関本竜太 インタビュー

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――なぜ建築をはじめようと思ったのですか?
関本竜太 最初に建築をやりたいと思ったのは、高校入学時に家を新築したときです。中学3年のときに、建築士さんが抱えてきた青焼きの図面を見て、「これがやりたい!」と強く思ったのを覚えています。そこから僕は、ある意味では迷いがないです。普通科の高校に入学し、学年が2、3年になるとみんな「進路どうする?」という話をしていたんですけれど、僕はもう高校に入ったときには「建築をやりたい」と思っていました。

――なぜ日大を選んだのですか?
関本 建築学科がある大学をいろいろ調べていく中で、「私大で建築なら早稲田か日大」という記述を目にしました。たまたま高校の指定校推薦枠に理工学部が1枠だけあったんですが、受験勉強をしなくて済むということもあって迷わず応募しました。実はそこにもう1人友人が応募していたのですが、あとで聞くと建築学科の有名なある教授の息子さんでした。あえて名前は伏せますが(笑)、彼が受かっていたらまた別の人生を歩んでいたかもしれませんね。

――大学に入った頃はどのような学生でしたか?
関本 入学してから卒業するまで一貫して言えることは、とにかく「設計製図が大好き!」という学生でした。毎週の製図の授業が本当に楽しみで、課題が出題されると寝るのも惜しんでいろいろな案を考えました。その反動からか、課題を提出してしまうと燃え尽きてしまって、とても寂しくなったのを覚えています。また自分の好きなことしかやらない学生でしたから、構造の単位はよく落としましたね(笑)。設計だけはトップの成績を取り続けていましたが、それ以外の成績は最悪で、追試を受けてギリギリで卒業させていただいたほどです。

――今でも記憶に残っている課題はありますか?
関本 3年生の小石川に図書館を設計する課題と、長者ヶ崎のセミナーハウスの課題はよく覚えています。中でも特に図書館は思い入れがあって好きな課題でしたね。敷地は公園の中だったのですが、僕はあえて図書館をほとんど地中に埋めてしまい、中庭に一周ぐるりと木を植えたんです。真ん中には日時計のようなモニュメントを立てて「季節の時計」というコンセプトを考えました。プレゼ(ンテーション)も和紙に鉛筆のドローイングという具合に、アナログにこだわりました。当時、池袋のセゾン美術館で「安藤忠雄展」をやっていたのですが、アンビルド作品の巨大なドローイングや模型に圧倒され、そのエネルギーや迫力に大変な衝撃を覚えました。図書館を含め、当時の課題はその安藤さんの影響が大きかったと思います。

――4年生のときに研究室をどのように選びましたか?
関本 小谷(喬之助)研究室に入りました。設計の授業では、僕は本杉先生の指導に一番肌が合ってしっくりくるものを感じていましたので、先生が当時助教授として所属していた小谷研の門を叩きました。
――どのような研究室でしたか?
関本 すごく両極端という感じでした。動機がはっきりしていて意欲のある人と、そうでない人との落差が大きくありました。当時の計画系には若色(峰郎)研や関澤(勝一)研があり、設計志望の学生はどちらかに入るというのが一般的で、小谷研に入ろうという人はあまりいませんでした。当時の小谷研は一言で言うと個人主義で、みんなで集まってどこかに行くというような動きもほとんどなく、そこも若色研や関澤研と大きく違うところでした。僕にとってはそれはむしろありがたいというか、やっぱり肌が合って居心地がよかったのだと思います。先輩も本当に個性的で、強烈な人たちがたくさんいましたね。

――卒業設計はどのようなことをやったのですか?
関本 駅のようなものをやりたくて、最初は品川駅をテーマにしたメディアステーションのようなものを考えていました。ただ自分の中で背伸びをしすぎたというか、消化しきれなかった部分もあり、夏休み明けの中間評価はひどいものでした。それが悔しくて、そこから一念発起し、敷地をすべて白紙に戻して一からやり直しました。最終的には品川からほど近い港南地区に敷地を移し、物流や交通のジャンクションとミュージアムが合わさったような複合施設を考えました。お恥ずかしい話ですが、今思い返してもあまり出来のよいものだとは思っていません。内容的には最後まで未消化の部分も残りましたが、自分なりに悔いの残らないものにしたいという思いもあり、家にひとりで籠もって延々とプレゼを練り上げていました。結果から言うと桜建賞をいただくことができたのですが、発表の際に小谷先生がさりげなく援護射撃をしてくださったのを覚えています。

――就職活動はどのように行いましたか?
関本 アトリエ設計事務所に行こうと最初から決めていたのですが、どこに就職しようかすごく迷っていました。それで、4年生の設計科目である「設計演習Ⅱ」に非常勤講師で来ていた棚橋(廣夫)先生に相談したんです。棚橋先生からは「アトリエに行きたいのはわかるけれど、最初は組織設計からはじめた方がいい」とも言われ、坂倉事務所(坂倉建築研究所)を紹介していただきました。ただ、その年は新卒は採らないという話で、成り行き上そのまま棚橋先生の主宰するエーディネットワークという設計事務所で働かせていただくことになりました。
――どのくらい働きましたか?
関本 5年半くらいですね。
――どのような影響を受けましたか?
関本 影響はものすごく受けました。今でも僕の中核を成している設計思想であったり、考え方であったり、やっぱり一番最初に就職した事務所の影響というのは大きいと思います。僕が就職したときは先輩のスタッフも数名ほどいたのですが、それぞれ事情があって退社され、気が付くとスタッフは僕だけになっていました。最初に担当したのは、先輩が実施図面を引いたオーナー住宅兼賃貸マンションの現場監理で、なにしろ何もわからない上に、ちょっとしたことを聞ける先輩もいなかったので、本当に苦労しました。現場の人たちが何を言っているのか全然わからず、現場に行くのが恐怖だったこともあります。ただナメられたくないという気持ちも強かったので、わからなくてもわかった振りをするというか(笑)、事務所に帰ってから必死で勉強していました。今にしてよかったと思うことは、スタッフ経由ではなく、棚橋先生から直接いろいろなことを教えていただけたことです。しかも、中途半端な教え方をしない人でしたので、ひとたび質問を投げると終電近くまで「講義」が続きます。今思うとこのときの経験は、僕にとって何物にも代え難い財産になっています。当時は理解できませんでしたが、今になってわかることもたくさんあります。

――フィンランドに行ったきっかけは何だったのですが?
関本 アトリエのスタッフなら誰もが考えることだと思うんですが、次のステップをどうしようかとずいぶん悩んでいました。そんな折りに新婚旅行として北欧に行けたことが僕にとっての転機になりました。デンマーク、スウェーデン、フィンランドと旅行をしたのですが、そのときに訪れたフィンランドが特に強い印象として心に残りました。とても素朴な国なんですけれど、人々がとても親切で日本の田舎町に来たような温かみを感じました。決定的だったのは、ユハ・レイヴィスカという建築家が設計した『ミュールマキ教会』という教会建築で、ここを訪れたときの感動は今でも忘れられません。帰国するとフィンランドで仕事をしたいと思うようになっていました。それをきっかけに仕事を辞め、それからはフィンランドから帰国してきた建築家や知人などを人伝に紹介してもらい、話を聞きに行く日々が続きました。中でも日大OBにはとりわけフィンランドに縁が深い方が多く、いろいろな方に助けていただきました。
そこから単身フィンランドに渡り、現地での就職活動も経験しました。手当たり次第に電話を掛けて会いに行くというやり方です。なかなか相手にしてもらえませんでしたが、ミッコ・ヘイッキネンをはじめとしたフィンランドの大物建築家などにもお会いすることができ、最後には憧れのユハ・レイヴィスカの事務所にも行くことができました。結果として就職は叶わなかったのですが、最終的には留学という方法でフィンランドでの滞在許可を得ることができました。私もまさか自分が留学することになるとは思っていませんでしたが、強い意志を持って、手段を選ばなければ最後にはなんとかなるものですね。仕事を辞めて1年後にはヘルシンキにいました。

――大学の様子はどうでしたか?
関本 フィンランドは学部と大学院の垣根がないんですが、僕が入学したプログラムは、日本でいう大学院に相当します。大学はフィンランド語による基礎教養からはじまって、その後はすべて英語によるスタジオ制になります。先生も英語で話すし、学生も英語で答える。そのため海外からの留学生に門を広く開いていて、スタジオの半分以上が外国人で占められていたこともあります。向こうのプログラムは非常に実践的で、何よりもリアリティを重視します。日本でやっていた設計課題は、どちらかというとコンセプト教育というか、実際に建たないという前提の下でやっていましたが、建たなければ意味がないという教育には大変カルチャーショックを受けました。中には学生の課題ですけれど、本当に建ててしまったものもあります。

――その後、フィンランドの設計事務所で働いたのですね?
関本 そうですね。フィンランドではどうしても設計事務所での仕事を経験したいと思っていましたので、非常勤の講師を捕まえてはよく自分を売り込んでいました。日本人ならみんなそうだと思いますが、僕は他のフィンランド人や外国人よりも手先が器用で模型には自信があったので、最初の事務所にはまずはモデラーとして雇ってもらいました。コンペの模型でしたが、スタッフの思いつきと同調させながら、同時並行で模型をつくってゆく作業は刺激的でしたね。他にもフィンランドならではののんびりした仕事ぶりや、大学に通いながら仕事をしている人もいたりと、日本の設計事務所とはずいぶん違って。本当におもしろかったです。一方では、毎日が緊張の連続で、習慣の違いに戸惑うこともありました。
――学校が終わってから、どれくらい滞在しましたか?
関本 半年くらいですね。カリキュラム自体は2001年の5月に終わり、アトリエでの勤務経験を経て、日本に帰ってきたのが2001年12月のクリスマス前のことでした。

――その後独立をされたんですね?
関本 はい。フィンランドでの生活は快適でしたし、大変貴重な経験もしましたが、一方で感覚の違いというか、自分はフィンランド人ではなく日本人であると思い知らされることも多くありました。また一方で、自分が日本でやってきたことは無駄ではなかったというか、自信になったこともありました。海外は皆さんが思っているほどすごいところではないし、日本の方が優れているところもたくさんあります。そのことに気付いて帰国したといった方が正確かもしれません。帰国後はフィンランドで得た経験と自信を胸に独立しようと決めていました。

――帰ってきて最初の頃の仕事はどのようなものでしたか?
関本 一番最初に設計の依頼を受けたのが、『カフェ・モイ』という6坪くらいの小さなカフェの内装でした。その依頼は実は独立後ではなく、オーナーさんとは留学中にインターネットを通じて知り合い、帰国したら一緒にカフェをつくりましょうという話をしていたのが実現したものです。『カフェ・モイ』は2002年の7月にオープンし、その後5年間の荻窪での営業を経て去年の暮れに吉祥寺に移転しました。もちろんそちらの内装も私が手がけています。当時はマイナーなお店でしたが、今や人気店にもなり、今でも大変思い入れの深い仕事です。

――今はどのような仕事をされていますか?
関本 比率で言えば9割が個人住宅で、残りの1割は店舗設計や改装、たまにイベントの会場構成なども手掛けています。イベントはほとんどがフィンランド絡みで、フィンランド大使館などのお手伝いをさせていただくこともあります。個人住宅に関しては、学生の時から住宅の仕事に関わりたいと考えていましたし、ライフワークとして今後も続けてゆきたいと思っています。

――今後はどういったものをやっていきたいですか?
関本 これもやはり個人住宅に関わることですが、その中に置かれる家具や照明の分野にまで踏み込んでいきたいと考えています。言ってみればプロダクトデザインですが、こちらは現在既にメーカーと協働して素材を含め開発を進めているところです。まだ試作の段階ですが、来年までには発売の目処をつけたいと考えています。あとは建築家住宅とは別に、これまでにない住宅のシリーズを開発したいというのも抱いている夢のひとつです。いわゆるハウスメーカーの家ではなく、かといって隅々までこだわったような建築家住宅とも違う、住みやすくて誰でも手が届くような価格帯の温かみのある家です。こちらも地元工務店と組んで現在既に具体的に話が進んでいます。こちらは今年秋頃の発表を目指しています。

――4月から日本大学の非常勤講師になられましたが、いかがでしょうか?
関本 想像していた以上に楽しいですね(笑)。私が大学を卒業したのは14年前ですから、今の学生さんは何を考え、どんな姿勢で建築と向き合うのか内心不安もありました。ところが学生さんというのは今も昔も変わらないですね。みんな目がキラキラしている(笑)。設計志望の学生に手を挙げさせたら、8割くらいの手が挙がったことも大きな励みになりました。今は1年生を教えていて、図学からのスタートですが、鉛筆の持ち方からはじまって、線の描き方、透視図法となるわけですが、頼りない線を描いていた学生が、ある日の指導を境に目を見張るような線を描いてくることがあります。そんなときはやりがいを感じますし、自ずと指導にも熱が入ります。私は学生時代、設計の授業が一番の楽しみで大学に通っていました。やっぱりそれは今でも変わらないですね。毎週一回の授業は僕にとって今でも密かな楽しみであり、仕事の息抜きにもなっています(笑)。学生も同じ気持ちで臨んでいてくれたら嬉しいのですが。

――最後に後輩にメッセージをお願いします。
関本 やっぱり「初心を貫け」ということですね。設計がやりたいと思って大学に入ったのであれば簡単に諦めてほしくありません。「好きこそものの上手なれ」と言いますが、建築が好きであれば吸収力は自ずと変わってきます。だから好きであり続ける努力は怠ってはいけないと思うんです。もちろん、構造がやりたいと思えば構造で、環境なら環境の分野で、それぞれ自分が選んだ進路に対して真剣に取り組んでもらいたい。初心を忘れずにやってもらいたいと思います。
(2008年5月15日 リオタデザインにて インタビュアー:佐藤慎也、担当:鈴木亮介、佐脇三乃里、佐久間高志)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 7 3, 2008 14:49 | TrackBack (0)

齋藤由和 インタビュー

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――建築家になろうと思ったきっかけは何ですか?
齋藤由和 浪人時代、図書館で勉強していたときに、たまたま鹿島出版会の「〈現代の建築家〉シリーズ」に出会ったんです。それまで何の目的もなく、ただ物理とか数学を勉強してきたのですが、純粋な理学ではなくて、それを応用させた工学にこういったものがあるのかと具体的に見えた瞬間だったんですよ。それで、おもしろいと思ったのと同時に、おこがましくも「このジャンルは戦える」と思ったんです(笑)。自分でも何かやれそうだとなんとなく思って。それまで建築には何の興味もなかったんですけれど、そこから建築学科を目指して勉強しようと思ったのが一番はじめですね大学に入学すると、1年生のときから建築がやりたくてやりたくて仕方がなかったんですよ。図書館の書庫にあった「新建築」のバックナンバーを、3ヶ月くらいかけて創刊号から全部読みました。
――すごいですね。
齋藤 その当時は「新建築」がよいのかどうかというのもわからなかったんですけれど、時間は掛かりましたが、読まなきゃいけない本をメモしながら、ゼロから見ていきました。メモした本は、磯崎(新)さんのものとジャック・デリダなどの哲学書が多かったのですが、端から読んでいって、近・現代辺りは何となく見渡せた気がしました。大学では、やはり設計製図の授業がおもしろく、発表の場があったので、とにかく発表できるようにがんばりました。たまたまレモン画翠に行ったときに卒業設計展を見ることがあって、「何やらいろんな大学でおもしろいことをやっているぞ。こういうのを出せたらおもしろいな」と思い、他大の建築学科の友達もいたので、早稲田大学などの設計製図の講評会があれば見せてもらったりしていました。その中には、優秀な生徒を1人の建築家として認めるような意見があって、学生の優秀案を批判したゲストの建築家に対し、「あなたのつくっているものより断然おもしろい」と平気で言ってしまう歯に衣着せぬ批評があったり、とても刺激的でした。

――どのような課題をやりましたか?
齋藤 住宅、集合住宅、二世帯住宅、商業ビルとか、学部で与えられる課題を1つずつやっていくんですけれど、やはり勉強している最中にやるので、誰かっぽいんですよ。多くの建築家に影響されていました。自分の中で一番大きかったのは卒業制作ですね。1年生から先輩の卒業制作の手伝いをしていたんですが、たくさん図面や模型をつくって、量で勝負という印象でした。しかし、自分がやるときは、それはやりたくないと思っていました。量やプレゼンで勝負というのは絶対にしたくないと思っていました。しかも、三面図で勝負をしたかったんです。着彩もほとんどしないで、ただの平面図、立面図、断面図でおもしろいと思えなければ嘘だと思って、それだけで戦える建築を目指しました。(3年生までの)自分の過去のものを見渡したら、デザインが腐っているんです。それを見て、恥ずかしいと思いました。「3年も経ってないのに腐っているようでは仕方がないだろう。20年、30年も腐らないデザインとは何なのか?」と考えました。ちょうどジル・ドゥルーズの『差異と反復』に出会い、反復と思うことをすべて捨てて、卒業制作ができました。1つの自信というか、「こういうことでいいんだな」というのを掴んだ瞬間だったんですよね。
――どのようなものをつくったんですか?
齋藤 今も越える作品をつくることができなくて嫌になっているんですけれど、10層の商業ビルです。周りに廊下があって、引き戸でラップされているような、周りをグルグル歩けるビルです。1フロアに100枚建具を使っていて、10層で1,000枚使っています。例えば、外から入ろうとすると扉を開けるじゃないですか。あるいは中の人が、「夏には気持ちがいいから全開にしよう」とか、「寒いから閉めよう」とか、「換気のために少し隙間を開けよう」だとか、そういった中と外のプログラムが建具の開閉のパラメータに変わって現れます。そのようにプログラムと社会的な環境が開閉の具合によって一次変換され、それが建物全体のデザインになるというものです。呼吸するように閉めたり開けたりする動きによって、状況や中のプログラムが現前化されるわけです。30年、50年、100年経っても、窓や扉あるいは入口はあるだろうと考えました。そこで、「(全体を)建具だけでつくるか」と極論していきました。それを僕は、「コンテクスト読み込み型建築」と呼びました。自分では、よくあきらめたいい建物と思っています。作品は、生産工学部のホームページから見ることができるはずです。

――4年生のときに所属した研究室はどこですか?
齋藤 宮脇(檀)先生の研究室でした。そこは「居住空間デザインコース」の研究室で、そのコースは女子学生の就職難を助けるために設立され、1年生から一貫した教育を行う女子しか入れない特別なコースなんですよ。「そこを何とか」と言って、かなり例外的に入れてもらいました。
――本当に女子しか入れないんですか?
齋藤 はい、女子しかいません。僕と同級生の2人だけが本当に例外でした。宮脇先生は非常勤教授なので、直属の曽根(陽子)先生にはかなりご迷惑をお掛けしました。迷惑息子にとっての第二の母です。僕は宮脇先生と話すために、先生の『宮脇檀の住宅設計テキスト』に掲載された図面を全部トレースしました。モダンリビングをわかったつもりで、少しでも現代的な(モダンリビングを批判するような)案を持っていくと、「おまえわかってないな」と言いながら、こっちが3分説明すると、30分くらいの指導をしていただき、本当に熱意のある先生でした。今思えば、学生の間にモダンをしっかり教わったことは財産となっています。クリスマスの前に代官山のアトリエにゼミ生全員を呼んでくれて、パスタを生地からつくってもてなしてくれたんですよ。散々ご馳走になったときに、「何とか日大を口説いて、例外的にお前たち(男子)2人も4年で採れるようになった」と言ってもらえて、涙を流しました。いつも格好いいんですよ(笑)。
――3年生のときから研究室に入ったのですか?
齋藤 3年生のときにはゼミに入りました。ゼミは誰でも入れて、3年生の前期と後期で研究室を1つずつ選ぶことができ、2つの研究室を体験できます。
――宮脇さんが亡くなる少し前ですか?
齋藤 ちょうど卒業制作をやっているときに、いつも元気な先生が珍しく辛い顔をしていたことを思い出します。しばらくして咽頭癌と知って、ショックでした。それでも、卒業制作をファクスで見ていただきました。卒業して、西沢(大良)さんの事務所に入り、担当した1件目の『大田のハウス』ができました。僕は宮脇さんに「おまえに住宅なんてできない」とずっと言われていたので、どうしてもJT(「新建築・住宅特集」)を持って見せに行きたかったんです。新建築社さんで、JTの掲載打合中に、後輩から「宮脇先生が亡くなった」という連絡が入り、愕然としました。その翌日から僕は西沢事務所の夏休みで、その晩に研究室に集まって、朝まで泣いてました。そして、宮脇先生の訃報記事と『大田のハウス』が同じ号に掲載されています。僕にとって、忘れられない号となりました。

――西沢さんの事務所を選んだのはどのような経緯ですか?
齋藤 まだ「住宅特集」にも最初の作品(『立川のハウス』)が発表されていない頃でしたが、「SDレビュー」に案(『小平のハウス』)が載っていて、西沢さんの図面を見て、雑誌の小さな図面に、初めてスケール(物差)を当てたんです。その寸法の感覚に驚嘆したんですね。その当時、どんな人の図面を見ても、雑誌の小さな図面にスケールを当てたことなんてなかったんですよ。西沢さんの図面は、あまりにも不思議すぎるため、スケールを当てないとわからないんですよ。スケールを当てて興奮しながら、この人は本物だと思って。しかも、三面図で戦っている、三面図だけで十分おもしろい、それを見ながら10分間、「よくできているな」と思いました。今まで、10分間、ずっと見ることができた図面なんてないですよ。やっぱり、この人はすごいと思いました。こういう内容のあるものが本物だと思って、噛み締めることができるような三面図が描きたいと思いましたね。
それで、卒業設計展を他の大学とやったときに、西沢さんや若手の人たちにクリティックへ来ていただきました。卒業制作を西沢さんに見てもらったら、「お前はわかってる」と言ってもらえたんです。卒業制作の展覧会で来てもらっているのに、「今までは学生だと思っていたけれど、今から1人の建築家として話そう」と言ってくれました。「構造で表現してはダメだ、本当に建具だけでやらないとダメだ」と本気で言ってくれました。まだ、あきらめるところがあったんだと感心しました。講評会後の飲んでいる席で、「(事務所に)入れてくれ、あなたしかいない」と口説いたんです。「他におもしろい人がいないんだ」としつこく言いました。そうしたら、「今は仕事がないから勘弁してくれ。とりあえず忙しい事務所を紹介する」と言われ、小嶋(一浩)さんを紹介していただきました。シーラカンスさんで3ヶ月くらいアルバイトさせていただき、西沢さんから「仕事が来たから手伝って」と言われ、2ヶ月くらいお試し期間があり、それから所員にしていただきました。
僕がはじめのスタッフだったんですが、毎日が衝撃的でした。『立川のハウス』が竣工したときに僕が入り、それ以降の『大田のハウス』、『熊谷のハウス』、『諏訪のハウス』『2つの会場(ICC「移動する聖地」展会場構成)』、『鶴見のハウス』を担当しました。

――西沢さんの事務所ではどんなことを学びましたか?
齋藤 一言では語り尽くせないですね。まず、はじめに驚いたのは、例えば「同じ10平米の正方形と長方形の部屋を比べてどっちが広いか?」という、本当に客観視できることを具体的に比べ、よい方を採っていくというような、基本的だけどとても重要なスタディから始まったことです。もっと基本的なことでは、図面の描き方もそうだし、計画自体もそうなんですけれど、グラフィック(デザイン)を徹底的に訓練します。文字の太さとか大きさとかレイアウト、その図の示す意図や意味など……。西沢事務所の雑誌掲載図面をよくよく見ていただくと、その計画ばかりでなく、図面の描き方なども信じられない部分を調整しています。お陰で、今では印刷物の仕事もしています(笑)。それ以上は守秘義務ですかね(笑)。グラフィカルなことは、建築ではないことでもいろんなことに関係していますよね。最低限、そういうことくらいは、せっかくデザインを教えているんだから、大学がしっかり教えた方がいいんじゃないかと思います。社会の質が向上しますよ。
――西沢さんはどのような建築家でしたか?
齋藤 「どのような建築家か?」というのは難しい質問ですが、ある側面で西沢さんらしいと思えることは、数学的だということです。実際、数学がかなり得意だそうです。条件や環境を全部並べて解いていき、複雑な連立方程式を解くようにこれしかない1つの答えを出します。だから、説得力があります。少し飛躍させますが、その延長に「ビルディング」があると思います。「ビルディング」という論稿(「住宅特集」1997年4月号)で、建築家のイマジネーションが障害になると言っています。事務所では、想像しないための方法として、とにかく描いてみる。そして、実際見える要素を比べ、よいものを選択していきます。例えば、「空間」というと扱いにくいので、「W×D×H」とすれば寸法として扱えるようになります。そして、数学的にどんなWDHの組み合わせがあるかを検討する感じです。非常に数学的だと思います。(上記はわかりやすい例えであって、西沢さんの考え方については、多くの論考を参照してください。)
――今、西沢さんは大学院(理工学研究科建築学専攻)の非常勤に来ています。
齋藤 学生は、いろいろと学べるんじゃないですかね。僕も学生のときに、ああいう人が先生だったら違ったんじゃないかなと思いますね。いい建築家が、必ずしもいい教育者と限らないと思いますが、宮脇さんも西沢さんも教育者としても素晴らしいと思います。宮脇研究室も西沢大良事務所も一度は断られ、あなたしかいないと気持ちを伝えて、受け入れていただきました。女子を口説くのを含めても、こんなに一目惚れしたのは、後にも先にもこの2回だけです。若くないとできません。好きな人が見つかったら、アタックすべきと思います。
それから、卒業制作は学生にとってすごく重要だと思っていますね。建築だけじゃなくて、映画でも絵画でも食べ物でも音楽でも、本当に好きなものを並べたりして、自分を見つめるところからはじめるべきだと思うんです。何かひとつでも自分が見えたら、その後の支えになると思います。僕はそのときの自分の考え方がずっと付いてきています。もちろん発展はしていますけれど、根っこはそこにあると思っています。
(2008年4月23日 ア デザインにて インタビュアー:佐藤慎也、担当:原友里恵、藤井さゆり)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 6 2, 2008 17:01 | TrackBack (0)

松崎正寿 インタビュー

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――なぜ建築をやろうと思ったんですか?
松崎正寿 祖父が大工だったんです。祖父の家に屋根裏部屋があって、そこが作業場になっていて、小さい頃によく遊びました。中学生の頃には、祖父の手伝いで改修の作業をしたことがあって、ちょっとおもしろいなと感じました。それで、大学へ入るときに建築学科がおもしろいんじゃないかと思い、入学したのがきっかけですね。
――どうして日本大学に?
松崎 僕は(日本大学の)付属高校なんで、それで入りました。まあ、なんとなくという感じですね。本当は、最初日藝(日本大学藝術学部)に行きたかったんです。有名だからいいかなと思って。ただ、途中で藝術学部よりも建築学科の方がおもしろいかもしれないと思い、そんな理由で、高校2年で文系・理系に分かれるときに理系を選んだ記憶があります。

――大学時代はどのような学生でしたか?
松崎 設計の授業がやっぱり一番おもしろくって、1年の頃から、課題の提出が一番楽しかったという記憶がありますね。
――どのような課題をやっていたのですか?
松崎 3年のときに高宮(眞介)さんに授業で教えてもらったことがあって、そのときは図書館とセミナーハウスという課題だったんですけれど、それが一番印象に残っていますね。提案したものにいろいろと言われて、さらにおもしろいと感じました。
――どのような提案だったんですか?
松崎 図書館の敷地は文京区の本郷で、そこは路地が広がって町ができていて、敷地内にも路地をつくるという提案をしたんです。書棚がいっぱい並んでいて、そこにできる隙間が路地になるんじゃないかという提案をしました。セミナーハウスは狭山湖近くの提案で、片側にきれいな丘というか小さな山があって、それに似た形を手前につくり、1本の道で繋げる提案をしました。それはなかなか好評でしたね(笑)。

――4年生のとき、どのように研究室を選びましたか?
松崎 3年のときにいろいろ教わって勉強になったので、高宮さんの研究室に行きたいと思っていましたから、迷わず決めました。
――どんな研究室でしたか?
松崎 それは言えないですよ(笑)。まあ、でも、怖い研究室です(笑)。先生自体が、あまり表情には出さないんですけれど、すごく熱い先生でした。建築に対しては、本当に情熱的なものを持っていましたね。そういう研究室かなあ。

――卒業設計はどのような内容でしたか?
松崎 新宿南口の駅前で、今はもう人工地盤(新宿サザンテラス)ができているんですけれど、当時そういった計画があるというのをどこからかキャッチして、そこに面白い人工地盤が架けられないかという提案でした。建物というより、「新しい町」ができるんじゃないかと。出来としてはちょっと気になるところもあるんですけれど、まあ、提案としてはなかなかよかったんじゃないかな(笑)。

――大学院ではどのような活動をしていましたか?
松崎 大学院では、1年に1回、実施コンペを高宮さんの下でやるのが決まっていたので、それをみんなで泊まりながら、徹夜しながら、模型をつくったりとか、図面を描いたりとか、いろいろやりました。日大付属高校のマスタープランの手伝いもしました。コンペはすごく勉強になって、高宮さんも混ざって学生たちと同じように1案ずつ出して、いろいろ話し合って……。ちょっと新鮮でしたね。実施コンペだったので、実際に建てるという前提でつくっていくので、学生の課題のときの印象とは違い、+αを求めるようなところがあると感じましたね。当時、高宮さんが提案してくる案は「どうかなー?」と個人的には思ってたんですけれど(笑)、今になってやっと、ちょっと意味がわかってきたかもしれませんね。

――修士設計はどのような内容でしたか?
松崎 修士設計は、千葉県の行徳の近くなんですけれど、海沿いに干潟(三番瀬)が残っていて、当時、それを埋め立てて下水処理場をつくるという計画がありました。それに対し、自然の能力で下水の処理ができるような場所を提案しました。それに付随して、環境学習ができる施設などを併せ持った提案をしました。その提案もなかなかよかったと思います(笑)。学生の頃というのは、結果を出すのに時間があるので、考え込んじゃう時間が結構あって、今だったらもうちょっと違う提案もできたと思ってるんですけれど。

――就職活動はいかがでしたか?
松崎 活動はそんなにしていないんですけれども……。日大OBの方がゼネコン(大成建設)に入っていて、就職の時に声を掛けていただいたということですね。それでゼネコンに入りました。逆に、アトリエは考えていませんでした。まずは、どのように(建物が)つくられているのかを知りたいと思いました。
――どのような仕事をされていましたか?
松崎 主に学校が多かったんですけれど、下北沢の高校とか自動車教習所をつくっていましたね。あとは、オフィスとかマンションもやっていました。
――一番勉強になったことはどんなことですか?
松崎 学生と違うと特に感じたことは、法律的なこととか、お金に見合ったものをキッチリ求められることです。コンセプトとか、「こういう空間がいい」と言っても、そんなには受け入れられないということがやはりありましたし……。法規や予算をクリアした上で提案しなければいけないんだな、ということを学んだと思います。

――どのような経緯で独立したんですか?
松崎 5年間ゼネコンで働きました。新入社員として入ったときに、半年くらい研修するんですけれど、その時に清水(貞博:atelier A5のパートナー)さんに出会いました。一緒にコンペとかをしていて、あとは友達の住宅(『N.house』)を一緒にやらせてもらいました。それからまた、それを見てお客さんが来るようになり、だんだん依頼が来るようになりました。そのときは会社と同時並行で、会社が終わった後に集合して活動していました。そして、「独立しようか」ということで……。

――最初の頃はどのような仕事をされていましたか?
松崎 個人住宅がほとんどでしたね。その頃は、昼間は会社で働いていて、夜はA5という生活を続けていましたね。
――最近はどのような活動をされていますか?
松崎 いろいろと雑誌に出るようになって、お客さんからのオファーがけっこう来るようになってきています。住宅がほとんどなんですけれども、オフィスビルとか集合住宅も最近はやりはじめていますね。計画も含めて13件くらい動いています。
――今後はどのような予定ですか?
松崎 来月(5月)、展覧会でロシアに行くので、それをきっかけに海外での仕事もやっていきたいと思っています。

――最後に、後輩に向けて一言お願いします。
松崎 建物のことを考えるだとか、形をつくっていくだとか、学生のときに一番やることだと思うんですけれども、ディテールのことだとか、建物はもっといろいろ細かいことを考えなければなりません。しかし、一番大切なことは、どういう提案ができるかということなんです。それを大切に勉強してくれればいいかな、と思います。それから、一番勉強になるのは、うちの事務所にバイトに来るということですね(笑)。
(2008年4月23日 atelier A5にて インタビュアー:佐藤慎也、担当:松本江美子)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 6 2, 2008 16:20 | TrackBack (0)

木内厚子 インタビュー

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――大学に入学するとき、どのような理由で建築を選ばれたのですか?
木内厚子 私は当時、大学へは行く気はなかったんです。なりたかったのは料理人だったんですよ。だけど親に反対されて、とりあえず大学には行けって。それで、小さい頃からものをつくることが大好きで、料理はあまり今はつくらないんですけれど、昔はお菓子とかをよくつくって友達に持って行って喜んでもらったり、母親が洋裁、祖母が和裁をやっていたので自分の洋服をつくったりしていました。とにかくものをつくることが大好きで、その延長で料理人になりたいな、と思っていて……。それを反対されて、何かものをつくる仕事で、せっかく大学へ行くのだから覚えるのに時間がかかる仕事がいいと考えて、建築系に行こうと思いました。
――建築系といっても、美術系と理系があったと思うんですが。
木内 そのへんはあまり深く考えてなくて……。何ででしょうね? でも、本当にあまり深く考えてなくて、後から考えると建築系の大学もいろいろあるし、先生もいろんな人がいるので、ちゃんと考えればよかったなってすごく後悔したのですが、最終的に日大の海洋建築しか受からなかったんですよ。他もいろいろ受けたんですけれど、もともと大学に行く気がなかったので浪人なんてあり得えないと思い、とにかくそこに行こうと思いました。
――日大を選んだのは、いくつか受けた中で受かったところだったということですか?
木内 そこしかなかったというのはあります(笑)。

――大学に入ってからはどうでしたか?
木内 入ってからは1年生の頃から、もともとものをつくることが好きだったので、やりはじめたら楽しいな、という感じでした。そして、教えに来ている先生の事務所へアルバイトに行ったりしました。
――それは何年生くらいのときですか?
木内 1年生のときから行ってました。友達同士で、「あの先生のところでコンペをやってるから手伝いに行かない?」と誘い合ったりして、何人かの先生の事務所に行かせてもらいました。
――どのような先生のところへ行ったんですか?
木内 住宅を中心にやっている先生もいれば、大きい施設や公共のコンペをやっている先生もいました。多分、今だとそんなにアルバイト代は出ないのかもしれないのですが、その頃はちょうどバブルの絶頂期だったためか、アルバイト代もきちんともらえました。建築以外のアルバイトをするより、好きなことをして、且つ、いろんなことを覚えられてお金がもらえるなんて、なんてラッキーなんだろうと思った記憶があります。

――その頃、どんな課題をやっていましたか?
木内 うーん、今年から教える立場になって思ったのですが、イマジネーションを湧かせるような課題や、1年の時から発表時のパフォーマンスも評価されるようになった点は変化を感じます。私の学生のときは線や絵の練習とか図面の写しなどが多く、最初はやはりつまらないな、という印象がありました。それと、海洋建築特有なんですが、必ず川のそばとか海のそばとか、建築覚えるのに水の近くじゃなくても覚えられるのに、という思いはありました(笑)。まあ、学科が学科なんで……。
――いくつか課題があったと思いますが、どんな課題を覚えていますか?
木内 一番記憶に残っているのは、船橋校舎の船橋日大前駅の手前の敷地にミュージアムをつくりなさいという課題です。大学の建物ではなくて、大学と駅の間が敷地で、美術館をそこに建設するという課題でした。三角形の敷地でしたが、その課題が一番記憶に残っていて、今でもそれは実現したいと思います(笑)。
――何年生の課題ですか?
木内 2年の終わりか3年のはじめだったと思います。そのときは先生に褒めてもらえて、「評価されるのは気持ちいいな」って感じた記憶があります。

――海洋建築は3年の後期から研究室に着手しますが、研究室はどのように選びましたか?
木内 当時の海洋建築には設計系の研究室が2つしかなくて、船橋校舎の図書館が好きで、それを設計された小林美夫先生の研究室を選びました。
――研究室には何人くらい学生がいたんですか?
木内 1学年10人、大学院生もいました。海洋建築にも衛生的に問題があるのではと思われる大学院生室があり(笑)、男子のゼミ生は泊まりこんで、大学院生を手伝いに行ったりしていました。だけど、男子部室のようだったせいか、私はあまり手伝いに行かなかったですね(笑)。

――4年の卒業設計ではどのような作品をつくりましたか?
木内 移動型の水上劇場です。だけど、それはボロクソな評価でした(笑)。
――具体的に場所を設定したんですか?
木内 決めたんですけれど、今はあまり思い出せません……(笑)。多分、設定があまりよくなくて、構造的にも成立しないみたいな評価で……。今考えると確かに成立しないなって(笑)。結構無理なことをしていて、評価は悪かったですね。それまで水に抵抗してきたものの、最後はやっぱり水だろうという感じで、それでは浮かせちゃえって思って……。それで、それまで勉強していなかったこともあって、あまりフローティングとかわかってなくて(笑)。

――その後、大学院は東京藝術大学大学院に進まれましたが、どうしてですか? その頃には建築を続けようという気持ちはあったんですか?
木内 その頃はやる気満々でしたね。ある意味建築のおもしろさにハマっていました。そんなにわかってはいなかったのでしょうが、とにかくやりたいっていう時期でした。アルバイト先で何人かの藝大OBの人と出会って考えはじめましたね。
――大学院は藝大しか考えていなかったのですか?
木内 はい、そうですね。
――藝大での指導の先生はどなたでしたか?
木内 先生は藤木(忠善)先生です。
――藝大はどんなところでしたか?
木内 日大は学生の人数も多いので競争が激しく、同年代でバリバリやっている人が多かったんですよ。それで、とてもではないけれど自分はついていけない感じがありました。それに比べて、藝大は人数が少なく、研究室は1学年に3人と、建築を学ぶ環境として自分のペースに合っているかなと思いました。

――大学院ではどんな活動をしたのですか?
木内 研究室の仲間で国立図書館(「国立国会図書館関西館」)とかのコンペをやったり、個々でコンペをやったり、先生の別荘(『マウンテンボックス』)がちょうど実施設計のときだったので、それを手伝ったり、研究室中心の生活でした。
――そのときにはじめて実施設計をやったんですか?
木内 そうですね。でも、やったと言うより、言われるがままにという感じですけれど。実施図面を描いたり、模型をつくったりとか。
――修士設計はどんなことをやったんですか?
木内 その頃は「住まう」ということにすごく興味があったので、集合住宅をやりました。いろんな人が集まって、一軒という単位ではなくて、その単位を崩したような集まり方はないか、ということをテーマとしました。また、高齢化や単身化ということも考えながら、いろんな世代の、そしていろんな環境の人間が住まえることを考えました。でも、設定の仕方が難しかったです。どこでも人は住めますからね(笑)。

――就職についてはどのように考えていましたか?
木内 就職については、とにかく気になる建築家のところに行こうと思っていました。それから、藤木先生に「設計事務所に行くのなら、中間管理職がいる設計事務所はやめろ。間に入る人の能力で教わることが変わるから」と言われてました。そこで、気になる建築家だった妹島(和世)さんのところに行こうと決めていたんですけれど、その年はもう遅くて……。1ヶ月くらい働いたんですけれど、仕事の状況でもう1人採るのはちょっと難しいということでした。そこで、(佐藤)光彦さんに拾ってもらったみたいな感じです。その頃、光彦さんと妹島さんが一緒に仕事をされていて、光彦さんが妹島事務所に出入りされていました。それで、もし妹島さんが採らないなら、という感じで……。光彦さんは、独立して1、2年目の頃ですね。
――佐藤さんのところに行こうと決めた理由は何ですか?
木内 とにかく働きたかったんです。学生のときはいろんなところでアルバイトをして、もちろん模型をつくったり、図面もいろいろ描かせてもらったけれど、とにかく責任を持って本当の建築をつくりたいという気持ちがものすごく強くて……。それから、佐藤光彦さんも建築家としてはとても魅力がありました。また、私は割と縁を大事にしたいと考える方なので、声を掛けてもらったのであれば、そちらの方がいいだろうと思いました。

――佐藤さんの事務所ではどんな仕事をしていましたか?
木内 そのとき、所員は私しかいなかったので、教わりながら、あれやれこれやれと言われながら、図面もあれ描けこれ描けと言われるままに……。当時は住宅の仕事が2軒同時に動いていました。梅が丘(『梅ヶ丘の住宅)と大島(『大島の住宅』)です。
――その2軒は初期の段階から携わっていたんですか?
木内 そうですね。一見同じような模型をたくさんつくらされました。箱みたいなものがそこら中に散らばってる感じでしたね(笑)。
――佐藤さんのところではどのようなことを学びましたか?
木内 私は、そのあと事務所を移っているのでそう感じるのかもしれないですが、いろんな建築家がいることを2つの事務所を経てわかりました。佐藤さんは、自分のアイディアをものすごく暖める人で、確信がない限り、口に出して言いません。ただ、出てきたときには、すごいなあといつも感じていました。
――どのくらい佐藤さんの事務所にいたのですか?
木内 ちょうど1年ですね。
――その後に飯田善彦さんの事務所に移りましたが、何かきっかけがあったんですか?
木内 光彦さんの事務所で2軒の住宅が終わり、その後に1つの住宅の設計がはじまったところでしたが、私がいてやっていけるのかなと思って(笑)。それで佐藤さんに相談して、就職活動して、飯田さんの事務所に移りました。

――次に飯田さんの事務所を選んだ理由は?
木内 学生時代に、谷口(吉生)さんの現場事務所で模型をつくっていたことがあり、その現場というのは葛西臨海公園の「レストハウス」の現場事務所だったのですが、そこでお世話になった方に紹介してもらいました。それで、面接に行き「じゃあ、来るか」って(笑)。ちょうど、飯田さんが学会賞をもらった作品(『川上村林業総合センター』)が、できた頃だったと思います。
――飯田さんの事務所でも住宅を担当したのですか?
木内 住宅も担当しましたが、入ってすぐに都市公団の再開発の商業施設の計画をしました。また、船橋日大前駅の向こう側にある都市公団のニュータウンの一部の計画提案などもしました。とにかく、いろんなことをさせていただきました。また、コンペがあれば忙しさに関係なく出す事務所なんで、1人2件とかコンペを担当していたりと、すごい生活でした。
――飯田さんのところではどんなことを学びましたか?
木内 飯田さんのところで学んだことは、何事もあきらめないということです。もちろん、デザイン的なこともそうですけれど、人を説得するということ、人は気持ちが変わるということを学びました(笑)。

――その後、飯田さんの事務所をやめて独立しますが、そのきっかけは何ですか?
木内 長野が故郷なんですけれど、そこで姉夫婦の家を設計しないかという話があったんで、それを期に独立しちゃおうかなって、また安易に……(笑)。今から考えると、もうちょっといろんなことを教わっておけばよかったなと思います。
――飯田さんの事務所に在籍したのも1年くらいですか?
木内 飯田さんのところは3年くらいです。
――ということは、卒業して4年で独立ですね?
木内 そうですね。早いですね。1人でやってみてわかりましたが、デザインとか設計だけができればいいというのではなくて、人との付き合いやコミュニケーションの取り方、仕事の取り方、そういうことを学ばずして出てきてしまったので、ちょっと後悔はしています。
――独立後の仕事はいかがでしたか?
木内 決められないことがわかりました(笑)。それまでは、条件を整理して、どういう選択肢があるかを所長に見せればよくて、自分としてはこれを選ぶという意思は伝えるけれども、やっぱり最終の決断をしないということがすごく逃げてるんだな、決められないんだなと思いました。
――選択肢を用意するところまではできるけれど、決めるのが難しいということですね?
木内 決めることが重要で、所長はえらいなって(笑)。決めることが大変ですね。

――その後、主にどのような仕事をやってこられましたか?
木内 仕事は住宅がほとんどです。たまに店舗の内装とか、ちょっとした提案とかやりましたが、主に住宅です。大きいものにもすごく興味はあり、大勢の人が使う建物もつくってみたいという気持ちもあります。でも、今のところはまだまだ住宅に興味があります。スタッフとして働いていた頃はフラットルーフの建物が多かったその影響なのか(笑)、最近は屋根について興味があります。もちろん外観だけでなく、それに伴なう内部空間にもです。それとともに住まうということ、周辺の環境のこと、自然環境のことを住宅に置き換えていくときに、デザイン的なこともそうですけれど、あり方としてよいのかどうかということを、つくればつくるほど深く考えるようになりました。また心地よさというものについてもです。
――今までやった作品で気に入ったものは何ですか?
木内 終わると、どの家もいろいろな思いがあって、どうしても自分だけでデザインしているのではない、いろんな要素があります。それを使う施主さんとコミュニケーションを取りながらやっていくので、だんだん変形もしていくし、はじめに考えていたことができればよかったなとか、コミュニケーションを取って変わったことがよかったなとか、どの家にもいろいろな思いがありますね。

――最近はプロダクトデザインもやっているんですよね?
木内 はい。プロダクトは、「ファクトリープロジェクト」というグループで基本的には活動しています。今、日本の産業を支えてきた中小の工場とか伝統工芸が、人件費の安い他国へ受注が流出したり、技術者の高齢化も進んだり、技術が受け継がれずに失われつつあって、10年後には、多分、5、6割は失われるんじゃないかという現状にあります。そういう状況の中、そういった技術をデザインの力でなんとか手助けできないかというのを8人ほどが集まってやっています。
――他の人たちも建築家ですか?
木内 建築家です。最近アクリルラウンドボウルが商品化されて売り出されました。今は、屋久杉のテーブルを試作中で、漆器なども今後やる予定です。話があればグループで動くという状況ですね。建築も多くの素材を使うので、いろんな素材の性質や特質を知ったりということはよい訓練になっていますね。
――建築とプロダクトの考え方で異なる点はありますか?
木内 もちろん、製品としてつくって売り出してくれる、住宅でいうところの施主はいるんですけれど、プロダクトは割と純粋にデザインできるという印象はあります。難しいのは、価格の付け方だなって最近思います。こだわればこだわるほど値段は高くなるので、それを世の中に出したときに売れる値段なのかが問題になります。売り出すことを前提にすると、芸術ではないので、価格であったりとか、1回につくる数量であったりとか、そういう点がまったく違うと思います。こだわったデザインをすると、価格として跳ね上がってくる。綺麗なんだけれども製品化はできないというのもあったりします。それから、建築との違いは、1人のお金を出してくれる人を説得できればいいけれども、ある程度量産するとなると、かなり大勢の人の納得がなければつくることができないというのもありますね。

――今年度から非常勤講師として海洋建築で教えています。数回の授業を終えたところですが、いかがですか?
木内 気持ち的にはまだ学生というか……(笑)。1年生を教えていて、彼らは18、19歳ですが、自分も大学を出たときと気持ちは一緒のつもりだったんですけれど、周りの学生をよく見るとやっぱり自分は歳とったなって(笑)。教えることは、自分にとってもいろいろと考えるいい機会になると思うので、すごく楽しみにしています。

――後輩たちにメッセージをお願いします。
木内 うーん、そうですね。建築は何にでも関係があるじゃないですか、空間がある限りは。本当にいろんなことに興味を持って、そこにはきっと空間が存在するはずなので、無駄だと思うことでも一所懸命やって、自分の力にしていけばいいんじゃないかなと思います。自分も今でもそうしたいと思っているんですけれど。何か機会を与えられたんであれば、やってみればいいんじゃないかなと思います。もちろん、自分から機会を取りに行くことも……。そんなところです。
(2008年4月15日 Studio 8にて インタビュアー:佐藤慎也、担当:大野寿文、数田宗房、松本江美子)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 5 21, 2008 14:55 | TrackBack (0)

黒川泰孝+馬場兼伸 インタビュー

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馬場兼伸(左) 黒川泰孝(右)

――なぜ建築をはじめようと思ったのですか?
馬場兼伸 自覚的に「建築をやろう」とある日決めた感じではないんです。高校の理系・文系の組分けのときに、文系よりは理系が好きかなという感じで。でも、実際には美術系の大学に興味があったので、理系に籍を置きながら美術系の分野にも幅が広がりそうな学科という不純な動機で建築学科を選んで受験しました。
――建築の仕事を選ぶというよりは受験で建築を選んだということですね?
馬場 そうですね。でも、小さいときからものづくりが好きで、エジソンなど発明する人にも憧れていたんです。まあ、建築にもいろんな仕事の進め方があると思うんですけど、新しいことにチャレンジしていくようなアトリエの形式でやっているので、子どもの頃に思っていた発明家みたいなことをやっているのかなと思いますね。
黒川泰孝 職業の話で言うと、祖父が職人だったこともあり、小さい頃から職人への憧れがあって、中学生か高校生くらいのときに宮大工の人に興味を持ちました。装飾とかの細かい部分を自分でつくっていて、それがさらに人が使う大きいものになっていく。まあ、それは棟梁だけなんですけど、自分の考えたものが立ち上がっていくというのがおもしろいなと思っていました。建築は何を学ぶとか、どんな仕事かとかあまり考えていなかったんですが、大学は建築学科なのかなって思ったんです。
馬場 でも、宮大工とかに興味があったなら職人さんの道でしょう? なんで大学で学問として学ぼうと思ったの?
黒川 職人でいくならば確かに修行していく道を選ぶと思うんだけど、結局、想像していたようなことはできないのかなと。そうであるならば、考えるところというか、スタートに近い部分に自分がいる方が理想に近いのかなと思って。そうするとやっぱり職人さんになるよりは大学で学んでからの方がいいと思ったんです。でも、もともとつくること自体も好きだったので、今、机の上だけで仕事をしていたりしても、やっぱり手を動かしていないと自分の中で落ち着かないなと思います。
――大学を選ぶときになぜ日本大学にしたのですか?
馬場 建築学科を受験して、一応2つか3つは受かってその中から選びました。だけど、大学の中で何をやられているかというのはわからなかった。特に僕は北海道の高校生だったので、東京の事情とか、どのような研究室が有名だとかはわからなかったんです。だから結局は立地ですね。3、4年でお茶の水だぞ、と。比べてもよくわからなかったので、それぐらいですかね。
黒川 僕は(日大の)付属高校だったというのが大きなところですね。でも、建築を学ぶ場としては、いくつか(学部・学科が)ありますよね。その中でも理工学部を選んだ理由は、立地というのもかなり大きくて、やるのであれば東京都の真ん中でと思いました。人数が多いので、いろいろな人がいるのだろうなというのも魅力でした。

――大学時代はどんな学生でしたか?
馬場 ダメでしたね(笑)。入学して、1年生の頃は本当に人が多くて……。黒川はむしろ魅力だって言いましたけど、僕は逆に多すぎて、怖くて怖くて学校に行けないくらいの感じでした。嵐の中にいるような。2年生くらいのときからやっと人に慣れて、まともに授業に出られるようになりました。建築の勉強は結構手を動かすので、はじめの頃からおもしろいなと思っていました。今はやっているのかわからないですけど、点線をひたすら引かされたり……。こういう学科に来ただけあって、という感覚がうれしかったですね。
――どんな課題をやっていましたか? また、自分の中で今でもよかったなと思うものはありますか?
馬場 2年生のときかな? 菊坂での集合住宅ですね。あとは葛西臨海公園が敷地でやったのがあって、3年の後期かな? その頃からだんだんと建築がおもしろいなと思いはじめたことを覚えていますね。やっと自分がつくったもので先生と喋れるということがおもしろかったですね。
――どのような先生たちに教わっていましたか?
馬場 僕が一番印象に残っているのは、3年生のときですね。久米設計の吉田(博)先生に習ったんです。すごく褒めてくれるんですよ。基本、褒めてくれる人で。そういう先生がはじめてだったので、すごく伸びたと思います。
――黒川さんはどういった学生でしたか? また、どんな課題をやっていましたか?
黒川 日本のいろいろな場所に行こうと思っていて、大学生なので結構休みも多かったので……。休みのたびに北とか南とかなんとなく行くところを決めて、単車か電車で別に何も決めずに行ったりしていました。それによって日本のいろいろなところへ行ったのが、大学生の時間のあるときだからこそできたことでしたね。それは結構大きかったです。日大に入ってよかったのは、高宮(眞介)さんがいたこともなんですけど、2年生か3年生ぐらいのときには曽我部(昌史)さんとか、若い先生方が設計の非常勤講師として来てくださっていて、かなりの時間をかけて話を聞いてくださったり……。僕は違うクラスだったんですけど、横から入っていって、いろいろと刺激を受けました。
――その頃はどのような設計をしていたんですか?
黒川 仮設のパビリオンみたいなものをつくりました。10分の1の実際に動く模型を、つくり方から、材料とか、質感とか、それがどのように人に使われるのかとか……。その頃は材質から重さとか全部気にしてそのようなものができていくみたいなことを、(指導教員が)アストリッド(・クライン)だったので、みっちりと考えさせられました。

――4年になって研究室を選ぶときにはどのように研究室を決めたんですか?
馬場 僕はその辺のシステムというものを把握していなくて、結構先生方に迷惑をかけちゃったんですけど……。そのとき研究室が決まらなくて焦って走り回ったのを覚えていますね。それでまあ、若色(峰郎)さんが、「しょうがないな」じゃないですけど……。結構がんばって大きい模型とかをつくって持っていって見てもらったりしていたので、「まあ、やればできるんじゃないか」みたいなことを思ってくれたらしく、かなりドタバタだったんですけど若色研に入ることができました。どの研究室がどのようなところかをいろいろとリサーチしてという感じではなかったです。
――若色研究室はどうでしたか?
馬場 先輩たちが偉大だなと思いました。本当に偉大な先輩たちが多くて。あとは、やっぱり目的意識の高い同期が集まっていたので、すごく刺激を受けましたね。焦りましたね。でも、あそこで入れなかったら、多分、今はないと思うんでラッキーだったなと思います。
――黒川さんは?
黒川 魅力的な先輩がたくさんいたので、割とちょくちょく遊んでいただいていた先輩方が高宮研にいたので、手伝ったりいろいろしているうちになんとなく……。
――どのような研究室でしたか?
馬場 僕は若色先生というより、渡辺(富雄)先生を知っていたんですよ。何かの課題で結構こっぴどくやられてひとりで教室に残っていたときにフラッとあの人が現れて……。大変失礼なんですけど、掃除の人だと思って(笑)。それで掃除の人がなんか見てるんです。こっちをじろじろと。そうしたら的確なアドバイスをしてくれて、さらにはホワイトボードにパースまでさらさらと描いてくれて……。うゎー、なんだこの掃除の人は只者じゃないな、と(笑)。それが渡辺先生でした。渡辺先生がいるから暖かい研究室なんだろうなと思いましたね。
――高宮研究室はどうでしたか?
黒川 同期でも、上の方の人たちでも、ゴリゴリの建築バカみたいな感じの人もいたんですけど、いろんなところに興味がある人がいて、同期なんかでも本当に建築一本でやっている人なんていない感じでしたし、いい刺激でしたね。大学の先生は研究者というイメージがなんとなくあったんですけど、高宮先生は外でもバリバリ建築を建てていましたし、先生って呼ばれるのが嫌だって言うくらいに、本当に建築家なんだなと思いました。実際に近くにいて話とか聞いていても、喋る言葉とかも、ものをつくる人の言葉なんだなと思いましたね。他の大学の先生とは違うんだなと思いました。それが、近くにいられてラッキーな、実際はあんまり喋ってもらえないんですけど、でもだからこそ極力近くにいたいなと思ったんです。

――卒業設計はどのようなものでしたか?
馬場 僕はかなりぶち上げたんです。渋谷の清掃工場の計画がちょうど決定した頃で、その敷地に清掃工場はつくるんですけど、もっとこうしたらいいんじゃないかという提案をしたんです。地球のことをまじめに考えるなら、ゴミで儲からなきゃダメだというのがコンセプトで、清掃工場というよりはゴミのマーケットを考えました。同時にゴミで農業もやろうという、てんこ盛りの案で全然まとまってないんですけど、そんな感じで……。あの計画でいけば、あそこは森になってたはず(笑)。
黒川 僕はその清掃工場まで渋谷から伸びていっている近隣の川なんですけど、渋谷川の三面護岸があって、高架が隣に走っていて、逆側にビルが1枚建っていて、すぐに歩道があって、道路が走っている。このように都市の中でいろいろな要素が並んでいるところで計画しました。東京は川がかなり数多く流れているんですけれど、大体は全面護岸されていて、その護岸も規格サイズでなされているので、その規格サイズのところに何かをはめ込む1つのモジュールを考えました。そして、その隣にある高架の下にも高架というモジュールを考えました。都市と都市が点々とするのではなく、線で繋いでいけるようなアイテムというか、そのようなものを提案しようと思いました。
――結果はどうでしたか?
黒川 いまいちやりきれなかったですね。

――2人とも大学院に進んだわけなんですけれど、大学院に行こうと決めたのはなぜですか?
馬場 僕は全然足りてなかったというか、本当に建築をおもしろいと思って手をつけはじめたのが4年生ぐらいからで、全然周りの人に追いついていないし、このまま卒業しても何もできないと思ったので、なんとしても行きたかったんですよ。また例によって行くためのシステムを理解していなくて、また失礼なことをしてしまったんですけど。でも、試験に受かれば行けるということはわかっていたので、試験の勉強だけはまじめにやりましたね。とにかく勉強が足りなさすぎるので、時間がほしかったという感じでした。
黒川 僕が学部の頃は先輩の設計を手伝ったりとか、自分の設計もそうですけど、研究室の人数が多かったので設計活動は個人プレーだったんです。ただ、大学院に入っている先輩とかを見ていると、高宮さんとの関わりが結構あって、僕はもっともっと高宮さんの教えを受けたいなと思って、大学院に行ってもう少し深く考えられればいいなと思い、大学院に行かせてくださいと高宮さんにお願いしました。
――それぞれ自分の研究室の大学院に進んで、そのあたりから今の関係がはじまると思いますが、大学院ではどんな活動をされてましたか?
馬場 大学院時代は設計事務所にバイトに行くようになって、課題はヘビーな感じでしたね。なので、その辺からかなり建築漬けの毎日という感じになっていきました。
――具体的にはどんなところでアルバイトしていたんですか?
馬場 まあ、お金もほしいんで、組織設計事務所が多かったですね。日本設計とか山下設計とか、大林組とか行っていましたね。たまにC+Aとかも行ってました。コンペ要員とかそんな感じで。
――黒川さんは?
黒川 大学院に入ってからは研究室にいる時間がかなり多かったですね。ほとんど家には帰ってなかったですね。研究室で一緒に共同でやらせてもらったコンペが実際に建つことになったので。
――何のコンペですか?
黒川 福島の「うつくしま未来博エコファミリーハウス」というコンペでした。その設計と企画に関わる時間が多かったですね。あとは研究室でやっているコンペとかをやりました。その頃、ちょうどM2のときに建築文化の論稿を書くワークショップがあって、そのときにメジロスタジオのメンバーと知り合ったんです。

――修士設計はどんなことをしましたか?
馬場 とにかくプレッシャーがすごかったですね。あらゆる角度から正義でなくてはいけないので。1つだけやろうと思っていたことは、更地にでっかい新築を建てるということです。再生プロジェクトをやる人が多かったんですが、こんな機会は無いので、僕はでっかいところにでっかいものをつくろうと決めました。それから、体育施設の研究をしている研究室だったので、保健体育ででっかいものをやろうと思って。それで都内で計画があるけど止まっている土地を探して、そこに体育館をつくることにしました。社会背景的には、今も問題になっていますけど、病気の人がどんどん増えていて国の財政を圧迫しているので、みんなで健康になろうということを考えました。スポーツのための体育館ではなくて、健康のため、それを楽しむための体育館はどういったものだろうと考えました。なるべく味方は多い方がいいので、保健体育の専門の大学の隣を敷地に選びました。そして、そこの学生の学習の場にもしました。
黒川 僕はまず、修士設計は実際それが建つわけではないので、どうせ1年間かけるなら修士設計をつくることを目的にするのではなくて、その過程を目的とする方が自分のモチベーションが維持されるかなと思いました。そうであれば、高宮先生に濃く教えてもらえる唯一の授業なので、高宮先生にしっかりアドバイスをいただけるジャンルがいいだろうと思い、美術館の再生をすることにしました。それから、1年かけて何か調査をするというときに、僕は文献調査が苦手だとわかっていたので、実際に人に会ったり、実際にその場所に行って自分が体験したりした方が自分としては説得力を出せるのかなと思って、人と関われることがいいと思いました。それで、福祉系の仕事を調べていたら、障害のある人にとって芸術が、そのままリハビリにもなるし、仕事にもなるし、さらにはコミュニケーションの手段にもなるという話を知ったんです。そこで、この2つをまとめることができないだろうかと思い、障害者の芸術活動を支援する美術館を、前川國男設計の東京都美術館の再生として設計しました。1年間福祉施設に行ったり、人と会ったり、泊まり込みで仕事をしたりして、そんな修士設計でしたね。なので、1年間は割とみっちりと修士の課題に取り組めました。

――当時の就職についての考えと、メジロスタジオ設立を教えてください。
馬場 修士の2年生のときに、小泉(雅生)先生と佐藤光彦先生と今村(雅樹)先生の3人が自分たちのスタジオの学生を集めてワークショップをやろうと言い出して、それで他大の人と一緒にワークショップをやりました。都立大からは古澤(大輔)たちが来て、都市に関する論考をまとめるという課題をやりました。「建築文化」という雑誌がまだあって、その後ろの4ページを学生に開放して、同じテーマで月替わりにいろいろな大学の学生が論考を書き、その次の月に先生が批評するというものでした。すごくお堅いテーマだったし、やはり多大の人とは考えが違ってとても難航したんですが、やり遂げた充実感があって、そのときお互いに何か残っていたんですね、多分。建築のプロジェクトをやったわけじゃなかったんですけど、結構うまいこといったので。それぞれ修士に突入して、就職活動なんかも僕はしました。思うようには決まらなかったというのがあるのと、やはりどこかでまだ勉強したいというのもあって、正直どうしようかなというときに、たまたま古澤と連絡を取り合う機会があって、とりあえず黒川も先が決まっていないと言っていたので声をかけて、集まって話をしているうちに、お決まりの親戚がらみの仕事があるかもしれないというのと、「SDレビュー」というのが毎年6月の末にあるんですけど、そういうのもあるし、どうせ決まっていないなら一緒にやってみようよと盛り上がったんです。ワークショップのときに、建築についてではないけれどお互いの思いをぶつけてそれを詰め込んだ4ページをつくるという経験をしていたので、なんとなくこのメンバーだったらおもしろそうかなというのがあって、それではじめたんだと思います。
黒川 最初、就職活動してましたが、失敗してしまいました。僕は個人でやっている方のところに弟子入りしたいなと思っていて、お話はあったんですけど……。
馬場 何で行かなかったの?
黒川 やはり先生はイメージがあるから、自分でやることと所員に任せることとの切り分けが思っていたよりもかなりざっくり切り分けられていて、いまいち魅力を……。
馬場 贅沢。
黒川 ほんと贅沢。

――どこかに就職することなく、自分たちでメジロスタジオをはじめて、特に最初の頃はどうでしたか?
馬場 そりゃもう、ドタバタです。今は丸くなりましたけどね。みんな尖がっていて、自分にすごく自信があるし、結構ハイテンションでお互いの意見をぶつけていたので。プラス、クライアントが入ってきますよね。リアルなプロジェクトって実際やったことがないわけで、何が何だかわからないじゃないですけど、ここの考えもまとまらないし、施主との付き合い方もわからないし。そもそも建築ってどう建てるんだって。
――不安はありましたか?
馬場 一切なかったですね。ゼロでした。最初の2年目くらいまでは。
黒川 そうだね。そういった不安はなかったですね。
馬場:3年目になってガクッときましたけど。ここでの3人での仕事の進め方は未だに模索中なんですけど、建築プロジェクトのリアルな進め方を、小泉先生が自邸(『アシタノイエ』)のプロジェクトを通して、かなり手取り足取り教えてくれたんですよ。家庭教師のようにここ(メジロスタジオ)に通ってくださって。それがあって、その辺の不安はなくなってきました。小泉さんはいつも、「建築楽しいだろ、楽しいだろ」と言っていて、「あ、楽しい」って思いました。しかも、結構できるような気がしてきました。なので、そっちの方の不安は先生のおかげでスッとなくなってきたんです。就職難の時期だったんですけど、3年目くらいで周りのみんなはそれぞれ道を見つけ出して目を輝かせていたんですね。それをふと見たとき、僕らの2年間を経た3年目と、彼らの現状と今後の行く末を想像して、ゾワッと怖くなったんです。要は支えてくれるものが全くない、プロジェクトが途切れたら収入がゼロじゃないですか。そういう現実に改めて気付いて。責任の重さにも、どんどん仕事重ねていくうちに感じてきて。
黒川 最初何の不安もなかったっていうのは、何も知らなかったからで。でも、いろいろやってくるといろいろわかってきて……。

――今は何年目ですか?
黒川 去年(2007年)の9月で丸5年だったので、今は6年目です。
――はじめの頃と今とで一番大きく変わったことは何ですか?
馬場 よくも悪くも3人の距離の取り方を覚えましたね。当然、設計のスキルだとか、そういったものはよくなったと思います。事務所内部のやり方に関してはお互い賢くなったというか、お互いどこをどう引き出せばよいのか少しずつわかってきて、スマートにはなりましたね。
――今はどのような体制で仕事を進めていますか?
黒川 スタッフは2人です。
馬場 最初に仕事の依頼がきたらどうするか会議に掛けて、大体受けるんですけど、それで人を割り振ります。必ず3人のうちの1人がメインをやって、スタッフが1人付く。
黒川 途中でチェンジもあります。
――最近はどのようなプロジェクトを進めていますか。
馬場 最近はですね、個人のお客さんの戸建ての住宅はコンスタントにやっています。それから、8~10戸規模の集合住宅のプロジェクトが1つあって。あとは、相変わらずリノベーション系のプロジェクトは常に2つ3つありますね。それプラス、ひょんなことからここ1年くらい前から中国で集合住宅の内装のプロジェクトをしていて、初の海外プロジェクトが動き出しています。先月現場が動き出したところで。
黒川 最近、施主さんが多様化してきています。最初は個人の施主さんばかりだったのが、集合住宅などは地元の不動産屋だとか小さなデベロッパーだとか。あとは企業ですね。
馬場 少し珍しいのは、某メーカーの商品企画部と一緒に研究や企画の仕事をしています。住建の超総合メーカーなのですが、建材を売り込むための空間のアイデアがほしいということなんですね。マンションを題材にしてみたり、戸建ての住宅のベッドルームを題材にしてみたりで、我々に何ができるのかいつも悩みながらですけどここ3年程ずっと続いていています。いつか建築に結びことを願っています。

――メジロスタジオをこれからどうしていきたいですか?
馬場 よくも悪くも3つの矢でやっているので、お客さんの種類が豊富なのもそういったことからきてると思うんですね。1つのすごく強い作家性を出して構えているわけではないので、入ってくるものはすごく多様でおもしろい。その状態を維持したい、もっと広げていきたいとは思うのですが、あまり八方美人すぎても。要は仕事をただこなしているだけでも本末転倒というか、やりたいこととは違うので、多様な状態を維持したままどこまで濃くできるか、多様なままどこまで尖がったものにできるかということは、挑戦しがいがあると思います。
黒川 今、メジロスタジオという1つの固有名詞があって、だいたいどこにいても「メジロさん」と呼ばれることが多いです。ある規模の大きなところからの依頼については、個人でやっている僕らくらいの年代の人に名指しで依頼するというのは、向こうも頼みづらいと思うのですが、ある程度組織として1つあるので、頼んでもらいやすいのかなと思いますね。前に「モダンリビング」からの依頼がきたときに、本当にものすごく露骨に頼まれた感じだったんです。「メジロさんなら何かしてくれるんじゃないか」って、それだけで我々に声がかかってきたことがあって、「とりあえず枠があるから何かやって」と言って、パワーブックを渡されたことがありました。
馬場 困るよね。
黒川 でも、彼らのところに何か入れれば何か返ってくるだろうって。企業なんかもシンクタンクの方が僕らをそういうふうに買ってくださって、そこに繋ぎ込んでくれました。変換ボックスじゃないですけど、そういう、何か相手をわくわくさせるような魅力は維持させていきたいと思っています。出していくものは、3人だからフラットでなんとなく均されてしまうものではなくて、少し尖がりつつ、いきたいと思います。

――最後に後輩である在校生に一言お願いします。
黒川 卒業してから実際に何かしようとしたときに、学生の頃のたくさんの知り合いの中で、彼に頼めばこれができる、何か返ってくる、というのを知っていると、社会に出てから自分の味方が増えるというか、枠が増えると思います。外から入ってきたものに対して自分から出すときに、容量が増えるんです。狭い友達ではなく、日大なら人数も多いですし、他の学科・学部にも限りないチャンスがあるはずです。友達のレンジをどんどん広げていくことが、将来自分の可能性を広げることになると思うので、友達を……。
馬場 友達を大切に?
黒川 はい。
馬場 もう少し建築寄りなことを言うと、建築の1番面白いところって、形をつくることも楽しいんですけど、形によって人の動きが変わったり、場合によってはお金の動きが変わったり、風の動きが変わったり、要は環境に影響を与えるし、人の習性に影響を与えたりするし、記憶に与えたりするし、そういった、ものをつくったことによって二次的に起こることがおもしろいと思います。人が使うものなので、そういった視点を忘れないでいると、別に建築でなくても、社会を動かしてみるとおもしろいとどこかで思っていると、モチベーションが続くような気がします。
(2008年4月16日 メジロスタジオにて インタビュアー:佐藤慎也、担当:藤井さゆり、原友里恵)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 5 1, 2008 22:43 | TrackBack (0)