Salon de Meuble

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あけましておめでとうございます。
今年から日本人建築家「坂茂」さんのパリ事務所に勤務します。
建築、プロダクト、グラフィックと、勤務先でも個人的活動でも
精力的に活動を繰り広げていきます。
本年度もよろしくお願いいたします。

というわけで、年末年始は個人的仕事に没頭。
パリにいらっしゃった九州大学の森田昌嗣先生Salon de Meuble(パリ国際家具見本市)へ。
森田先生はGK設計で活躍されていたこともあるかた。
過去から現在、今後のことまで非常に面白いお話を聞かせていただきました。

Salon de Meubleはさすが、世界有数の見本市。
西洋の古典的、東洋的なものから現代的なものまで
さまざまな家具が並んでいた。
世界的な家具デザインの流れを確認するには最適の場所。
仏蘭西政府がサポートする若手デザイナー支援プロジェクト「VIA」のブースは面白かった。
多くの人が集まっていました。
それに負けず劣らずの人気ブースが「日本ブース」
特に乃村工藝社・児島正剛氏デザイン、添島勲商店作成の[Ori-Tatamiser]が興味を引いた。
日本人のnomadicでtemporaryな生活習慣を、現代版「畳×卓袱台」に翻訳したもの。
ピクニックにも応用できるのかな?

なんて思ったりした戌年の初春でした。

Event Lecture / イベント, Paris / パリ, Product / プロダクト | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 1 10, 2006 8:29 | TrackBack (0)

Noelに考える

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12月に入り、町中がNoel(クリスマス)一色です。
多くの通りが、様々なものたちを模ったイルミネーションによって飾られています。
HOTEL DE VILLE(パリ市庁舎)前の広場では恒例のアイススケートも始まりました。
頭がキンキンする寒ささえなければもう少し楽しめそうなんだが。

日本で言うお正月なので、家族総出で準備に取り掛かっている。
日本での歪められたクリスマスのイメージが
スカスカなものに感じられてしょうがない。

色々な「もの・こと」を輸入し、修正し展開してきた日本の文化。
その上に根ざしているものは面白いものが多いし
僕の「建築」という分野だってそれによって成立している。
しかし、日本化された「くりすます」や「ばれんたいん」は
そういう部分とは全く切り離された「広告的価値観、商業的価値観」によって
完全に捏造されたイベントとなっている。
そんなことで全国民(特に若い年代)が動かされてしまうのは寂しいかな。

そのようなツルツルした状態は、多くのものことについていえるかもしれない。

特に 日本は、色々な分野が最新で常に新鮮なものを欲している。
しかし、その「新鮮なもの」への検索範囲は海外であることが多い。
「パリ発」「ニューヨーク発」 という言葉に日本人が弱いこともこれを証明してる。
海外から見たら、東京は立派な国際都市であるにもかかわらず、「新しさ」を外に求め、
街には常に、更新された、最先端の、研ぎ澄まされたものが置かれる。
その「更新」は物凄い速さで円滑に進むけど、本質的には何も積み重ていないし、
かつ、「前のものは何も残っていない」というのが日本、特に東京と言う街である気がする。
パリはその点、圧倒的に更新が遅いけど、遅い分何かが残って
その上に確実になにかが積み重ねれれている感じがする。

雑誌に付いてもこれは言える。
日本の特に建築雑誌は、2,3年おきに文末やタイトルだけを変えるだけど
同じ特集を何度も何度も繰りかえす。
松田さんが言っていたが
ヨーロッパ、特にフランスでは、同じような特集を手を変え、品を変え
再生産し続けることはないらしい。

学術的な分野にも同じことが言えるようだ。
日本では論文を書くとき、文献が点在していて研究が積み重なっていくような準備がなされていない。
当然、分類整理されているけど、上手いこと発掘できない。
がゆえに、同じような研究がいたるところで繰り返されていたりする。
気になっていたこの話を、文学の本田さんにしたら
こちらはしっかりとした検索システムが確立されていて、
しっかり研究を積み上げていくシステムが確立されているらしい。
だから、研究はしっかり積み重ねられたりしている。
でも、日本の論文が求めるような「鮮やかさ」をもったものは多いわけでもなく
逆に、 当然の結論しか導き出さないつまらない論文も多いいらしい。

「歴史や根源の不在 」に対する不安から、逆に根源的な部分から思考し直したり、
油断なく積み上げたりして、世界トップレベルのものを作ったりもしてる。
また、突拍子もないところから発想する自由度もある。
良くも悪くも、日本とはそんな国です。

なんてことを言ってるけど、それなりに「くりすます」を楽しんでいた僕も
3,4年前には いたわけです。

Dialy / 日常, Paris / パリ | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 12 12, 2005 9:25 | Comments (2) | TrackBack (1)

頭の体操

土曜日
久しぶりに連絡を頂いて松田達さんとスイスで働く木村浩之さん
3人でラオス料理のお店へ。
お互いの自己紹介や近況報告をさせていただき、その後場所を替え一杯。
異国での建築教育制度、思考方法、設計プロセスからコルビジェに至るまで
海外経験者としての面白い考え方を伺うことが出来た。

久しぶりに「建築」を肴に飲んだという感じです。
意識して考えながら喋るといい頭の体操になって
脳の眠っていたどこかが活性化された感じ。
僕もそれに乗せられるように幾つかお話する。

僕が最近気になっていること、いや驚いたのは
日本人と仏蘭西(欧州ともいえる)人の単位感覚。
僕が前に勤務していた仏蘭西人建築家の設計事務所ではエスキスを「メートル」単位で考え始めた。
そして詳細設計等の時点でもCAD上の基本単位は変わらず「メートル」に設定されていた。
つまり、それ以下の長さは基本単位を「分割したもの」である。
今は仏蘭西にある日本人の事務所で働いているんだけど単位は全て「ミリ」で扱われる。

つまり、同じ50センチを思考するとき、
・基本単位を分割した「0.5メートル」と
・ 基本単位を500倍した「500ミリ」
と言う違いが出る。
これはスケール感覚や視覚的/触覚的建築の作り方にかなり作用している。
全ての部分に焦点が当たっている日本建築の緻密さは
こんなところから来ているのかもしれない。

比較の対象として「全体性が持つ魅力」を好む仏蘭西建築を取り上げると納得行くけど
欧州諸国でも詳細部分の納まりが美しいスイスも同じ「メートル」志向らしい。
「全ての部分に焦点が当たる」ことと「収まりが美しい」ことが
空間の質においては必ずしも同じことではないということかな。

あと、聞いていて印象に残っているのは木村さんの欧州人の「面の扱い方」。
欧州人は、空間に出てくる「細々した物」(電気、排気口、吐き出し口、消火設備など)を
面の要素として自覚的に捉え、面の中に整理整頓して置いているという。
確かに日本人の作品で「これほどこだわっているのに、ここにこれが出てくるのか?」
と言う感じがする。
つまり、日本人は空間を抽象的な存在として捉えていて、「空間」をデザインした後に
実際の使い方や法規的に必要なものが別の次元で「空間」に出てくる感じ。
そんなときはちぐはぐな空間になる。

僕が上記で「細々した物」と書いていること自体、そんな日本人的意識を表している。
完全には一般化できないけど非常に頷けるお話だった。

Architecture Space / 建築, Dialy / 日常, Paris / パリ | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 12 5, 2005 9:25 | TrackBack (0)

雪のエッフェル・耐震問題?

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今週は初雪が降った。
手袋をしていてもその上から氷の矢がプスプスと刺さるような、散歩しているだけで「かき氷」を食したあとの「キーン」とした感じが、暗雲と共に僕らの心に忍び込む冬。
とうとう薄暗く、芯から冷える「憂鬱な巴里」が始まった。

そんな中、建築技術者Effeleを思い浮かべながら、雪のEffeleを塔を眺めた写真。

日本では耐震設計に絡む「建築士の責任」などが話題になっているということはなんとなく耳に入っている。
これを聞いて一級建築士の一人として恥ずかしさと怒りを覚えた。また、建設途中の検査でなぜこの事態が食い止められなかったのか?と、行政監視機能に対しても疑問を覚えた。しかし、それと同時に、日本の建設・建築業界で起こるべくして起こった事件だとも思った。

その前提として、「建築家・建築士」と言う職能を簡単に説明してみる。
「建築」にまつわる業務(建築物の設計、管理)を行う「建築家」と、建築士法所定の国家試験によって行政機関(一級の場合は国土交通大臣)から建築家兼高等技術保持者として免状を交付される「建築士」。
どちらも「建築」と言う言葉が付くが、元々日本語に存在した言葉ではない。江戸末期に海外から概念と共に輸入された言葉「architecture」の訳語である。加えて、我々「建築家・建築士」は日本の建築の歴史から見れば、最近出来たばかりの職能である。それまでは「設計・施工」を行う、大工達が僕らの場所にいた。その職能は現在も日本特有の「ゼネコン」と言う形で継承されている。

日本では自称すればみんながなれる「建築家」含めると話がややこしくなる。ここでは国家資格保持者の「建築士」に限定して話を進めたい。
建築基準法では、施主(消費者)/建築士/施工者の独立した「三角関係」を奨励している。これは小学校で習った「三権分立」に近いあり方で、建築士と施工者の関係を分節し、専門知識のない施主(消費者)を保護するためのものである。
この状況を考慮すると、日本の現状では大きく3つの事柄が原因として挙げられる。

1番目に、最終的な消費者である「住人」が建築性能のチェック機能から排除されている点。「三角関係」でいう「施主」が、「住人」ではなく建築士・施工者と協力に結びついた「デベロッパー」となる。専門技術を持たない実際の「住人」は見えないブラックボックスの中で作成された「性能表示」を信じるしかない。「デベロッパー」は、住空間を綺麗にラッピングされた「商品」として扱う。これは住空間を他の品物と変わらない「商品」として、経済の中で流通させる重要な役目をはたしている。一方で、住人を建築が生成される場所から遠ざけ、知識のない消費者に変えてしまう危険性を持っている。

2番目に、住人の建築に対する無関心さがあると思う。
ヨーロッパでは都市や建築に対する一般層の意識が非常に高い。街づくりや空間に対して「あーだ、こーだ」と議論している。少なくとも思考する対象にはなっている。もともとの家が汚いということもあるが、パリだと新しい住居に引っ越した場合、まずBricolage(日曜大工)することが多い。それは空間を自分らしくカスタマイズしていく行為、つまり着慣れない洋服を自分の体にフィットさせていくような行為である。住空間を「ただの箱」とは考えず、「住人に特性を与えられた場所」とする精神がBricolageという行為に現れている。日本の場合、建売住宅産業が発展していることから分かるように、「ただの箱」としての住空間を求める消費者が多い。つまり、建築に関わる様々な手続きを排除して、一つの「完成された商品」としての住空間を手に入れたいという思考である。これは住空間に限らず、全ての(ことにフランスに比べ)サービスが成熟したことで、幼稚化していく日本人全体の気質に関わる問題だろう。

最後の3番目は、設計が「施工のおまけ」として扱われている点。
日本の建物の文化は歴史的に見て「大工制度」によって支えられてきた。棟梁の顔は見えていたし、施主は皇族であったり、貴族だったり、武士達だったりした。日本の伝統建築が素晴らしいのは、棟梁達が頑固で気高く、仕事に誇りを持ってた(?)からかもしれない。一方で手抜きが発覚したらその場で切り捨てられる緊張感もあっただろう。
その後、日本は様々な面で成長をとげ、国民全体の生活水準も向上した。これによって「建築」の目的は「権力」から「民衆」と民主化されていた。
その過程でも「設計・施工」が一体化した「大工制度」の部分は残った。それは一昔前、「設計施工一環業務」のゼネコンが使っていた「うちは設計料は取りません」という営業文句につながる。
実際は全ての技術的水準と空間としての質を保証するために、「建築士」が膨大な労力を使っているはずだ。しかし、見えない「設計」と言う過程は数値化された価値を獲得することなく、施工の裏帳簿からその業務代が支払われた。
つまり、一般的に義務も権利も、もみ消された存在だった。今回の事件は重大だ。しかし、実状として建築士としての「責任」だけを追及しても問題の解決は難しい。 もみ消された「義務=責任」を明確にしつつも、我々の「権利=設計業務の存在と価値」が一般的に認知されなければ、構造的な解決は図られないだろう。

他の理由としては、建築士の質のばらつきもあるだろう。これは激しいが定量的に見分けることは困難だ。ちょっと乱暴だけど、数値化された違いを言えば、近年登録された一級建築士は、合格率6%の超難関を突破している。一方で、高度経済成長期の時代はみんなが取れた「一級建築士」である。近年の合格者とそれ以前の免状保持者で、公的に何か区別化を図らなければならないとも思う。

設計競技の量、国民性、経済的問題、社会性の問題・・・・・。今回の事件を生んだ原因は様々だろう。
しかし、時間が経ったら重大な事件を忘れる、いつもの日本のようにはなって欲しくない。この事件を、状況を問題を改善する区切りとし、建築の制度や社会的責任を見直すだけでなく、「国民一人ひとりが建築行為にそのように関わるべきか?」「建築や都市がどうあるべきか?」を一般レベルで議論して欲しい。これが日本が建築先進国へ発展していく過程であって欲しいと願う。

Architecture Space / 建築, News / 新着情報, Paris / パリ | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 11 28, 2005 11:52 | TrackBack (0)

FETE

今日はパリ在住のアーティスト黒田アキさんにお誘い頂き
FETE(パーティー)に行ってきました。
文学者、建築家、アーティスト、物理学者・・・・・・・・・・・・・。
フランスの大物がゴロゴロいて普段大胆な僕もちじこまってしまった。
それに加えて、パリ第七大学と東大の共同学会でいらっしゃっていた
小林康夫先生もいらっしゃっていた。
黒田さんと小林さんは昔からのなからしい。

黒田さんの「物凄さ」を再確認するとともに、
僕のやるべきことが、予想を超えて膨大な量であることに気づく。
正直、体がいくつあっても足りないな・・・・・・。

Event Lecture / イベント, Paris / パリ | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 11 21, 2005 10:16 | TrackBack (0)

貴族の家

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■金曜日の夜、
友人に誘われてFETE(ホームパーティー)に行った。
場所はパリ16区の高級住宅街。
気軽に行った僕は唖然。
ものすごい豪邸に、オシャレした男女が150人くらい集って、
飲んで、歌って、喋っていた。
圧倒的な雰囲気に頭を掻き回されつつ、僕も喋って飲んで朝4時頃に帰宅。
後で聞いてみると、主催者の中に貴族がいて、その方の家で行われそうです。
貴重な体験だったのに、写真一枚取れなかったことが悔やまれる。

FETEでは、建築・デザイン関係以外の人ともお話させていただいた。
そこで、一般の人たちが建築や都市の「近代化に伴う場所性の消滅」というような主題に対して
自分の意見をしっかり持っていることに再度関心。
さすが、歴史を積み重ねた都市や建築の中で生きるパリの人々。
空間に対する意識が一般の人々に、高いレベルで浸透している。

戦後、大部分が白紙の状態から作られた現在の東京は
物理的に「歴史を積み重ねた」と言うには難しい状況。
歴史や文化の断絶など、様々な背景も違うから直接比較はできない。
でも少なからず「物が残ってるかいなか」と言うことは
意識に大きな違いを与えている。
現在、マスメディアによる「流行」というかたちで「空間の意識」が浸透しつつありますが
この過渡期の向こう側に、成熟した日本人の意識が開ければ良いなと思っています。

■土曜
Centre pompidou前にチョーク画家を発見しました。
荒いアスファルトの中から、人が浮かび上がってくるかのようです。
美術館の中でキャンバスにしっかり据えられている絵も良いけど
町の中に溶解している状態の絵と言うのも素晴らしい。
構えていないときに、突然後ろからプスとさされたような感じで
心に入ってきた。

Art / 美術, Dialy / 日常, Paris / パリ | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 9 26, 2005 7:36 | TrackBack (0)

JOURNEES DU PATRIMOINE

9月17、18日はJORNEES EROPEENNES DE PATRIMOINEだった。
これは、フランス国内の美術館や市庁舎をはじめとする公共施設が一般公開されるというもの。

僕は風邪気味と言うこともあり、CREDIT MUNICIPAL DE PARISと
LES BATIMENT DU CENTRE HISTORIQUE DES ARCHIVES NATIONALESを
同僚のPILIPPEとパパっと見た。
前者は巴里の質屋。後者は18世紀の貴族の館を現在歴史博物館として使っている。

LES BATIMENT DU CENTRE HISTORIQUE DES ARCHIVES NATIONALESでは
この施設の改修設計競技があったらしく、その結果報告展示会が行われていた。
今回は人が多くて並びもしなかった。
今度また出かけてみよう。

Event Lecture / イベント, Paris / パリ, Urbanism_City / 都市 | Posted by SUGAWARADAISUKE | 菅原大輔 at 9 19, 2005 7:00 | TrackBack (0)