シリーズ・コンプレックス・シーイングについて 阿部初美レクチャー(その2)

演出家、阿部初美さんのレクチャーを聞いて   
秋元雅都
 私はこのレクチャーを聞くとき、「演出家」という普段接することのない方の話が聞ける貴重な機会だと思い参加しました。しかし、私が思っていた「演出家」、つまりドラマや映画のような物語を舞台上で展開するといった、いわゆる演劇を演出する人とは違うということを冒頭で聞きました。「シリーズ・コンプレックス・シーイング(SCS)」というとくに台本を作るということはなく、取材してきた内容をありのままに演じるというドキュメンタリー演劇を演出しているということでした。
 演劇史の話の中で、元々演劇とは、アリストテレスの提唱した「目的→行動→障害→葛藤・対立」という流れのなかで、その登場人物を自分に重ねる(感情同化)ことでカタルシス(浄化)を導くというものであるということを聞きました。これがいわゆる演劇で、その後に始まるブレヒトの非アリストテレス的劇作法、つまり感情同化を否定し違う角度からみさせる(異化)ことをカタルシスの目的とした演劇がSCSの元になっているということでした。私は最初、アリストテレスの同化による演劇が私の知る演劇でありその意味にも納得していました。しかし、それを否定したブレヒトの異化による演劇が生まれた背景には、ナチスドイツによる感情操作への否定があるという話を聞き、これにもまた納得させられました。
 実際に、SCSの「4.48 サイコシス」、「アトミック・サバイバー」、「エコノミック・ファンタスマゴリア」という3つの作品の一部を見させていただきました。
 最初の作品は精神障害をテーマとした作品なのですが、正直なところよく理解できなかったというのが感想でした。しかし、客にカーテンを開けてもらうことで終了するラストシーンから、余計なお世話かもしれないがそれによって救われる人もいるのでは?というメッセージを感じることはできました。この作品はとても過激な内容でしたが、それだけの現状がありその現状を知らないからこそ過激に感じるのだと思いました。
 2つ目の原発をテーマにした作品と3つ目の市場経済をテーマにした作品にも共通しているのが、私たちの知らない現状や普段深く考えることのない物事をありのままに見せているということです。それぞれの作品から、いかに自分が周りをみていないか、そして物事を考えるということができていないかということに気づかされ、考えさせられました。
 このような形態の演劇は賛否両論あるそうですが、私はこのSCSに関して、普段何気なく暮らしている人々にもう一度物事を考えさせるという点でとても意味があり価値のあるものだと感じました。今回のレクチャーを通して、感じたことを頭に置いて、もっと周りをみられるようになれたらと思いました。そして、分野をこえて見たり感じたりするということを建築に生かし、幅の広い考えを持ちたいと思いました。

演劇家 阿部初美さんのレクチャーを聞いて
杉田達紀
 今までの人生で劇というものに関わったことがほとんど無かった。あるとしたら小学生の時の演劇発表会ぐらいで、“壁にペンキを塗っている友達B”などの薄い役をするぐらいでした。
 なので今回の講義は正直初めは聞かないでもいいのではないかと考えていた。しかし、新しい発見があるかもしれないと思い講義を聴くことにしました。
 その予感は的中し、自分の思い浮かんでいる劇とは違う『劇』があった。それはドキュメンタリー演劇といい、台本が存在しなく、実際に体験者や現地の人に取材をし、即興で演じるというものだった。そこには、アリストテレスの目的→行動→障害→葛藤、対立という考えがあった。シェイクスピアのほとんどの作品もこの対立などを表しているらしい。そう考えると、現代のドラマもみんなこのあっちかこっちかの対立の考えがどこかしかに埋め込まれている。
 そして、悲劇の目的はカタルシスという浄化を引き起こすことのようで、感情を同化させるというものである。人間だれもが知らないうちにカタルシスを引き起こされてしまっているというのは、怖い反面、感情があるということなのでうれしい。
  阿部初美さんはシリーズ・コンプレックス・シーイングという物事を複合的に見るという演劇を手がけている。この劇は非アリストテレス的演劇作法といわれ、B・ブレヒトが考えたものである。その考えは、感情同化は危険であり、感情移入は怖いというものである。また、異化というキーワードがあり、俳優が役に感情移入しないで演じ、それを、自分を見失わないようにリラックスしながらダラダラ見てほしいというものである。
 普通の素人の考えだとダラダラ見ないで真剣に見てほしいと思ってしまう。
 そして、阿部さんはブレヒトの考えを元に、
1:異化
2:第4の壁をなくす
3:映像
4:シーンを短く
という4点を考えながら劇をつくっているのである。そして、思考の場が生まれてくるのであろう。
 『4.48 サイコシス』は、まず慎也先生がつくった舞台装置の全体が見えないところが残念だった。作品はとても怖い感じのものだった。あの迫力をダラダラ見るというのは少し無理な気がする。
 『アトミック・サバイバー』 原発の話で、コミカルに真剣なニュースを表すというもので、解りやすい解説を見ている感覚になった。
 『エコノミック・ファンタスマゴリア』 これは舞台の作り方がおもしろいと思う。どこからが舞台でどこまでが客席なのかが解らない。ぬいぐるみが出てきたりとユーモアを大事にしている作品である。
 今回新しい分野の演劇を見ることが出来てよかった。もしかしたら一生ふれることが無かった分野かもしれない。講義では映像としてしか見れなかったので、生で体験したいと思った。

演出家:阿部初美さんの講演を聞いて
山下浩介
 今まで私は数回演劇や、エンターテイメントとしてのショーを見てきました。最近では、演劇とは違いますが「ブルーマン」を見ました。様々な色や照明効果を用い、音だけでなく視覚的にも楽しめ、また実際にオーディエンスに舞台に参加してもらい、その場でエンターテイメントを作り出すという斬新な試みがありました。近年では、こういったオーディエンス参加型のショーが増え、会場を一体感に包み込めるという利点があります。しかし、今回の阿部初美さんの話では、オーディエンスが参加する作品はあるものの、また違った演劇独自の観点を知ることができたと思います。
 私は、訴えかけられ、自ら考えさせられる作品をあまり見たことがなかったので、シリーズ・コンプレックス・シーイング(SCS)はとても新鮮で演劇の深さを知りました。SCSはB・ブレヒトの「複合的にみる」シリーズとして、全てドキュメンタリー演劇となっており、vol.0『4.48 サイコシス』、vol.1『アトミック・サバイバー』、vol.2『エコノミック・ファンタスマゴリア』の三部で構成されています。テーマがそれぞれ、精神障害、原発、市場経済となっており、私自身とても難しく感じ、捉えにくいものでした。「サイコシス」はテイストがとても重く、のめり込んで見るという感覚はありませんでした。非アリストテレス的劇作法の異化に当てはまり、批評的に観ることで作品を捉え、作品が伝えたかったことを理解し、自ら考えさせられました。最後にオーディエンスが参加するシーンがありましたが、勇気がいることであり、とても重要な要素を持っていると思います。「アトミック・サバイバー」、「エコノミック・ファンタスマゴリア」の二作品はスクリーンと舞台による作品であり、映画と演劇が一緒になっていました。視覚的にも考えられた舞台のセット、映像と演劇の同化が見事でした。「エコノミック・ファンタスマゴリア」では舞台にもオーディエンスに上がってもらい、それぞれ見る場所によって作品の捉え方も変わってくるので、こういった方法(効果)もあるのだなと思いました。
 最後に阿部初美さんも仰っていましたが、演劇は年代・価値観がバラバラの人が作品を観て、共有します。しかし、人は感じ方がそれぞれ違い、隣の人の空気を感じとることも演劇を観るうえでの重要な要素の一つだと思います。佐藤慎也先生と阿部初美さんのように建築と演劇といったジャンルを超えた付き合いが、今後新たな発想を生み出すためにも更に必要となってくると思います。私も異ジャンルの人と交流を深め、自分を成長させていきたいです。

無題
古山幸太郎
 今回の講義では演出家の阿部初美さんのレクチャーとあって劇団の話がメインとなるテーマだった。最初は阿部さんの手がけた作品の紹介と劇(ドラマ)の歴史と解説で始まったが、映像を見る前に解説を聞いていなかったら映像を見た時点でそうとうの動揺があったと思う。私が見てきた劇は劇団四季など舞台がありそこで俳優が演じ、客席と舞台の間で演奏家が曲を演奏する最もポピュラーであると思うスタイルのものであった。しかし、今回拝見させてもらった劇では一見バラバラで話のつながりを見つけるのに必死になってしまった。説明を受けたうえで拝見したのでこのスタイルを踏まえたうえで見ることができ、また劇中に込められた意味を考えることができた。
 全部で三作品見せていただいたが、作品を見て初めてB. ブレヒトの掲げる非アリストテレス的劇作法というのが見えてきた気がした。今回の劇ではアドリブなどの縛りを緩くしているとおしゃっていたので、ブレヒトのやり方から少しアレンジがなされていると思われるが、一言に演劇と言っても様々な手法があり、演出家によっての表現の仕方など奥の深さを短時間で感じさせてもらうことができた。
 今回拝見させていただいた三作品の中で最も印象に残った作品は一作品目の「4.48 サイコシス」にはとてもひきつけられた。他の二作品はとてもポップな感じに仕上られていて見やすい作品だと感じたが、この作品は観客に訴える要素がとても多く、見ている側も受動的な立場だけでなく俳優達が演技を通して訴えている何かを感じ取り考えさせる作品となっていた。また、この作品はラストに観客に参加してもらう形をとっており、さらに観客が参加してカーテンを開くまで劇の終焉は訪れないという個人的にはとても特異でめずらしい形式にとても新鮮さを受けた。
 設計という仕事を建物やインテリアではなく演劇の舞台に取り入れるという事例は聞いたことがなかった。今回見学したサイコシスの映像では全てを見ることができなかったが小さな舞台の上でも建築家の設計を取り入れるこだわりとその完成度にはとても感心させられた。今回の講義の全体を通して設計に通じるものが多かったかはわからないが、芸術に対する意識の高さを感じることができた。

阿部初美さんの講義を終えて
藤井悠子
 今回の阿部さんの講義を受けて、『演劇』というものを知り、自分は演劇について何も知らなかったということに気づかされました。今まで演劇というものをあまり見たことがなく、見たとしても小さいときに見たあかずきんちゃんなど、有名な物語を劇にしたものを人が演じる、ただ単純にそれが演劇だと思っていたので、演劇がギリシャから始まったという歴史や、アリストテレスが論じた劇作法、それの対となるブレヒトが論じた非アリストテレス的劇作法があるということを始めて知ることができました。
 まずアリストテレスは、基本原理を模倣とし、理想像の模倣が悲劇的成立には必要不可欠と考え、ひとつの流れ(目的-行動-障害-葛藤・対立)に基づき、悲劇の目的を心情の浄化というカタルシスであり、感情同化によってカタルシスを引き起こす、つまり今のドラマのような流れ(起承転結)と同じであると阿部さんは言っていました。現代のドラマと同じといっても、どんなものなのか知りたかったので、阿部さんも講義中に紹介していた、シェークスピアのハムレットを見てみました。確かに、上で述べたような流れに沿っていて、今のドラマと同じような構成でした。このハムレットには、読む者の視点によって多様に解釈できるといわれているが、そのせいなのか、自ずと、この人はどういう意味を指してこんなことを言ったのか……などと気づかずに感情同化をしており、人間の実存的な葛藤が力強く表現されていて、大きな衝撃を受けました。
 これに対する、ブレヒトによる非アリストテレス的劇作法は、現実とは異なる表現を与え、非現実に一時的に意識を落とし込むことによって、感情移入をさせない方法(異化)である。このブレヒト理論に沿ってつくられ、それをドキュメンタリー演劇としたのが阿部初美さんの作品でした。講義では3つの映像を見せていただきましたが、どれも重く感じました。なにより自分が日本の現代社会について何も知らなかったこと、それをまさか演劇を通して知らされるとは思っていませんでした。Vol.0『4.48 サイコシス』では、精神障害という重い内容でしたが、一つの物語に構成されてはいなく、感情移入を避け、最後は観客にカーテンを開けてもらい、それが劇の終わりという、舞台と観客の壁を取り去っていて、一つの空間の中にいても舞台と観客が別になっているという観念が無くなりました。これに共通して、Vol.2の『エコノミック・ファンタスマゴリア』でも舞台の中に観客を入れてしまうことで第4の壁をなくすということには驚きました。
最後に阿部さんが言っていた、『劇場が異質なものと出会う場所となるのが目的』だと。一人一人が違う意見を持ち合うことは当たり前のことであって、それが一致するには無理があります。しかし、劇場では排除することをせず、違う意見を持ったもの同士が瞬間的に共存するという。この言葉によって演劇に対しての考え方が変わるきっかけとなりました。

演出家・安部さんの講演を聴いて
布施美那
 阿部さんはドキュメンタリー演劇の演出家です。ドキュメンタリー演劇には台本はなく、即興で演技をしていくものです。
 ドラマという言葉はギリシャ語の、行動するという意味の動詞、ドラーンを再現という意味でアリストテレスが名付けました。近代までのこの主なテーマは葛藤や対立でした。人は目的があって行動します。すると障害にぶつかります。そしてその障害に対して葛藤・対立します。演劇を観る観客はそれに感情移入していきます。これを感情同化と呼びます。
 それに対してB・ブレヒトは感情異化を訴えています。SCS、シリーズ・コンプレックス・シーイングはB・ブレヒトの理念に基づいています。B・ブレヒトはナチスの時代の科学者で、非アリストテレス的劇作法を提唱した人です。彼は、演劇が観客に感情移入を訴えること、感情同化を危険だと言います。感情異化は、俳優が台詞の中で、「私は、僕は……。」などの一人称を使った直後に「彼は、彼女は……。」と、二人称を混ぜて使います。これによって俳優が自分の役を客観視することになり、役に対しての感情移入をしなくなります。それによって観客も感情移入しないで観ることになります。これには演劇を批評的に観てもらいたい、コーヒーを飲みながら、タバコを吸いながら、リラックスして観てもらいたいという意図があるようです。このような説明の後に実際に阿部さんの作品を観ました。
Vol.0「4.48 サイコシス」
Vol.1「アトミック・サバイバー」
Vol.2「エコノミック・ファンタスマゴリア」
の3作品です。私は今まで何度か演劇を観たことはありましたが、ドキュメンタリー演劇というジャンルのものは初めてで、最初にどういうものかの説明がなければ、それがどんなものなのかわからなかったと思います。「4.48 サイコシス」は、精神障害をテーマにしたもので、私が実際にその演劇を劇場で観ていたとしたら、少し怖いという印象をこの劇に対して感じていたと思います。「アトミック・サバイバー」は原発がテーマで、これをやるにあたってはたくさんの障害があったようです。この作品には私は少し感情移入をしてしまったような気がします。もちろん、私自身はこの原発の話をあまり身近に感じることはなかったので客観的には観ていたとは思いますが。ただ、演劇に出てくるミニチュアでの説明や、原発事故の歌には少しクスッと笑えました。「エコノミック・ファンタスマゴリア」は市場経済をテーマにしたものです。ぬいぐるみが出てきたり、コミカルなシーンが織り交ぜられながらの作品でした。所々にこのぬいぐるみがでてくることによって感情異化して観ることができた気がします。
 このような作品では、観た後に、「すごかった」「楽しかった」などの一般的な作品における感想よりももっと長くて、一人一人が本当に考えてくれるという特徴があります。
 一つ一つシーンを短く、起承転結をなくしたり、シーンを織り交ぜたり、感情を異化することによって劇場が思考の場となります。これが目的なのです。

無題
伊澤享
 演劇にはいくつかの種類があり、役を客観的に見て感情移入しない「非アリストテレス的劇作法があることや、台本がなく見てきたこと経験から組み立て、即興で演劇にする「ドキュメンタリー演劇」などがあることがわかり、とても新鮮でためになりました。
 しかし、その中でも心に残ったのは授業の中で見た演劇です。それは、いままで見てきたものとはまるで違う演劇でした。
 とても生々しく、人間の本能に語りかけてくるように深く、荒々しかったです。
 「vol. 2 アトミック・サバイバー」は私達が知ることが出来ない、例えば原発の廃液を海に平気で流してしまっている現状と事故が起きてもそれを公表せず隠している原発側などを知ることが出来、素直に驚き、それとともに怒りを覚えました。
 ここまで、心を動かす演劇は見たことありませんでしたし、触れる機会もありませんでした。
 自分の知らない世界を少しでも知る良い機会であったと同時に、とても興味をそそられました。このような機会を与えてくださってありがとうございました。

11月29日の阿部初美さんのレクチャーを聞いて
薄葉唯
 今回の阿部初美さんのレクチャーを受けるまでは、正直あまり演劇というものに関わりがなく、劇場では素晴らしいとは思いつつも、「ただ感動した。」というような感想しか持てませんでした。今回、SCS(シリーズ・コンプレックス・シーイング)というシリーズがあることを始めて知りました。最初のレクチャーで、「SCSは台本がなく、取材をして、その取材を基に話を進めていく、ドキュメンタリー演劇と言われるものである。」と説明を受け、初めてそのような演劇があることを知りました。
 また、今まで、何も意識せずに、共感してきたドラマ、映画には、アリストテレスが提唱した「目的→行動→障害→葛藤・対立」といったサイクルのなかで、観客は登場人物と感情同化し、カタルシス(浄化)されるといった作法を基に作られていたということに、お話を聞き、初めて気づかされました。そして、それに相反する、B・ブレヒトが提唱した「非アリストテレス的劇作法」という作法に驚きました。感情同化は危険であり、感情が先走ると、思考がストップしてしまので、絶対に感情移入させず、批判的に観て欲しいという考え方には、ナチスの異常さを身近で感じていた人だからこその考え方だと思いました。私は元々、観客が泣くことが半分強制であるかのようなストーリはあまり好きじゃなく、むしろ一歩引いて観てしまうところがあるので、このB・ブレヒトの作法は衝撃的でした。しかし、俳優にも感情移入をさせずに、一人称と三人称が混ざっているとは、どういうことなのか、演劇として成立するのかと疑問に思いましたが、映像を観させていただき、一部でしたが、理解できたように思います。
 Vol.0~2の題材はどれも重く、難しく、賛否両論分かれるような事柄で、取材も大変だったと思いますが、この演劇を生の劇場で観ていた方たちも大変だったのではないかと思いました。阿部初美さんの「思考の場としての劇場」の言葉の通り、一部しか観ていない私でも考えさせられたので、劇場で観ていた方たちは相当頭を使ったのではないかと思いました。また、この感情ではなく、考えた結果の自分たちの意見ではなく、考えるということ自体を共有するという考え方に大変興味を持ちました。私もぜひSCSの次回作を劇場で共有してみたいと思いました。

シリーズ・コンプレックス・シーイング 「複合的に見る」 とは
森田有貴
 人は目的があるから行動し、行動するとそこには障害が生まれ、心の中に葛藤が生じる。
 阿部さんのレクチャーの中でこのようなお話がありました。これは近代の劇の軸となっており、様々な劇を生み出し、観客の感情同化を促してきました。
 B・ブレヒトは感情同化を危険とし、異化という方法を取り入れました。それまで、劇やドラマなどに感情移入することは観客にとっても、俳優にとっても良いことだと思っていた私にとって、衝撃的でした。
 シリーズ・コンプレックス・シーイングの劇の実際の映像を見て、さらに驚きました。私が想像していた劇とは全く違い、一人称と三人称が混ざり、言葉に聞き入ってしまうが、決して感情移入することはできませんでした。
 調査したことをそのまま劇とすることは、現代が抱えている問題を直に受け止められる方法だと感じました。ただ感情移入して見て、「感動した」と感想を述べるのではなく、問題に対して考えるきっかけにもなります。
 vol.0では孤独な人々がさまよい、物語になっていない芝居が続いていました。光カフェという場所に精神障害者たちが集まり、最後は観客に任せるという劇は初めて観ました。何が正解で、何が不正解で、という答えのない劇のようにも見えますが、必ずといっていいほど、この劇を観た観客は現代社会に対して不安や不満を感じ、自分の意見を持つのだろうと感じました。
 阿部さんは、「演劇というジャンルに囚われず、拡がっていきたい」とおっしゃっていましたが、このことは今後、どのような業界にも必要になる考えではないかと思いました。拡がっていくことで、自分自身の考えだけではなく、他人の考えも改めることができ、より影響力の強いものが作り出せるのではないでしょうか。「関わりのない人」と壁を作るのではなく、価値観や年代、性別が違っても、得るものはあるのだと積極的に関わっていく事が求められます。
 阿部さんのレクチャーを聞き、もっと視野を広げ、いろいろなものを観て、感じて、自分の中に取り込んでいきたいと感じました。

舞台芸術 阿部初美さんの講演
岡崎隆太
 演劇の本当の意味を大切にしている阿部さんの演劇に対する熱い姿勢が講義を聞いてとても伝わってきました。始めに、何のために?誰のために?演劇をし、伝えるのか。演劇の根本たるものがなんなのかを教えていただいた気がします。何を伝えてどうしたいのか、そしてその方法としてどうしたらいいのか。何をするにも共通して重要なことであるけれどもそれは見失いがちになってしまうことだなと感じました。自分が何かしらのことをやっていたときに、やっていた理由を探してしまうことが最近多くてとても共感、というか思うことがたくさんあった気がします。それは特に、体で表現する分野は感じることだろうと思います。今まで演劇を生で見たことが数えるぐらいしかなく、演劇のことはよく知りませんでした。イメージとしては、きれいに役を演じて豪華な演出で非日常的なストーリーが展開していくという感じに思っていました。しかし、講義で見せていただいた阿部さんの劇では、そのイメージとは違ってよりリアルでダイレクトに伝わってくるように感じました。自分の中で劇に対する価値観が少し変わった気がします。シリーズ・コンプレックス・シーイングの4.48 サイコシスは観客を参加させることによって終わるという形式がとても斬新で、また扱っているテーマが難しいだけに、劇を通して感じることや解釈も簡単にはできなかったと思います。断片的にしか見ていませんが、意味がハチャメチャで何をしているのかなと、一瞬混乱したけれどそれが精神障害のリアルなところでそれが直球で伝わってきた気がします。
 劇の始まりに、本当の自分の話をする場面はより役者の気持ちが伝わってきて面白かったです。リアルな気持ちをそのまま観客にぶつけているのがわかりました。劇という作られるものにそうではないリアルな感情を乗っけて本当に伝えたいことを強調させている気がしました。いろんな手法で劇を構成することでもそれは感じられるし、そこには『痛みを伝えるだけでなく緩和するためのユーモア』もあって劇の楽しさ・素晴らしさをより体感するのかなと思いました。
 最後の方におっしゃっていた、ジャンルに縛られていてはいけない、その言葉にとても共感しました。自分もとても感じることで、それは根底にある本質をぼかしてしまう要因だと思います。違う表現方法であれ、伝えたいことが同じならばそれは認め合えるし、それが違くても新たな視点が考えられるような気もします。
 今回の講義では演劇の深さを少しでも知れて、何より表現することの意味を考えさせられた気がします。

ゼミナール | Posted by satohshinya at December 4, 2008 5:17 | TrackBack (0)