黒川泰孝+馬場兼伸 インタビュー

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馬場兼伸(左) 黒川泰孝(右)

――なぜ建築をはじめようと思ったのですか?
馬場兼伸 自覚的に「建築をやろう」とある日決めた感じではないんです。高校の理系・文系の組分けのときに、文系よりは理系が好きかなという感じで。でも、実際には美術系の大学に興味があったので、理系に籍を置きながら美術系の分野にも幅が広がりそうな学科という不純な動機で建築学科を選んで受験しました。
――建築の仕事を選ぶというよりは受験で建築を選んだということですね?
馬場 そうですね。でも、小さいときからものづくりが好きで、エジソンなど発明する人にも憧れていたんです。まあ、建築にもいろんな仕事の進め方があると思うんですけど、新しいことにチャレンジしていくようなアトリエの形式でやっているので、子どもの頃に思っていた発明家みたいなことをやっているのかなと思いますね。
黒川泰孝 職業の話で言うと、祖父が職人だったこともあり、小さい頃から職人への憧れがあって、中学生か高校生くらいのときに宮大工の人に興味を持ちました。装飾とかの細かい部分を自分でつくっていて、それがさらに人が使う大きいものになっていく。まあ、それは棟梁だけなんですけど、自分の考えたものが立ち上がっていくというのがおもしろいなと思っていました。建築は何を学ぶとか、どんな仕事かとかあまり考えていなかったんですが、大学は建築学科なのかなって思ったんです。
馬場 でも、宮大工とかに興味があったなら職人さんの道でしょう? なんで大学で学問として学ぼうと思ったの?
黒川 職人でいくならば確かに修行していく道を選ぶと思うんだけど、結局、想像していたようなことはできないのかなと。そうであるならば、考えるところというか、スタートに近い部分に自分がいる方が理想に近いのかなと思って。そうするとやっぱり職人さんになるよりは大学で学んでからの方がいいと思ったんです。でも、もともとつくること自体も好きだったので、今、机の上だけで仕事をしていたりしても、やっぱり手を動かしていないと自分の中で落ち着かないなと思います。
――大学を選ぶときになぜ日本大学にしたのですか?
馬場 建築学科を受験して、一応2つか3つは受かってその中から選びました。だけど、大学の中で何をやられているかというのはわからなかった。特に僕は北海道の高校生だったので、東京の事情とか、どのような研究室が有名だとかはわからなかったんです。だから結局は立地ですね。3、4年でお茶の水だぞ、と。比べてもよくわからなかったので、それぐらいですかね。
黒川 僕は(日大の)付属高校だったというのが大きなところですね。でも、建築を学ぶ場としては、いくつか(学部・学科が)ありますよね。その中でも理工学部を選んだ理由は、立地というのもかなり大きくて、やるのであれば東京都の真ん中でと思いました。人数が多いので、いろいろな人がいるのだろうなというのも魅力でした。

――大学時代はどんな学生でしたか?
馬場 ダメでしたね(笑)。入学して、1年生の頃は本当に人が多くて……。黒川はむしろ魅力だって言いましたけど、僕は逆に多すぎて、怖くて怖くて学校に行けないくらいの感じでした。嵐の中にいるような。2年生くらいのときからやっと人に慣れて、まともに授業に出られるようになりました。建築の勉強は結構手を動かすので、はじめの頃からおもしろいなと思っていました。今はやっているのかわからないですけど、点線をひたすら引かされたり……。こういう学科に来ただけあって、という感覚がうれしかったですね。
――どんな課題をやっていましたか? また、自分の中で今でもよかったなと思うものはありますか?
馬場 2年生のときかな? 菊坂での集合住宅ですね。あとは葛西臨海公園が敷地でやったのがあって、3年の後期かな? その頃からだんだんと建築がおもしろいなと思いはじめたことを覚えていますね。やっと自分がつくったもので先生と喋れるということがおもしろかったですね。
――どのような先生たちに教わっていましたか?
馬場 僕が一番印象に残っているのは、3年生のときですね。久米設計の吉田(博)先生に習ったんです。すごく褒めてくれるんですよ。基本、褒めてくれる人で。そういう先生がはじめてだったので、すごく伸びたと思います。
――黒川さんはどういった学生でしたか? また、どんな課題をやっていましたか?
黒川 日本のいろいろな場所に行こうと思っていて、大学生なので結構休みも多かったので……。休みのたびに北とか南とかなんとなく行くところを決めて、単車か電車で別に何も決めずに行ったりしていました。それによって日本のいろいろなところへ行ったのが、大学生の時間のあるときだからこそできたことでしたね。それは結構大きかったです。日大に入ってよかったのは、高宮(眞介)さんがいたこともなんですけど、2年生か3年生ぐらいのときには曽我部(昌史)さんとか、若い先生方が設計の非常勤講師として来てくださっていて、かなりの時間をかけて話を聞いてくださったり……。僕は違うクラスだったんですけど、横から入っていって、いろいろと刺激を受けました。
――その頃はどのような設計をしていたんですか?
黒川 仮設のパビリオンみたいなものをつくりました。10分の1の実際に動く模型を、つくり方から、材料とか、質感とか、それがどのように人に使われるのかとか……。その頃は材質から重さとか全部気にしてそのようなものができていくみたいなことを、(指導教員が)アストリッド(・クライン)だったので、みっちりと考えさせられました。

――4年になって研究室を選ぶときにはどのように研究室を決めたんですか?
馬場 僕はその辺のシステムというものを把握していなくて、結構先生方に迷惑をかけちゃったんですけど……。そのとき研究室が決まらなくて焦って走り回ったのを覚えていますね。それでまあ、若色(峰郎)さんが、「しょうがないな」じゃないですけど……。結構がんばって大きい模型とかをつくって持っていって見てもらったりしていたので、「まあ、やればできるんじゃないか」みたいなことを思ってくれたらしく、かなりドタバタだったんですけど若色研に入ることができました。どの研究室がどのようなところかをいろいろとリサーチしてという感じではなかったです。
――若色研究室はどうでしたか?
馬場 先輩たちが偉大だなと思いました。本当に偉大な先輩たちが多くて。あとは、やっぱり目的意識の高い同期が集まっていたので、すごく刺激を受けましたね。焦りましたね。でも、あそこで入れなかったら、多分、今はないと思うんでラッキーだったなと思います。
――黒川さんは?
黒川 魅力的な先輩がたくさんいたので、割とちょくちょく遊んでいただいていた先輩方が高宮研にいたので、手伝ったりいろいろしているうちになんとなく……。
――どのような研究室でしたか?
馬場 僕は若色先生というより、渡辺(富雄)先生を知っていたんですよ。何かの課題で結構こっぴどくやられてひとりで教室に残っていたときにフラッとあの人が現れて……。大変失礼なんですけど、掃除の人だと思って(笑)。それで掃除の人がなんか見てるんです。こっちをじろじろと。そうしたら的確なアドバイスをしてくれて、さらにはホワイトボードにパースまでさらさらと描いてくれて……。うゎー、なんだこの掃除の人は只者じゃないな、と(笑)。それが渡辺先生でした。渡辺先生がいるから暖かい研究室なんだろうなと思いましたね。
――高宮研究室はどうでしたか?
黒川 同期でも、上の方の人たちでも、ゴリゴリの建築バカみたいな感じの人もいたんですけど、いろんなところに興味がある人がいて、同期なんかでも本当に建築一本でやっている人なんていない感じでしたし、いい刺激でしたね。大学の先生は研究者というイメージがなんとなくあったんですけど、高宮先生は外でもバリバリ建築を建てていましたし、先生って呼ばれるのが嫌だって言うくらいに、本当に建築家なんだなと思いました。実際に近くにいて話とか聞いていても、喋る言葉とかも、ものをつくる人の言葉なんだなと思いましたね。他の大学の先生とは違うんだなと思いました。それが、近くにいられてラッキーな、実際はあんまり喋ってもらえないんですけど、でもだからこそ極力近くにいたいなと思ったんです。

――卒業設計はどのようなものでしたか?
馬場 僕はかなりぶち上げたんです。渋谷の清掃工場の計画がちょうど決定した頃で、その敷地に清掃工場はつくるんですけど、もっとこうしたらいいんじゃないかという提案をしたんです。地球のことをまじめに考えるなら、ゴミで儲からなきゃダメだというのがコンセプトで、清掃工場というよりはゴミのマーケットを考えました。同時にゴミで農業もやろうという、てんこ盛りの案で全然まとまってないんですけど、そんな感じで……。あの計画でいけば、あそこは森になってたはず(笑)。
黒川 僕はその清掃工場まで渋谷から伸びていっている近隣の川なんですけど、渋谷川の三面護岸があって、高架が隣に走っていて、逆側にビルが1枚建っていて、すぐに歩道があって、道路が走っている。このように都市の中でいろいろな要素が並んでいるところで計画しました。東京は川がかなり数多く流れているんですけれど、大体は全面護岸されていて、その護岸も規格サイズでなされているので、その規格サイズのところに何かをはめ込む1つのモジュールを考えました。そして、その隣にある高架の下にも高架というモジュールを考えました。都市と都市が点々とするのではなく、線で繋いでいけるようなアイテムというか、そのようなものを提案しようと思いました。
――結果はどうでしたか?
黒川 いまいちやりきれなかったですね。

――2人とも大学院に進んだわけなんですけれど、大学院に行こうと決めたのはなぜですか?
馬場 僕は全然足りてなかったというか、本当に建築をおもしろいと思って手をつけはじめたのが4年生ぐらいからで、全然周りの人に追いついていないし、このまま卒業しても何もできないと思ったので、なんとしても行きたかったんですよ。また例によって行くためのシステムを理解していなくて、また失礼なことをしてしまったんですけど。でも、試験に受かれば行けるということはわかっていたので、試験の勉強だけはまじめにやりましたね。とにかく勉強が足りなさすぎるので、時間がほしかったという感じでした。
黒川 僕が学部の頃は先輩の設計を手伝ったりとか、自分の設計もそうですけど、研究室の人数が多かったので設計活動は個人プレーだったんです。ただ、大学院に入っている先輩とかを見ていると、高宮さんとの関わりが結構あって、僕はもっともっと高宮さんの教えを受けたいなと思って、大学院に行ってもう少し深く考えられればいいなと思い、大学院に行かせてくださいと高宮さんにお願いしました。
――それぞれ自分の研究室の大学院に進んで、そのあたりから今の関係がはじまると思いますが、大学院ではどんな活動をされてましたか?
馬場 大学院時代は設計事務所にバイトに行くようになって、課題はヘビーな感じでしたね。なので、その辺からかなり建築漬けの毎日という感じになっていきました。
――具体的にはどんなところでアルバイトしていたんですか?
馬場 まあ、お金もほしいんで、組織設計事務所が多かったですね。日本設計とか山下設計とか、大林組とか行っていましたね。たまにC+Aとかも行ってました。コンペ要員とかそんな感じで。
――黒川さんは?
黒川 大学院に入ってからは研究室にいる時間がかなり多かったですね。ほとんど家には帰ってなかったですね。研究室で一緒に共同でやらせてもらったコンペが実際に建つことになったので。
――何のコンペですか?
黒川 福島の「うつくしま未来博エコファミリーハウス」というコンペでした。その設計と企画に関わる時間が多かったですね。あとは研究室でやっているコンペとかをやりました。その頃、ちょうどM2のときに建築文化の論稿を書くワークショップがあって、そのときにメジロスタジオのメンバーと知り合ったんです。

――修士設計はどんなことをしましたか?
馬場 とにかくプレッシャーがすごかったですね。あらゆる角度から正義でなくてはいけないので。1つだけやろうと思っていたことは、更地にでっかい新築を建てるということです。再生プロジェクトをやる人が多かったんですが、こんな機会は無いので、僕はでっかいところにでっかいものをつくろうと決めました。それから、体育施設の研究をしている研究室だったので、保健体育ででっかいものをやろうと思って。それで都内で計画があるけど止まっている土地を探して、そこに体育館をつくることにしました。社会背景的には、今も問題になっていますけど、病気の人がどんどん増えていて国の財政を圧迫しているので、みんなで健康になろうということを考えました。スポーツのための体育館ではなくて、健康のため、それを楽しむための体育館はどういったものだろうと考えました。なるべく味方は多い方がいいので、保健体育の専門の大学の隣を敷地に選びました。そして、そこの学生の学習の場にもしました。
黒川 僕はまず、修士設計は実際それが建つわけではないので、どうせ1年間かけるなら修士設計をつくることを目的にするのではなくて、その過程を目的とする方が自分のモチベーションが維持されるかなと思いました。そうであれば、高宮先生に濃く教えてもらえる唯一の授業なので、高宮先生にしっかりアドバイスをいただけるジャンルがいいだろうと思い、美術館の再生をすることにしました。それから、1年かけて何か調査をするというときに、僕は文献調査が苦手だとわかっていたので、実際に人に会ったり、実際にその場所に行って自分が体験したりした方が自分としては説得力を出せるのかなと思って、人と関われることがいいと思いました。それで、福祉系の仕事を調べていたら、障害のある人にとって芸術が、そのままリハビリにもなるし、仕事にもなるし、さらにはコミュニケーションの手段にもなるという話を知ったんです。そこで、この2つをまとめることができないだろうかと思い、障害者の芸術活動を支援する美術館を、前川國男設計の東京都美術館の再生として設計しました。1年間福祉施設に行ったり、人と会ったり、泊まり込みで仕事をしたりして、そんな修士設計でしたね。なので、1年間は割とみっちりと修士の課題に取り組めました。

――当時の就職についての考えと、メジロスタジオ設立を教えてください。
馬場 修士の2年生のときに、小泉(雅生)先生と佐藤光彦先生と今村(雅樹)先生の3人が自分たちのスタジオの学生を集めてワークショップをやろうと言い出して、それで他大の人と一緒にワークショップをやりました。都立大からは古澤(大輔)たちが来て、都市に関する論考をまとめるという課題をやりました。「建築文化」という雑誌がまだあって、その後ろの4ページを学生に開放して、同じテーマで月替わりにいろいろな大学の学生が論考を書き、その次の月に先生が批評するというものでした。すごくお堅いテーマだったし、やはり多大の人とは考えが違ってとても難航したんですが、やり遂げた充実感があって、そのときお互いに何か残っていたんですね、多分。建築のプロジェクトをやったわけじゃなかったんですけど、結構うまいこといったので。それぞれ修士に突入して、就職活動なんかも僕はしました。思うようには決まらなかったというのがあるのと、やはりどこかでまだ勉強したいというのもあって、正直どうしようかなというときに、たまたま古澤と連絡を取り合う機会があって、とりあえず黒川も先が決まっていないと言っていたので声をかけて、集まって話をしているうちに、お決まりの親戚がらみの仕事があるかもしれないというのと、「SDレビュー」というのが毎年6月の末にあるんですけど、そういうのもあるし、どうせ決まっていないなら一緒にやってみようよと盛り上がったんです。ワークショップのときに、建築についてではないけれどお互いの思いをぶつけてそれを詰め込んだ4ページをつくるという経験をしていたので、なんとなくこのメンバーだったらおもしろそうかなというのがあって、それではじめたんだと思います。
黒川 最初、就職活動してましたが、失敗してしまいました。僕は個人でやっている方のところに弟子入りしたいなと思っていて、お話はあったんですけど……。
馬場 何で行かなかったの?
黒川 やはり先生はイメージがあるから、自分でやることと所員に任せることとの切り分けが思っていたよりもかなりざっくり切り分けられていて、いまいち魅力を……。
馬場 贅沢。
黒川 ほんと贅沢。

――どこかに就職することなく、自分たちでメジロスタジオをはじめて、特に最初の頃はどうでしたか?
馬場 そりゃもう、ドタバタです。今は丸くなりましたけどね。みんな尖がっていて、自分にすごく自信があるし、結構ハイテンションでお互いの意見をぶつけていたので。プラス、クライアントが入ってきますよね。リアルなプロジェクトって実際やったことがないわけで、何が何だかわからないじゃないですけど、ここの考えもまとまらないし、施主との付き合い方もわからないし。そもそも建築ってどう建てるんだって。
――不安はありましたか?
馬場 一切なかったですね。ゼロでした。最初の2年目くらいまでは。
黒川 そうだね。そういった不安はなかったですね。
馬場:3年目になってガクッときましたけど。ここでの3人での仕事の進め方は未だに模索中なんですけど、建築プロジェクトのリアルな進め方を、小泉先生が自邸(『アシタノイエ』)のプロジェクトを通して、かなり手取り足取り教えてくれたんですよ。家庭教師のようにここ(メジロスタジオ)に通ってくださって。それがあって、その辺の不安はなくなってきました。小泉さんはいつも、「建築楽しいだろ、楽しいだろ」と言っていて、「あ、楽しい」って思いました。しかも、結構できるような気がしてきました。なので、そっちの方の不安は先生のおかげでスッとなくなってきたんです。就職難の時期だったんですけど、3年目くらいで周りのみんなはそれぞれ道を見つけ出して目を輝かせていたんですね。それをふと見たとき、僕らの2年間を経た3年目と、彼らの現状と今後の行く末を想像して、ゾワッと怖くなったんです。要は支えてくれるものが全くない、プロジェクトが途切れたら収入がゼロじゃないですか。そういう現実に改めて気付いて。責任の重さにも、どんどん仕事重ねていくうちに感じてきて。
黒川 最初何の不安もなかったっていうのは、何も知らなかったからで。でも、いろいろやってくるといろいろわかってきて……。

――今は何年目ですか?
黒川 去年(2007年)の9月で丸5年だったので、今は6年目です。
――はじめの頃と今とで一番大きく変わったことは何ですか?
馬場 よくも悪くも3人の距離の取り方を覚えましたね。当然、設計のスキルだとか、そういったものはよくなったと思います。事務所内部のやり方に関してはお互い賢くなったというか、お互いどこをどう引き出せばよいのか少しずつわかってきて、スマートにはなりましたね。
――今はどのような体制で仕事を進めていますか?
黒川 スタッフは2人です。
馬場 最初に仕事の依頼がきたらどうするか会議に掛けて、大体受けるんですけど、それで人を割り振ります。必ず3人のうちの1人がメインをやって、スタッフが1人付く。
黒川 途中でチェンジもあります。
――最近はどのようなプロジェクトを進めていますか。
馬場 最近はですね、個人のお客さんの戸建ての住宅はコンスタントにやっています。それから、8~10戸規模の集合住宅のプロジェクトが1つあって。あとは、相変わらずリノベーション系のプロジェクトは常に2つ3つありますね。それプラス、ひょんなことからここ1年くらい前から中国で集合住宅の内装のプロジェクトをしていて、初の海外プロジェクトが動き出しています。先月現場が動き出したところで。
黒川 最近、施主さんが多様化してきています。最初は個人の施主さんばかりだったのが、集合住宅などは地元の不動産屋だとか小さなデベロッパーだとか。あとは企業ですね。
馬場 少し珍しいのは、某メーカーの商品企画部と一緒に研究や企画の仕事をしています。住建の超総合メーカーなのですが、建材を売り込むための空間のアイデアがほしいということなんですね。マンションを題材にしてみたり、戸建ての住宅のベッドルームを題材にしてみたりで、我々に何ができるのかいつも悩みながらですけどここ3年程ずっと続いていています。いつか建築に結びことを願っています。

――メジロスタジオをこれからどうしていきたいですか?
馬場 よくも悪くも3つの矢でやっているので、お客さんの種類が豊富なのもそういったことからきてると思うんですね。1つのすごく強い作家性を出して構えているわけではないので、入ってくるものはすごく多様でおもしろい。その状態を維持したい、もっと広げていきたいとは思うのですが、あまり八方美人すぎても。要は仕事をただこなしているだけでも本末転倒というか、やりたいこととは違うので、多様な状態を維持したままどこまで濃くできるか、多様なままどこまで尖がったものにできるかということは、挑戦しがいがあると思います。
黒川 今、メジロスタジオという1つの固有名詞があって、だいたいどこにいても「メジロさん」と呼ばれることが多いです。ある規模の大きなところからの依頼については、個人でやっている僕らくらいの年代の人に名指しで依頼するというのは、向こうも頼みづらいと思うのですが、ある程度組織として1つあるので、頼んでもらいやすいのかなと思いますね。前に「モダンリビング」からの依頼がきたときに、本当にものすごく露骨に頼まれた感じだったんです。「メジロさんなら何かしてくれるんじゃないか」って、それだけで我々に声がかかってきたことがあって、「とりあえず枠があるから何かやって」と言って、パワーブックを渡されたことがありました。
馬場 困るよね。
黒川 でも、彼らのところに何か入れれば何か返ってくるだろうって。企業なんかもシンクタンクの方が僕らをそういうふうに買ってくださって、そこに繋ぎ込んでくれました。変換ボックスじゃないですけど、そういう、何か相手をわくわくさせるような魅力は維持させていきたいと思っています。出していくものは、3人だからフラットでなんとなく均されてしまうものではなくて、少し尖がりつつ、いきたいと思います。

――最後に後輩である在校生に一言お願いします。
黒川 卒業してから実際に何かしようとしたときに、学生の頃のたくさんの知り合いの中で、彼に頼めばこれができる、何か返ってくる、というのを知っていると、社会に出てから自分の味方が増えるというか、枠が増えると思います。外から入ってきたものに対して自分から出すときに、容量が増えるんです。狭い友達ではなく、日大なら人数も多いですし、他の学科・学部にも限りないチャンスがあるはずです。友達のレンジをどんどん広げていくことが、将来自分の可能性を広げることになると思うので、友達を……。
馬場 友達を大切に?
黒川 はい。
馬場 もう少し建築寄りなことを言うと、建築の1番面白いところって、形をつくることも楽しいんですけど、形によって人の動きが変わったり、場合によってはお金の動きが変わったり、風の動きが変わったり、要は環境に影響を与えるし、人の習性に影響を与えたりするし、記憶に与えたりするし、そういった、ものをつくったことによって二次的に起こることがおもしろいと思います。人が使うものなので、そういった視点を忘れないでいると、別に建築でなくても、社会を動かしてみるとおもしろいとどこかで思っていると、モチベーションが続くような気がします。
(2008年4月16日 メジロスタジオにて インタビュアー:佐藤慎也、担当:藤井さゆり、原友里恵)

3インタビュー | Posted by satohshinya at 5 1, 2008 22:43 | TrackBack (0)