, 2006 17:34 | TrackBack (0)

スティーヴ・ジェイムス『スティーヴィ-』

 先月のあたまに、ずっと観たかったスティーヴ・ジェイムス監督『スティーヴィ-』(2003年山形国際ドキュメンタリー最優秀賞)を観てきました。ポレポレ東中野にて。観客は私を入れて9人……。あらすじは公式サイトで見てみて下さい。

 いやあ……まいりました。突きつけられた。なんていうか……タイヘンです。

 アメリカの貧しい田舎町のドキュメントなので、最初はもうなんか登場人物たちの発言の無知さ、無教養さに呆れ返っていたんですけどね。家庭不和や幼児虐待、軽犯罪などの根源というのは「無知だからでしょ。きちんとした教育を与えればマシになるだろうが」と思いながら観ていて。

 たとえば(以下、ネタバレ)。

 スティーヴィーの彼女が身体障害者で、その母親は娘がスティーヴィーと付き合うのをヨシとしてないんですね。で、娘の前で「こういう子供だから、そりゃ(結婚相手を探すのに)妥協もするけど、さすがに彼はねえ……」みたいなことを平気で言うんですよ。なにそれ! っていう。この母親の馬鹿さというか、配慮のなさ加減とかって何から来てるんだろうと。生活に困窮していて、障害者である娘(とはいえ、スティーヴィーの彼女は軽度の障害だと思う。聡明だし、前向きな子です)を抱え、必死に生きてきたとしても……これはナイだろうと。

 スティーヴィーが小さい頃、酒に溺れて子供を虐待しまくってた母親が今になってキリスト教の教会に通ってるんだけど、その教会っていうのがものすごく胡散臭いのです。神父の説教もマイクで絶叫、みたいな。「アーメン!」「わー!」みたいな。教会に通っておけば死んだらみんな神の御許に行けて救われますっ! みたいな。で、みんな本気で信じてる(ま、多かれ少なかれ宗教っていうものは選民意識の塊みたいなもんですけど)。それまで教会なんかに行ったことがないスティーヴィーなのに、簡単に洗礼させちゃって(普通、幼児洗礼以外でカトリックの洗礼を受けるときはかなり勉強しないといけないですよね)、「今日からあなたは生まれ変わります!」「わー!」「おー!」「アーメン!」と絶叫、みたいな。

 そんな具合にドキュメンタリーは進むので、「こりゃアメリカ中西部にいるキリスト教原理主義のブッシュ信者たちと同じだな。無知だから貧しくて、それを自覚してないんだから良くなるわけないじゃん。この監督も無責任だなあ」なんて半ばウンザリしながら観ていたんだけど、ドキュメンタリーが進行していく中でのスティーヴィーの言動、表情、そしてスティーヴィーの彼女の言葉などがチクリチクリと突き刺さってきて、「どんなにいかがわしくても、スティーヴィーはこんな瞳で神父を見つめてて、救済されてるんだ……これが事実だし、真実だよなあ」と、なんかもう切ないし息苦しいしで大変でした。

 はっきり言ってこの映画監督のスタンスには疑問もあるし、スティーヴィーを取り巻く人間たちにもまったく同情は出来ない。それぞれが圧倒的に“人間”で、常に身勝手だし、偽善的な部分もあからさまだし、ものすごい揺らいでいる。「オマエたちこそが加害者だろうが!」と言ってやりたいくらいなんだけど、これこそがドキュメンタリーだなあと。私だって彼らと同じく、モロに“人間”で、身勝手で、偽善的な部分もあって、ものすごく揺らいでいる。
 そのなかでスティーヴィーとその彼女だけが、非常に純粋だったのがもう切なくてたまらなかった。特にスティーヴィーの純粋さ、というか、不憫さは痛々しすぎて悲しくなる。なんで彼はもうちょっと“人間”らしく生きられなかったのか。10年前にビッグ・ブラザーだったこの映画監督が去っていったときも、最初の里親が去っていったときも、「(仕事の都合で去っていくのだから)しょうがない。仕事だから」と寂しく受け入れるスティーヴィーの気遣いと優しさ。スティーヴィーが犯した犯罪の被害者(の母)である叔母を、スティーヴィーにナイショでインタビューしていた映画監督を寂しそうに「別に怒ってないよ」と受け入れるスティーヴィー。

 まわりの偽善がどれだけ彼を傷つけたか、よく考えて欲しいと思った。特にこの監督。被害者の母には「僕は彼を味方しようと思ってないし、中立な立場であなたの話を聞きたい」とか言っておきながら、スティーヴィーには「性格証人で法廷に立ってもいい。僕はキミの味方だ」と言う。性犯罪者のセラピーをやってるこの監督の奥さんも、スティーヴィーをひどく気遣っているけど絶対に(3人の子供がいる)自宅に泊めようとはしない。最初の里親も、わが子のように扱いながらも結局は去っていった。叔母も「あの子は可哀想な子だ」と言いながら、手を差し伸べなかった。

 この中途半端な偽善がどれだけ人を傷つけるか。問題は貧しさや無知とかではなく、この“偽善”というものだった気がした。中途半端に希望を与えるくらいなら、最初から何も与えないほうがいい。日常をわりと問題なく生きれるような普通の“人間”である私たちは見過ごしてしまう(そして時間が経ったら忘れてしまう)ような小さな希望でも、スティーヴィーのような(たとえると、常に薄く氷が張ってる池の上を歩いているような)精神を持つ人にとってはそれが全てである場合もある、ということを忘れてはいけないと思う。

 幕がおりて、しばし席でボーッとしてたら、ふと谷川俊太郎の詩の一節を思い出しました。

  にんげんはなにかをしなくてはいけないのか
  はなはたださいているだけなのに
  それだけでいきているのに


 とか、もう書ききれない思いがたくさんあります。 とにかく必見。ドキュメンタリーの真髄だと思う。 画や構成はそれほどキレイではないけど、そういう問題ではなく。いたるところで出てくる犬たちがなんだか印象的でした。

ちーねま | Posted by at 4 5, 2006 17:10 | TrackBack (1)

ジャパニーズ・スマイル

 現在開催中のベルリン映画祭のコンペティション部門に出品している、ペンエーグ・ナッタアルナーン監督(タイ)『Invisible Waves』のレッドカーペット映像+プレスカンファレンス映像を見ました。【映像はこちら】


 ■『Invisible Waves』プレスカンファレンス登場の面々

  ヴァウター・バレンドレクト(プロデューサー)
  クリストファー・ドイル(撮影監督)
  浅野忠信(俳優)
  ペンエーグ・ナッタアルナーン(監督)
  光石研(俳優)
  プラープダー・ユン(脚本)
  マイケル・J・ワーナー(プロデューサー)
  アナトール・ウェーバー(司会)

 ナッタアルナーン監督がカンファレンスの冒頭で言ってるように、クリストファー・ドイルと浅野忠信と、脚本のプラープダー・ユンは『地球で最後のふたり』(03年ベネチア国際映画祭コントロコレンテ部門で浅野忠信が最優秀男優賞を受賞。監督が言うには「興行としては失敗だった」)でチームを組んだ仲なので、全体的に仲良しムードが漂う。

 クリストファー・ドイルが爆弾発言を連発し(まあそれは彼のキャラなんだけど)、その中にも辛らつなシニカルさが含まれているため、会場は爆笑しつつも、なんとなくピンと張り詰めた緊張感があって、記者たちがなかなか質問し辛い様子。
 ドイルがギャグで茶々を入れるので、真面目に答えたいナッタアルナーン監督はかなり苦戦していました。浅野忠信に対する「どうして髪の毛を長くしてるんですか?」とかいう下らない質問が出たところから会場の雰囲気がヤバめになり、記者たちと『Invisible Waves』チームとの間に溝が出来た印象。後半は逆にドイルが記者たちに対し、もっと核心的なことが聞けるように質問を投げかけて誘導していた面もあり、ずいぶん持ち直していました。

 カンファレンスでは全員が英語で話すなか、浅野忠信と光石研だけは日本語で喋っていました。浅野忠信に至っては「役を演じたなかで、難しかった点を教えてください」の質問に、「撮影中も混乱してて、いまも混乱してるので……勘弁してください」とか、「これみんな僕の言ってること分かってんのかな? ……こんにちは」とか言う始末。これは普段からものすごいシャイな彼のキャラなんだけど、ちょっとどうにかならないかなあと思いました。会場には微妙な間が漂う。
 光石研はわりとハキハキと答えていたものの(もちろん日本語)、彼が歌を歌うシーンを再現してくれとのドイルからの(笑)リクエストに、かなりモジモジしたあげく「……勘弁してください。映画を見て下さい」の返事(これくらいなら英語でも言えると思うんだけど)。ここでも会場に微妙な間が漂っていました。

 フォーラム部門に出品している船橋淳監督『Big River』でも、上映後のQ&A(フォーラム部門はプレスカンファレンスがないので映像は見れず)で主演のオダギリジョー氏が、帽子を目深にかぶってずっと下を向いていたとか。会場から出た質問にほとんどまともに返事ができなかったようです。
 なんていうか……残念です。オダギリジョー氏もそういうキャラだっていうのは充分わかっているんだけど、国際映画祭ってそういうものではないんですよね。お祭というだけでなく、世界にフィルムを売る大事な場でもあるわけです。普段はとてもシャイなガエル・ガルシア・ベルナウだって、主演したミシェル・ゴンドリー監督『The Science Of Sleep』のカンファレンス(これも面白かった。ミシェルは変わってるなあ)ではものすごい聡明に、パーフェクトな英語で答えていました。

 しかしこれが日本の国民性と言われれば……私にはワカリマセン。

 で、いちばんショックだったのは『Invisible Waves』のプレスカンファレンス映像内のワンシーン。カンファレンスに移る前に、会場前で写真撮影があるんですね。撮影が終了してみんなで会場へ移動するんだけど、クリストファー・ドイルだけ残ってワイングラスを片手に記者たちと談笑していました。
 そんななか、ドイルの姿を撮ろうと、どこかの記者が大きな声で「Japanese smile!」と叫び、その場にいたみんなが爆笑したのです(その時、すでに浅野忠信も光石研もいなかった)。

 あー、そうだよね日本って、と思ってなんだか悲しくなりました。世界の中での日本の位置って、そんなもんだよなあと。 その後にプレスカンファレンスの映像を見たもんだから、さらにナーバスになってしまいました。浅野忠信大好きだけど……。

 もうこうなったら見知らぬ外国人の前では絶対笑わないようにしようと思いました。というのは冗談にしても、それくらいナーバスになるよなあ……この言葉って。

ちーねま | Posted by at 2 16, 2006 17:01 | TrackBack (0)