全国の構造ファンへ・その2

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カールスルーエにて吊り屋根発見.「Europahalle」なる,コンサートをやったりするイベントホールらしい.こういったものの発見の際には,okd先生への報告が義務付けられているため,特別にこのエントリをアップ.前回,サッカースタジアムを紹介した際には,それを見た人からサッカースタジアムについて原稿依頼があった.気をつけよう.

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このホールは街の中心から離れた小さな川の横に位置している.そんなに大きい建物ではないんだけれど,この構造体が以上にデカイ.遠目には橋でもあるのかと思って近づいてみると,その下に低い建物があって,その屋根を支えていた.この川の辺りは公園のようになっていて,ジョギングをする人たちが多数いた.まあ,ランドマークにはなっているかもしれない.

@karlsruhe, 建築 | Posted by satohshinya at April 19, 2006 8:31 | Comments (2) | TrackBack (0)

10個のアトリウム

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ZKMの入る建物は,元々は全長312mに亘る兵器工場であった.10個の同じ形のアトリウムを持ち,1つが市立ギャラリー,その隣の4つがZKMのエントランスホール・常設展示室など,その隣の3つがカールスルーエ造形大学(HfG),その隣の2つがZKMの企画展示室である.つまり,ZKMの企画展示室へ向かうためには,HfGの中を通り抜けることとなる.写真は,そのHfGのアトリウム.壁のグラフィックは学生の作品.
1つの建物の中に異なった施設が隣り合っていること.同じ形の10個のアトリウムが並び,それらが異なる施設に利用されていること.これらが,この建物を理解するための1つのヒントとなるだろう.

このエントリとは直接の関係はないですが,「AUTHOR」の「佐藤慎也」をクリックした先に,「Selected Works and Papers」の公開を始めました.お暇な方はご覧ください.

@karlsruhe, 建築 | Posted by satohshinya at April 12, 2006 22:03 | Comments (3) | TrackBack (0)

旧阪急梅田駅コンコース

こちらをご覧ください.

建築 | Posted by satohshinya at September 23, 2005 23:45 | TrackBack (2)

理性の思考

最近はエントリもサボり気味なので,hyのエントリに合わせて昔の文章を発掘.これは大学院1年の時(1992年)に,故近江栄先生の授業で提出したレポート.なぜか内容が近江先生の逆鱗に触れ,ひどい成績を付けられた.近江先生は村野さんが好きだったようだが,当時の僕は大嫌いだった(今でも嫌いだけど).

《おそらく,村野藤吾の作品に僕の意識が初めて向いたのは,『日本近代建築史再考』という本の中に「日本ルーテル神学大学」(l970)のカラー写真を見たときであろう.それはl970年に作られた現代建築とはとても思えないものであった.確かにその造型には興味を引かれるものがあった.しかし,それと同時に自分はその作品からは距離を置いておきたいと感じていた.それから,僕は何冊かの村野の作品集を見て,いくつかの作品を実際に回った.結局のところ,それは僕自身の村野藤吾に対する直感を確認する作業でしかなかったような気がしている.村野の作品は確かに「上手い」と感じられるものであった.しかし,自分も含めて,この現代において建築を作ろうとするものにとっては,村野に心酔することは危険なことに思える.その先には出口がないのではないか?
その村野藤吾と対立させる建築家として,僕は磯崎新を登場させてみたいと思う.l99l年の暮れ,磯崎は日本大学である講演を行なった.その中で磯崎は日本に対し,「論理構築が欠如しており,それゆえ土着様式にしかならない」という意昧の発言をした.確かに磯崎は,一貫して建築上の論理構築を続け,現在では「世界のISOZAKI」として認められている.それに対して,村野は「世界の村野」であったのか? 近江栄氏はそのことについて次のように書いている.《我々はこれまで「世界の村野」という言葉をきかなかった.しかし村野は,この国に「根付く」こと,与えられた宿命的な生き方を生き抜くことに徹したのではあるまいか》(「折衷の体系」).そこで,この「根付く」という言葉に注目し,村野と磯崎の建築を比較してみたいと思う.
村野の作品には,文字通り建築の足下において「根付く」表現を行なっているものが多くある.その代表的な作品は「宝塚カトリック教会」(l966),「日本ルーテル神学大学」,「谷村美術館」(l983)などである.村野自身はこの表現について,次のように書いている.《建物が地面に建っているというより,「はえ」ているようにしたいと思った.土と建物とのつながりに軟らかさと無抵抗さがあらわれ,上と建物とが一体となって自然さをあらわせないものか》(「宝塚カトリック教会」l967).この表現に対して,僕は非常に嫌悪感を感じている.その表現は,あまりにも短絡している.
それに対し,磯崎の作品は直接的に土地に「根付く」ようなことはない.たとえば,「群馬県立近代美術館」(l974)の自註の中で磯崎は次のように書いている.《ただ,この敷地が完全に平坦な土地であったこともあって,芝生のうえに(立方体のフレームが)ころがっているというイメージが生まれてきた.立方体のフレームは人工物体のひとつの典型である.自然のもっている有機的な形態とは基本的に対立する.その対立の関係を表示するためにも,芝生にころがっているという言いかたが,もっとも適切なように思われる》(「作品自註」l976).磯崎が土地に「根付く」としても,それは村野のような短絡的な方法を取ったりはしない.《ひとつの土地,ひいては場所が,不可視の引力で支配をつづけている》という土地の文脈と関係を取り結ぶことが,磯崎の建築にとっての「根付き」であるのかもしれない(反建築的ノー卜IV」1974).しかし,その土地と建築の関係は,村野のように,必ずしも友好的であるわけではない.その土地の文脈は,歴史的文脈と重ね合わされ,あるときは肯定的に,あるときは否定的に取り扱われる.そして,それらの文脈に対応する解答を紡ぎ出す論理構築というゲームこそが,磯崎の《建築》である.
村野は,「根付く」ために用いる「生える」表現について,次のようにも語っている.《土地と建物の境界線がはっきりしないでしょう.あれは木や草を植えて.自然にできたものです.つまり建物というのは普通,土地の上に建っている.土地の上にずばっと立ったというのが近代の考え方ですが,そうじゃなくて自然と建物と土地とが平和的に,和やかにつながるというのが私の作品にはみな出ています.土地と建物がけんかしないようにする》(「自然との調和が大切」l982).この平和という言葉を,村野のヒューマニズムと呼ぶのであろう.《また村野は土地を重視し,意識的に大地に根付いたかたちのデザインを示していることも注目すべきであろう./土地に建物が自然に根付き,植物と同じように呼吸している姿であり,人間と土地のつながりは,人と人とのつながりに発展していくことが意図されているようだ./この上地(大地)に根付かせるという意図は,いわば村野がわが国の日本の風土,文化に根付かせようとする姿勢のあらわれでもあったろう》(「折衷の体系」近江栄).そして,この「根付く」表現を取ることで,村野の作品は土着様式であり続けた.しかし,それは村野の意図するところでもあった.一方,磯崎は論理構築というゲームを繰り広げる.その結果の建築は,土地に「根付く」というよりは,土地に「置かれ」る.磯崎は論理構築の欠如と土着様式を直接に結び付けている.しかし,たとえば安藤忠雄という建築家は,論理がないといわれているが,「世界のANDO」として十分に認められているという事実がある.そして,安藤の作品もまた,土地に「置かれ」ている.村野の言葉を借りれば,それは「土地の上にずばっと立っ」ている.つまり,単純に「根付い」てしまうことが,土着様式を生み出すことになり,「日本の村野」を生み出すことにしかならなかった.「置く」ための論理を構築することが,世界に向き合う方法となりうるのである.
磯崎は,《〈共生〉よりも諍(あらがい)を》選択する.「建築とは自然から離れ,自然の法則から離れた別な法則を見つけ出し,組み立ててゆくことである」と語る.《私は〈建築〉とは構築する意志であると考えている》.日本に欠如しているものは,この構築の意志である.《(〈共生〉には)本来,相容れることのないはずの自然環境と人工的構築物が矛盾せずに共存しうるという“偽の調停”が成立》している.《その場所に張りめぐらされている歴史的,共同体的文脈を読みとりながら,それと連続の関係をとり結ぶ》ことが重要である.そこには,《損失し,変換が起こるが,異変と突出はない.埋没と同化ではなく,対峙と拮抗があるだろう》(「景観論の罠」l992).結局,自然と平和に結び付こうとした村野は「日本の村野」で終り,自然と諍う磯崎は「世界のISOZAKI」となった.しかし,村野が土地に「根付」かせようとしたことも,《“偽の調停”》ではなかったのか? 先に触れた磯崎の日本大学の講演会の中で,近江栄氏は「なぜ村野藤吾は『世界の村野』ではなかったのか?」という問いを磯崎に発した.それに対し,磯崎は「村野は近代以前であるから」と答えている.僕の村野に対する最初の直感もそこにあると思える.
【参考文献】『村野藤吾著作集』村野藤吾 1991(同朋舎),『別冊新建築 現代建築家シリーズ 9 村野藤吾』1984(新建築社),『手法が』磯崎新 l979(美術出版社),『建築の修辞』磯崎新 l979(美術出版社),『日本近代建築史再考 虚構の崩壊』村松貞次郎・近江栄他 1970(新建築社),「建築雑誌」l992年6月号(日本建築学会)》

建築 | Posted by satohshinya at August 19, 2005 0:13 | TrackBack (1)

空間を空間で表現すること

皆さんコメントありがとう.前回のエントリーの続き.
いくつかはっきりした点.どうも僕自身が,「建築」「美術」「美術館」という制度にこだわりすぎていることがわかった.それと,前回のエントリーは何も「谷口展」を擁護しようという目的ではなく,そもそも建築展というものが,なぜ,またはどのように存在するのかを考えてみようと思っただけ.
mosakiさんたちの《来場者の種類に関わらず建築展なるものは,その対象となる建築・建築家の空間・思想・背景……∞がそこへ空間として表現されていてほしい》《建築展は,子供から老人まで,ユニバーサルに受け入れられるような,建築に対する意識をより拡張させられるような,そんな意識を必ず持っていてほしい》という定義を聞くと,その意味で「谷口展」への批判が行われたことはよく理解できる.しかし,この両者を同時に満たすことを必要条件だとすると,その展示に建築家自身が直接的に関与することは難しいだろう.
前者の定義で気になることは,《空間として表現されていてほしい》という点.sugawaraさんの《インスタレーション系への移行》というのも同じような意識かもしれない.しかし,僕自身はこの点には少し懐疑的.mosakiさんの定義では,建築そのものが空間であるとするならば,それを更に空間に置換し直すことを要求することになる.もちろん,空間で置換することを否定するわけではないけれど,もう少し違った形に変換するべきではないかと思う.実際に見ていないからなんともいえないけれど,1つの例かもしれないOMA展は,空間というよりもテキストをつくっているように思う.一方で,《模型が実作よりも建築家の理想世界を表す》という文脈であれば理解できなくもない.しかし,この場合は展示そのものが(建築)作品であるということだろうから,少し文脈が異なる.《建築に対する視点が,対象視から環境視に移行している》というのもおもしろい指摘だけれど,mosakiさんの定義はそれとは異なる背景にあるだろう.どちらかというとmosakiさんが紹介しているFOA展が,この移行を象徴しているのではないだろうか.

ちなみに,そのFOA展は日本でもTNプローブでやっていた.ブラックライトのインスタレーション部分はなかったけれど,展示されている図面類(アメリカ展の写真)の構成は日本展と同様.少なくとも日本展は,ブラックライトを使っていなかったせいか,それほど特徴的な展示ではなかった.
それと,小沢剛氏の作品は『相談芸術カフェ』.表面的にはsugawaraさんのイメージに近いかもしれないけれど,意味合いはまったく違う.むしろ,こういうものは建築家がやらない方がおもしろいものができる(笑).

建築 | Posted by satohshinya at June 21, 2005 7:26 | Comments (4) | TrackBack (0)

建築展における困難

hanaさんの「怒髪点!〜MoMA谷口吉生のミュージアム」を受けて.hanaさんの怒りはよくわかる.しかし,それではいかなる建築展であるべきだったのか?
NY展と日本展について,その企画はMoMAのテレンス・ライリー氏と谷口氏によるもので,展示構成に至るまで完全にコントロールされたはずだから,もしこの怒りがオペラシティのキュレーターに向けられたものだとするならば,それはお門違いではないだろうか? むしろ怒りは,この2人に向けられるべき.その意味では,個人的な感想としては,よくも悪くも非常に谷口作品的な展示であったと思う.《建築展に来るようなひとは谷口さんの仕事,知ってるっつーの.》という前提に立つか立たないかが,まずは大きな違いだろう.おそらく2人はその前提に立っていない.《NYと同様,谷口さんをあまり知らないひとが多く見に来るという想定》だったろう.
そこで,疑問の1つ目.そもそも建築展は誰が見に行くの?
今はどうだか知らないが,今はなきセゾン美術館で建築展をやっていた頃,通常の美術展よりも建築展の方が来場者が多いと聞いたことがある.美術展の場合は対象者の興味が美術に限られてしまうが,建築展の場合はデザインや美術などに興味を持つ人も含めて幅広く見に来る可能性があるらしい.そうだとすると,建築家の仕事を知っている人が来るという前提は疑うべきではないだろうかと思う.しかし,本当に誰が見に行ってるのか?
2つ目の疑問.《建築展における新鮮な情報,新鮮な視点,新鮮な展示方法》とは?
今回の谷口展に関していえば,元々がMoMAの企画.彼らは建築に関する模型やドローイングを美術品だと考えている.確かにMoMAの建築コレクションは美術品的な価値がある(歴史的評価を抜きにしても).これらを美術品としてそのまま展示するという方法.例えば森ビルの展示.かつてのセゾンにおけるコルビュジエ展,アアルト展などもこれ.
その対極にあるのが,建築家が美術作品を作ってしまうもの.例えばみかんぐみの展示.建築家が空間を扱う職業であることを考えると,そのバリエーションとしてインスタレーション作品を作ってしまうのはよくわかる.クルト・シュヴィッタース『メルツバウ』最初のインスタレーション作品と言われていて,そもそもインスタレーション自体が建築的な行為であったということを示している.
そして,《建築展における新鮮な情報,新鮮な視点,新鮮な展示方法》を目指したであろうもの.図面とドローイングを展示用に再製作・再構成するもの.例えば金沢でのSANAA展(写真は長尾亜子さん提供.コンペ当選案の1/20模型).

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ギャラリー間などの建築専門ギャラリーでは,この手のものがよくある.1つ目のヴァリエーションかな?
更にこの場合は,建築家としてのマニフェストへと発展することが多い.例えばOMA展.模型やドローイングを美術品にするわけでもなく,展示自体を空間的な作品にするわけでもない.強いて言うならばコンセプチュアル・アートみたいなもの.2つ目のヴァリエーションかな?
そして,最後の疑問.そうまでして,なぜ美術館で建築展は開かれなければならないのか?
誰か一緒に考えてください.

建築 | Posted by satohshinya at June 10, 2005 10:29 | Comments (6) | TrackBack (3)

余生

丹下健三氏の教え子であった磯崎新氏が,「朝日新聞」3月23日の夕刊に見事な追悼文「描き続けた国家の肖像」を寄せていた.
磯崎氏は,丹下氏によって《20世紀の第3四半世紀》に次々につくり出した作品を《日本という近代国家とあれ程の蜜月を結び,その濃密な肖像を築きあげることができた》と讃辞した上で,《最後の四半世紀》を《国家とすれ違っていた後からのの丹下氏は本来の姿と違ってみえる》と評す.そして最後に,こう締め括る.
《あらゆる無理を覚悟で骨太の軸線を引き続けた,あの時代の姿こそが,建築家丹下健三だったと今も思う.列島改造に引き出されて後は,もう余生だったのだ.新東京都庁舎なんか,伝丹下健三としておいてもらいたい.弟子の身びいきで勝手にそう考えている.》
それを読んでから,磯崎氏自身のことを考えたとき,最近のカタールをはじめとする一連の作品はどう位置づけられるのだろうか? しかし,それはまた,歴史が評価をすることになるのだろう.とりあえず,今は期待を持って見ていきたいと思っている.

建築 | Posted by satohshinya at March 24, 2005 7:13 | Comments (1) | TrackBack (1)