Guggenheim@NewYork

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ちょうど一年前は、NYへ行ってました。床は、三度に傾いている。しかし、当時これをやったことがすごいよ。個人的には良さがよくわからなかった。動線の結末を期待しすぎたところもあったし。寒すぎたし。‐10は軽く超えていたし。その上、地下鉄降り間違えて20ブロック近く走った(笑)。68st 86stの駅があるとは思わないさ。展示もいまいち好きでなかったし。いろいろ理由はある。MoMAは工事中だった。(LINK:simon:ビッグネスが生んだ建築

NYにまつわるはなしを。まもなく、チェルシー地区に坂茂氏設計のNomadic museumがオープンするようです。ポンピドーセンターの紙にしろ、このコンテナにしろ、純粋建築を目指して、こういうのをつくる坂さん。かなり良い。

(このエントリーは、過去の掲示板から、こちらのブログに移動させたエントリーです。従って、カテゴリーの属性は「過去」となります。過去カテゴリーのものは、当時の表現のまま、載せているので、目も当てられない表現を含む場合があります。)

妄想, 建築 | Posted by simon at February 14, 2005 8:19 | Comments (3) | TrackBack (0)

新しい建築を目指したい気持ち

個人的な思考性の中で、建築にどう立ち向かっていくのかを個人的な見解で考えた安中シリーズのラスト。

1-direction

・敷地全体に目指す空間の質は「匿名性のルール」を持ったもの。
・行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり 「行為という表現」をフラットに受け入れる「匿名性のルール」をもった質を「うれしい環境」と呼ぶ。
・「うれしい環境」は 誰もいない風景(=ルールが発生していない状態)⇔集団がある風景(=特別なルールをもっている状態/イベントなど)という両極を内包できる 質を持つ。両極の内に収まる曖昧な状態を 日常的な風景と呼び。中間的な層 曖昧な状態 とも言い換えられる。その日常的な風景が「匿名性というルール」を持つ。

・曖昧な空間は 屋外から屋内のグラデーションスケールが定まらない状態。
・曖昧な空間は 森の中を歩く時のように 人々に様々な要素を与えてくれる。自然に知性へ刺激をアフォードする質を持つことにより 同じ世界の中で 見え方を変える事が出来る。
・曖昧な空間は 外部空間を離散的な範疇で規定(レイアウト)する事で (グラデーションスケール)フレームを獲得出来る。よって 曖昧な空間の中で よどむこと サーキュレーションすることを 行為者が 連続的に行なっていく中で 複雑な環境の中に 「匿名性のルール」を見つけ 全てのヒエラルキーを対象とする「行為という表現」を選択し 獲得する。
・曖昧な空間は 「もりのがらす(暫定)」 と呼ぶ。(機能名)

・「もりのがらす」 には 今日の建築家が理解し使用するような意味でのプログラムは全く無く 外部に規定された曖昧な空間という質に含まれている「匿名性のルール」の中で 「行為という表現」を受容する。

・唯一の機能として ヒエラルキーの高い表現を展示できる 屋内空間を 高層化によって獲得する。
・高層化される機能は 半屋内という状態の地上から 離れて行けば行くほど より屋内的な空間へ向かうことを意味する。
・いわゆるビルディングタイプの美術館が 開くということに関連して 機能を選定する。これからの新しい美術館のありかたへ向かう。

・曖昧な空間は 予測不可能な 今後へ 解答を連ねる事が出来る。独立壁を立てれば目的空間を獲得できること。

・建築の強さは 規定される外部によって崩れない。

2- suggestion

・「行為という表現」の場
   →高い順位に芸術があり、展示できる機能を持つ。
   →「即興のコミュニティ」の中にあるコミュニケーションを記録保存し、発信する機能を持つ。
   →「もりのがらす」という機能を持たない部分に全ての表現のヒエラルキーを内包できる余地を持たせる。
・「うれしい環境」という読み替え
   →「匿名性のルール」という質をもっている。

3-extra

「匿名性のルール」について

「ミース」
コンクリート造オフィス1922
煉瓦田園住宅1923
コンクリート田園住宅1924
ドイツパビリオン1928-29
ブル丿チューゲンハット邸1928-30
1924年に建築とその時代における関係を次のように指摘している。
「ギリシャ時代の神殿、ローマ時代の会堂、中世の大会堂は私たちにとって個々の建築の作品としてよりも時代全体の創造物として意義深い。これらの建造物の名前を詮索する者があるだろうか。本来こうした建物は非人格的であり、それぞれの時代を純粋に表現したもので、まぎれもなくその時代のシンボルとして意味がある」

「現代芸術」
芸術が一部の飛び抜けた天才のものであると考えられていた時代、芸術の現場が、造り手と受け手を分離していた時代には、特権的なものであった。
例えばゲームのルール。
複数の人間によって受け入れられることなくして成立しない。実際、トランプのゲームをサッカーのゲームも、作者の名前は分からない。これほどの無名性の中にありながら、これだけ多くの人間達がそれをたのしむことが出来る。
匿名であるからこそ、誰もがたのしめるものである。
そこには社会的な公共物といしての著作権が、きちっと倫理をして組み立てられているということ。
社会に開かれた表現 自己から他者に向けて 共振する芸術のありかたを現代芸術は探っている。
もしかしたら 作り手も受けてもない平坦な 複数の人間が参加できる環境が 創造の現場かもしれない。
そのヒエラルキーのない状態をどう言った方法で解消してゆく事が出来るのかが わからない。
そのための模索が必要である。

「ミカングミ」
場はフィジカルな環境だけでも生まれないし
そこを運用するソフトだけでも
そこにいる人たちのキャラクターだけでも場は生まれない。

まじめに対応してくれたshinyaさんに感謝です。

妄想 | Posted by simon at July 6, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

即興のコミュニティ

1 direction

1-0 即興のコミュニティ

a コミュニティの定義
コミュニティとは自分を含む集団の事を指し
集団の他者と自分との間に同一であると認める事が出来るような特徴があれば 自己のアイデンティティと呼べる。

b ここでのコミュニティ

従来のコミュニティは 地域や家庭というドメスティックなフレームの中で強固に成り立ってきた。
質はともあれ 現在のコミュニティは個人が 想像の共同体(社会)に直接開く距離に至っている。
それは 学校であったり 会社であったり 部活動であったり
従来の物理的距離というのは 今も(IT革命後も) フラットへ向かっている。
そんな中 自己のアイデンティティを 急速的に 時には強制的に 見いだしているはずである。
ここでは それを即興のコミュニティと呼び
具体的には家族から 学校 地域 会社を指し
健全なコミュニティほど積極的に 利用できる→自己のアイデンティティを主張し合える→表現(アクティビティ)ができる場を作ろうと考えている。
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1-1a 今回の敷地でどのような風景を想像しているか。

誰もいない風景と集団の風景という
両端を収めるものを考えている。(即興のコミュニティ=両端)

1-1b 両極(即興のコミュニティ)の中間体として、日常的な風景を挙げていく。(ワークショップで提案してもらったり。)

敷地にたくさんの日常的風景を想定して
そのスケールを木でプロットしていく。
(例)
子供がサッカーをするのに楽しいスケール→高速の下
親子がバトミントンをできるスケール→家の前の道路
鬼ごっこするのに適当なスケール→団地

1-1c 即興のコミュニティ(日常的な風景/だれもいない風景/集団の風景)を 木とガラス によって獲得していく。

コンペ時に提案することは
・日常的な風景→規定される屋外(木とスケールとガラス)
・誰もいない風景と集団の風景→曖昧に横断的に利用される屋外と屋内と半屋外。
以上 二項の関係性で建築ができることを提案する。

1-2 テーマ

「もりのがらす」

1-3 キーワード

・土臭いガラス(ガラスの新鮮な使われ方)
・場を行為者によった ヒエラルキーを持つ建築的自由度(建築が受動的へ向かう事への拒否感)
・外部/半屋内/内部の関係性がシステムとして増改築の幅が効きやすいものを求める。(森のような未完景を建築する)
・フラットな社会における 建築のアイデンティティとしてのランドマーク(新しいバナキュリズム)

2 suggestion

屋外を規定する。
余残に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく。

3 extra

3-1ここでの建築→うれしい環境

a 人にとって
建築は日常的で他愛のない習慣的行動のなかに埋め込まれているとするならば
ここでいう建築 に向けられるアイデンティティ(自己同一性)は
行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり アクティビティをフラットに受け入れる建築を うれしい環境と呼ぶ

b 社会にとって
誕生までは 記憶をデザインするという事があって
ここに建設されるものが消える時点で
しこりなく消すことができるシステムが埋め込まれた環境を作る事も含まれる。(アンボンド構法/リサイクル)

3-2 アクティビティ

アクティビティを 行為者のひとつの表現と捉えれば
その表現は 場を探し 場をつくることから始まる。
例えば
行為が行われ 行為に轍が残せるよう 写真を撮りたくなるような風景を建築が提案をし
変容し続けるウツロイの空間を記録して 記憶にとどめてもらえたら
結果的に うれしい環境になる。
行為者にも建築家にも。
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3-4 システム

「規定される外部と曖昧な内部の関係」というシステムの提案だが
システムが均質を持つのでなく
システムが 行為という表現 を受容する。

shinyaさんからのコメント
言葉の説明に一つ一つ反応するよりも、後半の部分から、つくられるであろう建築の姿を想像することから始める。
「屋外を規定する。/余残(残余?)に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく。」とある。つまり、敷地いっぱい、もしくはそれに近い範囲を1つの建築として領域化して、その内側に「屋外を規定する」。敷地外との領域化は、ガラスの壁をたてて行うということだね? 屋外以外の領域には「半屋外と屋内の群」が設定される。「規定される外部と曖昧な内部の関係」ともある。この「半屋外と屋内の群」が「曖昧な内部」であるならば、半屋外と屋内は何によって分けられる? 屋根は掛かっているが、半屋外は外気に触れており、屋内は外気から遮断されているとする。そうすると、その区分けはガラス(もしくは壁)で行われていると考えられる。「屋外」が屋根が掛かっていない外部、「半屋外」が屋根が掛かっている外部、「屋内」が屋根が掛かっている内部であるとすると、結局、それは3つの場所が規定されることとなる。そして、半屋外を介することで、3者が(正確には2者ずつと思うが)曖昧であることになる。とは言っても、その曖昧さがどのような方法で獲得できるのかは考えるべき点。開口部が全面的に開かれることで、外部と内部が一体となる。ガラスが透明であるから、その境界はないものと錯覚される。床や壁の仕上げが、内部と外部で同一となることで一体感を得られる、など。ありきたりの手法はいくらでもあるが、それだけではない方法がないだろうか?(その点、ミースの「バルセロナ・パヴィリオン」は巧妙である。あそこには、屋外と半屋内しかない。故に、規定されていると同時に曖昧であることを獲得している。しかも、ガラスと壁と柱で。)
この関係に、「木」と「ガラス」が加わる。木は屋外にのみ植えられるということ? なぜ木が(必ず)植えられる必要がある? 外部としての記号としての意味? ガラスの存在感(屈折、反射、透明度)を明確にするための対象物として必要? それとも、やはり屋外だけは明確に規定する必要があるということ? そうだとすると、その必要性は?
そしてプログラム。「日常的な風景→規定される屋外」と「誰もいない風景と集団の風景→曖昧に横断的に利用される屋外と屋内と半屋外」とある。繰り返すようだけど、屋外のみが、規定されていると同時に曖昧であるということ? それとも、この2つの外部は異なるもの? 「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」は並列される3項のものなのか? それとも、「日常的な風景」と「誰もいない風景/集団の風景」は並列しないものなのか? その辺に「外部/半屋内/内部」と同様の不明解さがある。「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」という3つの風景をつくることには賛成。しかし、それらが「外部/半屋内/内部」に1対1で対応すべきなのか(そうであるならば、それを徹底すること)、それとも、それぞれの3つの項が複雑に対応することで多様な状況をつくり出すべきなのか(個人的にはこちらの方と思う)、そこが重要。おそらく、ガラスは外部を規定するとともに、内部を規定するものとして使わざるを得ない。そうなると、むしろ木についても、その規定を記号化するためのみに使われるべきではないと思う。そして、次に問題となることは、「日常的な風景/誰もいない風景/集団の風景」の具体的なプログラムは?
「行為者という存在が最もヒエラルキーの高い存在であり アクティビティをフラットに受け入れる建築を うれしい環境と呼ぶ」とりあえずは、ここら辺が「うれしい環境」の答? 具体的には、これらをどのように獲得する?

妄想 | Posted by simon at July 3, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

日常を取り込む美術館を作りたい

新しい美術館(=もりのがらす=うれしい環境)という姿勢で良いんではないか
アクティビティを
行為者の表現であると仮定し
その表現には優れた作品という順位の高いものもある。

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「先端芸術宣言!」東京芸大先端芸術表現科 編 岩波書店より
個人的に気になる点を抜粋

今日 表現の実物(作品)を見る行為は
順位が高ければ高いほど 極論 確認作業という次元に向かっている。(人が一つの作品を見るのに20秒とも言われている)
それは さまざなメディアを通して 作品が目に触れるようになり
実際を見るという行為以外にもインターフェイスが広がっていることが指摘できる。
(例えば モナリザを一番始めどこでみましたか?なんて質問をすれば ほとんどの場合きっと答えられない なぜなら さまざまなインターフェイスに触れ 記憶が重なり合ったものが 今 自分の中にあるモナリザであるから)
それゆえ
表現者(アーティスト)は場を作る事から
そしてどのように見られたいのかということから(または どのインターフェイスで見られたいのか?ということから)
表現が始まるという傾向に向かっている。
例えば
廃校の利用や都市の副産物に対する表現であったり
表現のフレームがさらにボーダレスになってきている カタチすらないかもしれない。
つまり 表現の上で 作り手と受け手の中でどのようなコミュニケーションを想定しているかという原点回帰が焦点となり
内向的な閉じたコミュニケーションではなく 美術が開かれた回路の上に生成されるものへ向かっている。
言うなれば
美術館という制度によって保護されなくても成立する美術を作り出す事である。
しかし 美術館から離れると言うことは 制度を失う事になり 同時に文脈を失う事になる。
それはそれほど簡単な事ではなく じりじりとハードと寄り合っていく方向を探らなくてはならない。
そして 現在の美術館を開こうとするとなかなか難しい。
それは根本的に近代の経済理論がアートという価値を飲み込んでいるからだ。
美術館の敷居は低くなりつつある一方で、公共の美術館ですら採算性を問われるようになり
美術館は価値の保存という機能から 価値の保証のための場所へと変わっている。
そんな中 質はともあれ
キュレータ中心の展示企画
アーティストを巻き込んだトーク
普段美術館へ足を運ばない人を呼び込むためのワークショップなどが
美術館で行われるようにはなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これからの美術館はどう言ったビルディングタイプへ向かうのだろうか。
さきに 述べたように全く新しいという存在は定義できない。
優れている作品を展示することも必要であろうし
表現が開くと言う事と同時に 受け手とのコミュニケーションの場として機能する事も求められる。

ここで提案する事は そのコミュニケーションという一連の流れを 記録保存する場所。(なのかも知れない。)?

shinyaさんよりコメント
「『新しい美術館』(=もりのがらす=うれしい環境)という姿勢で良いんではないか」もちろん、よいと思う。アートに対する提案が要求されているコンペなのだから、それを外すわけにはいかない。それ以後の美術(館)をめぐる話。「表現のフレームがさらにボーダレスにな」ることから、美術館が「価値の保証のための場所へと変わ」る話は、よく言われていること。「コミュニケーションという一連の流れを 記録保存する場所」という提案。具体的には?

妄想 | Posted by simon at July 3, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

がんばって建築に近づこうとしている

多様な切り口については
建築の社会における立場で考えれば
建築は日常的で他愛のない習慣的行動のなかに埋め込まれているとするならば
結果的にいくらも切り口が見つかる。
思考の切り口は一つで良いかと。
切り口とは集約される方向ではなく
スタートに過ぎないとして。

話をすこし遠回りさせる。
今回の敷地でどのようなシーンを想像しているか。
固定的な機能が無いに等しいので
誰もいない風景と集団の風景という
両極を収めるものを考えている。

敷地にたくさんの日常的風景を想定して
そのスケールを木でプロットしていく。

日常的な風景を挙げていく。(ワークショップで提案してもらったり。)
子供がサッカーをするのに楽しいスケール→高速の下
親子がバトミントンをできるスケール→家の前の道路
鬼ごっこするのに適当なスケール→団地
などたくさん。

日常的な風景を 木と建築 によって獲得していく。

コンペ時に提案することは
・日常的な風景という屋外(木とスケールとガラス)と
・誰もいない風景 と集団(イベント時)の風景が 可能な 屋内と半屋外。
以上の関係性で建築ができることを提案する。

切り口として
「もりのがらす」

さいごに うれしい環境について
出来上がるまでは 記憶をデザインするという事があって
うれしい環境とは ここに建設されるものが
消える時に しこりなく 消すことができるシステムが埋め込まれた環境を作る事。

今 考えている設計の手順 は
先に外部空間をデザインして
余残に半屋外と屋内の群(ムラ)を作っていく
イベントが無い時は (ガラスの)森の中を歩く (ガラスの)森を抜けたところの広場で遊んだりできる。ガラスの塔に登ってランドスケープを眺める事が出来る。
一人で占有できる うれしい環境を目指す。

イベント時は 屋外 屋内 半屋外 を横断しながら行なう。

アクティビティを 行為者のひとつの表現と捉えれば
その表現は 場を探し 場をつくることから始まり
行為が行われ 行為に轍が残せるよう 写真を撮りたくなるような風景を建築が提案をし 変容し続けるウツロイの空間を記録して 記憶にとどめてもらえたら
ものすごくうれしい環境になる。 行為者にも建築家としても。

「もりのがらす」
木が生える事によって すでにコンテクストがそこに含まれたような錯覚に陥る。
木があっての建築でも
ガラスがあっての建築でもない
積極的な建築が行為者に場を選択へ向かわせる。

キーワード
・土臭いガラス(ガラスの新鮮な使われ方)
・場を行為者によるヒエラキーを持つ建築的自由度(建築が受動的へ向かう事への拒否感)
・外部/半屋内/内部の関係性がシステムとして増改築の幅が効きやすいものを求める。(森のような未完景を建築する)
・ボーダレスな社会の中でのアイデンティティとしてのランドマーク(新しいバナキュリズム)

結果的に「外部と内部の関係」というシステムの提案だが
システムが均質を持つのでなく
システムが 行為という表現 を受容する。

妄想 | Posted by simon at July 2, 2003 9:00 | Comments (0) | TrackBack (0)

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